運送会社に勤めているアラサー男の阿田花勇造。七年前の事件をきっかけに生きる意味を失い、無意味に人生を過ごしていたときに少年と出会った。年齢の差を超えて交流を深めるふたりだったが、少年が病気で倒れる。少年の命を救うため、阿田花はある決断をする。

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不死身男(フランケンシュタイン)

 

 阿田花 勇造は仁王立ちで廊下にいた。

 

 見下ろした視線の先には、会社の先輩がいる。

 

 腰をぶつけたらしく、痛がっている先輩。

 

「……」

 

 阿田花は目前の男を気にすることもなく、迂回するように廊下を歩きだした。

 

「おい阿田花。ちょっと待て」

「……」

「無視してんじゃねえよ! ぶつかったのに謝りもしねえで勝手にどっか行くんじゃねえ!」

 

 背後からの大声に何のリアクションも示すことなく、阿田花は先輩の前から立ち去った。

 

「あんにゃろ!」

「まあまあ。落ち着いてください。どうやら社長から任された仕事らしく、阿田花も急ぎだったようで」

 

 立ち上がってから食ってかかろうとする先輩を、近くにいた社員が止めた。

 

 事情を聞いた先輩は素直にその場で制止したが、怒りが鎮まってるということはなく、毒づいた。

 

「ったく、せめて何か言えっつーの……小柄なくせに人一倍の腕力と体力はあるから、誰よりも仕事は出来るがよ。けどコミュニケーション取れないのは駄目だよやっぱり。連絡も取れないどころか挨拶すらしねえ」

「全然喋らないですからねあいつ。5年も同じ職場にいますけど、名前以外、あいつのこと何も知りませんもの」

「怒られてる時も呑んでる時も常に無表情。いったい何のために人生を生きてんだが」

 

 日頃の阿田花の態度に、呆れ果てる同僚たちだった。

 

 やがて阿田花は社長からの命令通りに事を済ませると、定時だったため、退勤した。

 

 会社を出ると、近くの公園のベンチで一服する。

 

 制服を脱いで、私服になっている阿田花。

 上は薄手のシャツに、下はデニム。どちらも数年前に百貨店のセールで買った安物で、染みや火傷の跡などの傷がたくさん残っている。剃った形跡が見られない無精ひげからも、この男は他人の目などまったく気にしていないのが伝わってくる。

 

 夕方の公園。

 十一月なためまだ日が落ちるのは少し遅いらしく、夕焼けを背景に厚着の子供たちが砂場を駆け回っていた。

 

 その光景をボーと何の感慨もなく見つめながら、煙草を吸う阿田花。

 

「……」

 

 たった一言でも言えばよかった。

 

 さっき会社で先輩と揉めたことだ。

 

 荷物を運んでいて視界が悪かったため、ぶつかったことをどちらかが悪いとするなら手が空いていた先輩が悪い。しかし阿田花にも責任がないわけではなかった。

 

「すみません」と謝らずとまでいかなくても、「急いでる」と言うだけであそこまで激昂はしなかっただろう。

 

 反省する阿田花。

 

 けれど今まで似たような出来事がなかったわけじゃない。その度に反省はしたが、次の機会に活かすなんてことはしなかった。

 

「……」

 

 今年、三〇歳を迎える阿田花。

 

 七年前から今の運送会社に勤めている。出世の見込みはない。このまま続けていれば体力も落ちて、定年も迎えられずに退社する。

 運転免許証はあるが、習得した時から一度も運転したことがないため、ドライバーとして雇われるのも無理だ。頭を使う作業も苦手で、パソコンを使うことも出来ないため、事務としても無理だ。

 

 煙草を見つめる阿田花。

 

 昇って――消えていく煙の先。

 

 じっとそれを見続けた。

 

「……」

 

 やがて煙が消えたので、次の煙草を吸おうとする。

 

 視線を下ろす途中で、少年がひとり映った。

 

 ソフトから新品を抜こうとするが、ツルっと滑る。よく見たらまだパッケージに包まれていた。急いで開いて、新しい煙草を握った。

 

 吸おうと火を点けたところで、目の前に子供がいることに阿田花は気付いた。

 

「……」

 

 何でこんなところに? と思ったが、ボールか何かが転がって自分の足元にでも転がってきたのだろう。

 無視して煙草を吸い続けていれば、このまま用を済ませてどこかへ消えてくれる。

 

