また君と、今度はずっと 〜If you can Cross to tomorrow〜 作:Simca Ⅴ
それは2001年6月頃のことだった。
日高大洋牧場の厩務員の休憩所には、デカデカと、
『うまぴょい!!』
と誰かが習字で書き殴ったような和紙が額縁に入れて飾られていた。
ご丁寧に蹄鉄で踏んだ跡もついていた。
そんなことはさておき。
この日、馬房には来客がいた。
「ホッパーくーん」
美鶴がそう声を掛けると、馬房にいた仔馬が駆け寄ってきた。
馬体は栗毛、しかし、立髪と尻尾は白毛、いわゆる「尾花栗毛」と呼ばれる毛色をしていた。
「ぶも?ヒンヒンッ!」
「あはは、くすぐったい」
ホッパーくん。
そう呼ばれている尾花栗毛のこの仔馬は、何を隠そう、クロスクロウの初産駒であり、オースミキャンディの息子である。
そして、将来的には美鶴の乗馬用の馬になる予定。
月一回は美鶴もここを訪れているためか、ホッパーも美鶴によく懐いていた。
「どうですか?ホッパーは」
「いやぁ、中々ですよあの子。でも本当にいいんですか? 競走馬になれる素質もあるのに」
「……いや、いいんです。あの子の父親にはかなり無理をさせてしまいましたから」
「あぁ……」
娘と仔馬の戯れを見ていた雄馬と牧場長はそんな会話をした。
彼ら3人の中では、ホッパーと毎日のように顔を会わせているのは牧場長を置いて他にいない。
ある日。ホッパーの調子をよく見て観察している牧場長はこんなことを呟いた。
「まるでスペシャルウィークの幼駒時代を思い出すなぁ」
と。
そうは言っても、スペシャルウィークの時とは大きく状況が異なるが。
まずスペシャルウィークの時は母馬が出産後に亡くなってしまっていて、それからは当時大洋牧場で厩務員として働いていたニュージーランド人女性のティナさんが面倒を見て育ててくれた。
それに対して、ホッパーの場合。母馬であるオースミキャンディにベッタリくっ付いて離れないこともある。また、父馬のクロスクロウか、母方の伯父であるスペシャルウィークが種付けから戻ってくると、決まって「遊んで遊んで〜!」とせがむように、ぴょんぴょんとよく跳ねる。
その反動故か、私以外の厩務員にはあまり懐いていない感じがする。あるいは(一応名義上は父の雄馬氏が握っているものの)馬主である美鶴ちゃんが遊びに来ると、母や父や叔父たちにせがんだ時と同じように「遊んで!」とせっついてよく跳ねてくる。きっとホッパーにとっては美鶴ちゃんは、「自分とよく遊んでくれる親戚のお姉ちゃん」みたいな感覚なのかもしれない。
そう。私がホッパーにスペシャルウィークにも負けず劣らない才能を感じるのは、その跳躍力だ。
これは牧場内のスタッフだけしかまだ知らないことだが、実は一度、ホッパーは放牧中に脱柵している。
ちょうど一ヶ月前、5月の話だ。
牧柵を壊したような形跡はなく、どうやって出て行ったのか。
ホッパーの脱柵の瞬間は誰も見ていなかったが、連れ戻すための追いかけっこになったことは言うまでもない。
なお、この時は同じ放牧地に母馬のオースミキャンディがいたのだが、そんな彼女、食事中にも関わらずホッパーが脱柵して放牧地の外を走り回ってる姿を見て唖然としていたような様子だった。他の馬たちも驚いていたようだった。
実は4月1日に宮崎氏が「クロスクロウとホッパーのために牧場買うぞ」と。一見するとエイプリルフールの冗談のような宣言をしていたが、目を見たら本気だった。なので、ホッパーをうちが預かるのは一時的であるのだが、その間に怪我されたり行方不明になったりしたら最悪だ。
手を焼くような事態が発生した。
しかし、跳躍力もそうだが、ホッパーが競走馬になれる素質はまだまだあることに私は気付いた。
親たちと頻繁に併走していたためか、脱柵してからはとにかく足が速かった!
