マチカネフクキタルの体の中に入り込んだ死者の魂と一緒に、二泊三日の熱海旅行をして生と死について考える恋愛小説。
本作品はpixivにも投稿しています。
僕は十六歳になったばかりで、そのとき市営バスの後ろの二人掛けの席に一人で座っていた。外の雨が染み込んだようにじめじめとした室内のそのバスは、ヘッドライトを頼りに暗闇の中を進んでいる最中だった。日曜日の夜のちょうど八時くらいだった。
「ねえ、また来週に会わない?」
「勿論構わないさ」
僕は傘を差したガールフレンドの後ろ姿を見送ってから、バスに乗ったのだった。座席に座っている間、来週はどこへ行こうか、どんな服を着て行こうか、どんなことを話そうか、そんなことばかり考えていた。一週間の間に僕が考えるべきことは沢山あって、そしてそういうことに比べれば、大概のことはどうでもよかった。
彼女が死んだのは、僕と別れた三十分くらい後のことだった。大きな地震が起きて、建物が倒れ、津波まで襲ってくる大地震だった。後になって聞いた話によれば、彼女はその時倒れたビルの下敷きになっていたらしい。
〇
十年という月日が経った今でも、僕はその日のことを鮮明に思い出すことができる。ちょうどバスを降りた頃に地面が大きく揺れて、近くの喫茶店の看板や塀の上の鉢植えが振動に耐え切れず落ちた。パリンと、やけに甲高い音が耳鳴りのように反響していたのをよく覚えている。僕は家族の心配よりも彼女の心配が先立って、慌ててメールを送った。翌日になって帰ってきたのは、彼女の母親から彼女が死んだことを知らせる返信だった。
〇
目覚ましが鳴って、僕は朝の九時に起きた。カーテンを開けると勢いよく朝日が飛び込んでくるので、手でそれを遮る。僕の寝室が東を向いるからいつものことなのだけれど、今日はいつにも増して天気が良かった。八月の二回目の土曜日のことだった。太陽に当てられた僕は少し上機嫌になって、顔を洗ってから朝食を作り始めた。皿に卵を一つ落として、十分にかき混ぜてから玉子焼き機で筒状に丸めていく。甘く焦げた匂いがしてくる頃にはレンジで温めていたご飯に熱が回り、パックのまま納豆をかける。野菜室から取り出した適当な野菜を切って、皿に盛りつける。ドレッシングをかければ、大抵のものはサラダとみなされる。必要条件を満たした朝食だった。
テレビは相変わらず大したことを伝えてはいなかった。最近の流行りの服や音楽、誰が死んで誰が不貞を働いた、など。漠然とつまらないなあ、という感想を抱いてチャンネルを変えて、またすぐに変えてしまう。それじゃあ面白いテレビとは一体どんなことを伝えるテレビなんだと自問自答してみたが、少しの間考えて、答えは出なかった。
僕がスマホを手に取ると、珍しい人からメッセージが来ていたことを知らせる通知があった。昨年引退した、僕の初めての担当ウマ娘、マチカネフクキタルからのものだった。僕はびっくりした。彼女から連絡をよこしてきたことは、現役時代一度もなかったからだ。僕がスケジュールの確認を送ると、一日くらい遅れて「!」が二つも付いた返事が来る、というのが決まった流れだった。別にそれについては嫌われていた訳ではない、と思う。トレーニング後や休日によく出かけたし、バレンタインにチョコレートを貰った。走るのをやめてすっかり話す機会が少なくなってからも、律儀にチョコレートを渡しに来てくれるのだから、関係は良好だと言えるだろう。彼女とのそういうアクションは、全て実際に会って行っていた。つまり彼女はスマホをこまめにチェックするようなタイプではない、というだけのことだ。
メッセージを開いて、僕は驚きのあまりスマホを落としかけた。右手で握り込んで注視してみても、メッセージの内容が書き換わることは無かった。
「ねえ、会って話せない?」