 阿田花は子供がいなくなるまで、動かないことにした。

 

「あの……」

「え?」

 

 しかし、子供はそこに立ったままだった。

 

 あまつさえ、話しかけてきた。

 

 驚いて、ポケットに入りかけだったソフトを落とした阿田花。

 拾おうとすると、

 

「どうぞ」

「……どうも」

 

 先に子供が拾って、阿田花に渡してくれた。

 

 渋々、受け取る阿田花。

 

 この子供は先程まで砂場にいた少年だ。知った顔ではない。なのに何故、自分に話しかけてきたのか。

 

 思惑が分からないこの初対面の少年の行動に、不気味さを感じていた。

 

「あの……阿田花勇造選手ですよね?」

「え? 選手?」

「ボクサーですよね? 不死身男(フランケンシュタイン)って呼ばれた」

「あっ!」

 

 少年の発言に、阿田花はベンチでひっくり返るほどびっくりする。

 

 心配する少年。

 

「大丈夫ですか!?」

「えっ、あっ、うん」

「よかった……でもその反応、やっぱり阿田花さんなんだ……こんなところで出会えるなんて夢にも思わなかった」

 

 歓喜で涙を浮かべているらしく、目をこする少年。

 

 もう否定することも出来なくなった。

 と、諦める阿田花だった。

 

 隣に座る少年。

 

 ベンチで二人は会話する。

 

「帰らなくていいのかい? 友達はみんな帰っちゃったけど」

「ぼく家がすぐ近くなので」

「あっ、そうなんだ……」

「……」

「……」

 

 話が続かない。

 

 思えばここ数年、プライベートでの会話など一切なかった。話題はあると思うけれど、切り出し方が分からない。

 

 悩む阿田花。

 

 隣へ顔を向けると、キラキラと瞳を輝かせている少年。自分が元プロボクサーだと認めてから、ずっとこうだ。

 

 短く整えられた髪に、中身が透けそうな青白い肌。寒がりなのか親が心配性なのか11月にしてはやけに厚着だった。

 

 阿田花が観察していると、少年の小さな唇が数回たわんだ。

 

「阿田花さんはどうしてこんなところに?」

「あっ……仕事帰りの一服だよ」

「煙草、吸うんですね。意外です」

「現役辞めてからね。別に吸わなくてもいいんだけど、仕事しないでいる間、他にすることもなくて」

「そうなんですか。なんだか大人ですね」

「そ、そう」

 

 とりあえず返事をする阿田花。

 

 阿田花が答えられないで黙り込んだり、気まずそうにしていると、少年から何か言ってくれる。

 そんな会話をしばらく続けた。

 

「しかし凄かったですよねリングでの阿田花さん!」

「そうかな?」

「そうですよ! 相手からどんなに強いパンチをもらっても耐えて、倒れることなく相手に向かっていく! 不死身男って渾名に相応しかったです!」

「別にフランケンシュタインはただの人造人間で不死身じゃないんだけどね……どっちかというとゾンビっていうか」

「え。じゃあなんでフランケンシュタインなんです?」

「……かっこいいから。トレーナーがそっちにしろって」

「そうだったんですか。でもどちらでも阿田花さんが凄かったことには変わりないことですよ」

「ありがとう」

 

 褒められたことに阿田花は礼をする。

 

 少年はさらに語ろうとしたが、ふいに何かに視線を囚われていた。

 

 視線の先には年配の女性。

 

 女性はふたりへ近づいてくると、声をかける。

 

「あんた。こんなところにいたの」

「お母さん……」

「もう暗いのにいつまでも帰ってこないし、砂場にもいなかったからどこに行っちゃったのかと思って」

 

 いつのまにか日は落ちて、夜になっていた。

 街灯の光が、阿田花たちを照らしていた。

 

 少年の母親らしき女性は、少年へ言った。

 

「もうご飯の時間だし、帰るわよ」

「……はい」

「あなたもすみませんね。うちの子に付き合ってもらっちゃって」

「いえ」

 

 阿田花が答えると、少年の母親はギョッと目を丸くした。

 

 阿田花の顔を凝視しながら、声を震わせる。

 