気付くのがあと数秒早ければ追いついて頭絡を握れたかもしれないが、その僅かな差で逃げられてしまった。
ちなみに。頭絡や鞍を付けようとすると普通の馬なら初めての時は暴れるものだ。
だが、それは4月1日の出来事であり、宮崎氏だけでなくクロスクロウと美鶴ちゃんがいたためなのか、スペシャルウィークの時よりも遥かにスムーズに頭絡も鞍も付けられた。
生まれて四ヶ月も経っていれば、中学生の女の子を乗せられるぐらいの体格にはなる。だが、ホッパーの場合は、より体がガッシリしていて鍛えられているような印象を受けた。
そして、極め付けは、賢さだ。
我々が必死で追いかけっこをしてバテバテになった後。我々の元に戻ってきたホッパーは、だいぶ申し訳なさそうな顔をして嘶いた。
ようやく大人しくなった。と思ったが、柵にある程度近づいたら、ホッパーはその場で動かなくなった。
押しても引いてもダメ。
しかし、その時だ。
『道を開けて』
?
誰がそう言ったのかはわからなかった。
だが、ホッパーと追いかけっこして疲労困憊な私たちは、とりあえずホッパーを押したり引いたりするのはやめた。
すると、ホッパーは私に向かって嘶いた。
まるで、
『見ていて』
と言わんばかりに。
そのまま、柵に向かって猛ダッシュし、ジャンプ。
気付けば、ホッパーは牧柵を飛び越えて、放牧地に着地して戻っていたのだ。
その後、ホッパーが母馬のオースミキャンディのところへ行くと、オースミキャンディが大きく嘶き、ホッパーは見るからにションボリしていた。
まるで、
『コーラーァッ!!』
と、怒られているかのようだった。
「……ということが、先月起きまして」
「え?」
「そうか……」
少々気が重かったが、ホッパーが脱柵したことを宮崎氏と美鶴ちゃんに報告した。
しかし、脱柵した時にホッパーが見せたあの跳躍力や、父親から受け継いだらしき賢さの片鱗、足腰の強さや体格の伸びしろ。
どれをとっても競走馬にしないのは勿体無いとも思った。
とりあえずは、ありのままを全て宮崎親娘に報告してみると、娘の美鶴ちゃんは驚いていた。これが普通の反応だろう。
それに対して宮崎氏は達観しているような、「当然だろう」と言いたげに納得した顔をしていた。
全てを聞いた上で、宮崎氏は改めて言った。
「……それでもホッパーは乗馬用として暫く管理をお願いしたい」
「え?本当に?」
やはり宮崎氏の考えは変わらないらしい。しかし、何故?
父馬はジュニア期に朝日杯を怪物グラスワンダー相手に勝ち、クラシック三冠では皐月賞でセイウンスカイを下している。
日本ダービーではスペシャルウィークに一歩及ばず、菊花賞は未出走。
その後に迎えたジャパンカップではエルコンドルパサーと激闘を繰り広げた上で勝利していた。
そして大金星として、イギリスのキングジョージステークスを日本馬として初勝利していた。
98年秋の天皇賞でサイレンススズカを予後不良から救った、という俄には信じ難い伝説も生んだ。それらがホッパーの父馬クロスクロウの戦績。
そもそも、持ち馬を競走馬にするか否かは馬主が判断する事。故に牧場長の私が口出しするのは烏滸がましいことは重々承知していた。
でも、ホッパーなら、父クロスクロウを超えられる自信すら私にはあった。
すると宮崎氏は、ポツポツと、理由を語ってくれた。
「……あの子の父親は、私からすれば返しきれない恩をたくさんくれた。それ故にあの馬がどこまで出来るか試した。でも、その結果はどうなった?」
「キングジョージステークスを日本馬として初めて制覇しましたね」
「その代償として走れなくなった」
そこまで言われると、宮崎氏の考えが理解できた。
自分の持ち馬を潰れさせてしまったことへの負い目と、申し訳なさ。