二時間前に短く送られてきていたのは、まるでフクキタルの口調ではないものだった。敬語は外れていたし、別人が書いているようだった。僕はたったそれだけの文字に心臓を掴まれ、全身から汗が吹き出し、鳥肌が立って自然と口が開いた。そんな風にメッセージを送る人を知っていたからだ。風鈴を鳴らすような声でねえ、と呼び掛けて、楽しそうに語尾が半音上がる口調で喋る人を知っていたのだ。しかしあり得ないことだ、と頭を整理する。なぜなら僕の知っているその人は、僕のガールフレンドで、十年前に死んでいる。
〇
僕は驚きのあまり開いたままになった口を押さえながら、メッセージを返そうとした。手が震えて上手く文字が打てなかった。
「どういうこと?」聞きたいことはもっと沢山あったのだが、僕が今送ることができる精一杯の文字だった。長い文章を送るには僕の手は震えすぎていたし、何より物事は複雑に絡み合いすぎていた。
「とにかく会って話がしたいのよ。府中駅でいい?」
僕の中の疑いは確信に変わった。メッセージを送ってきているのは十年前に死んだ彼女だ。僕と彼女は何百通もメールのやり取りをした。彼女の書く言葉を見間違えるはずがないのだ。しかし確信を持てば持つほど疑問は大きくなる。彼女はとっくの昔に死んだのだ。文明の利器は便利になる一方だが、LINEに死者とやり取りができる機能まで追加されたとは聞いたことがない。訳の分からないまま、僕には府中駅に走ることしかできなかった。呼び出したのが彼女の幽霊でも悪霊でも、あるいは他の何かであろうと、とにかく僕は彼女ともう一度話がしたかったのだ。
「急いで行く」それだけ返信をした。既読はすぐに付いた。
〇
棚から一番手前にあった白い半袖のシャツと、床に放り出されたままになっていたベージュのズボンだけの簡素な洋装で、財布とスマホだけポケットに入れて家を出た。玄関に掛けてあった黒い上着を着るほど恰好に凝る余裕はなかったし、何かを羽織るには暑すぎた。家を出ると目を射るような日差しが差していて、僕はうんざりしながらも自転車を出して全速力で漕ぎ始めた。あまりに全力で漕いでいたから、駅に着く頃には足は筋肉が強張って攣りかけて、脇の辺りに汗が湿地のようにたまっていた。
駅前の駐輪場の空いたスペースに自転車を停め、詳細な場所を聞くためにLINEを開く。
「どこにいる?」と送ろうとすると、
「その必要は無いのよ」
不意に背後から声を掛けられて、僕は反射的に一歩後ずさりながら振り向いた。僕の真後ろで、フクキタルがそんな僕の様子を見て「可笑しい」と笑っていたのだ。
「……フクキタル?」僕は恐る恐る聞いた。
「はい、マチカネフクキタルです。なんて、冗談。ふふ、ねえ、久しぶり」いつもと違い降ろした髪で、おどけたように落ち着いて、フクキタルの声と容姿でそう話す。
彼女がマチカネフクキタルであることは疑いようのない事実だが、彼女を知る人物にとっては、彼女がマチカネフクキタルではないこともまた疑いようのない事実だった。
「ぽかんとして、そんなに不思議なの? 死んだ人と話すのは初めて?」と彼女は言った。
「信じられない」僕は震えた声でそう言った。「君は誰だ?」
「十年前に死んだ、貴方の彼女です」一歩身を引いて、僕の顔を悪戯っぽく覗き込む。その仕草も声の使い方も、何から何まで寸分のズレもなく彼女のものだった。理性ではあり得ないことだと疑い続けているが、本能では現に目の前で起こっていることなのだ、と納得し始めている。橙色のショートヘアと重なって、ガールフレンドのものだった、黒いロングヘアが夏風に靡いたように見えた。
「どうして、一体どういう訳なんだ」僕はもう倒れてしまいそうだった。人間が一気に処理できる情報のキャパみたいなものを、彼女は飛び越えてきていた。
「ねえ、立ち話もなんだし喫茶店にでも入らない?」彼女は極めて彼女のペースを保ったままそう言った。
僕は首を振るしかなかった。
「お財布を持っていないの。あれはフクキタルのものだから、勝手に使えないわ」
