【完結】「不死身(物理)なら尾形を愛せるのでは」という仮説とその検証について   作:捕まえようとした蝶

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53話 能事畢矣

「尾形ッ!!」

 

 何か考えるよりも早く、拳銃を構えていた。この距離なら当てられる。躊躇いなく引き鉄を引く。

 引いて──何も起こらない。

 まさか。

 この軽い感覚。

 弾切れ、

 

「──────、」

 

 この一瞬で、俺よりも冷静かつ迅速にその事実を判断したらしい鶴見が、改めて尾形に向き直る。

 ああ。こんな時に。

 ……いや、運命か?

 

 ──結局は、何も変わらないのか。

 

 その、瞬間。

 絶望に目を瞠る、俺の横を。

 黒い何かが、素早く駆け抜けていった。

 “それ”は、弾丸の速度で鶴見の背中に激突して。照準のずれたピストルから放たれた弾丸が、明後日のほうに飛んでいく。

 無傷の尾形が、焦ったようにその名を呼んだ。

 

「不死身の杉元……!」

「お前のためじゃねえ、ぞッ!」

 

 不死身の杉元。

 屋根の上に立つその姿は、確かに杉元佐一のそれだった。わざわざここまで上がってきたのか。

 

 ──とにかく、助かった、?

 

 淡い安堵に胸を撫で下ろしかけたのと、ほぼ同時に。

 体勢を立て直した鶴見が、勢いよく腰を捻って、杉元の脇腹に強烈な蹴りを喰らわせたのが見えた。

 多少不意を突かれた形になった杉元が、後方に吹き飛ばされる。

 が、何せ“不死身”なんて大層な二つ名のついた男のことだ。腹に回し蹴りを受けた程度では、何の心配もない。

 ……問題は、その軌道線上にいた俺のほうだった。

 

「ぅぐッ」

 

 膝立ちの不安定な姿勢に、思いっきりぶつかってくる杉元の巨体。

 踏ん張って耐えるなんて、出来る訳がなかった。そもそも片足が使い物にならない状態なのだ。

 

「あっ!?」

 

 案の定、玉突き事故を起こして、杉元以上に容易に宙を舞う身体。杉元の焦った声が視界の外で聞こえたが、もうどうにもならなかった。

 危険な浮遊感が全身を包んでいる。

 ああ。

 

 ──落ちる。

 落ちて──死ぬ。

 

 かつての彼のように。

 俺の旅はこの列車でおしまい。

 思った以上に──いや、予想通りに冷静だった。杉元佐一に対する恨みなどある訳もない。

 そう。

 これは既定事項なのだ。

 尾形百之助は死ななかった。だから、俺が代わりにここで死ぬ。それだけ、

 

「あ、」

 

 ……目を瞠った尾形百之助が、こちらに駆け寄ってくるのが見えた。

 嫌な予感に身を竦ませるより早く、屋根の上から伸びてきた彼の手が、俺の手を掴んで。

 

「やめ、ッ────」

 

 離せ、とまで言えなかった。

 ほんの一瞬の出来事だった。

 ぐらり、車上の身体が傾いて。視界が殊更にぶれる。

 あ、落ちる、

 

 

「──────、」

 

 とっさに瞑った瞼を開けて。

 ──目の前に広がっていたのは、どこかで見たことのあるような田園風景だった。

 誰かが立っている。

 短く切り揃えられた黒鳶色を靡かせる、華奢な和服の後ろ姿。遥か彼方、山並みの向こうから降り注ぐ朝陽を浴びて立つその人影が、肩越しにこちらを振り返った。

 無表情だった。違う。泣いていた。綺麗な星空の瞳に満ちた煌めきが、赤く染まった眦から滴となってこぼれ続けていた。

 見覚えのある顔で、見たことのない顔だった。

 息を呑む。

 ああ。

 あれは──

 彼女は、

 

 

「……っ、…………」

 

 手を、伸ばした。

 確かにそう思った。

 けれど、ふっと我に返った次の瞬間には、もう全てが目の前から消えていた。何もない。暗闇しか見えない。

 そんなものは無かった。

 どこにも。

 

 ──否、()()()()()()()()()()()()()()

 

 何故だかふと、そんなことを思った。

 煙の匂いがする。

 

「タマ」

 

