別に何かを伝えようだとか、何かしようだとか、そんなもんじゃない。ただ、現実から逃げてグチグチブツブツ文句を垂れ流したくなっただけ。
まぁ、そういう時もあるよね。思春期だし。
もしかしたら、フィクションじゃないかもしれないフィクション。
そうはなりたくないなって考えるのは子供の特権なのかな
金曜日は週末だ。今はやってないがちょっと前まではドラえもんとかも夕方にやってて、一種感のやるべき事が終わった感が強い。しかし、どうだろうか。花の大学生ならぬ蕾の高校生たる我ら学生は――特に進学校の生徒は――来る日も来る日も勉学に励め、と耳にタコどころかイカが出来てしまう程に聞かされ、敬愛すべき先人である先生を初めとした大人達からは「休日には少なくとも10時間は勉強しないといけないぞ」と突っつかれる毎日である。
果たして金曜日の次の日は休日だろうか。そんなに勉学に励んだら精神的疲労が何も回復せず、勉学だけでなくストレスで頭もハゲてしまうのではないだろうか。休日って何ぞや。
【休日】:休みの日のこと(広辞苑参照)
わーお。お先真っ暗、ブラックスクールライフ。
と、金曜日の授業ラインナップを見て現実逃避したは良いが、考えて見ればお先が真っ暗になる程に勉学に励んではいなかった。むしろ、広辞苑に則って休日さんに失礼のない週末を過ごしていた。お先真っ暗というが起床のは大体昼辺りなので、お先真っ白だった。
じゃあ、お前は休日に勉強せずに何してるんだよ。という声が聞こえる。誰だ。自分の休日はあるべき学生の姿を外角低めにワンバウンドするスライダーの如く外れて、楽隠居した老人もかくやというレヴェル(意識高い系)のダラダラっぷりは最早、不動明王と言っても過言ではないかもしれない。むしろ、自分が不動明王。やっぱり過言だった。
こうして見ると、自分は一体何をやっているのだろうか。一応、小説を読んだりしているから全くというわけではないが、自分は「この休日に~~しました」と言えないのだ。その言えないっぷりは「一昨日の夕飯何たべたっけ」に匹敵する。as 何とか as 何とか' って感じだ。勿体ない婆さんが家に凸るどころか嫁ぎに来るぐらいの無駄遣い。青春はこの瞬間にも平等だっていうのに。いや、人間は根源的時間的存在って言うじゃない?
多分、この過ごし方は他人から見れば阿呆の極みなんだろう。自分でちょっと考えてみてもそう思えるんだから、"ストイックな生活"がデフォルトな彼らないし彼女らからすれば、阿呆の極みの^n に見えることだろう。
でもさ。自分にとってはこっちがデフォルトだったのに、学校行ったら急に「それダメ」ってなったのは今でも納得が行くけど行かない。矛盾。親の教育方針云々とかじゃなくて、社会が間違ってる云々じゃなくて、学校で最初に感じた理不尽がそういう類いのものだったってだけのこと。意味も意義もない無価値なだけの過去思考。教訓を求めるどころか、自分自身が教訓。勿論、反面教師――というより生徒――的な意味で。
1限目は体育。最近はテニスをやっている。「短距離派? 長距離派?」って訊かれたら「インドア派」って答えるぐらいには運動は下手だ。よって、体力もないし、運動は疲れるからあんまりしたくない。でも、そんなに体育が嫌いってわけじゃない。じゃあ、何で嫌いじゃないんだよって話なんだけど。それは多分だけど、今の自分に取って体育が必要十分でないからだろう。格好付けて言うと"砂糖菓子"って所かな。
これは価値観の問題なんだけど、自分がポケットからハンカチを取り出したとする。そのハンカチは確かにただのハンカチだし、それ以上にもそれ以下にもそれタコにもならない。物質としてはけ
は、形而下では、ただのハンカチだ。でも、もしこれを見て「亡くなったおじいさんの形見なんだ……」って自分が言ったら、少なくともこのハンカチを「やーい! やーい! ただのハンカチー!」とは思えないだろう。
で、ここで仮に誰かさんが神妙な顔つきになったとしよう。しかし、その人がどう思おうとその人のちゃんとした深めの意識下においては、ハンカチはただのありふれたハンカチにしかなり得ない。関係ないからそう思える。
それと似た様な感じで砂糖菓子がある。
