働き出して数日の事だ
「食べられないものはあるかしら?」
そう、マダムに問われてケニーは窓を拭く手を止めてしまう。
食べられないもの、体質上の話だと言うのは分かる、人種に依っては食べれない食品等があると同じ部隊にいた誰かが言っていた覚えがある、そうか、マダムは人間種についてあまり詳しくないのかもしれない、であるならば説明を求めるのも当然だ。
「いえ、人間種には基本的に食べられない食材はありません、マダム」
そう答えるとマダムは不思議そうに首を傾けて、何となく居心地の悪さを感じながらケニーもマダムの次の質問を真っすぐに立って待つ。
「うーん、じゃあケニー、貴方の好きな料理はなに?」
この質問に、途端にケニーはなんと答えれば良いのか分からなくなる。
「好きな、料理ですか?」
なんだろうか、食事に関して特別に好悪を感じたり考えたりする事は無かった、ケニーにとって一日は上手く対処して過ぎ去るのを待つもので、食事もその一部でしかない、有るか無いか、それだけだ。
早く答えねば、問われた事には短く端的に、分からない事には分からないとはっきり答える、そうすれば殴られない、幸いにしてそれらしい記憶が思い当たる、ケニーは覚えた様にする。
そうと習った様に真っすぐと立ったまま覚えた事に従う。
「申し訳ありませんマダム、好きな料理に関してですが、私には分かりません。孤児院に居た時からあまり食事を気にした事がありませんでした、今後はこの様な不明瞭な回答を返さぬ様に注意して食事を行います」
謝罪と今後の対応、孤児院で受けた軍人教育において殴られないために覚えた要領でケニーはマダムの目を見ながら答える。
「そう、そうなの」
マダムの表情は豊かな毛並みに遮られて良く分からない、ただ、それでも何日間かとはいえ共に居て、見たことの無い表情をマダムがしたのが分かる。
不愉快にさせてしまっただろうか、即座に対応すべきだ、別のちゃんとした殴られない回答を行わなければ、だがどう答えれば良いのかケニーには分からない。
軍人相手ならばこの様に回答すれば要領としては間違っていない筈だ、そうか、マダムは軍人ではない、ならばボクシや軍営の孤児院に居た教官やセンセイに答える様にするべきだった、間違えた、己の失敗を自覚してケニーは更に強く居心地の悪さが身体を覆って行くのを感じた。
だがどうすれば良いのだろう、センセイや教官やボクシはケニーに好きな料理など一度も聞いてこなかった、答え方が分からない。
同じ部隊の連中が食事に対して不平不満を述べて居たのを思い出す、あの様に出来れば良いのだが。ケニーは己の不自由さを自覚して、居心地の悪さが更に深く自身を覆うのを感じる。
たえきれず、ケニーは少しだけ身動ぎした。
軍服はもう着ていない、どうしよう。
マダムがこちらに歩み寄って来る、殴られるのだとケニーは悟る、逃げない様に、逃げ出すものは兵士としての覚悟が足りない、必要以上の反応を返さない様に、必要以上に痛がると笑いながら更に二発程殴られる。
ケニーは覚えた通りにする、両腕を後ろで組み真っすぐとマダムを見て待つ、睨んではいけない、あくまで目を見て待つ、殴られる様な答えしか返せないケニーが悪い。
だが、殴られない
「そうね、そうしてね?私の料理はとても美味しいのよ?沢山、色んな料理を作るから、これからは注意して沢山食べるのよ?きっと、きっと貴方が大好きになる料理も見つかる筈だわ」
私の料理は美味しいの、あの人が沢山褒めてくれた料理だもの、そう言って良く分からない表情のマダムに抱きしめられる、ケニーは困った様に眉をハの字に寄せて分かりました、その様にしますマダム、と短くそう答える。
そうするしかない、ケニーはこの様な状況で何と答えるべきかが分からない。
だから、口の中で忘れない様に充分に繰り返した。
マダムの料理は美味しい、マダムの料理は美味しい、マダムの料理は美味しい、初めての事なのでどれほど繰り返せば充分なのか分からないが、次に同じ質問をされた時、マダムの料理と答えれば今の様な居心地の悪さも避けられるかもしれない。
ケニーはとても居心地が悪かったので、忘れない様に何度も口の中で繰り返した。
そして最後に分かったのが、月に一度、先生とマダムが呼ぶ人間種の男が二人で連れ立ってやって来るからその準備をしないといけないと言う事。
先日の事である、
「明日、大事なお客様が来るから」
ケニー、必要なものを買いに行くから手伝って、そう言って綺麗なドレスを着たマダムがケニーを呼ぶ。
雇い主である、ケニーとしては是非もない、分かりました、すぐに準備いたします、そう短く答え、マダムとの約束により家中の窓を開けていたケニーは準備のため各部屋の窓を再度締めながら自室を目指す。
何が必要であろうか?