「あの……もしかして……ボクサーの阿田花選手ですか?」

「はい」

「やっぱり! ファンでした。試合は全部、観戦しました。サインももらったことあります。覚えてますか!?」

「あーそのー」

 

 急な興奮に、戸惑うしかない阿田花だった。

 

 勢いよく喋る少年の母親だが、腕時計に気付いて、少年を連れて阿田花から離れた。

 

「すみません。この子の面倒があるので、もう帰らせてもらいます」

「どうぞ」

「はい。今日はありがとうございました。この子も阿田花選手と話せて幸せだったと思います」

「うん!」

 

 心の底から嬉しそうに頷く少年。

 

 母親と手を繋ぎながら、阿田花へ振り返る。

 

「あの……明日もここにいますか?」

「ん? いるけど。会社の帰りはいつもここに寄るし」

 

 疑問符を浮かべながら、阿田花は言う。

 

 その答えに、少年は飛びっきりの笑顔になった。

 

 この日から、阿田花と少年は公園で会い続けた。

 

 阿田花が会社帰りに公園へ寄ると、先にベンチへ姿勢よく座っている少年。阿田花の存在に気付くと、瞳をキラキラとさせて隣の席を空けてくる。

 まるで飼い主を待ちわびていた犬が尻尾を振っているようだった。

 

「お仕事、大変なんですね」

「まあね」

「そういえばその恰好、寒くないんですか?」

「寒くはないかな。うん」

「凄い。やっぱりボクサーともなると、こんな冷たさにももろともしないんだ」

 

 少年と出会っていると、やがて少年自身のことも知っていく。

 歳は七つ。身長は一〇九センチで。阿田花の現役最後の年に産まれたはずなのになぜ阿田花のことを知っているのかは、少年の母が持っていたビデオが理由だった。カセットが変形するまで見たらしい。

 

 阿田花と少年がふたりでいる時にすることは会話だ。

 内容も様々で、ボクシングの時もあれば。

 

「トレーニング? 俺の場合だと最初に五キロぐらい走ってきて、次に縄跳び一〇ラウンド、その次に筋トレやって、シャドーを一〇ラウンド、サンドバッグを一〇ラウンド、ミット打ちを一〇ラウンド、パンチングボールやサンドバッグをやりながら空いた相手とマスを……」

「聞いてるだけで疲れてきますね」

「このうえで工事のバイトだ。当時はもう遊ぶ時間もなかったよ」

「あの栄光の影にそんな努力が……!」

 

 たわいない雑談だったりもする。

 

「へー好きな娘いるんだ」

「はい……」

「どんな娘?」

「えーと……そのー……かわいくて」

「かわいくて?」

「……恥ずかしい! これ以上は言えません!」

「えー! そこまで言ったんだから好きなところ全部言うくらいはしろよ! どんな娘だよー教えろよー」

「嫌ですー!」

 

 日増しに少年と仲良くなっていく阿田花。

 最初の無気力な状態も徐々に見なくなっていった。

 

 少年との出会いを繰り返していたある日のことだった。

 

 

 

 社内。

 

 阿田花が荷物を運んでいると、誰かの声がした。

 荷物をどかすと、会社の先輩が床に倒れていた。

 

「いたた……てめえ阿田花。また」

「すいませんでした!」

「また……」

 

 頭を下げて謝罪する阿田花。

 

 先輩は呆然とそれを見つめていた。

 

 阿田花は頭を起こすと、荷物の傍へ戻る。

 

「急いでるんで、もう行ってもいいですか?」

「あ、ああ。構わねえよ」

「もう二度としないように気を付けます」

 

 最後に反省した阿田花は、廊下の奥へ進んでいった。

 

 近くにいた同僚が、先輩と話す。

 

「最近、あいつ変わりましたね」

「ああ。普段あんまり話さねえのは変わらないけど、ちゃんと挨拶するようにもなったし、聞けば応じてくれる」

「表情も何だか明るくなりましたよね」

「……コレでも出来たんかな?」

「コレですか……まさか。でもあの人ももういい歳だし、もうそろそろ結婚しないとですかね」

「そうなったら、なんか飯でもおごってやるか。その代わり、式では逆にいいもの食わせてもらおう」

 

 小指を立てながらヒソヒソと楽しそうに話すふたりだった。

 

 会社が終わると、一目散に公園へ向かう阿田花。

 

 到着すると真っ先にベンチへ目線を送る。

 

 昨日までと同じ光景があった。

 

(……あれ?)