と、無駄な暇潰し的思春期学生特有の痛々しいモノローグをかまして1限目は終了。時間は平等。しかし、体感時間は増減する。この世の不思議だね~。
2限目は英語。日本語すらマトモに使いこなせないのに英語なんてできるのかと思われそうだが、実は英語は得意教科よりだったりする。あくまでも相対的な評価だが。どこの相対とは言わないけど。
英語は基本的に突き詰めれば、知識が足りないだけで完結するので分かりやすい。とにかく単語帳全部暗記していれば、そこそこ点数取れる教科なのだ。
英語ペラペラになって海外進出とかを将来的な視野に入れても良いかもしれない、とセシウムが水と反応するぐらいの時間思ったが、日本語ですらマトモに話せないのに英語を話せるわけがなかった。
しかし、学生の身に置いて日本語が上手に扱えないのは致命的ではないだろうか。周りを見れば先輩や先生等の"先"が付くものばかり。当然、敬語とか使わないといけないハズだが、そんなものは知らん精神でゴリ押している。
こう語ると上級生と話せないみたいな雰囲気だが、それは間違いである。三角だ。正解は同級生とも下級生とも話せない、だ。コミュ力不足が生活に響くぜ。声はボソボソして響かないけど。
でも、これをコミュ力不足と片付けるのはいかがなものか。分析しないことには解決は見えないぞ。というわけで分析開始。
開始してみると、自分が情けない存在であることが浮かび上がり、無駄な精神ダメージを負ってしまうが、それは些事だ。思うに、自分は意見が言えないのだろう。周りが自分より優れている、というのがデフォルトだったから「自分じゃダメだよな」っていつも引っ込んでしまうのだ。コミュ力不足の中でも主流な"友達は向こうからやって来ないんだぜ"パターンだ。
これを環境のせい、と断言して諦めることは簡単だ。だって諦めてるんだし。じゃあ「頑張る」のか? いや、それも簡単だ。これを他人が「お前が頑張ってないだけだ」というのは諦めるのと同じぐらい簡単だ。本人だって自覚してるのに、そんな正論ぶつけられても辛いだけなのだ。"正論"は分かっていても心が弱くて実行できないのを一番自覚して、間近でずっと何回も見て来たのは当然のことながら、自分自身なのだ。そんな正論を言われても心のネガティブフィルターに引っかかって「そんなん言われんでもわかっとるわい。そう簡単に言えるのはおまいがこんな人間じゃなかったからやろ」って思ってしまうのだ。自分で何らかの解決をしないといけないのに、自分じゃできないからこそ、問題になってしまう。他人にちょっと言われて直ってしまうなんて――解決したのなら結果論的に――所詮その人に取って大した問題じゃなかったってことの証明に他ならないのだ。
3限目は現代文。小難しい言葉で書かれた良く分からん文章の1つ1つを仰々しく扱って、わざわざ意味を見出す授業だ。現代文の良い所は、成績を伸ばすのはとても難しいが1回上がってしまえば落ちることも難しいことだ。ようするに、安定した得点源。安定している。うん。他の人は停滞と言うかもしれないが、安定しているのは事実である。
現代文の評論文を読む度に30%ぐらいの確率で思うことがある。それは「この文章、俺らが書いても気付かんのじゃね?」ってことだ。実際にはそんなことはない。先生が「ここの文にはこういう意味があって……」とか何とかやってる時に「筆者、そんな考えてへんと思うよ」ってなる。じゃあ、実際意味があって書いたのか? これは簡単だ。意味は筆者ではなく、他人が見出すのでどっちでも良いのだ。
ここで、大事になるのは肩書き。例えば、東大の首席合格者が言った名言の1つに「何を言ったのではない。誰が言ったのだ」という言葉がある。
偉い大学の先生とかが書いた文だから、何か凄い人が選んだ文章だから、凄いのだ。別にあの文章を自分の名義で出した所で「なんやこのイキリ。ウッザいわぁ」となるだけだ。
良くあることだ。自分が教室で1ボケしてもエアコンが付くだけだ。だから、自分に自信がないと発言の1つも、意見の1つにも慎重になってしまうのだ。現実には自分の周りの人達は自分より凄い人達だから……自分より優しい人達だから何を言おうが別に問題はない。というか、発言1つでアウトとか余程の確率の壁を越えないとない。まぁ、実際がどうより自分に自信がない人がそういう思考になってしまうってのが問題なんだけど。ソース? 訊いてくれるな。
