今日は口数が少ないね、とそんな事をアンナに言われ、そうだろうかとケニーは思う。
「何かあった?」
そんな問いに、何を答えれば良いのかケニーは答えに詰まる。
戦争の間なら何も答えない事が正解だったし、そうせよと、そう習った。
だが、今はどうだ?
もしかしたら殺し合いになるかもしれない、もしかしたら、マダムが傷付くかもしれない、もしかしたら、何も起きないのにケニーは誰かを殺す算段を頭の中で立てているのかもしれない。
ケニーは思う、アンナを失望させるのが怖い、何が良いかも分からぬ現状ではあるが、アンナの期待に応えられないのが怖い。ケニーは思う、ただアンナと二人で道を歩きながら思う、思うに任せて言葉を吐く。
「少し、君に話すのが怖い、のかもしれない」
洗いざらいをケニーは話そうとして言葉に詰まる、こんな状況の正解をケニーは孤児院で習わなかった、正解など今まで習って来たどれを組み合わせても分からない、何故だろう?アンナと居るとどうにも命と言うものに対して大袈裟に美しさを感じてしまう、眼前で沈む夕日すら画家の倉庫にあった絵画の様に美しいと感じる。
だけれど、ケニーはマダムやアンナや、この街の人々と過ごす内に感じている事があった、何かが違うのだ、どうにもケニーには爪や牙が生えているのだ、直接その手や口に生えている訳では無い、その振る舞いに爪や牙が生え、それを効率よく振るう術を孤児院で教わったのだ。
どうしようもないのだ、ケニーは獣としてその生を形作られ生きて来た、それで良かったのに、彼女と居るとどうにも心がざわざわとする、居心地の悪さが体中を覆い出す、普段はこんな事は無い、だが彼女と居ると、彼女と居る時に昔の教えを思い出すと。
どうにも居心地の悪さが今の様に全身を覆ってしまう。
だのに、ケニーにはその違和感を言葉にする事が出来なくて、何かが違うと、大きな岩の様なその違和感を胸の内でただ静かに抱える事しか出来ない。
不思議そうな顔でこちらを見るアンナに微笑む、ケニーは全くもってこの笑顔と言うものが得意では無かったが、今回は上手く行った。
ケニーは酷く細やかな、そして柔らかな笑顔を浮かべアンナに微笑んだ、それは生涯言葉にされる事は無かったが、とても儚く美しい、年相応の笑顔であった。
結局、ケニーはジョアンの事を話せずそのまま二人は解散する、ケニーは家に帰ろうとして、何となく脚が嫌がる様な気がして画家の倉庫へと、街の西へと歩を進めていた。
居るかどうかも分からない、愚かな事をしている。
帰るべきだと、そう分かっていても脚は止まらない、アンナと別れた後、日はとうに暮れている、月下、照らされるに任せて歩くが何がこんなにも心をざわめかせるのかケニーには分からない、ジョアンを殺すことだろうか?想像して、十二通りの殺し方まで思考が至った所で違うと、ケニーは思い至る。
では何が?
何がケニーに殺人と言うものを忌避させているのだろうか?
最初はいつだったろうか、そうだ、軍営の孤児院に居た折、二年ほどペアを組まされ何をするにも行動を共にしたヤツがいた、もう名前も上手く思い出せないが、不思議なもので匂いや、手先が器用で紙ナプキンで蝶や鳥を折ってのけた事や、何時も酷く腹を空かせていたソイツに食事を分けてやった事は思い出せる。
そうだ、アイツが人生で初めて、殺した人間だった。
人間種の男、綺麗な緑色の瞳と、色の抜けた白の混じった金髪をしていた。
どう殺したのだったか、月下をただ歩く、物陰から忍び寄ろうとした連中に小石を蹴り込み襲い掛かるより早く気勢を削ぐ。
試して見ても良いかもしれない、殺してみよう、次の連中は襲い掛かるに任せてみて幾らか殴られれば良い、そうすれば警吏に詰問されても言い訳は立つしマダムも悲しまないだろう、こんな状況はケニーにも初めての事である、ケニーはより良い方向に進めればと思っていたが根幹に置いている自我は軍営の孤児院で形成されたものなのだ。
そうして歩く内、ケニーは画家の倉庫に辿り着く、ゴンゴンと倉庫の扉を叩くと、薄明りの中倉庫から画家が出て来て、酷く不思議そうな顔でケニーを見る。
何と言おうか、何故此処に来てしまったのだろう?