 至近距離から降ってきた馴染みのある声に、とっさに肩が跳ねた。恐る恐る、顔を上げる。

 ──いつも通りの尾形百之助が、見慣れた無表情でこちらを見下ろしていた。

 顔が近い。温かい。上半身が軽く圧迫される感覚で、彼に抱きしめられているのだ、とようやく理解した。

 

「……尾形……」

 

 乾いた唇から溢れた響きに、頭上の尾形がぎこちなく顎を引いた。

 風の音がし続けている。

 ここはどこだ。

 今さらそんなことを考える。

 変わり映えしない景色が視界の端を流れている。──列車のデッキだ。屋根から運良くこの場所に着地したのだ。思考回路はそう告げていたが、肝心の理解が追いつかなかった。

 線路の上ではない。

 列車から落ちなかった。

 

 ──落ちなかった?

 

 死ななかった。

 これだけ前提条件が揃っても、そういう結果には至らなかった。

 未だ混乱しきりの俺とは対照的に、はあ、と薄く息を吐いた尾形は、

 

「撃たれたのか」

 

 そう低く呟いて、左足に触れてくる。

 かと思えば躊躇いなく自身の外套を裂いて、出来た即席の包帯で手早く止血を行ってくれた。あの高さから俺を庇って落ちて、相当痛みもあっただろうに、尾形はひどく冷静だった。

 

「無茶ばかりする」

「…………」

 

 処置が終わっても、とうに感覚の薄れたそこを繰り返し撫でる彼の骨張った手。淡々と、労るような手つきだった。なぜだか居心地の悪さを感じて、乾いた唇をむりやり開く。

 

「……お前は、」

「問題ねえよ」

 

 けれど、その呼びかけは、俺よりも早く意識を切り替えたらしい彼にあっさり切り捨てられる。尾形はそれなりに会話に応じる素振りを見せつつも、既にこちらを見てはいなかった。

 狙撃手の眼が周囲の様子を素早く窺い、上手く歩けない俺を半ば抱えるようにして、車内へ引っ込む。

 そのタイミングで、大きく車体が揺れた。

 音のしたほうをとっさに見やる。

 反対側の出入り口を塞ぐ、巨大な黒い毛の塊──ヒグマ。

 

「……アシㇼパだな」

 

 隣の尾形は短くそれだけを呟いて、銃を構えることはなかった。確かに屋根から落下してきたらしいヒグマは、それ以上動く素振りはない。

 既に死んでいる、ということなのだろう。尾形の読み通り、アシㇼパが放ったトリカブトの毒矢によって。

 

「土方のジイさん」

 

 そこで、尾形が新たに放った固有名詞に、はっと我に返る。

 連結部分を塞ぐヒグマよりもっと手前、通路の中央に座り込んだ覚えのある人影。彼の呟きで、ようやくその存在が視界に入った。

 土方歳三。

 幕末の亡霊、鬼の副長。

 この乱戦時には非常に頼りになる戦力だ。……いや、だった。

 

「…………」

 

 割れた頭部から大量の体液を垂れ流すその姿を、無言で見つめる。明らかに、手遅れだった。

 やがて、彼が緩慢に頭を持ち上げた。白髪を汚す血液が、ぼたぼたと音を立てて床に落ちた。

 

「尾形百之助か……」

 

 掠れて、力ない呟き。見る影もない、という形容詞が相応しい、死に体の老人の声だった。それでも土方は血濡れた顔に薄い笑みを浮かべて、

 

「最後に寄ってくるのが、気まぐれな猫2匹とはな」

 

 くつくつと、微かに喉を鳴らしながら。

 

「特段悪い気はしない辺り、やはり、私もよく居る老耄になっていたという訳か……」

 

 そこで、一息置いて。

 

「最後の使いだ」

 

 震えを強引に抑え込んでいることが見て取れる手つきで、腰に手を伸ばす。差していた打刀を鞘ごと抜き取って、厳かにこちらを差し出してくる。

 銀行を襲撃してまで取り戻したはずの愛刀、和泉守兼定。けれど。

 

「杉元佐一にこれを持っていけ」

 

 ──きっと役に立つ。

 

「そして伝えろ。……金塊と権利書は、和人とアイヌも救われるように、と」

 

 隣の尾形が、ほんの僅かに身構えたのが、触れ合う肩越しに伝わってきた。

 

「……わかった」

 

 けれど、それだけだった。

 尾形はただ小さく顎を引いて、兼定を受け取った。それきり何か言うこともなく、肩を貸している俺ごと土方に背を向けてしまう。土方もまた、こちらに対してそれ以上何か言ってくる様子はなかった。

