日々は全く持って問題なく過ぎて行く。
ケニーは日々を穏やかに過ごして居た、問題など何も無い何時もの日々。ケニーはそうと求められた通りに穏やかに過ごして居た。マダムの作った料理を食べて感想を言う、甘さや辛さ、隠し味に関しての感想だけであったそれはアンナとの日々の内に徐々に細かなディテールを得ていく。庭の植物の世話に関しては日々の仕事を繰り返す内どんどんと細かな機微が感じられる気がしてきていた、人間に関しては未だに自覚している通り曖昧で、どうにも焦点の合わない事が多いケニーであったが花に関しては愛着と共に細かな部分を理解し始めていた。
「今日もいい天気ね、ケニー」
庭の花に水を撒いていたケニーにマダムが呼びかける、冬はいよいよとその強度を増しマダムは冬にあわせる様に更にもこもことした服を着こんでいた。
「ええマダム、こちらは冬には晴れ間が続きますね?」
ツナギ服の上に羽織ったフライトジャケットから懐中時計を取り出して時間を確認する、そろそろ食事の時間だろうか?寒くなって来てからのマダムは家の中へこもりがちになっていた。何か体調が悪かったり、良くない状態なのかと言えばそういうわけではない、単に北の、それも特別に寒さの厳しい地方で生まれたマダムには冬の間必要以上に出歩く習慣がないだけだ。
「どこかへ出掛けられますか?」
今日の予定はとくには聞いていなかったが何か変更があった可能性がある、一週間に四日以上マダムは編み物をするかコトコトと何らかの保存食の様なものを作っていて、ケニーが見ている限り家から一歩も出ない週もあった。恐らくどこかに出かけるということは無いだろう、それでも聞いておこう、ケニーは何かを思い込んだり判断する立場には無い。
「どこかへ出掛けられますか?」
再度聞くとマダムは柔らかに微笑んだ。マダムには予定など何もない、冬は困難なものなのだ、冬には何もかもが基本的に困難になる。そういう土地にマダムは生まれたから、マダムにとって冬は家族と自分自身と相対する時間であった。それは冬もある程度の暖かさを維持するこの国に来たとて何も変わらない、頭脳での理解と体感としての事実は連動する事があれども別で処理出来る問題でしかない。だからただマダムは柔らかに微笑んだ、使用人であるケニーには自由に生きて欲しい、伴侶であったあの人が死んだ時から育てている薔薇や庭の花々以上に今のマダムにとってケニーを、ある意味で育てる事は一番の楽しみであった。
「いいえ、ケニー。ただ、今日はアナタはどこかに出かけないのかと思って」
柔らかなそんな問いかけにケニーは困惑する、出かけるか、どうだろうか。ケニーにとって何処かへ出掛ける様な事は基本的に用事がある場合だけである、孤児院に居た頃は言いつけられた諸用のみが孤児院の外に出かけられる理由であったし、軍人となってからは戦線に張り付いて居ただけで出かける、と言う言葉は縁の無いものであった。
「いえ、その、今日は特に用も無かったので出掛けたりするつもりはありませんでした」
思った事をそのままにマダムに伝える、これもこの街にきてケニーが学んだ事の一つである、マダムはケニーの不明を殴りつけたりはしない、ただ、知ったように対応した結果マダムを怒らせたり悲しい思いをさせたりした事は多くあったから、それならば思った通りに伝えて彼女に判断や、より柔らかなニュアンスとしてのアドバイスを受けられる様にケニーは生活に慣れてきた頃から素直に思った事をマダムに伝える様にしている。
マダムの眉が柔らかに下がる、何かマダムの思うところとは違う答えをまたしてしまった様だ。すかさずケニーはマダムに問う。
「出かけた方がよろしいんですか?」
「その方が良いというのはちょっと違うだけれど。ケニー、貴方は折角若いんだからどこか出掛けたりした方がいいんじゃないかと思って、寒いのは分かるのだけれど、そうね、アンナに会いに行ってみたりとかしてみてもいいんじゃないかしら?あんまり何度もあると困るけれど、たまにならサプライズも良いものよ?」
モコモコとした服をマダムの肉球が撫でている。
「分かりました、それでは、そうですね、その、散歩と言うものをしてみても良いでしょうか?それに合わせてアンナに会いに行くというのはどうでしょう?」