どういうことだろう、と僕は考えた。彼女はフクキタルを知っているように話すが、彼女とフクキタルに接点はあったのだろうか、フクキタルはどこにいるのか。聞きたいことは山ほどあったが、とりあえず彼女の言う通り近場の喫茶店に入ることにした。僕はアイスコーヒーを、彼女は温かい紅茶を注文した。僕が支払うと、「ありがとうね」と彼女は言った。いつも敬語のフクキタルからそんな言葉が出るものだから、僕はひどく困惑した。
〇
端数の二十円を小銭で払うような些細なことに気が及ばないほど、僕は気が動転していた。コーヒーと紅茶を乗せたトレイを席まで運ぶ彼女の所作には、質問を挟むような隙は一切無かった。彼女の動きは、スポットライトの当てられた舞台の上で完成されたダンスを踊っているような、あるいは湖畔の小屋で澄んだ空に向かってフルートを吹いているような神秘性を感じさせた。物事は彼女のペースで進んでいて、彼女が許可を出すまで僕に口を挟む権利は無いという感じだった。そしてそれは、僕の亡きガールフレンドの纏う雰囲気だったのだ。
「ねえ、何から聞きたい?」と席に座った彼女が聞いた。
「何もかも聞きたいけれど」僕はようやくターンを渡されて喋り始めた。「まず、君が僕のガールフレンドというのは本当なのか、ということ。それから本当ならどうして、どうやってフクキタルの姿をしているのかということ」
「話すと長くなるのよ。ねえ、好きに喋っていい? つまり、結果的に貴方の聞いたことの全てに答えるけど、貴方の聞いた順番通りじゃないということ」
「構わないよ」と僕は答えた。「話しやすい順番でいい」
「貴方は知らないみたいだけど、私、フクキタルの姉なのよ」
僕は驚いた。彼女の言う通り、僕はそんなことは微塵も知らなかったのだ。考えたことすら無かった。
「何も知らなかったのね。でもそれは仕方ないわ。私が死んだ時、フクキタルはまだトレセンに入る前だったし、湿っぽい話が好きな子じゃないから、一度も言ってなかったのね」彼女は紅茶を一口飲んだ。「今日が何の日か知ってる?」
「ええと」僕は数舜考えて、「分からないな」と答えた。
「正確には今日から月曜日までの三日間だけどね、お盆なの。先祖が帰ってくる日なの」聞いて僕はいくつか合点がいった。姉は先祖に当たるのか、という疑問は残るけれど、つまり彼女はお盆だから現世に帰ってきたということだろう。
「ねえ、お盆に飾るキュウリとナスが何を模しているか知ってる? ナスは牛で、キュウリはウマ娘なのよ。牛は分かるけど、ウマ娘は意味が分からないわ」
「それじゃあ月曜日には帰ってしまうのか?」今度は僕が聞いた。
「そう、帰らなきゃいけないのよ。そういう決まりなの」
「あの世にも決まりがあるんだな」
「思ったより不自由よ、あの世って。それに、返さなきゃいけないでしょう。この体、フクキタルから借りているのよ」彼女はフクキタルの胸に手をやった。
「借りている?」
「そう。夢で聞いたらね、貸してあげるって。ちゃんと許可は取っているから、安心して」
「お盆の間はそんなことができるんだ」と僕は感心した。あの世のルールを聞くのは初めてだった。「ちょっと待って、それじゃあお盆の間は町中死者だらけってことになる」思いついて僕は辺りを見渡した。パソコンとにらめっこをしているスーツ姿の男も、世間話に花を咲かせている主婦のグループも、全員死者かもしれない。
「ねえ、安心して」僕がそんな風にしていたから、彼女は落ち着いた声でそう言った。「こんな風に誰かの体に入れるのは、レアケースなのよ。いくつかの条件と、面倒くさい手続きが必要なの。ねえ、その手続きって本当に面倒なのよ。トレセン学園寮の外泊手続きを見習って欲しいわ」
「条件ってどんな?」と僕は聞いてみた。
「忘れられていないこと。少なくとも、夢に出られるくらいにね。ねえ、この耳飾り」そう言って彼女は左耳の耳飾りを指さして見せた。「これね、私がトレセン学園にいた頃に付けていたものなのよ。本当なら、これを付けて走るはずだった」
彼女はそう語った。声のトーンは少しだけ落ち込んでいた。