ちなみに、「何を言ったのではない。誰が言ったのだ」ってさっき2秒で自分が考えた言葉ね。
5限目は数学。微分とか積分とかよーわからんことをやってる。数学のテキスト本紙にも「君の心を因数分解」とか「本当の愛はないんだ……」とか「あの娘の心の傾きを微分してやるぜ!」ぐらいの茶目っ気は欲しい所だ。数字と記号ばかりで素っ気ない。勿論、実際にそんなこと書かれてたら教科書をデデキントカットしたくなるだろうけど。
数学は好きかと訊かれたら、ちょっと迷った後に「苦手だけどね」と答えるだろう。別段、嫌いではない。でも、そんなに好きって程でもない。学校の問題集とかの数学は何か面倒くさくてやっていないし。でも、数学の豆知識とかは結構好きだし、授業とかで表面だけだった知識の本質を理解できるのは楽しい。
何で相反する気持ちが同居してるのかなーって考えた時、明確に"好き"な数学と"好きでもない"数学の両者を隔てているのがあることが分かった。学校で出るか、そうでないか。例えば、自分の好きな数学の中にはハムサンドイッチの定理とかがある。ⅠAとかⅡbとか高校の範囲で証明できるものだけど、これがテストで出た経験はない。
ようするに、無駄で、どうでも良いから楽しいのだ。テレビゲームみたいなものだろうか。まぁ、テレビゲームは脳の成功系を利用した麻薬行為だから正確には違うかもだけど。いわゆる、砂糖菓子。ベッタベタで、甘くて、健康的じゃない。テストで出る数学は何というか、現実的で、リアルで使うから、否応なしに直面してくる現実を押しつけて来るから、好きになりきれないのだろう。
ずっと、子供のままでいられたら良いのに。
ずっと、砂糖まみれでいられたら良いのに。
そうやって何となくに現実からチラチラ目を背けていたら、にっがぁ~い大人達から「それじゃ生きていけない」って何回も言われて。「そんなん分かってる」って言おうとするんだけど「そんな分かってないから、今こんななんやろ」って自分が心の中で言って来て。「真面目に生きてます」って言おうとしたら自分の心が「本気で砂糖菓子で生きてけるって思ってるならただのガキじゃん」ってチクチク刺してくる。
で、そう反論したくなってもできなくて。大人達から更に色々言われて。当然、全部が正論で正しいから、ベタベタのお砂糖主義者(しかも子供)には言い返せなくて。
最終的に「お前の心がクソ雑魚ナメクジなのが悪いんや」って結論に回りも自分もなっちゃって。でも、それが分かっててもどうにもできないから今現在こうなってるわけで。
別に何か「こうして欲しい」とかそういうわじゃない。教訓でも主張でもない。むしろ自分自身がアンチ教訓でアンチ主体性までもある。
でも、本心を言いたいけど言えないってのはベタな悩みだけど辛いなーって。勿論、そんなに辛くない。
ちょっと頑張れば解決できる程度の問題。
辛いとか言っちゃったら、頑張ってる他の人の悩みに失礼なレヴェルの悩み未満。
でも、自分に取ってはいつまで経っても家賃も払わずいすわってる居候君なわけなのですよ。
とっとと、いなくなって欲しいね。
さて、そう言えば今日は日直だった。
自分が通っている高校のしきたり(そんな大層なものじゃないけど)として日直は日誌を書かなくてはならない。
しかし、どうだろうか。今日は特に無駄に時間を過ごしていただけの1日だった気がする。書くことがない。
じゃあ、あれだ。良い感じにねつ造しよう。でも、自分から出てくるのは砂糖菓子ばっかなんだぜ。我ねつ造1つにも苦労せり。
書いちゃったら「何こいつイキってんの」とか「うわ、つまんな」って感じさせる文章になるんだろーな……考えると虚しいね。
そんなわけで、面倒くさいから適当に済ませちゃおう。まぁた、大人達に色々言われそうな適当な生き方だけど、まだ大人じゃないし良いよね。
将来的に後悔しても、今の自分にとっては良いよね。
その場しのぎで生きていても、今の自分だけはその生き方を肯定してくれちゃうよね。