言葉に出来ずに佇むケニーに画家はただ、入れよ、そう言って倉庫の中にケニーを招き入れた。
「ほら」
それだけを言って、画家はケニーの為に飾るというよりは製作中を思わせる置き方をしている絵の前に木製の丸椅子を置いた、何度見ても絵はとても美しい、そうだ、美しい、この気持ちを美しいと言うのだ、画家とアンナが教えてくれた、マダムの下で薔薇を育てる内美しいという、それにまつわる物事の大変さも知った、やはり、これを描いたのなら画家は偉大な画家だった。
しばし、沈黙だけが倉庫の中に溢れる、画家は何時も海沿いでそうする様に絵を描くための全てを準備してただ酒瓶を傾けている、飲んで居るかも定かでは無い、ケニーはわざわざその酒瓶の中身を確かめようと思った事は無い。
「私は、もう人を殺せないのかも知れない」
特に感慨も無く、酒瓶から一口酒を飲み画家が答える。
「はっ、兵隊さんにはそれが一大事なのか?」
ケニーもまた絵画から目を話すこと無く画家の言葉に答えた、そうだ、そうなのだ、人を殺せなくなったならそれは良くない事だ、そうと教わった事が果たせなくなってしまったらそれはケニーには一連の自分と言うものを保てなくなる一大事なのだ。
しかし、そんな複雑で曖昧な感覚を言葉にする自由はケニーには許されていない。
「多分、そうだと思う、以前までならこんな風に明確に敵対している人間と出くわした時に悩む事は無かった、悩む、悩んでいるのだろうか?そこも自信が無い、判断に対して妙なストレスを感じている」
俺じゃないよな?それ、画家からのそんな問いにケニーは今日あったジョアンとの全てを説明し、画家はただそれにへーとだけ相槌を打った。
「ははは、バケモンなんだなアンタ、あの屋敷の主人にぴったりだよ」
それで、なんで自分が変わっちまったんだと思う?ちょっとずつ言葉にするといいさ、こういうのは絵を描くのと一緒だ、いきなり全部じゃなくていい、少しずつ頭の中でやっつけて、なんてーの?紐を解くみたいにすりゃいいのさ。
楽しそうに画家はそう言い、何時もかけているデニム生地のエプロンから煙草を取り出し火を着けた。
なぜ?何故だろうか、どうしてこんなにも心がざわざわするのだろうか?心、そうだ、心。
「マダムに、」
そこで途切れてしまったケニーの言葉を画家は辛抱強く待つ、ただ待って幾度か煙を肺に入れた所で灰が地面に落ちる。
「マダムに、私にも心があると言われたんだ」
大して意識していなかったそれを思い出す、ジャガイモ畑に水をやっていた時に言われたそれ。
ケニー、貴方がちゃんと嬉しそうで良かった、ただそれだけの言葉、貴方はもう戦争から帰って来たのだと、これから沢山の事を知ればいいと柔らかな肉球でケニーに触れながらマダムは言うのだ、ケニーにも心があるのだと、折々にケニーには分からない事を問いかけるのだ、どの花が好きか、どんな風に好きか、今日の料理で一番美味しかったのはどの料理か、この街のどんな所が好きかと。
先生からもボクシからも教官からも、母からも父からも記憶に問いかけられた事のないそんな質問達に答える度、ケニーは生まれついて自意識を抱えた常から身体を薄く覆っている居心地の悪さが薄れて行く気がする。
「だけれど」
心って、何なんだ、殺すしかない、殺すしかないんだ、どう考えても敵なのだ、殺さねば、戦争以外で出会った価値のある、ケニーより重要な人々が傷付くかもしれない、酷く苦しんで死ぬかもしれない。
「…怖い、殺すのも怖い、だけれど、もし貴女を含めた誰かが傷付けられるかもしれないと思うと耐えられない程怖い」
何もしない内に誰かが傷付けられたなら、それはケニーに取って自身の怠惰が原因でその結果に至ったのだとしか思えないのだ。
