老獣人と帰還兵   作:来海杏

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 疲れたでしょう?長い坂でね、歩いてここまで来たのならくたくたの筈だわ、そう言って家の中を案内してくれる雇い主にただ短く大丈夫です、とケニーは答えた。

 

 雇い主なのだからその様に気を使って頂かなくても大丈夫です、何とは無しにまた居心地の悪さを感じてケニーはそう言おうとする、雇い主、いや主人だろうか?

 

 

 なんとお呼びすれば宜しいでしょうか?そう聞くとこれからケニーの雇い主となる老獣人は楽しそうに悩んでのける、そうねー?どうしようかしら?首を傾げるに合わせて柔らかに揺れる毛並みになんだかまた少しだけ、ケニーは居心地が悪くなっていく。

 

「問題なければ主人、いや、ご主人さまとでもお呼び、させて頂きます」

 

 慣れない言葉遣いで語尾にどんどんと自信が無くなってゆくのがケニーは自分でも分かった。

 軍人教育を孤児院で受けて居た時、言葉使いと裁縫から始まり料理以外の一通りは教えられたが、軍隊で使われる言葉使いが何もかも柔らかそうなこの人にあっている気がしない。

 

 不愉快にさせないと良いのだが、そう考えてまたケニーは居心地が悪くなり少しだけ俯く、殴られるとは思わないが、新しい雇い主を不愉快な気持ちにさせるのは居心地が悪い。

 

 

「そうねー、ご主人様はなんだか大げさでイヤだわ」

 

 

 その言葉にケニーは顔を上げて雇い主の方を向く、言葉を使う時は受け取るときも話す時も目を見る様にしろ。

 

 そう言って殴られたので顔を上げる、ケニーは覚えている通りにする。

 

 

「マダムと呼んで?」

 

 

 そう言って微笑み掛けて来る雇い主に短く、分かりました、マダム、そう答えて荷物を置ける場所はあるかと聞く、その様な出会いで、老獣人のマダムと帰還兵のケニーは共に暮らすことになった。

 

ーーーーー

 

 朝は6時に起きて家中の窓を開けて換気をする事。

 

与えられた部屋の掃除はこまめにする事、その他は基本的にマダムが行うので力仕事やマダムには手が届かない場所を手伝う様に。

 

料理はマダムの趣味なので決してしない、台所に入るのも料理を残すのも禁止。ただ、おかわりはしてもよい。

 

庭の手入れをする事、ただし薔薇に触れてはならない。

 

 その他、幾つかのルールを何人も座れる様な大きなテーブルを料理でいっぱいにした向こう側でマダムはケニーに約束させる。

 

 

 ケニーは忘れない様にその約束を何度か繰り返した後、分かりました、マダム、と短く答える。

 

 卓上にはトマトを沢山使った素晴らしい料理が並んでいて、ケニーの視線が料理に行った事に気づいたのかマダムは嬉しそうに

 

「それじゃあ、晩御飯にしましょうか」

 

と、柔らかに言った。

 

 

 その言葉にケニーは両腕を膝の上に乗せてまっすぐに背筋を伸ばして待つ、どうしたの?とマダムに問われて、いえ、食べてもよろしいでしょうか?と聞いた。

 

 それに不思議そうに首を傾げたマダムがえぇ、どうぞ、と答えて初めて近くにあったパンに手をつけようとしたのだが、やはり、良くないのでは無いかと思い直し手元の皿に乗せてマダムを待つ事にする。

 

 軍隊に入ってからは各々勝手に食べれば良かったが、孤児院に居た頃は我先にと飛びつくように食べようとすると笑いながら教育だと殴られた、軍営の孤児院では元は従軍ボクシだという院長がひとしきり国家と誰かへの感謝を祈り終わるまで食べてはいけなかった。

 

 ボクシが何かケニーは未だにもって良く分からなかったが、理由を説明せず殴られるのは恐らく軍隊での生活を思い返しても正しく無かったであろうから、ボクシの様なあり方が正しいのだろう、だから、マダムが祈り終わるのを待つべきだとケニーは考える、ケニーには祈る相手が居ないが、だからと言って誰かの祈りを待たないのも身体に染み付いた習慣が躊躇させた。

 

「食べないの?」

 

 不思議そうにこちらを眺めたマダムがもう一度ケニーに問いかけて、その瞳になんだかまた居心地が悪くなる。

 

「いえ、マダムが祈り終わるのを待とうかと考えておりました」

 

「あら、大丈夫よ、ここからまた南の方に行くとそういう人達もいるみたいだけれど、私は北で生まれたから、北の獣人にはあまり食事の前に祈る習慣がないのよ」

 