 

「行くぞ。動けるか」

「ん……」

 

 さらに前の車両に移動するつもりなのか。意図はよくわからなかったが、問い質す気力も、何か新しく考える余裕も今の俺には残されていなかった。

 まだ、生きている。

 それだけを考えていた。

 ぼうっと自分のつま先を見つめながら、右足を動かす俺の耳に。

 

「機関室に誰もいなかった」

 

 いつも通りの、単調な尾形の呟きが、ぬるま湯のように流れ込んでくる。

 

「ヒグマに怯えて逃げ出したのかもしれん。どうするか考える必要があるな」

 

 焦っているふうではなかった。口に出した通りのことだけを考えている、乾いた口調だった。

 

「──あっ!」

 

 俯いていたつむじに、覚えのある声が降ってくる。顔を上げる。

 今まさに足を踏み入れようとしていた車内には、杉元佐一をはじめとしたいつもの3人組の姿があった。声の主たる白石由竹が、焦った顔でこちらに駆け寄ってくる。

 

「大丈夫かよ、」

「……屋根から落ちただけだ。大した怪我じゃねえ」

 

 俺が何か言うより先に、尾形がそれだけを言って彼の横をすり抜けた。そして、白石の背後に無言で佇む、血濡れた男の前で足を止める。

 

「不死身の杉元」

 

 呼びかけられた彼が、軍帽の鍔を上げてこちらを見た。

 尾形の姿を認めるなり、眉間の皺がやや深くなったけれど。当の尾形はそれには構わず、

 

「土方歳三からの餞別だ」

 

 眼前に突き出された打刀を見て、杉元はさすがに少し驚いたようだった。……本来ならば、彼自身が直接受け取るはずのものだったのに。そんな今さらな差異を、ぼんやり噛み締める。

 

「これは、」

「……金塊と権利書は、和人とアイヌも救われるようにしろと」

 

 言いながら、半ば押しつけるように兼定を手渡し終えた尾形が、一歩後ずさる。役目は終わったとばかりに。

 

「……ああ……」

 

 受け取った杉元は、もはや形見となったそれをただじっと見つめていた。

 土方歳三はもういない。彼はその遺言を直接耳にすることはなかった。

 

「タマ」

 

 背後から、少女の声。

 とっさに首だけで振り返って、

 

「……、……」

 

 どす黒く塗りつぶされたような瞳と目が合って、喉が詰まった。彼女は、アシㇼパは、もう既に。

 

「……無事で良かった」

 

 俺を見つめるアシㇼパが、低く呟く。今の彼女の目に、俺はどう映っているのだろう。

 

「…………」

 

 ああ。

 救いになってやれなかった。

 支えになってやれなかった。

 ……何を言っているのだろう。手のひら返しでそう思った。

 杉元佐一でさえぎりぎりまで掬い上げてやれなかった彼女の闇に、こんな俺が何の役に立てたというのか。

 ──欠けた人間、

 頭痛がひどかった。

 こめかみを押さえる。強く。横から伸びてきた尾形の手に、やんわり引き剥がされた。

 

「みんなはここにいてくれ」

 

 扉を背にしたアシㇼパがそう告げてくるのを、どこか他人事のように聞いていた。

 

「アイヌの権利書は私の問題だ」

 

 後ろ手に開け放たれた扉。

 その先に広がっていた光景に、

 

「あッ!」

 

 白石由竹が再び驚愕の声を上げる。

 ──乗客ではなく、燃料としての石炭を乗せた二両目。その炭水車との連結が、解除されていた。

 

「連結が外されてるっ」

 

 下手人は1人しかいない。鶴見中尉──それと同時に確定した事実。彼は、この先の一両目にいる。

 

「だんだん離れていってるぞ、」

 

 ……ただ、その事実がわかったところで、この状況の儘ならさはどうにもならない。一刻も早く手を打たなければ何もかも手遅れになる、

 

「……みんなに頼みがある」

 

 私の、最後のお願い。

 絞り出すようなアシㇼパのその呟きは、異常な速度によって激しく揺れ、金切り声を上げ続ける機関車の車内にいても、不思議とよく聞こえた。

 項垂れる彼女は、一度深く息を吸い込んで。

 

「……あの井戸は、埋めたままにしてほしい……!!」

 