「君がトゥインクルシリーズを走る姿、見て見たかったよ」
「私の分までフクキタルが走ってくれたわ」彼女はきっぱりとそう言った。「ねえ、私フクキタルのトレーナーが貴方で良かったって思ってる。本当よ。何も知らないのにフクキタルをスカウトしたのって、本物の運命みたいじゃない」彼女は嬉しそうだった。
お互いの飲み物がなくなるまで、僕たちは下らない話だけをしていた。死後の世界とはどんなのもなのか、とか。しかしそういう質問に対して彼女は「答えられないわ。死者の国の掟なの」とだけ答えた。そういうものなんだな、と僕は思った。
「お願いがあるの」
「お願い?」
「せっかくフクキタルに三日間だけ体を借りたのだから、少し旅行をしたいの。行きたい場所があるのよ。それで、貴方にも付いてきて欲しい」
「勿論構わないさ」僕はすぐに学園へ休みの連絡を入れようとした。
「さっきも言ったけど、お財布を持ってないの。沢山お金がかかると思う。頼ってもいいの?」
「中央のトレーナーともなると、結構稼ぎが良いんだぜ」と僕は得意げに答えた。
「帝国ホテルのスイートルームにでも泊まってみる?」彼女が冗談っぽくそう言った。
〇
僕らはとりあえず一旦僕の家に行くことにして喫茶店を出た。
「自転車で来たから、手で押して帰るよ」
「二人乗りは?」
「後ろにもカゴがついているタイプなんだ」
彼女の希望で、商店街や大通りなどのトレセン学園生に見つかりそうな通りは避けて歩いた。それはそうだ。会うたびに一々説明する訳にもいかないし、会うたびに彼女がフクキタルを演じる訳にもいかない。
「くっ、ふふ」彼女がフクキタルを演じている姿を想像するとどうも可笑しくて、僕は笑ってしまった。
「どうしたの? 急に笑って」
「何でもないんだ、本当に」
「変な人」
〇
彼女とは幼稚園が同じで、小学校も同じだった。平たく言えば幼馴染で、その頃から僕らは仲が良かった。僕も彼女もあまり溌剌な性格ではなかったし、同じ本が好きだった。僕が彼女の口から中学からはトレセン学園に行くと聞いたのは、小学校を卒業する数ヶ月前だった気がするけれど、彼女は市のレーススクールでも優秀な成績を収めているということはよく耳にしていたし、僕も幼いながらに何となく分かっていた。だから彼女からそう言われた時も、大して驚かなかった。
「トレセン学園って、寮制なんだって」
「へぇ」
「遠くはないけどね。毎日会ってたのに、突然そうじゃなくなるなんて、変な気分」
「みんなそうさ。僕だけじゃなくて、クラスのみんなも、先生も同じことだよ」
「それは三人称の話よ」
「……分からないな」その時の彼女の言葉は、よく分からなかった。そしてそれは十四年経った今でも分からないものだった。多分永遠に分からないのだろうな、と僕は思っていた。聞く前に彼女が死んだのだ。
卒業してからも数度連絡を取るうちに、どちらからともなく告白をして僕らは付き合うことになった。そしてほとんどの終末にデートするようになった。
「それでも、貴方の家に行ったことは無かったわ」と、隣を歩く彼女が言った。
「僕は実家暮らしだったからね」
僕は自転車を停めて、彼女をアパートの二階に案内した。二〇一号室と書かれた部屋の前で止まった。
「アパートなのね」
「一人暮らしだから、十分な広さなんだ」
僕らは鍵を開けて中に入った。食べ終えたままの朝食が見えていた。中途半端に開けられたカーテンが止め忘れた冷房の風に靡いていた。
「ごめんね。つまり、急に呼び出したりなんかして」
「いや、」僕は食器を片付けながら答えた。「もう少し落ち着けばよかった」
望んだ形ではなかったにしても、初めてガールフレンドを招くのに相応しい家とは言い難い状態の部屋を、彼女がトイレを済ましている内に片付けた。
「旅行に行きたいの」と彼女は言った。
「行きたい場所があるそうだけど」
「私の家。でもそれは近いから、最後に寄るくらいがいいわ」
「どんな寄り道がしたい?」と僕は聞いた。