 

 小さな体を隠すくらいの大きさの雑誌を持っている少年。

 

 いつもと違う様子を感じる。

 

 阿田花は違和感の正体が分からないまま、今までと同じように顔を合わせる。

 

「やあ」

「……阿田花さん。こんばんは」

「こんばんは。その本は何だい?」

「あ、この本はですね……学校に置いてあった格闘技の雑誌です。今のボクシング界ってこうなってるんですよって話がしたくて」

 

 雑誌の表紙には『ボクシング特集』と書かれていた。

 

 ページをめくる少年。

 阿田花は体ごと被さるようにして、上からのぞき込む。

 

「ふーん。ちらほら知った顔もあるけど、知らないやつらばっかだな」

「そうなんですか」

 

 興味なさげに進んでいくページを眺める。

 

 ふいに、気になる文章を阿田花は発見した。

 

「『佐久真 伸介。日本タイトル返り咲き。世界への新たな一歩』」

 

 色黒の男が、ベルトを着けている写真が載っていた。

 

 男はナイフのように尖った目をしている。

 平均身長よりわずかに小さいが、素人目でも筋肉がしっかり付いてるのが分かるほど鍛えている。

 

「阿田花さんが最後に戦った人ですよね……」

「ああ。世界タイトルマッチの前哨戦の相手だ。勝って当たり前のかませ犬との試合――俺はそこで負けた。第一ラウンド開始数秒後に、たった一発のパンチ受けただけでリングに這いつくばって立ち上がれなかった」

 

 悲哀の籠った呟きをする阿田花。

 纏う雰囲気が、気温と同じくらいの寒さをおびる。

 

 少年は慰めるというよりは、単純な疑問を投げつけるように言った。

 

「何でこの試合で引退したんですか? 確かにランキングは奪われましたが、まだ年齢的にもリベンジ出来たのに」

「……ボクシングをする意味が分からなくなったからさ」

「嫌いになってしまったんですかボクシングを?」

「嫌いにはなってないかな」

「じゃあまだ好きなんですね?」

「いや。好きでもないかな」

「いったい、どっちなんです?」

「……分からないんだよ。何もかも分からないんだ」

 

 阿田花は首を左右へ振ることしかしなかった。

 

 風が吹く。枯葉が運ばれて、アスファルトの上の硬い土にぶつかりながら地面を転がっていく。

 時期が進んで、冬はいっそう深くなった。

 雨でも降れば、雪になってしまいそうな寒さだ。

 

 静かになっていることに、ようやく気付く阿田花。

 隣へ首を回す。

 

 少年が、ベンチに伏せていた。

 白い頬が丸く赤色に染まっている。息苦しそうだ。

 

「どうした?」

「……」

「おい。どうした!?」

 

 阿田花が何度声をかけても、少年は返事をしなかった。

 

 

 

 病院に、阿田花は来ていた。

 

 受付前のロビーにいると、少年の母親がやってきた。

 

「大丈夫でしたか!?」

「ええ。まだ命に別状はないようです」

「そうですか。よかった」

 

 ホっと息をつく阿田花。

 

 反対に、少年の母親は厳しい顔つきのままだった。

 

 少年の母親は、決意した声で言う。

 

「阿田花さん。実はあの子は――」

 

 少年のことを話す母親。

 

 聞き終えた阿田花は、驚きと悲しみが入り混じった表情になっていた。

 

「病気?」

「ええ。医者の話では、成功確率の少ない手術をしなければもう長くないようで」

「そんな状態で外に行かせていたのかあんたは?」

「担当の先生が言うには、あの子の手術を成功させるには精神状態が良好なことが一番なそうなんです。だからあの子が大好きだった阿田花さんのところに行くのも、止めませんでした」

 

 少年の母親は、話し続ける。

 

「初めてでした。あの子があんな元気そうなの。病院の治療も嫌がっていたのに、生きて阿田花さんにもっと会いたいからと積極的に受けるようになって。阿田花さんに会えば会うほど、元気が湧いてくるとも言っていて」

「……」

 

 少年の母親の前で、立ち尽くす阿田花。

 

 苦しそうに口を開く。

 