 その、悲痛な“お願い”に。

 白石と杉元は呆気に取られたような顔をして──尾形は、微かに眉を顰めてみせた。それを隣で見ていた。

 

 ──あの大量の金塊を手に入れたから“めでたしめでたし”とは、絶対にならない。

 ──持っている限り、殺し合いが延々と続く。

 

 みんな、死んでしまった。

 拳を振るわせながら呟く彼女の気持ちは、痛いほど伝わってきた。

 敵だった男の死にさえ心を痛める少女は、既に実の父と叔父を目の前で亡くしているのだ。

 

「ここで……全てを断ち切らないと……!!」

 

 苦しげにそう吐き捨てたかと思えば。アシㇼパは一転、慌てたように懐を漁って、小さな何かを取り出してきた。

 細い指先に摘まれて差し出される、小さな硬貨。まだらに鈍く輝くそれは、彼女の装備を除けば、唯一と言ってもいいウイルクの形見の品だったが。

 杉元。アシㇼパが落ち着きのない口調で相棒に呼びかける。

 

「この金貨は……たぶん10圓くらいの価値がある、……これじゃ治療費に全然足りないけど……でも、私がヒグマの胆嚢をたくさん獲るから!」

 

 大人びて落ち着きのある彼女らしくない、捲し立てる勢いだった。杉元がそれに気圧されている間に、アシㇼパは再び懐に手を突っ込んで。

 

「白石はこれを……!」

 

 差し出されたのは……いやハンペンまだ持ってる! 原作で既に知ってはいたが、改めてこの空気の中で見ると引くほど浮いている。

 

「タマ、」

 

 そして、彼女は最後に俺を──俺たちを見て。

 揺れる漆黒の瞳は、“代替としての望み”を求めていた。或いは、“赦し”を。

 息を呑む。

 あの黄金を“無かったことにするため”の口止め料。

 ちがう。

 

「俺、は、…………」

 

 求めているもの。

 手に入れたかったもの。

 ──俺が本当にしたかったこと、?

 

「っ、…………」

 

 言うべき言葉は確かにあったはずなのに。

 音にはならなかった。

 ……何故?

 手が震えている。尾形が俺を見ている。それがわかる。目を、きつく、瞑って。

 

「……俺のことはもう、……気にするな」

 

 それだけを、何とか狭まった喉から搾り出した。彼らの耳には人間の言語として届いただろうか。それすら自信がなかった。

 

「…………」

 

 アシㇼパは、一瞬だけ何か言いたげな顔をして俺を見たが。すぐに、自身の足元に視線を落としてしまう。

 

「みんな、あの井戸には戻らないで──忘れてほしい、」

 

 きつく、瞼を瞑って。

 

「いちばん大切なひとまで失いたくない」

 

 ──いちばん大切なひと。

 そうだ。

 尾形はこの列車で、杉元佐一に刃を向けられなかった。アシㇼパの毒矢で射抜かれなかった。

 それが叶っているのだから、俺はそう口にすれば良かった。いや、口に出すべきだったのだ。

 事実は事実だ。大切云々が心にもない嘘だったとしても、そうするべきだった。嘘を吐くのには慣れているはずだ。何も、思わない。

 俺は欠けた人間なのだから。

 尾形はあの返答をどう思っただろう。

 頭痛が治まらない、

 

「──おい杉元ッ、!」

 

 アシㇼパの苦しげな怒号で意識が引き戻される。

 

「お前結局私を……放せッ!」

 

 杉元に首根っこを掴まれて、子猫のように暴れるアシㇼパ。しかし、そんな抵抗は痛くも痒くもないらしい杉元が、血濡れた顔をこちらに向けた。

 輝きを失わない瞳に何度目か、射抜かれる。

 

「白石、タマさん、……クソ尾形。また会おうぜ」

「降ろせっバカ!!」

 

 ──その後は、何もかも一瞬の出来事だった。

 人間離れした脚力でアシㇼパとともに炭水車へ飛び移る杉元。それに向かって放たれる鶴見中尉の凶弾。しかし外して、どこにも当たらない。

 それらの姿が、みるみるうちに遠ざかっていく。

 

 

 

 

「──い、行っちまった……」

 

 呆然とした白石の呟き。俺も、彼と同じ方角をぼんやりと見つめることしかできなかったが。

 

「わ」

 

 いきなり隣の尾形が動いた。肩を貸していた俺を手近な座席に座らせてから。三十年式を担ぎ直して、立ち尽くす白石にずかずかと歩み寄っていく。

 