「貴方と旅館で泊まってみたかったの。ねえ、旅館なら何でもいいわ。任せてもいい?」
「勿論構わないさ」僕はすぐに熱海の旅館を見繕って予約した。
〇
「その前に」僕が旅のプランを説明し終えてから、彼女が話し始めた。「服が欲しいわ。三日も同じ服は着れないし、何より子供っぽいもの。ねえ、あの子のセンスは小学生で止まっているのよ」
僕は彼女の(それは正確にはフクキタルのものなのだけれど)服を上から下に見やった。似合っていないとは思わないが、彼女の指摘通り子供らしい服だった。
「買いに行こう。好きなだけ買うといい」と僕は言った。
「下着の心配はいらないわ。寮を出る前にあの子のを持ってきたから。無駄に大きいのよ、あの子。私に分けて欲しかった」彼女は左手に提げた鞄を僕に見せた。
〇
試着室から出てきた彼女を見て、僕はおお、と息をのんだ。ペールブルーのワンピースに身を包んだ彼女は垢抜けていて、少女から女性になった、という印象があった。
「似合っている?」
「ああ、本当に」
「体も私のままだったら、素直に嬉しかったのにね」
そのワンピースを含めた服をレジに持っていくと、会計額も荷物も中々のものだった。僕はカードで支払い、彼女はそのままワンピースを着て店を出た。
「一度洗濯しなくて良かったの?」
「私、あまり気にしないもの。それに、乾くのを待っていたら日が暮れてしまうわ」
「それもそうだね。それじゃあ行こうか」
彼女を助手席に座らせて、僕らはシートベルトを締めた。死んだガールフレンドと二泊三日の熱海の旅なんて、小説の一本でも書けそうだ、と僕は思った。
〇
高速に乗って、僕らは時速七十キロで国道二七一号を飛ばしている最中だった。サービスエリアで買った飲み物と、彼女は外国の硬いグミを片手に外を眺めていた。
「ねえ、本当にごめんなさい」唐突に彼女が言った。
「何が?」
「服から宿まで、仕舞には運転も任せちゃって。何だか今になって申し訳なくなってきたのよ」
「そんなこと」と僕はすぐに答えた。「もう一度話すための電話代だと思えば安いくらいだ」
「ありがとう」
〇
高速を降りると、潮の匂いがした。すぐそこに海があった。
「旅館まであとどれくらい?」
「すぐそこさ、今に見えたるんじゃないかな」
僕の言った通り、旅館はすぐに姿を現した。沈みかけの日に照らされ、橙色の明かりで室内が光っていた。随分風情のある旅館だな、と僕は思った。檜のような匂いがするのだ。部屋に入るとすぐに、開けておかれた障子の向こうに、未だ暮れきらない海が見えた。
「綺麗、私こんな綺麗な景色初めて見たわ! ねえ、海を見に行かない?」彼女は海岸を指さした。
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水彩絵の具で描いたような青空は、夕焼けの赤が混ざり少しずつ深くなっているようだった。
「不思議ね」と彼女が言った。「夜の雲は高いのよ」
「まだ夜とは呼べないんじゃないかな。ほら、風が吹いていない。今は凪だよ」僕は人差し指の先に唾をつけて立てて見せた。倣うように彼女も同じことをしてはにかんだ。
「黄昏時。どうして黄昏時って言うか知ってる? つまり、言葉のルーツってこと」
「知らないな」と僕は答えた。
「元々は誰ぞ彼時なの。少しづく暗くなって、相手の顔が見えない。ねえ、貴方は誰って聞く時間だから、誰ぞ彼時。それが訛ったのね」彼女は下を向きながら教えてくれた。足元の寄せる波を眺めていた。
「顔が見えなかったら、私は私に見える?」
「いいや」と僕は首を振った。「だって君はロングヘアだったから、シルエットが違うよ」
「それもそうね」と彼女は笑っていた。
〇
部屋に運ばれてきたのは、見たこともないほど豪華な懐石料理だった。僕らはそれを腹がはち切れそうになるくらいに食べ尽くして、片付けが終わると二人して座布団の上に倒れ込んだ。