この子は不思議なものの言い方をする事がある、自分の事なのにまるで他人事みたいに表現するのだ。だけれど何時かきっと少しずつでも良くなっていくだろう、それが楽しみだ。
そんな事を考えたマダムが嬉しそうに頷いて、そう言う訳でケニーは散歩に出掛ける事になった。
街までの坂道を歩いて下って行く、車を使ってもいいのよ?と言うマダムの言葉をケニーは断った。季節の移り変わりがハッキリとしているこの街を楽しみたかったのだ。季節としての冬を楽しみたかったのだ。
軍営の孤児院に居た頃は街中が戦争用の何かを作る、その工場の煙で覆われていて季節の変化など意識し様が無かったし軍人として前線に出てからはどうしようも無い、山脈を挟んで争う中では暑さも寒さも大して重要では無かった。
ケニーは歩く、ただ歩いていく。何もかも新鮮で柔らかな気持ちにこの街はさせてくれる、坂を下りきった先の小道を抜けて港へと出る、今日はどうしようか?着替えた服装、マダムから貰ったジャケットから懐中時計を取り出し確認すると時間はまだまだある、アンナのお店は夕方には閉まるからそれまでには訪ねるとして、それまでは今まで言った事のない方へ行って見ても良いのだろう。ケニーは景色や空気に混じる匂い、人の流れなどに任せてフラフラと歩く。
港には何時も活気が溢れている、酷く大規模で世界中を巻き込んだ前の戦争。その後始末や戦後の復興を目的とした資材の多くがこの港から輸出されていてここより北の、鉄道による輸送では手が及ばない範囲の復興を助けていた。
空気の中に嗅いだことの無い匂いが混じりだしたことにケニーは気付いた。
焦げた油、木、細かく砕かれた土、魔法の才能があることが分かってから受けた教練によりケニーは恒常的に簡単な身体強化の魔法を張り巡らしている。大して魔力を消費するものでは無い、簡単な嗅覚、聴覚、視覚の強化だけ。野生動物の様な鋭い感覚が得られるものでは無い、ただ相手よりも30メートル早く気づければ良いのだと、そう言う前提に基づいた簡易的なもの。
距離は弾丸が埋めてくれる、ケニーはそう教わった。
季節の変化を楽しむ為に使っていたそれが嗅ぎなれない匂いを嗅ぎ取って、ケニーの足は考えるよりも早くそちらに向かって居た、行動の後を追うように思考が追いつき、しまったなとケニーは考える。拳銃を持ってくれば良かった。しかしだ戦争は終わったのだしそう大した問題は起きないだろう。過剰すぎれば誰かを殺してしまうかもしれない、それは良くない。
港を抜け、大通りに繋がる出入り口を通り過ぎ、突き当りの角を曲がった所で匂いの素に辿り着いた。途中から匂いに酒の匂いが混じりだしそれがどんどんと強くなっている事は感じていたが、驚いた、そこに居たのは先日酒屋で騒動を起こしていた女だった、女はケニーの方を向き怪訝な表情で睨んでいる、ケニーの事を覚えていないのか、覚えているからこその表情なのか、あるいは単なる二日酔いなのか。ケニーには判断がつかない。
女は絵を書こうとしていた、大きな白い板に、ケニーには何色かも分からない繊細な調整がされた赤や青や黄色、何も描かれていない。書かないのだろうか?
ケニーが聞くより早く女が問いかけて来た。
「アンタ、マダムの所に新しく来た使用人だろ?元軍人の」
そうだとも、違うとも返事をする前に女が続ける。
「どこの戦線に居たんだ?北か?」
どうしようか?確かにケニーは北の戦線に居た、だがそんな事を何故この女は聞こうとするのだろうか?戦争は終わったのだ、ならば何故?
「そうです、北の戦線で魔道砲兵をしていました」
所属していた師団まで答える必要は無いだろう、ぼんやりとそんな事を考えていたらその答えに酷く女が動揺し、慌てた様子で立ち上がろうとして酔いに足がもつれ倒れる。
「なぁ!なぁアンタ!だったらこんな女の子にあった事無いか!」
そう言って懐から写真を取り出してこちらに見せてくる、耳のあたりで揃えられた髪に輝く様な笑顔、そして見覚えのある故国の軍服。ケニーには見覚えが無かった、正直にそう答えると、そうか、とただそれだけ言ってまた女は白い板と向き合った。筆を手に取ることもせずただ酒を流し込む様に飲んで居る、ケニーはしばらくその姿を眺めた後、何も問いかけることをせずアンナのお店へと歩き出したのだった。