「どうする、」

「エ」

「追いかけなきゃならん。今すぐ。方法を考えろ」

「エッ」

「明治の脱獄王なんだろ、死ぬ気で捻り出せ!」

「イヤそんなことトツゼン言われてもぉ、」

 

 胸ぐらを掴む勢いで距離を詰めている。物理的にも心理的にも急に激詰めされた白石は目を白黒させていたが、

 

「アッ!!!」

「おいこの距離でいきなりデケえ声出すんじゃねえ」

「理不尽! じゃなくてコレ!」

 

 白石が指差したのは、追い詰められた彼が防波堤代わりにしがみついていた謎のハンドル。

 そうだ、これは確か、

 

「手動の制動器だ! こいつを回せば列車は止まる!」

 

 ……原作を読んだ時も思ったが、彼はどこでこんな知識を得たのだろう。

 内心で首を捻る戦力外の俺の前で、尾形は素直にそれに飛びついた。真っ先に頼ってみせた辺り、彼も白石由竹の脱獄王としての知識には一目置いていたのだろう。

 ハンドルを回すキィキィと耳障りな音が、淡々と響く。

 

「……!」

 

 最初は勘違いかとも思ったが、列車はゆっくりと、確かに速度を落とし始めていた。

 やがて、流れていく景色をはっきり視認できるようになり。地鳴りじみた轟音とともに、静止する。

 

「止まった……」

 

 そう呟いた白石の横で、いち早く柵を飛び越えようとしていた尾形が──ぴたりと動きを止めた。俺が声を掛けるよりも素早く蜻蛉返りして、こちらに駆け寄ってくる。

 

「尾形、」

「ここに居ろ。いいな」

 

 俺の肩を掴んで、真っ直ぐ目を見つめて。

 それだけを口にした尾形は、また即座にこちらへ背を向けてしまった。既に見えなくなりかけている白石の背中を追いかけて、躊躇いなく線路に降り立ってしまう。

 

「……、……」

 

 何か声をかけている余裕など、有りはしなかった。伸ばしかけた手が、力なく膝に落ちる。

 ああ、もう。

 

「……何やってんだ……」

 

 そんな自嘲だけが無意味に唇からこぼれた。

 ずきずきと。

 脈打つような頭痛は未だ治まる気配がない。肩からずり落ちるように、座席に身体を横たえる。目を瞑る。

 

 ──価値がない。

 ──意味がない。

 

 役立たず。

 俺は何のためにここまで来た?

 噛み締めた唇は血の味がした。こんなはずではなかったのに。何もかも。

 完全に停まった列車の中は、耳障りなほどの静寂で満ちていた。

 

「…………」

 

 そうして、どれだけの時間が経ったのだろう。

 ギシッ。

 木製の板が軋む微かな響きで、我に返る。何の音だ。……床か?

 誰かが車内に入ってきた。

 音は聞こえ続けている。

 近づいてきている、

 

 ──ぱっと、瞼を開ける。

 

 思ったよりも至近距離で、誰かが俺を覗き込んでいた。手袋に包まれた指を、こちらに伸ばそうとしていた。

 男だった。それほど歳は取っていないように見えた──と言っても、その顔のほとんどは、見慣れない形状の頭巾で覆われていたが。

 その中で、アシㇼパとはまた毛色の違う澄んだ碧眼が、真っ直ぐに俺を見つめていた。

 知っている色だった。

 そして、まさかここで見るとは思わなかった色でもあった。

 二度、立て続けに息を呑む。

 ヴァシリ、

 

「──────ッ、」

 

 ──鈍い音。

 彼が、ヴァシリ・パヴリチェンコが一瞬で視界から消える。クリアになった視界に映っていたのは、

 

「……谷垣源次郎……」

 

 座席の前で仁王立ちする、アットゥシに身を包んだ巨漢のマタギ。

 その名を呆然と呟く。少なくとも、ヴァシリよりはここにいることが理解のできる知人だった。

 肩で息をする谷垣が、こちらを見下ろしたまま厳かに顎を引いた。

 

「尾形に言われて来た……お前が足を負傷して、一人でいるから、と」

 

 尾形。

 そうか。原作で、馬を駆って舞い戻ってきた彼は白石由竹と出会う。そして、白石を馬の後ろに乗せて暴走列車を追うのだ。

 その役目を、今回は尾形が請け負ったという訳だ。

 それから。駆けつけた彼がヴァシリを殴るか蹴るかして、俺の前から吹き飛ばしたのだ──と今さらながらに理解する。視線を向けた先、ヴァシリは未だ車両の片隅で蹲っていた。こちらに背を向けていて、その表情は窺えない。

 

「知り合いか」

 

 その視線を、どう解釈したのか。谷垣が、張り詰めた声音のまま問いかけてくる。

 

 ──知り合い?