「クロスクロウにはなるべく産駒を残させたい。きっとその産駒たちは他のオーナーたちの下で活躍するでしょう。でも、私たちの持ち馬には、父馬のような無茶はさせたくないんです」
「……わかりました」
そこまで言われると、諦めるしかなかった───。
───そしてあれから既に数ヶ月経ったが、ここ最近、特に9月から10月は私たちにとって悲しい出来事が相次いだ。
まず、美鶴ちゃんのご家族、それも宮崎雄馬氏に降り掛かった悲しい出来事が伝わってきた。
それを追うようにして、クロスクロウも亡くなった。
10月に入り、美鶴ちゃんが彼女のお母さんと、宮崎氏の秘書さんを伴って牧場を訪れた時。なんと声を掛ければ良いのかわからなかった。
「牧場長さん、奥様……」
最後に会った時の笑顔からは打って変わって、悲痛な面持ちの美鶴ちゃんが会って早々、私たちに声を掛けてきた。
彼女のすぐ後ろには、片や20代後半から30代前半の、見るからにやり手の女性秘書と、美鶴ちゃんの母親らしき女性が立っていた。
「美鶴ちゃん、と大川さん、と……」
「初めまして。美鶴の母の揚羽 梓と申します」
「これはこれは……お電話口ではお話しさせていただきましたが、ようやく顔を合わせられて、こちらとしてはホッとしています」
牧場長と彼の妻は、梓と大川らと握手をした。牧場長は言葉を選びつつ、雄馬の死を悼んだ。
「……そのなんというか……雄馬さんのことは残念でしたね……」
「えぇ……クロスクロウも亡くなったとお聞きしました」
「牧場長さん。ホッパーくんはどうですか?」
「目に見えて落ち込んでいます……オースミキャンディも」
「……会わせてくれませんか?」
「そうですね……わかりました」
そうしてホッパーのいる馬房に案内される美鶴。
だが、すぐに美鶴は気付く。
「え?ここは確か……」
「美鶴、どうしたの?」
「ここ、クロスのいた馬房だ……」
そして、彼女の目の前には、寝藁に頭を突っ込んでる状態の栗毛の仔馬がいた。
完全にお尻丸見えというのがどうにもカッコがつかない感じもする。
「ホッパーくん?」
美鶴からの呼びかけを聞き、ホッパーはまるで潜望鏡のように寝藁から頭を出し、周囲を見渡して、美鶴の姿を見つけるや否や、寝藁を飛び出して美鶴の元へとダッシュしてきた。
「……良かった」
牧場長はホッと一安心した。
クロスクロウが亡くなってからというもの、放牧しようにも興味を示さなかった。
あれは三日前。
いよいよクロスクロウの馬房の片付けをしようとした時だ。
いつもは大人しいホッパーが馬房の中で暴れていた。
……オースミキャンディから親離れしていて良かった。でないとホッパーかキャンディのどちらかが怪我をしていたかもしれない。
あまりにも五月蝿いので馬房を覗こうとしたら……あの時は驚いた。
ところで馬房のドアというのは外側に錠前なしの閂か塗ラッチがあるだけの実に簡素なものだ。
実は一時期、オースミキャンディやメジロウェイデンなどの牝馬数頭がこの馬房の閂を勝手にこじ開けて脱走する事態に牧場長たちは悩まされた。
もちろん、対策を施すつもりではいた。だが、当時、オースミキャンディたちは繁殖牝馬用の厩舎を襲った火災から難を逃れたばかりだった。
最初、彼らには規則性が掴めなかったが、彼女たちの脱走は厩務員がいなくなると起きていた。
それでも厩舎の外に出て行くことは無く、翌日、同じ馬房に牝馬が二頭か三頭一緒に収まっていることが多かった。
ただそれも、彼女たちが元々いた繁殖牝馬用の厩舎が焼けてしまった直後から3、4ヶ月もすれば収まっていたため、特段対策をして来ずに今に至る。
……今更ながら牧場長は思う。一体誰があんなことを仕込んだのだろうか?
