酷く寒い旅路の中、ケニーの言葉にマダムはゆっくりと顔を上げた。運転席のキエラだけはそのまま運転に間違いの無い様に前を向いている、しかし、それでも彼女の眉が正気かよ、とでも言うように片方だけ吊り上がったのをケニーの視界は捉えていた。
マダム以外の全ての人間はこのおかしな旅について同意した、後はマダム本人の同意だけであったが、これに関してケニーには欠片も自信が無かった。
彼女は何時も何処か遠い所を見ている、そんな目の人間が生きる為と即物的な選択肢を提示して頷くとは思えなかった
ケニーがマダムの目をバックミラー越しに見る、その目線をマダムはただ静かに見つめ返す。
「どこに行こうかしら?折角の旅行よ?」
ただマダムは静かにそれだけ呟く様に言った。
慣れた様子で(と言うよりも心底慣れているのだが)クイントは迷いなく一人で船を乗り降りする為の舷梯を下ろし手際よくロープで固定していく、それをただキエラは眺めている、背後に背負ったマダムを船倉におろし傷を強く抑えていてとてもではないが手が離せそうに無い。
医者を呼んでくると言ったがどうするつもりだろう、他の船から、なんだ、どうだったか?とてもこんな夜中に誰かを呼んでこれるとは思えない。本当に大丈夫か?
思考だけが驚くような速さで流れて行く。
どうする、どうすれば、魔法が使えたら良かったのにと何処か他人行儀な客観でそんな事をキエラは考える。
魔法が使えたら良かったのに、そうすればこんな身体になる事も無かっただろうに。
涙が流れる、眼前、運んで行った船倉、息も荒く横たわったマダムを憐れむ涙では無かった。ただ自分の人生を憐れんでいた。そうして、こんな緊急事態に自分の事を思わず憐れんでしまう様な自分に、また悲しさを感じてどんどんと涙を流している。
「…どうしよう、どうしよう」
化けの皮が剝がれている、キエラは北の商家の次女に生まれた。兄が二人、三番目の姉にキエラが末っ子、兄弟姉妹達が家の為に人生と言うものを迷いなく決めて行く姿を見て何となく軍へと志願したのだ、幸いにして幾らか適正があったので機械化兵に選ばれた、いや、志願する権利を得て実際に志願して。
そうして敵兵を西瓜の様に叩き潰して初めて自分の人生に後悔したのだ。
どうしよう?
何時もこの言葉ばかりであった、機械化兵と言えど様々な技術の集合であり何も機械とだけの融合ではない、結論だけ先に言えばどれだけ魔道鋼鉄で全身の骨格や内臓の機能を補助しようが敵兵を砕いた感触は手と脳みそに残り続ける。
色々な生まれの同期の中、ただキエラだけがハッキリと【失格】【不用品】【落第】の烙印を押された。兵士として最低限、敵を殺す事すらキエラには出来なかったのだ。いや、実際には何人か殺した、それが、その事実がキエラの心に酷く重苦しく残り続ける。
酒を飲んで忘れる同期が居た、その真似をして酒を飲んでみてもただただ酔うより早く身体が拒絶反応を示して酷く強く嘔吐する、それでも少しは酔えるが強化された内臓が気を失うより先にキエラを現実に引き戻し素面にさせた。
書類整理のためだけにキエラは後方に送られた、本来なら一切命の危機が無い、誰もが配属を望むそこでただキエラは正解の無い後悔に苛まれる
どうしよう?どうすれば良かったんだろう
時間が巻き戻る方法などこの世には無い。
酷い不眠症がキエラを襲った、不眠症に基づく体調不良に端を発した攻撃性で周囲の人間とはどんどんと溝が開いて行く。
幸いな事がそれでもあった、どれだけ強化しようが人間の構造の問題で細く充分な強度を持った紐で呼吸器を締め付ければ死ねるのだ、そうだ、キエラは何時だってその気になれば死ねた。
そうしてそうしてそうして、一日だけ、半日だけ、あと少しだけ、殺した人間の感触を思い出しながら生き残って来たキエラは今に生き延びてしまったのだ。
現実に思考を戻す、眼前、マダムが酷く洗い呼吸で、それでも生きている。本当に医者は来るのだろうか?出血は止まっている、だけれども、このまま傷が治るまで抑え続ける訳にはいかない、本当に医者は来るのか?
時計は無いので正確ではないがそれでも精々一,二分だろう、船倉に降りる為の階段をサッサッと鳥獣人独特の軽い足音か降りて来て、それに続く様に別の、何か、肉球のある獣人の物だろう足音が続いて降りて来る。
「ようようよう!!!待たせたな!!まだ生きてるか??!?先生!!やってくれ!!」
船頭の後ろ、酷く赤ら顔で酒臭い熊種の白衣をまとった男がマダムの傍らにしゃがみこむ、なんと言うのだろうか?自身の許容量を超えた事態に呆然とキエラは考えた。
そうだ、レッサーパンダ、レッサーパンダ種の獣人だ。
小柄で愛らしい表情、それらを台無しにする酒臭さと荒れた毛並み。
ホントにコイツで大丈夫なのか?呆然とそんなことをキエラは考える。
「ホントにコイツで大丈夫なのか?」
口にも出していた。
「大丈夫さ!俺の知る限り一番の医者だぜ!」
その言葉に医者はただ、こんな場面でゴマすってもタダにはしねぇぞおいおい!そんな言葉を呟いて、慣れた調子でマダムの背中の傷を縫い合わせていく。
元々血は止まってた、だがそれに加えて縫合と消毒が行われ、幾らかの必要な錠剤を酒浸りの医者は船頭に提示する。
「500だ、非正規品だが効果は正規品と代わり無いぞ」
「おうおうおう、この前南国の珍しい黒糖酒タダでやっただろ?あれなんか売れば300だぜ??手数料も含めれば50だ」
「バカ野郎こんな夜中に何も言わずきてやったんだぞ?それだけで200はあるだろ、タダ働きさせる気か?」
「だとしても正当に250、それでどうだ?」
「まぁいいさ、オメェは善人だから今後も余計な仕事を抱え込むだろうしな」
そのまま交渉が終わり幾つかの錠剤を赤ら顔のレッサーパンダ獣人が置いていく、キエラはなんの言葉も挟めずそのやり取りをただ壁際、体育座りで眺めている。
その後幾らかのやり取りの末に赤ら顔の医者は出ていく、出ていく際に何か、チラチラとキエラの方を見ながら何かを船頭の耳元で囁いて、そのままスキットルから酒であるだろう何かを飲んで夜の闇の中に消えていって。
全てがキエラの許容量の限界であった、ただただ眠りたかった。もういいだろう、頑張ったよ、もう無理だよ、どこかで聞いた事のある様な言葉がキエラの頭の中で繰り返される。
寝よう、もう寝ようよ、幼いキエラの声で頭の中で鳴る。そんなものが響く、もういい、実際そんな気持ちがキエラの心を満たしている。
それでも、それでも、まだダメだ、キエラは今まで受けた教育に基づいて船頭(クイント)に願った、ともすればいっそ宗教的に頼み込んだ。
「助けてくれ」
膝を折り両手を地面につけ頭を下げる、どうしようも無い土下座をキエラはする。もうどうしようも無い、生き残る方法が無い。
ひたすら伏せて願う、キエラは願う、だが、クイントはそれにただただ止めろよと。
俺はどうすれば良いんだ?
それだけを問いかけた。