「あの子に、会わせてくれないか」

「はい。しばらく病院から出られませんし、これで最後になるでしょうから。こちらからもお願いします」

 

 少年の病室に案内される。

 

 ベッドの上で、点滴をうつ少年の姿がそこにはあった。

 

 ただでさえ細い腕が干からびたようになっており、頬がこけている。

 

 阿田花がベッドの側に立つと、少年は目を覚ました。

 

「……バレちゃいましたね」

「何で言わなかったんだ? もしかしたら俺が対応を間違えて、死んでいたかもしれないんだぞ」

「迷惑かけたくなかったので……普通の人として阿田花さんと話したかったから」

「馬鹿。病人だからって気にするかよ」

 

 阿田花がそう言うと、少年は笑った。

 

 幸せそうな笑顔だった。

 

 阿田花は目を反らさず、少年をじっと見つめる。

 

「手術どうなんだ?」

「分かんないです。でも、阿田花さんにいっぱい勇気をもらったんで。リングの上の阿田花さんみたいに、ぼくも病気に立ち向かいたいと思います」

 

 少年の手は震えていた。

 

 本当は怖いのだ。死ぬことが。失敗して、絶望に陥ることが。

 

 憧れの人を前にして、本心を隠そうとしているが、無意識の内に表に出てしまうほど恐怖してしまっている。

 

 ――これでは、足りない。

 

 阿田花は少年に背を向けた。

 

「お母さん。手術はいつですか?」

「半年後。だそうです」

「分かりました。では詳しい日時が決まったら連絡してください」

「阿田花さん。今日まで、ありがとうございました」

 

 感謝する少年。

 

 チラリと横目で見た後、阿田花は彼を指して言った。

 

「いいや。まだだ――飛びっきりの勇気をおまえに与えてやる」

 

 病室を出る阿田花。

 その横顔は、今までにないほど真剣な顔つきだ。外の寒さにも負けない熱量が体内から迸っている。

 

 

 

 

 

 半年後。手術の日の前日。

 

 後楽園スタジアムで、メインイベントの試合が開始した。

 

「赤コーナー! 日本ライト級チャンピオン――佐久真伸介!」

 

 会場が歓声に包まれる。

 

 ファンたちから歓迎の声を浴びながら、リングへの道を悠然と佐久真は進んでいく。

 

 リングに登ると、対戦相手の名前が伝えられる。

 

「青コーナー! あの男が今日、リングに帰ってきた。世界タイトル挑戦を目の前にして姿を消した伝説。かつてボクシング界を魅了したタフネス――阿田花勇造!」

 

 阿田花がボクシンググローブを嵌めて、ゲートから現れた。

 露になった上半身は現役時代と同様に引き締まっている。佐久真と比べても、決して見劣りはしていない。

 

 阿田花を見て、驚きと喜びの悲鳴があがる。中には、涙するものもいた。

 

 佐久真よりも大きな歓声の中、リングへ上がった。

 

 阿田花と佐久真――ふたりはリングの中心で対峙する。

 

「久しぶりですね。勇造さん」

「おう。元気にやってるみたいだな」

「ええおかげさまで。でもずっと頑張ってきたぼくより、数年ぶりに出てきたあなたのほうが相変わらず人気なようで妬けちゃいますよ」

「まあおまえの試合って正直つまらないからな。『塩キング』」

「あっ?」

 

 影で呼ばれている渾名を出されて、頭にきた佐久真。

 

 額をこすりつけるくらい顔を近づけて威圧する。

 

「昔の試合前にも似たようなこと言ってましたよね? あんた」

「つまらねえものをつまらねえって言って何が悪いんだ?」

「敗者がリングの上でウダウダ言ってんじゃねえよ。下手糞野郎」

「今日はまだどっちが勝つか分からねえだろ?」

「引退したやつに誰が負けるかよ! エキシビションとはいえ、手抜きはなしだ! 七年前と同じ目に遭わせてやる!」

「そうこなくちゃ」

 

 怒鳴りつけた後、自分コーナーへ戻る佐久真だった。

 その様子を見て、阿田花はしたり顔になる。

 

(それでいい。昔みたいに本気のおまえを倒さきゃ意味がない)

 

 それからすぐに試合直前の進行も終わり、ゴングが鳴った。

 

 お互いにグローブを合わせてから、構える。

 