 食べる前に冷めてしまうから、そう言ってうふふふと笑ってトマトのスープに手をつけるマダムに、ケニーはそうか、祈るかどうかは土地に依るのか、と忘れない様に口の中で何度か繰り返す。

 

 充分にそうした後、分かりました、不勉強で申し訳ございません、と答えパンに手をつけた。

 

 

ーーーーー

 

 そうして、一月程が仕事が始まってから経とうとしている。ケニーがマダムの屋敷で使用人として働いて居る内、分かった事が幾つかあった。

 

 

先ず、ケニーには運転の才能があるのだと言う事。

 

 

 マダムの屋敷には車庫がありその中に車が置かれていた。

 

 使用人として働き始めて二週間程した時、ケニーは庭の手入れの仕方や注意点をマダムから教わっている最中にそれに気づいた。やんわりとした曲線で造り上げられたずんぐりむっくりとしたその見た目、庭の手入れの為の脚立を取りに入った筈の倉庫で思わず立ち止まり眺める。

 

 理由は分からない、孤児院に居た時訪ねる軍人達が一様にピカピカに磨かれた黒い軍用車に乗っていたのを思い出したからか、あるいは柔らかそうなその車の見た目がマダムに良く似て居るような気がしたからか、ケニーにはそれを言葉にする自由さがなかった。

 

「脚立の場所はわかるかしら?ケニー?どうかしたの?ケニー」

 

 戻らない使用人の様子を見に来たマダムに呼び掛けられやっと仕事を教えられて居た途中だとケニーは思い出し振り向く。

 

「いえ、マダム、ただ、これは、その、マダム」

 

 殴られるかもしれない、あるいは今日の夕食は抜きだろうか?マダムは穏やかな人で、使用人の暮らしに不慣れな自分にもあれやこれやと楽しそうに色々教えてくれていたのに、しばらく感じて居なかった居心地の悪さがまたぞわぞわと身体の中に沸き上がって来るのをケニーは感じる。

 

「申し訳ございません」

 

 終わるまで耐えながらただ謝る他ない、ケニーは今までそうして耐えて来た。

 

「あら、ケニーもその車が気に入ったのかしら?男の人って皆、難しい機械が好きなのねぇ?あの人がいた頃はあの人に魔力を込めて貰って動かしていたのだけれど、私には魔法の才能が無くてねぇ?可哀想だとは思ってたのだけれどあの人が大切にしていたから売るのもいやでねぇ」

 

 そうして居心地の悪さに身を縮めて居たケニーの想像と違い、マダムはただ嬉しそうに、何か懐かしそうに、少しだけ呆れた声でそんな事を言う、ケニーはぴんと背を伸ばして頭を下げ続けている。

 

「そんなにかしこまって謝らなくっても良いのよ?私、怒って噛みついたりする様に見えるかしら?ケニー、頭を上げて」

 

 小首を傾げてうふふふとマダムが笑い、ケニーはどうしたら良いのか分からなくなってしまう。

 

 今まで聞いた事のない声色で呼ばれる自分の名前にいつもの居心地の悪さとは違った何かが沸き上がってむずむずとする、頭を上げて、マダムを見つめながらケニーは曖昧に眉を戸惑うようにハの字に動かして、そのさまにまたマダムは微笑む。

 

「いえ、マダム、貴女は怒って誰かに噛みつくような人には見えません」

 

 先ず間違いなく断言出来る所から答えねば、そうしてケニーが確信を持てる部分について答えるとマダムはまたうふふふと楽しそうに笑う。

 

「ありがとう」

 

 

 そんな言葉にケニーはまたどうしたら良いのか分からなくなって、その様子にまたマダムが微笑んで、そうして使用人としての仕事が終わった後、夕飯が出来る迄の間は庭で運転の練習をしても良いと許可を得たのだった。

 

その3日後だ、ケニーは良く覚えている。

 

 運転の練習している様子を眺めていたマダムから貴方は運転が上手ね、きっと車の運転の才能があるのよと、そう褒められたのをケニーは寝る前に思い出す。

 

 運転の才能があるのだ、その事実が嬉しい。思い出した時には何時もそう考えて眠りにつくまでをケニーは過ごしていた。

 それを考えると柔らかで沈み込むようなベッドの上でも居心地の悪さがしなくなる、揺れたような感覚や、扉の向こうや、僅かな物音に怯えずケニーは眠る事が出来た。

 

 

 

次に分かったのが、どうやらマダムの料理は美味しいのだという事であった。

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