 

 知り合いは知り合いだ。

 きちんと顔を付き合わせたこともある。目的だって知っている。

 彼はロシアで俺と尾形を殺しかけた手練れの狙撃手であり、尾形を追ってわざわざ日本までやってきた。決着をつけるために。尾形百之助を──自らの手で殺すために。

 

 ──……そんなことを谷垣に向かって口にして、何になるというのだろう。

 

 杉元たちの味方のような真似をしていた時期があったとはいえ、今ここにいる俺に銃口を向けたことがあるという事実を知った谷垣が、おとなしく彼を放っておくだろうか。

 ……視界の端で、丸まった背中が微かに身じろいだのが見えた。

 内心で胸を撫で下ろして。反対に、表情を引き締める。

 もう、全てが終わったことだ。

 

 ──ヴァシリ・パヴリチェンコは、生き延びるべき人間である。

 

「……、いや……見たこともない」

 

 俺の完全な否定を、谷垣はひとまず素直に信じたようだった。

 それは、そうか。ここに来て急に現れた謎の外国人と、面識があるなどと力説するほうがある意味不自然だ。

 

「ロシア人か……? 異国で火事場泥棒とは、良い度胸だな……」

 

 何も知らない谷垣が低く呟く。

 そこで気づいたが、ヴァシリは銃を持っていなかった。尾形との交戦で落としてきてしまったのか。今だけはそれが好都合だった。

 

 ──何のために、何をしにここまで来たのだろう。

 

 ……原作を鑑みれば、尾形の、

 

「っ、」

 

 突然の浮遊感に、思考が中断される。

 谷垣源次郎に、横抱きで抱え上げられていた。目が合って、強張った表情の谷垣が口を開く。

 

「……やはりここは危険だ、第七師団の生き残りが襲ってこないとも限らないし」

 

 危険。ヴァシリが接触を試みている現場に出会したせいで、なおのことそう思っているのだろう。

 

「尾形たちのところに向かおう」

 

 そう言って、やや億劫そうに露台から降りる。その鈍重な動作を見ていたら、彼が臀部に銃創をこしらえたばかりであることをようやく思い出した。

 

「……悪い、お前も負傷している身なのに」

 

 逞しい腕の中で揺られながら、そんな価値のない懺悔を吐き出す。

 何やってんだ、俺。

 ありとあらゆる人間に迷惑をかけて。ヴァシリのことだって。俺がいなければ、あんな場所で谷垣に殴られる必要はなかったはずだ。

 谷垣は、黙って前を見つめていたが。

 

「……、何となく」

 

 やがて、その姿勢のまま、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。

 

「お前はこの戦いで死んでしまうんじゃないかという予感が、ほんの少しだけあった」

 

 どきり──とはしなかった。

 妙に冷静な気持ちでその独白を聞いていた。

 

「俺は占い師じゃない。単に不安なだけなんだと思うようにしていたが……」

 

 そこで、一度息を吐き出して。

 

「命があって良かった」

 

 落ち着いた口調だった。

 ……命があって良かった?

 違う。

 俺は。

 

「……俺は生き延びるべきではなかった」

 

 最終的にはこの世界から取り除かれるべき異物だった。その機会を、永遠に逃してしまった。

 そこに何かしらの俺の感情が入る余地はない。単なる事実である。

 けれど、何も知らない谷垣は。

 

「そんなことを言うな」

 

 俺の目を見つめながら、噛んで含めるようにそう呼びかけてきた。

 

「尾形が悲しむぞ」

 

 父になった男の、優しい眼差しだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……凄まじいことになってるな……」

 

 線路を辿り、函館駅の車庫──今はもはや跡地と呼んだほうが相応しいかもしれない──に辿り着いて。

 その惨状を見た谷垣は、開口一番そう呟いた。

 

 ──凄まじいことになっている。

 

 彼の口にした通りのことが起きていた。

 木製の壁には盛大な穴が開き、あの巨大な機関車の姿はもうどこにもない。彼方に見える海面から激しく立ち昇る白煙だけが、その末路を示していた。

 