 阿田花は前傾姿勢のクラウチングスタイル。佐久真はオーソドックスのボクサーファイタースタイル。

 

(映像で見た通り、昔からとまったく変わってない……ならばこの次の動きは)

 

 佐久真は基本にいやというほど忠実だ。セオリー通りの行動しか、この男はしない。

 それは勝っても負けても変わらない。故に佐久真の試合は全てつまらないと言われている。塩試合だけの王者だから、『塩キング』。

 

 シュッ。シュッ。

 

 風を切る左ジャブ二発。予想通りの動き。

 阿田花は、一発目はもらわず、二発目を右拳でブロック。

 

 左足に体重をかける佐久真。

 

(これも予想通り。右スト――)

 

 グチャリ!

 

 佐久真の右ストレートが、阿田花の顔面に直撃した。

 パンチのあまりの鋭さに、ガードした腕をすり抜けたのだ。

 

 パチンコ玉のように頭を吹っ飛ばされ、阿田花は思わずたたらを踏む。

 

 ロープにぶつかってようやく止まると、既に佐久真が接近していた。

 

「舐めんなよ!」

 

 阿田花は、右の振り打ちで反撃した。

 

「ぶぼっ!」

 

 変則的な軌道を難なく見切り、逆に左ショートフックでカウンターを食らわせる佐久真。

 

 脳震盪が起きて、阿田花は倒れかかる。

 

(……はっ! まだだ!)

 

 途中で覚醒して、踏ん張る。

 

 大きな風切り音がすぐに耳に入った。

 横を覗くと、赤いグローブが目前まで迫ってきていた。

 

「うお!」

 

 追突直前で、佐久真の左ロングアッパーのブロッキングに阿田花は成功する。

 

 しかし勢いを減衰しきれず、コーナーに叩きつけられる。

 

 狙い通りとでもいうように、ニヤケ面で佐久真は脱出路を阻むように追い詰めていく。

 

 逃れるためには迎撃しかないが、普通にやっただけではおそらくさっきと結果は同じだ。

 

(相打ち……!)

 

 パンチを放っている間なら、佐久真も他の動きを取れない。

 

 阿田花は、タイミングを読んで、拳を握った。

 

(大振りの右フック。調子に乗ったな佐久真!)

 

 左ストレートを打つ阿田花。直線的な軌道は、曲線よりも速く届く。

 

 左拳が空を切った。

 

 佐久真の右フックはフェイントだった。態勢を屈めて避け、そこからボディブローを見舞いした。

 

 鍛えられない内臓への衝撃で、阿田花の呼吸が止まった。

 

 腕が自然と落ちた。心が折れていなかろうが、体が勝手にしてしまう。

 

 ガラ空きの顔面に、右のオーバーハンドブローが襲いかかった。

 

「ごぼぁ!」

 

 顎が、鼻が、口が、目が潰される。コーナーマットに後頭部が触れていたため、衝撃は逃げることなく、爆発するように与えられた。

 

 コーナーから弾かれる阿田花。射線に合わせて、佐久真は拳を振るう。

 

 ズバン! ズバン! ズバン! ズバン!

 

 ピンボールのように阿田花はコーナーマットと佐久真の間を行き来する。

 

 通常ならレフェリーストップがかかるほどの打たれようだが、審判は沈黙している。興業のため、「よほど」のことがなければ試合を止めるなと言い渡されているからだ。

 

 阿田花もそのことは了承しているため、打たれている間も審判への反抗の意思を表すことはなかった。

 

 いや。そんなことする余裕すらなかったのか。

 

 ゴングが鳴った。第一ラウンド終了の合図だ。

 

 ラッシュから解き放たれた阿田花の状態は、まさに半殺しだった。石が皮膚の下に詰まっているのかと錯覚するほどボコボコに膨れ上がっている。元々の肌の色が分からないほど紫や青に染まってしまっている。

 よく見ると、胴のほうにもところどころ痣が出来ていた。

 

 倒れるように、自分コーナーに用意された椅子に座る。

 

「おい大丈夫か!? 勇造!」

 

 セコンドに手当てされる阿田花。

 

「……問題ないよ。トレーナー……でもまあ殴られているのがここじゃなかったら、途中で倒れて、戻ってこれなかったかも……」

「もしや怪我が悪化したか?」

「そっちはもう治った……七年もリングから遠ざかってたんだ……充分、休養はしたさ」

「そうか……でもだからといってこれは……」

 