軍隊にいた折に買った簡素なスラックスが二着、汚れやほつれの少ない方を選びはき、同じく軍隊に居た折に買ったベルトを締める。白のシャツが三着、大した差は無い、洗った順番に並んでいるそれの一番古いものを選び、砲の整備などする際に使っていたツナギ服を脱ぐ。
ケニーはそうと習った様に手早く着替え、どうしようか、そう思い己の荷物のすべてである帆布で作られた苔緑の小さな背嚢を開いた。
孤児院を出る際に作らされた故郷の銀行口座、その持ち主である証書、これは要らない。
軍に入る際孤児院から送られた懐中時計、これは持っていく、ジャケットの類は持っていないがこの気候だ、必要は無いだろうしスラックスのポケットに入れておけばいい。
魔道型回転式拳銃、これは要るだろう、各種の動作に異常が無いかをそうと教わった様に手早く確認しケニーは拳銃をスラックスの後ろに挿す。
軍の上官から頂いたものだ、このような街であるから大規模な戦闘は発生しないであろうが素手での格闘と魔法のみでは不安が残る。
ケニーには大した魔法の才能は無い、大規模な戦闘行為やマダムを狙った襲撃があった場合、それを排除するか充分な安全を確保したままマダムを連れて逃げる準備はしておきたい、しかし、マダムは軍人では無い、これはケニーがそうと気づいて以降つねづね気にかけて居る事である。
確認はしておいた方が良いだろう。
「すみません、マダム。出掛けるに当たって戦闘や襲撃は予想されますか?予想される場合どの程度の規模と考えれば宜しいでしょうか?」
扉を開け、マダムに問う。
自室を出てすぐそばの壁にもたれて鼻歌を歌っていたマダムはその問いに不思議そうに首を傾げる。
「うふふふ、誰も襲って来たりしないわ、大丈夫よケニー」
「分かりました、ではリボルバーは置いていきます」
背後でリボルバー?と不思議そうなマダムの声が聞こえる、ケニーは背嚢に回転式拳銃をしまい準備を完了する、戦闘は予想されないとマダムは言うが充分に警戒せねば、マダムに何かあっては一大事だ。
ケニーはそう己に注意を促して、そうして、出掛ける段となった。
普段は何らかの業者らしき男が食料品や日用品等を屋敷まで配達しに来るのだが。
ケニーは助手席から聞こえる鼻歌を聞きながら考える。
何か特別に必要なものがあるのだろう、そうと命じられたのならそうするだけだ、必要以上の事は知ろうとするべきでは無い。
しかし、マダムは軍人では無い、恐らくだが、ボクシでも無い。
「マダム、普段は業者の男が必要なものを届けてくれていたと記憶しているのですが、今日は一体何を買いに行くのでしょうか?」
不愉快な気分にさせねば良いのだが、そう思いながら、それでも必要かもしれない事をケニーは問いかけた。
「あら、そうね、言って無かったわね。明日は月に一度のあの人の古い友達が遊びに来てくれるの日なのよ、だからね、素敵な花と少しだけいつもより良い紅茶を買っておかないとと思って」
それと、業者の男じゃかわいそうだわ、フランクよフランク、良い人だから覚えておいてね?ケニー、そう言ってまた、鼻歌を歌い始めるマダムにケニーは分かりました、そう短く答えて忘れない様に口の中で繰り返した。
フランク、悪い人間では無い、月に一度あの人の友人が訪ねてくる。
上った時はあんなにも大変だった坂も車で下ればすぐだ、街の外れに着き、そこから人通りの多い港をゆっくりと抜けて商店などの多い方へマダムの声に従い向かう。
石畳の道にかたかたと車のタイヤが音を立て、それになんだか気分が良くなる、運転について褒められるだろうか?運転中だ、助手席に居るマダムの方を見る訳にはいかない、だが、鼻歌が絶えず聞こえて来るから恐らく不愉快では無い、良い結果だ、ケニーはそれが少しだけ誇らしい。
「ここでいいわ、止めて頂戴ケニー」
マダムがそう言って車を止めたのは、駅の向こうにある小さな花屋の前であった。