 ──……尾形、

 

 尾形百之助は、どこに行った。

 悪い想像ばかりが頭をよぎる。むりやり飲み込んで、眼球を動かす。

 辺りをくまなく見回した先──その黒い後ろ姿は、しづか号が海に墜落したちょうどその位置なのであろう、崩れた石垣のすぐそばにあった。

 

 彼は、ただ黙って湯気のくゆる水面を見つめていた。

 

 隣にアシㇼパはいない。白石の姿もない。だから、彼が今見つめているのは、杉元佐一“ではない”。

 生唾を、飲み込む。

 

「…………」

 

 谷垣が、ゆっくりと俺を地面に下ろした。ふらついたのを、分厚い身体に支えられる。けれど、今はそれに礼を述べている余裕はなかった。

 

 ──声を掛ければ、間違いなく聞こえる距離だ。

 

 なのに、そうできなかった。

 潤したはずの喉が張りついて動かない。じっと、微動だにせず海の底を見つめる彼の背中を、黙って見ていることしかできない。

 海に沈んだ、杉元佐一以外のもの。

 しづか号。

 そして──鶴見中尉。

 尾形が、列車で彼と交わした会話を聞くことはできなかった。

 俺は最後のピースを得られなかった。

 だから、

 

「……タマ、」

 

 降ってきた声に、びくりと肩が跳ねる。……いつのまにか、振り返った尾形が俺を見つめていた。

 ゆっくりと、その場を離れて。こちらに近づいてくる。迷いのない足取りだ。そう思いたいだけなのかもしれなかった。

 

「連れて来たのか」

 

 俺の次に、背後に立つ谷垣を見て。尾形が淡々とそう呟いた。ただ理由を聞いているというよりは、冷静に、咎める意図を孕んだ呼びかけだった。

 聞かれた谷垣のほうは、一瞬身体を強張らせたのが伝わってきたが。

 

「……あそこにいるよりは安全だと判断した」

 

 明らかに緊張した態度ながら、はっきりとそう答えてみせた。

 ふん。一瞬の沈黙の後、尾形が短く鼻を鳴らす。谷垣とのやり取りは、それで済んでしまったようだった。俺に視線が戻ってきて、腕を引かれた。

 

「怪我の具合は?」

 

 近くにあった積まれた木材を椅子代わりにするよう促しながら、尋ねてくる。いつも通りの、乾いた優しい口調だった。きっと。

 

「血は止まった……」

「そうか」

 

 そこで、俺の足元で膝をついた尾形は肩越しに背後を振り返り。

 

「……左胸を日本刀でグッサリいかれた杉元が息を吹き返した」

「え、」

「おぶって走って医者に連れて行け、マタギの谷垣」

「えっ」

「早くしろ」

 

 彼が、顎で示すその先。

 ──優しい笑みを浮かべた杉元佐一が、泣きじゃくるアシㇼパの頭を撫でているところだった。その横では、なぜか片頬を腫らした白石が泣き笑いの表情を浮かべている。

 ああ。

 生きていた。

 

「……無事だったか……」

 

 とっさに唇からこぼれたその一言。そこには、我ながら驚くほど、色が、熱が無かった。

 そこで、ふと気づく。

 尾形が、こちらをじっと見つめていた。俺が何か言うより早く、彼が口を開いた。

 

「知っていたんだろ」

 

 ゆっくりと、穏やかに。

 問うているというよりは、確かめる口調だった。

 

 ──知っていた。

 

 杉元佐一が生き残ることを。

 鶴見中尉の野望が潰えることを。

 かつてゴールデンカムイの31巻を読み終えた“俺”は既に知っていた。

 けれど。

 でも。

 

 尾形百之助は。

 お前のことは、

 

 

「……生きてる」

 

 漏らした呟きが、煤けた外套の生地に吸い込まれていく。

 両腕に収まりきらない温もりが、深く息を吐いて。

 

「ああ」

 

 強く、骨が軋むほど強く抱きしめ返してきた。

 少し、痛くて。

 でも、その痛みを確かに感じることが、どうしようもなく嬉しいことのような気もした。






もうひとつの大きな分岐としては「網走で主人公がウイルクを庇って尾形に撃たれて死ぬ」があり、この場合主人公は先遣隊にくっついて樺太入りすることになりますが、このルートだと尾形(と主人公)は普通に流氷原で死んで話が終わります
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