「バカじゃねぇの?」
「お前以外の人間もよぉ、皆必死に生きてんだよ、それをあーだこーだと理屈つけて自分のせいにして、お前はただ自分の命ってもんに一生懸命になれば良いんだよ」
「…そういうものなのだろうか?」
「そうさ、それが命ってもんなんだよ」
「そうか」
そう呟いたケニーを最後にして二人の会話は終わり、ただまんじりともせず倉庫の中、夜明け近くまで二人は過ごすのであった。
翌日、同じ様にケニーは行動する、いつも通り行動した筈だが、マダムはチラチラと暖かそうな恰好でケニーの方を見ていて、ケニーは恐らくバレているのだろうなと、そう考える。
仕事をいつもより意識して早く終わらせ、テキパキとシャワーを浴びいつも通りスラックスとシャツを着てスラックスの後ろに上官から貰ったリボルバーを差す。
時間は何時もより多少早いがそれでも構わない、帰って貰おう、ケニーの心は決まっていた。
ジョアンがどんな目的で接触してきたのかは分からない、それでも帰って貰おう、絶対に殺しはしない、命と言うものの大変さを今のケニーは知っている、暴力は骨髄に至るまでケニーの身体に馴染んでいる、だけれど殺しはしない、ケニーと、ケニーと関わってくれる全ての人達はきっとケニーのその選択を褒めはしない。
いつも通りの顔をしてケニーはマダムに挨拶をする、少し用事があって出掛けます、今日の夕飯は何ですか?と、マダムはそれに今日はハンバーグよ、とそう答え、余り遅くならないでね?とケニーに言う、ケニーはそれに気を付けますとだけ答えて、車を使います、と、返事を待たず館を出る。
車で動けば何時もの何倍も速く海に着く、そうすると普段とは違った曜日に、しかもかなり早い時間に来たのにそこには画家が居る。
二回目からいつもわざと大袈裟に鳴らしている靴音を聞きつけて、振り返りもせずに画家がケニーに話しかける。
「どうした、今日はレッスンの日じゃないだろう」
何時もの様に画家は海を眺め、絵を描くに必要な全てを用意しながらただ酒浸りでそこに座っている、振り向きもせずそのまま遠い場所を見た様子でケニーにそう言う。
ケニーの意識は昨日あった小鬼のジョアンと、マダムの無事をどうやって保証するかに徐々に傾いている、どうしよう、昨日は一切気配がしなかったがもしジョアンが仲間を連れていたなら。
だがどうだ、ケニーは人間らしい全てが得意では無かったが兵隊としては良いものだと認められて孤児院から出荷されたのだ、自身と、それ以上に自身に必要な多くを教えてくれた人達を信じよう。
昨日の段階でジョアンの周囲には増援の気配はなかったし、ケニーの感覚に間違いは無い、だから今日まで生き残る事が出来た。
「メリッサ、しばらくレッスンは受けられないかもしれない」
画家の事を始めて正面から名前で呼ぶ、そんな言葉にメリッサは何も返事をせずただ黙って手に持った酒瓶を傾ける、ケニーは怒りを受け止めようと、そうと習った様に真っすぐ立って、ただメリッサからの怒りを待っている、ケニーが無理にお願いして彼女に絵を教えて欲しいと頼んだのだ。
だが怒りはない、拳も無い、酒瓶に口をつける事すら無く、ただメリッサは
「気を付けてな」
と、それだけを口にした。
何か言うべきだ、メリッサはそう思う、だけれど一体私が何をこいつに言うことが出来るんだろうかと、そんな気持ちに開きかけた口が閉じる。
何か言うべきだ、ケニーはそう思う、だけれど一体、何を言えるだろうか、ケニーには言葉を誠実に扱う自由が許されていない、分からない、そんな気持ちにケニーは口を閉じる。
「ありがとう」
ただそれだけ言ってケニーはメリッサから離れ歩き出した。