 タオルを握るセコンド。

 

 サイレンが唸る。ゴング前の合図だ。

 

 阿田花は立ち上がり、リング中央に歩いていく。

 

「……ギブアップは絶対にやめてくれよ」

「分かっている」

 

 声をかけられて、セコンドはタオルから手を離した。

 

 ゴングが叩かれた。第二ラウンドが始まった。

 

 展開は第一ラウンドとまるっきり同じだった。

 ロープかまたはコーナーまで追い詰められて、連打される阿田花。

 

 反撃を仕掛けるものの、全て逆手に取られる。

 

 佐久真は日本王者止まりの男だ。七年前、阿田花を倒して世界ランカーになってチャンピオンに挑んだが惨敗。その後も他の世界ランカーと対決したが、これといった勝ち星も無かった。

 

 原因は、佐久真自身の地力が足らないことだった。

 基本通りというのは確かに強いが、勝つには相手の思惑の裏をかくのが大事なのだ。

 佐久真には、それは出来なかった。

 

 されど、こと今回の対決となってはそこが最も脅威な部分だった。

 力、技の冴え、経験。

 ボクシングに関わる能力全てで相手を上回っている場合において、基本というのはどんな変則がこようと容易に踏みにじれる。

 

 阿田花の小細工を、正面から佐久真は潰していく。

 

 第三ラウンド、第四ラウンド、そして第五~第七ラウンドと似たような試合展開が続いた。

 

 インターバルに入って、休む阿田花。

 上半身のほとんどが怪我をしていて、もはや人間の形を成していなかった。なぜ生きているのかも不思議なくらいだ。

 

 公開処刑のような試合展開に、思わず観客も静まっていた。

 

「……」

「おい! おい!」

「……」

 

 呼びかけに反応すらしなくなった。

 ただ息をしているだけだ。

 

 審判もさすがに止めようと考え始める。

 

 サイレンが聞こえる。

 

 即座に立つ阿田花。

 

 元気が残っていると見て、とりあえず審判は心の中に留めることにした。

 

「ファイト!」

 

 最終ラウンドが開始した。

 

 佐久真はステップを刻んでからの左ジャブ。対抗するように同じ技を打つ阿田花。

 

 先に当たったのは、佐久真の拳だった。

 

 ジャブ一回で弾け飛ぶ阿田花。当然、佐久真は追う。

 

 射程距離に入れてからの右ストレート。

 踏みとどまった阿田花も右ストレートを放つ。

 

 拳で阿田花の顔が潰される。自分が踏み込んだ勢いも加算されて、佐久真の拳のダメージは倍増していた。

 

 血だらけの顔面。血で血を洗っている。

 

 それでも倒れない。阿田花はこの試合で、一度として倒れなかった。

 

 佐久真は追撃する。それに合わせて、阿田花も拳を放った。

 

 ――今度は、同時に当たった。

 

 驚く佐久真。効いたというよりは、純粋な驚愕。

 

(おいおい。こいつはずっと殴られてんだぞ。倒れないことにもびっくりなのに、そのうえ相打ちで当てただと)

 

 有り得ない。偶然だ。

 否定の思いを拳に込めて、殴りにいく。

 

 左フック。

 

 弧を描く拳が、阿田花と佐久真どっちにも入った。

 

 佐久真はすぐに次のパンチ――右ストレートのモーションに移る。もはやフェイントはなかった。止めを邪魔されたことに怒ったというよりも、押せば倒れるはずだったからだ。

 

 赤いグローブが、阿田花の視界を埋め尽くした。

 

(死ぬのかな。俺。なんか昔のことが頭に思い浮かんできやがる)

 

 診察室で、医者と話している当時の俺とトレーナー。

 

『無痛症?』

『ええ。それが原因で見えない傷や疲労が蓄積し、今回の試合で爆発したのです。たった一撃で倒れたのはそういうことです』

『なるほどな』

『無痛症は運動麻痺を伴わない病気です。通常は痛みを感じないぐらいの病気で、定期的な検診に来てほしいくらいだけなのですが……しかし阿田花さんの場合、それだけじゃなくもっと重度な症状を抱えています』