「もう当分ご飯のことなんて考えたくないわ」と彼女が冗談めかして言った。
「それでも考えるさ。明日の朝には朝食のことを考えているよ」
「しばらく休んだら、大浴場に行きましょう」
〇
二人で布団を敷いてから、僕らは緑茶を淹れて広縁から海を片手に話をしていた。外には車の一つも走っていなかったから、聞こえてくるのは虫の音と波が打つ音だけだった。
「私不安だったのよ。貴方が新しいパートナーを見つけていたらどうしようって。ねえ、その予定はない?」
「良いニュースだけど、僕は今後一生誰かと付き合うことも、結婚の予定もないな」
「そう、それは良いニュースね。ねえ、生きて貴方と結婚できていたら、どれだけ幸せだったろうって、私今でも考えるの」
「どれだけ幸せだったろうね」僕は考えてみた。毎朝彼女が僕に弁当を渡して、僕が帰ったときに彼女が出迎えてくれるような未来は、少し過去がズレた先にあったかもしれないのだ。
「貴方とキスがしたい」とぶっきらぼうに彼女が言った。
風が潮の匂いを伴って、開けた窓の隙間から流れてきた。
「キスだけじゃないわ。ハグも、セックスもしたい。貴方を傷つけて、貴方に傷つけられて、傷口で貴方を感じたい」彼女は海の方を見ていた。「でもね、それは許されないの。分かるでしょう? この体はフクキタルの借り物で、傷つけてはいけない。貴方に触れることは、もう二度と許されないのよ。ねえ、それが死ぬということよ」
僕は何も言えなかった。いつの間にか話は終わっていて、僕らは部屋の電気を消して寝た。
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早朝、僕がいつもより高い枕に違和感を覚えながら意識を覚醒させていると、彼女は既に起きて広縁に一人座っていた。海を見ていた。浴衣姿で髪をかき上げる仕草は、ラファエロの絵画をそこに模写したような具合だった。僕が布団を抜け出す音に気が付いて、彼女と僕は目が合った。
「おはよう、随分と早いね」
「おはよう、もう八時よ」
「まだ八時だ」
見解の相違だった。
「明日の朝にチェックアウトするとして、今日丸一日暇だ。どこに行きたいとか、何をしたいとか、あるかい?」と僕は洗面所に向かいながら聞いた。
「散歩したいわ。ねえ、私自分の足で歩くのなんて久しぶりなのよ」
「どこまでも付き合うよ。世界一周だって歩けるさ」
〇
しかし僕らがその日実際に歩けたのは、せいぜい熱海市の半分くらいだった。フラワーパークを抜けて美術館を一周し、足湯に浸かり神社にお祈りを捧げ、ロープウェイに乗った。目まぐるしく歩き回った。間違いなく今年一番歩いたという自信があった。
「足が張って破裂しそうだよ」
「ふふ、私は全然。あの子に感謝しないと。丈夫な足でありがとう、って」彼女はその場で軽くジャンプして見せた。僕には真似をするほどの余力も無かった。
〇
寝静まった夜、僕らは海岸線に出ていた。今日という素晴らしい日の終わりを見に行こう、と僕が言い出したのだ。
「ねえ、一つ聞いてもいい?」彼女は僕の先を歩いていた。
「何だい?」
「こんなことを聞くの、本当は間違ってるって分かっているの。それでも聞いてみたいのだけど」彼女は防波堤に腰を下ろした。僕も倣った。「死んでくれない?」
僕はその言葉が自分に向けられているということも忘れて、そんな乱暴な言葉をこれほどまでに美しく昇華してしまう彼女の作る雰囲気に関心していた。彼女にはマイケルジャクソンみたいなスター性が備わっているのだ。
「……ああ、ごめん。あんまりに唐突だったから」僕は数秒過ぎてから自分が死の瀬戸際に座っていることに気が付いた。人生の選択の中でも、間違えてはいけない類のものだ、と直感した。
「私の方こそよ。もう少し、伝え方に気を付ければ良かった」と彼女は申し訳なさそうに言った。「つまりね、私と一緒に死者の国へ行かない、という話。ねえ、断ってもいいの。むしろ断るのが正解よ。死に誘う幽霊なんて悪霊と同じだもの。でも私、貴方と離れるのがたまらなく辛いのよ。こうして再び話せたのに、明日にはまた別れないといけないなんて残酷だわ。ねえ、出会った数だけ別れがあるのよ」彼女は泣いていた。