つまりだ。
ホッパーは彼の母と同じく馬房の塗ラッチを自分でこじ開けると、厩務員がドアを開けっぱなしにしていたクロスクロウの馬房に入ってきて、そのまま居座ってしまった。それが三日ほど前からの話。いくら馬房から出そうとしても頑なにクロスクロウが使っていた寝藁から動こうとしなかった。
普段は厩務員や牧場長の言うことをちゃんと聞く優等生───時々奇行を見せたり、脱柵したりと悩まされることもあるが、基本的には人懐っこく、食事の好き嫌いもなければ、父のクロスクロウと同じく
いつも馬か人か。同じ牧場に暮らしている誰かを見掛ければ、元気良く「遊んで!」とせがんでくる。
……それがこの数日間のホッパーときたら。普段の元気印が見る影もなく、やつれていて、食欲も無さそうな有様だった。
話は長くなったが、落ち込んでいる様子だったホッパーも、美鶴ちゃんがやってきたのを見て元気を取り戻したようだった。
「……ねぇ、お母さん。もう少し、ホッパーと一緒にいてもいい?」
「……えぇ。いいわ。牧場長。電話でお話ししていた件についてですが」
「あ、あぁ、はい。こちらへ……」
牧場長が梓と大川を事務室に連れて行く最中でも、美鶴は、ホッパーにじっと寄り添っていた。
事務室に案内された梓と大川は、牧場長に勧められてソファーに腰掛けた。
早速、本題に入る。
「……それで、電話でもお聞きしましたが、本当に?」
「えぇ。美鶴の希望なんです」
「お嬢様によると、牧場長はあのホッパーというクロスクロウの産駒に競走馬としての素質を感じたとお聞きしました」
「はい。ですがあの時は宮崎さん……雄馬氏のことですが。宮崎雄馬氏からは「競走馬にしなくていい」と断りを入れられました。美鶴さんもそれでいいとおっしゃってました」
「えぇ。ですが、気が変わったみたいです」
「お嬢様には同じ質問を多分……私たちはここ数日で5、6回?はしていたと思います」
「娘の決意は変わりませんでした」
「そうですか……」
自ら言い出したことではあったが、まさか本当にホッパーを競走馬にする日が来るなど牧場長としては思いもよらないことだった。
もしこれが、ホッパーに競走馬としての素質が垣間見えた時にすぐの決断であれば一も二もなく賛成していたところだったのだが。
「そうなると、レースのために馴致を急いで終わらせねばなりません」
競走馬というのは、生まれてある程度体が出来てきたら、馴致をする必要がある。馴致とは、例えば、馬の口にハミや頭絡を付けたり*1、厩務員による曳き運動や乗り運動、馬同士の併走や追い運動などなど、馬に対する様々な訓練の総称を言う*2。そして、大抵の馬は1歳を迎えるまでには馴致を行なっている*3。馬というのは生産牧場からセリに出される頃には生後12〜18ヶ月以上が経過している場合がほとんどであり、特にセリの場で馬が暴れることがないよう調教する必要があるため、馴致という作業は遅かれ早かれ行なわなければならないのだ。
「……通常、馬たちは2月から7月の間が繁殖シーズンであり、それから約11ヶ月後に生まれる。これは基礎知識としてご存知ですね?」
牧場長は確認するかのように梓と大川に尋ねると、二人は頷いた。
「しかし、ホッパーの生まれは10月です。そして、皐月賞は4月後半、日本ダービーは5月後半。常識的に考えてもレースの日程はどうやっても動かせません。つまり、通常の
裏を返せば、ホッパー以外の競走馬たちとはどんなに頑張っても肉体上で3ヶ月の遅れが響きやすく、その時間の分だけ調教とトレーニングに充てられる時間が短くなり、デビュー戦で不利になりやすい、ということだ。
なおここで言う馴致には様々なことが含まれる。
まず基本となるのは人を乗せて走る訓練、騎手との折り合い、ゲート訓練、その他調教に伴う食事管理による馬体の仕上げ。