『え?』

『おそらくですが、阿田花さんは痛みどころか他にも温度や味や匂いを感じたこともないでしょう』

『どういうことだよ?』

 

 俺は信じられず喚いた。今からしてみれば、初めて負けた悔しさからの八つ当たりもあったかもしれない。

 

 トレーナーが俺を落ち着かせると、医者は飴を一粒ずつ俺たちに渡してくれた。

 

『舐めてください』

 

 俺とトレーナーは飴を口の中に放り込んだ。平然と普通の飴だと思い込んで舐め続ける俺に対して、隣のトレーナーは怪訝な顔をした。

 思えば、ここで気付くべきだった。

 

『どういう味ですか? 阿田花さんから答えてください』

『甘いイチゴ味に決まってんだろ。赤い飴なんだから』

『……おい。何言ってるんだ勇造……これ……しょっぱいだろ?』

 

 渡された飴は、着色した塩を固めて飴玉に似せたものだ。

 

 俺は、これまで俺が感じていたもの全てが虚構だと知った。

 

 その次の日から、家族から離れ、結婚直前だった婚約者とも別れた。彼らと一緒に食べた料理も、彼らから感じた暖かさも、彼らとの思い出も全て俺の作った幻想にしか過ぎなかったからだ。

 

 当然、ボクシングも引退せざるをえず、ジム内のつてを頼って自分を知らなそうな都会から遠い今の会社へ就職させてもらった。

 

 そこで半年前まで、何も感じない生活を過ごしていた。

 

 ――猛速度で突っ込んでくる右拳。

 

 阿田花は拳へ、踏み込んだ。

 

 破壊される肉体。その間に、自分の拳を相手へ届かせる。

 

 相打ちになった。

 

 試合開始から、始めて後退する佐久真。

 

 今の阿田花の姿に、思わず言葉を漏らす。

 

不死身男(フランケンシュタイン)……」

 

 恐怖に背筋が凍る。

 この男は本当に人間なのか? 本当に昔、自分の一発でのされたあの雑魚と同一人物なのか?

 

 佐久真が帯びている間にも、阿田花は退くことなく突っ込む。

 

 体に染みついた動きで、カウンターを合わせる佐久真。

 

 そのパンチと相打ちする阿田花のパンチ。

 

(あの少年から、俺は暖かさを感じた)

 

 この先触れるものもすべからく偽物だと思って諦めていた人生。生きる意味を見失っていた。

 

 そんな俺に、少年は人の暖かさを教えてくれた。

 

 それは肌で感じられるものではない。目にも見えない。具体的にどこにあるかも分からない。

 

 だけど、少年との間に確実にあったもの。

 

 俺が不貞腐れて気付かなかったもの。家族との間にも、かつての恋人との間にも、友人との間にもあったはずのもの。

 

 そして、ボクシングとの間にもあったもの。

 

 やっぱり俺は、ボクシングが好きだ。

 

 少年は、俺にそれを教えてくれた。

 

(だから俺は交換で、彼に勇気をあげなければならない)

 

 少年の心に勇気が湧くならば、俺は死んでもいい。

 

 いや。実際に死んではならない。死んでしまったら、病気に打ち勝つための勇気にはならない。

 

 でも、こうも願っている。

 

 ――神様。俺の命を生贄に、あの子の命を救ってください。

 

「うぉおおお!」

「ひぃいいい!」

 

 雄たけびと悲鳴。

 相打ちの連続。

 何度も同時に交差する赤と青の拳。

 

 やがて、赤い拳がワンテンポ遅くなった。

 

 阿田花のパンチが続けざまに入っていく。

 

 コーナーに追い詰めて左右の連打。本当に怪我をしているのかと観客が思うほどのクレバーなコンビネーション。

 

 左フック。右フック。レバーブロー。右フック。左フック。右フック。

 

 返しのロングフックをもらって、倒れる佐久真。

 

 テンカウントが始まるが、起きる様子はない。

 

「……(ナイン)……(テン)! 勝者――」

 

 阿田花の名前が告げられる。

 

 拳を掲げる阿田花。絶句していたはずの観客が一斉に湧きあがった。

 

(少年よ。君に勇気を――いつか未来で、また会おう)

 

 声援の中心で、阿田花は明日の手術を控えるひとりの少年の姿を思い浮かべた。



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