駅から港に多くの人が向かうので少しだけ、人通りは減り静かになる、どこか近くに学校があるのだろうか、子供の声が多く聞こえて来る、それじゃあ行きましょうか。マダムがそう言って車を降りる。
雇い主である、マダムがついてこいと言っているのだ、ケニーとしては是非もない、それにマダムの安全の為にも出来るだけ傍に居た方が良いだろう。
「あらーマダム!元気でしたか?」
店番をしていた女がマダムに陽気に話しかけてくる、歳の頃はケニーと同じ位であろうか?両親に捨てられた故ケニーには名前と測れるもの以外に己の事で確信を持てるものは無い、故に測れる事はよく見る様にする、そうと覚えた様にケニーはそうする。
歳の頃は二十歳を少し越えた頃であろうか?もう少し幼くも見えるが戦闘技術や魔法を修めるには充分な年齢だ、しかし己には魔法の知識がある故使われる前に対処出来るだろう。
身長は自分が180に少し届かない位であるからそこから考えるに150前後、体重は人種が何であれ大きな問題にはなるまい、格闘になっても不安は無い。
両腕はカウンターの上に置かれている、銃撃の警戒は必要ないか?両腕は本物に思える、知る限り腕の二本以上生えてる人種は居ないが尾を上手く使うものも居るかもしれない、いざと言う時にマダムの盾になれる様に一歩だけ近づく、これでいつでも手が届き入れ替われる。
ケニーは習った通りに備える、雇い主であるし共に居て居心地の悪さを強く感じたり殴られたりする事がないのだ、マダムの命は重要である、重要な相手の命はケニーのそれよりも優先される。
「紹介するわね、この子はケニー。退役軍人省が紹介してくれた男の子でね?私の家で住み込みの使用人をやって貰ってるの」
良い子よ?そう言ってぽんとマダムに背中を叩かれ、そうと習った様にケニーは真っすぐに背中を伸ばしたまま頭を下げた。
警戒は止めない、挨拶はハッキリともたつかず、そうすれば殴られない。
「よろしくお願いします、一月程前からマダムの下で働かせて頂いております」
ケニーは名乗りながら頭を上げる、孤児院で与えられた苗字、身体と一緒に両親に捨てられた名前、感慨はない。そうと習った通りに名乗りながらケニーはカウンターに置かれた花瓶に映る背後を見ている。商店の外からの襲撃は無さそうだ。
「ケニー、この子はアンナ、良い子よ。私ね?この子のおじいちゃんの頃からこのお店でお花を買わせて頂いてるの、だから私にとっては孫みたいなものね」
その声に、そんな事、ありがとうねマダム、そう言ってアンナが少し赤くなりながら手を振る、それにケニーは浅く頭を下げて答える。
「覚えておきます」
短く答えてケニーは忘れない様に口の中で繰り返した。
アンナはマダムの孫の様なもの、親しい人間ならば警戒は必要あるまい。何か二人で話し込んでいるが特に気に留めず背後を振り返る。狭い道だ、塞がれると車では容易には逃げ出せそうにない。周囲に高い建物は無かった、狙撃も恐らくそこまで警戒せずによい。
「マダム、外からの襲撃に備えて私は出入口で待たせて頂こうかと思うのですが」
このお店に裏口はありますか?習った通りにアンナにそう聞いたところで二人が不思議そうな顔でこちらを見ている事にケニーは気づいた、何かまた間違えた、居心地の悪さを感じ出す、そうだ、マダムは軍人では無いのだ、恐らくボクシでも無い。
マダムは誰かに殺される様な人間ではないのだ。
「うふふふ、大丈夫よケニー、この街では誰も襲って来たりしないの」
マダムは柔らかな声でそう言って口元を抑えて楽しそうに笑う、アンナは口を開けながら少しの間驚いて、その後きゃらきゃらと、見た目より高い声でまた同じように笑った。
その反応を見てケニーはただ、頭を下げる。
そうだ、戦闘は起きないだろうとマダムが言っていたのに、物覚えの悪い己に居心地の悪さが強く、深くなる。早く慣れねばならない、マダムは軍人では無い、恐らく、ボクシでもない。
「申し訳ございません、戦闘は予想されないとの話でしたのに」
そう言ってケニーはただ、習った様に頭を下げた。