それら全てをクリアした上でジュニア期(2歳時)にデビュー戦へ出走させて勝利しなければ皐月賞はおろか、それに挑むためのG3やG2のステップレースにすら挑めなくなるのだ。
さらにこんな遅生まれに、より輪をかけたような馬を調教出来るような厩舎があるかどうか。引き受けてもらえる場所が無ければもはやどうしようもなくなる。
ただし、
「幸いなのはホッパーはハミや頭絡を嫌がらず、曳き運動や乗り運動にも全く抵抗しないどころか聞き分けもよく従順で、これまで馴致で手掛けた馬の中では最速とも言えるスピードで課題を次々にクリアできていることです。とはいえ、競走馬として走らせるにはクリアしなければならないハードルはまだまだあります。……それでも挑みますか?」
これは牧場長にとっての最終確認だった。
唯一心配しているのは、ホッパーが母馬や、叔父であるスペシャルウィークの元から離れたがらないことだ。だが、それさえクリア出来れば送り出すことに不安はなかった。
そして、揚羽 梓と大川は頷いた。
梓はこう言った。
「……娘は、ホッパーが落ち込んでいるのを心配していました。あの子自身も父親を喪って落ち込んでいましたし……娘に言われたんです。『お父さんが目の前で亡くなったホッパーは私より辛い思いをしているはず。だから、少しでも気を紛らわせられるなら走らせてあげて欲しい』って」
そこまで言ってから一呼吸置き、さらにこう語った。
「もちろん、私はこう言いました。『なら、わざわざホッパーを競走馬にする必要がない』、『怪我をするリスクを考えたら乗馬用として余生を過ごさせるだけでも充分じゃないか』って。でも娘は、『月一回だけの乗馬ではホッパーくんの気が晴れないと思う。私だってそうだから』って。あの子の決意は硬い様子でした。ホッパーが酷く落ち込んでいる様子なのは先ほど見ましたし、牧場長やスタッフの方々は私たちが実際に見るよりも前から見ていたはずです。そうでしょう?」
まるでホッパーが人間のような考え方や行動パターンをしているであろうことを、梓が馬房に残してきた美鶴が話していたことを持ち出して牧場長に指摘した。
普通なら的外れだと言うところだが、ホッパーはあのクロスクロウの息子だ。こればっかりは皮肉にも当たっているような気がした。
「……そうですね」
牧場長はそう肯定した上で、
「……あれほど人間臭い馬は初めてかもしれません。いや、クロスクロウに次いで二頭目と言うべきでしょうか。それにスペシャルウィークもクロスクロウの影響を強く受けていましたからね」
「ん? 何故スペシャルウィークの話がここで?」
「ご存知ないのですか?」
牧場長は目を見開き、目頭を押さえて天を仰いだ。
梓も大川もそのリアクションに怪訝な顔をする。
次に牧場長が語ったことは、俄には信じられない話だった。
「1998年の有馬記念はご存知ですか?」
梓は首を横に振り、大川は首を縦に振った。
……事情を知らない梓のために牧場長は詳しく話すことにした。
「あの年の有馬記念を制したのはグラスワンダーという牡馬でした。その馬ですが……何というべきでしょうか。クロスクロウとスペシャルウィークにとっては、まるで親友や仲間のような存在に思えました」
「あの……どういうことですか?」
牧場長の表現には曖昧な箇所があることに梓は気付く。
馬同士で親友や仲間になるものだろうか?
話を聞いてた限りだと、クロスクロウはそのスペシャルウィークという馬と、この牧場で一緒に過ごしていたというではないか。それなら仲間意識が芽生えても不思議ではない。しかし、グラスワンダーというと、ワンダーアゲインの実兄だったはず。レースで競ったことは聞いているが、それ以上にクロスクロウとどんな繋がりがあったというのだろうか?