「ありがたい誘いだ。でも、」これまでの人生でここまで言葉を選んだことは無かった。「僕はまだやらなきゃいけないことが残ってる。だから申し訳ないけど、その誘いは断らせてほしい。でも必ず、そうだな、あと六十年もしない間にそっちへ行くから待っていて欲しい。出会い続ける限り、別れの回数より出会いの方が多いんだ」僕は慎重にそう言った。
「ありがとう。……先に戻ってるわ」彼女は立ち上がって行ってしまった。
僕もすぐに追いかけようとしたけれど、足が無くなったみたいに立ち上がれなかった。眼前の海に飛び込めばいつでも死ねた。
〇
途中のガソリンスタンドでガソリンを入れてから高速に乗った。昨日の目まぐるしい景色と違って、高速道路の壁はグレー一色だった。たまに緑が浸食していたり、珍しい建物が見えること以外に楽しみの一つも無かった。
数時間車を走らせて、彼女の家に着いたのは、午後の五時を回った頃だった。彼女は懐からじゃらじゃらと鈴が付いた鍵を取り出して家の中へ入っていった。
「ママもパパも仕事のはずよ」彼女の言う通り、家には誰もいなかった。
「お邪魔します」彼女の家に入るのは、これが初めてだった。立派な日本家屋で、リビングの隅の仏壇が、不気味な存在感を放っていた。
「ねえ、」僕が家を見回していると彼女が僕を覗き込んで声をかけてきた。「私が死んだ日曜日のこと、覚えている?」
「ああ、何もかも思い出せる」
彼女は階段を上った。彼女は何も言わなかったが、とりあえず僕は付いて行った。そして二階の二つ目の扉の前で立ち止まると、彼女は右手をその扉に付けて言った。
「ここ、私の部屋だったの」その声は小さな子供の様に聞こえた。
部屋の中には、子供机とベッドが置いてあった。棚の本棚も、クローゼットも全てそのまま保存されているようだ。まるで、いつでも帰ってきていいよ、と言っているように。彼女は子供机の一つ目の引き出しを引いて、小さな紙を取り出した。それは赤いリボンで結ばれた、クローバーの押し花入りの栞だった。
「これ、本当はね、小学校の卒業式に渡して告白しようと思っていたのよ。でも勇気が無かったの」
そしてそれを僕に差し出した。
「でも今なら言える。ねえ、聞いてくれる?」
「勿論」僕は彼女の目の奥を見ていた。
「何度生まれ変わっても、私を見つけて愛して欲しい。それくらい、貴方を愛しています」
僕は栞を受け取った。僕らの間に、ハグもキスも何もなかったけれど、僕らはその瞬間世界で一番幸せだった。
〇
それから僕らは、近くのファミレスで夕食を取った。そこは僕らがよくデートで訪れた店で、しかし店内の様子も店員も何もかも変わっていた。
「それでもよく潰れないわね。駅前なんて、テナント料も高いのに」
「トレセン学園生がよく使うんだよ」
「なるほどね」
彼女は変な色をしたドリンクバー・ミックスを僕に飲ませようとして、それを飲んだ僕の表情を見て笑い転げていた。十年前に戻ったようだった。
「もう、帰らなきゃ」
店を出る頃には、八時を過ぎていた。
「そうだね」
「ねえ、話せて良かった」
「こちらこそ」
「ありがとう」
「待たせて悪いけど、待っていてくれ」
「はい、待ってる」
彼女は歩いてトレセン学園の方に向かっていった。僕は車に乗り込んだ。
〇
月曜日が終わってからLINEを開いても、彼女とのメッセージはまるで最初からそこには無かったように消えていた。彼女の服を買ったレシートも無くなっていて、残ったものは栞だけだった。
世界はそんな些細な違いになど気づかず進行している。この瞬間にも駅前は賑わい、誰かが働いていて、誰かは眠りについている。誰も彼女との旅行のことなど気にしていなかった。それでも僕は、間違いなく彼女と旅行に出かけ、約束を交わしていた。