「その……グラスワンダーとスペシャルウィーク、それにクロスクロウは、ノーザンファーム空港牧場というところで一緒に馴致を受けていたと私は聞いています。三頭が揃って同じレースに出たことはないものの、クロスクロウ、スペシャルウィーク、それにグラスワンダーの三頭の間には、一言では語り尽くせないような複雑な関係があったように思えます」
「複雑な関係、とは?」
確かに聞けば聞くほどクロスクロウがいかに人間臭い馬だったのかがわかる。
しかし、「複雑な関係」とはどういうことだろうか?
「これから話すことは事実です。一部、私の記憶違いも含まれるかもしれませんが……」
牧場長はそう前置きした上で、こんなことを言った。
「……1998年の12月、クロスクロウとスペシャルウィークはこの牧場へと療養に来ていたんです。そして年末に差し掛かった時のことですが、二頭は何故かテレビを気にしていたんです」
「「?」」
こればかりは梓だけでなく大川もはてなマークを頭に浮かべた。
「確かあの時は……クロスクロウとスペシャルウィークの調教師をしていた臼井さんという方と、クロスクロウの主戦騎手を当時勤めていた生沿さんという方が一緒にここへ来ました。そして、テレビを気にしている様子の二頭を見て、生沿さんはこう言ったんです。『クロスクロウが有馬記念を見たがっている』と。……えぇ、わかってます。『お前は何を言っているんだ?』と言いたいのはわかります。実際あの時の私も、同じことを生沿さんに思っていましたから。とはいえ、別に『馬がテレビを見るぐらいなら……』と軽い気持ちで私たちはブラウン管テレビをコンセントのある馬房に持っていき、そこでスペシャルウィーク、そしてクロスクロウらと一緒に有馬記念を観戦したんです」
そうして牧場長が語った話、当然事実だというので梓と大川は互いに顔を合わせ目を見合わせて驚いた。いくら何でもそんな馬鹿なと言いたげに。
「……それって、本当に?」
「えぇ」
「……まるで、『ベイブ』っていう映画のワンシーンみたいなことを、あの二頭がやっていた、と?」
俄には信じ難かった。
「信じ難い気持ちはわかりますが事実です。馬房の藁の上に臨時で作ったテレビ台の上にブラウン管テレビを置き、そこに映った有馬記念を私や臼井さんは、スペシャルウィークとクロスクロウらと一緒に見たんです。1998年12月27日の午後2時から4時頃のことです。あの日のメインレースである有馬記念では、グラスワンダーが並み居る強豪たちを破り、快勝しましたが、クロスとスペはグラスが優勝した瞬間、まるで喜んでいるかのように嘶いていたんです」
1998年12月27日の午後2時から4時頃。
クロスクロウやスペシャルウィークたちがいた馬房にテレビが持ち込まれて、人と馬が集まり、レースを観戦していた。
牧場長はあえて話さなかったことが一つあった。
それは、グラスワンダーがゴール板を駆け抜けるまでの数秒間だけ、青いセーラー服のような服装に栗毛を靡かせた少女の姿に見えたこと。
そして、一緒に観戦していたはずのクロスクロウとスペシャルウィークら馬たちが、一瞬、馬の耳と尻尾の生えた女の子に見えたこと。
『グラスワンダー先頭!グラスワンダー先頭!!戦士の覇道を揺るがすべく今、怪物が蘇る!!メジロブライト上がって来たがしかしっ!グラスワンダーここに復活ッ!!3歳牡馬頂点を競った馬は、4歳でも強かったッッ!!!』
テレビから聞こえてきた実況の声でテレビに再び目をやると、先程見えた栗毛の少女の姿はなく、映像にはゴール板を駆け抜けたばかりの美しい栗毛の牡馬が映り込んでいるだけであった。
映像から一瞬目を離して周りを見ても、先ほど見た少女たちの姿はなく、いるのは芦毛と黒鹿毛の牡馬、その他、同じ馬房にいる馬たちだけだった。
あの日。馬房は人と馬による興奮と熱気に包まれていた───。
───しかし、その熱狂も既に過去のもの。
今の馬房には、泣き疲れて寝藁に伏せったホッパーを撫でている美鶴の姿があるのみだった。
「ねぇ。ホッパーくん。まだ起きてる?」
美鶴が優しく語りかけると、寝藁に体を預けていたホッパーがすっくと頭を上げてきた。
美鶴も浮かない顔をしているのを見てか、ホッパーは美鶴の顔を舐め回してきた。
「ふふっ、くすぐったいよ」
そんなホッパーの頭を撫でつつ、頬を充てて、耳元でこんなことを美鶴は呟いた。
「ホッパーくん……私、我儘を言うけど聞いてくれる?」
ホッパーはまるで「どうしたの?」と言わんばかりの顔をしていた、続けてこう言った。
「……もう一度。私に夢を見せて欲しい。君のお父さんが私に見せてくれた夢の続きを……」
美鶴自身、「私、何言っているんだろう」とは思っていた。
しかし、彼女が追い求めていた夢。その原点は、クロスクロウが走っている姿───サイレンススズカ、エルコンドルパサー、そしてグラスワンダーたちと競い合った1998年の毎日王冠のレースの光景から始まっていたのかもしれない。
心に刻まれたそれを美鶴は何度となくスローモーションで見ていた。
夢の中ではクロスクロウが走っている姿を見ていたら───いつの間にか今度は自分がクロスクロウの背中に跨っていた。しかも、昨日は、何故か騎手になってレースに出ている夢を見た。
でも現実に戻ってくると痛感させられる。
もうあの背中に跨ることは二度とできない。
一時の思い付きで乗せてもらったあの背中。
熱く、力強く、優しくて心強いあの背中はもう居ないんだ。
夢が覚めてすぐに感じるのは、虚無と喪失───それが一体いつまで続くのだろう?
そして、この虚無感は一体いつから始まったのか───父とクロスクロウが亡くなるよりずっと前からこの虚無感はあったような気がしてならなかった。
───つる、美鶴?
「……?」
次に気が付いたら、目の前には心配そうに自分を覗き込む母の姿があった。
「お母さん……?」
「美鶴、ダメよこんなところで寝てたら……」
「え?私……眠っていたの……?」
そうして起き上がると美鶴は自身の現状をようやく理解した。
美鶴はホッパーの首筋に抱きついたまま眠ってしまっていたようだった。
その肝心のホッパーはというと、美鶴に釣られて眠ってしまっていたようであり、彼女の目の前には、まるで優しく微笑んでいるかのような表情を浮かべて眠っていた。
「ホッパーくん……」
「さぁ、美鶴。今日は一旦帰りましょう?」
そうして母は手を差し伸べてくれたものの、
「……うぅん、ヤダ……」
「美鶴……」
「今はヤダ……ホッパーくんと一緒にいたい……」
「……はぁー……」
珍しく我儘を言う娘に、母・梓は頭を抱えて溜め息を吐いた───。
───時は流れ、2003年4月20日。
『続きまして、4枠8番。クロススキッパー。父は1998年の皐月賞馬クロスクロウですね』
『正真正銘、クロスクロウの初産駒。これまでのところ、朝日杯は2着に敗れていますが、その後G3のきさらぎ賞は1着。前走の弥生賞ではエイシンチャンプを破っての1着でしたね』
『そうですね。この馬の強みは、父親譲りの追い込みを受け継いでいるところ。しかし、他の馬たちに比べると生まれが遅かったためか、幾らか力不足にも見えます』
『6番人気なのはその辺りの懸念があるせいでしょうか?』
『えぇ恐らくは。でも、騎手はクロスクロウの鞍上も勤めたあの生沿健司ですからね』
『確かに。親子二代による皐月賞制覇は果たして実現するのでしょうか?続きましては5枠9番……』
小雨降りしきる中山競馬場。そのパドックでは尾花栗毛の牡馬がこれからの大一番を今か今かと待っていた───。
今作に望むものは?
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コメディ!
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シリアス……!
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スポ根!
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哀愁……
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ハッピーエンド!
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曇らせ、鬱展開……
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