帰りましょうかと、マダムはただそう言った。
店内に戻ると手短にアンナに何かを伝え車に乗り込む、良かった、殴られなかった。そう考えようとしてどうにも何かが邪魔をする、ケニーにはそれが何か分からない。帰り道の車内、マダムの鼻歌は聞こえなかった。
夕食時、作業を終えいつもの様に食堂に出向くと難しい表情をしたマダムがこちらを見る。謝るべきだ、何を?ここは戦場では無い、それは何度もマダムから言われて居た事だったのに、ケニーの思考はそこで止まってしまう。
「今朝は申し訳ございませんでした、マダム」
戦場では無いことは良く理解している、今までの様に振る舞って居てはいけない事も良く理解している。だけれどどうにも馴染まない。柔らかで沈み込む様なベットで寝るのも日用品を届けてくれるフランクが強く扉を叩くのも馴染まない、自分を殴らない人間と関わる事も、誰かに殺されそうにならないで終わっていく一日もケニーには馴染まない。ケニーには抽象的なありとあらゆる柔らかなものに馴染める気がしない。だが、ケニーにはそれを言葉に出来る自由さが何処にも無い。人間なのだ、知らないものを獲得する事などできない。
「私も強い態度をとってしまったわ。ごめんなさいね、ケニー」
マダムは何時もそう呼ぶ様に柔らかにケニーの名を呼んだ、たったそれだけでケニーは絶えず自分の中にある居心地の悪さが薄れて行くのを感じる。しかし、強い態度と言うがケニーは殴られた訳でも罵られた訳でもない。マダムはマダムらしくあり続けていた。間違えたケニーが悪い
「その様な事はありません、必要以上の対応を行った私に非があります」
確信の持てる部分をそう伝えるとマダムは以前に見た良く分からない表情をして。
「食べましょうか」
ただそうとだけ言った。
ーーーーー
翌朝、ケニーがいつもの様に一日の仕事を行っているとマダムはまた綺麗なドレスを着てケニーを呼ぶ。
「ケニー、あなた、そんなに沢山お洋服を持って居ないのでしょう?」
マダムにそう問われるが、これは違う、必要な分は持って居る。しかし状況が違うのだ。実数を伝えてマダムに判断を仰ぐべきだろう。でないとまた昨日の様にマダムに不愉快な思いをさせてしまうかもしれない。
「スラックスを二着、軍に居た折支給されたツナギ服が一着、白のシャツとインナーを三着、下着も三着、私としては充分に生活に困らない量を持ち合わせていると考えております」
「だめよ?全然足りないわ、ケニー。あなた折角素敵なお顔をしてるんだから沢山お洒落をしないと、先ずはこれを着てみて」
そう言ってマダムはジャケットをケニーに差し出す。ものの良し悪しなど分からないが受け取った手触りからかなり高級なものだと思われた。孤児院に居た時、高級将校が視察に来た事があり、その時ケニーは将校から外套を受け取った。覚えている限りだが恐らくそれより高級な手触りがする。
「マダム、かなり高級なものの様に思われます。作業の後なので汚してしまうかもしれません、後ほどでも宜しいでしょうか?」
「うふふふ、私の言い方が悪かったわね。あなたにあげるわ、ケニー。この服もクローゼットに入ったままだと可哀そうだから、きっと誰かに着てほしい筈だわ」
その代わりね?
「今度誰かを傷つけたりしようと思った時は一度止まってちゃんと考えてね、あの人が残した大切なジャケットだから、汚さない様にするのよ?あなたはもう戦場から帰って来たの、帰ってきたのよ?ケニー」
マダムはケニーを優しく抱きしめる、柔らかな肉球が背中に触れてケニーはただ困った様に眉を八の字に寄せる。
「分かりました、マダム」
そうと習った様に返事をするがケニーには分からない、ここが戦場で無い事は分かって居る。だが帰って来たと言われてもここにはまだ働き出して一月程しか暮らしていない。分からない、ケニーには帰ったり帰りたいと思えるような場所は無い、マダムに確認するべきだろうか?しかし、ケニーを抱きしめるマダムはまた良く分からない表情をしていた。居心地の悪いのは嫌だ、どうにも彼女のあの表情はケニーに居心地の悪さを感じさせる。
兎に角、ジャケットを汚さぬ様にしよう。
「お客様がそろそろ来られる頃合いです、私は着替えてまいります」
ーーーーー
来ると言って居た客人は正午を少し回った頃合いに屋敷を訪ねて来た。人間種と鬼人種の二人の壮年の男。マダムは楽しそうにこの二人を出迎え、ケニーにふたりの乗って来た車を回頭しすぐに出ていける様にしておいてと申し付ける。楽しそうに話をしながら中へと入って行ったマダムに一礼しケニーは仕事に取り掛かる。大事な客人だ、お茶の準備など大丈夫なのだろうか?それは恐らくだが使用人の仕事なのではないかと思える。しかし料理好きのマダムの事だ、自分で用意するのだろう。であるならばケニーの気に掛けるべき事は無い。
客人の二人
この内人間種の男は服に染み付いた匂いが軍医に似ていた事から医者であろうことが分かった、しかし鬼人種の男についてはケニーには見当もつかない、高そうなスーツにぴかぴかの革靴を履いて三日月の様なヒゲを蓄えている、僅かに硝煙の匂いがした様な気もしたが香水の匂いに判断しきれない。
総じて偉そうな身なりに見える。だが、マダムから何も言われないならばこれらの素性は聞く必要の無い事なのだろう、覚えた様にそう考え特に詮索などしない。必要な分と言うのは何にでもある、食事の量、身分に合わせた尊大さ、言葉遣い。殴られた痛みと共にケニーはその教えを覚えている。
そうして車を回頭させて止めると誰かが坂を上がって来るのが見えた。誰だ?そう、アンナだ。配達の予定などあっただろうか?定期的に送られて来る日用品に関してはアンナでは無くフランクが持ってくるし臨時の便が来るなどと言う話はマダムから聞いては居ない。
魔法を行使し全身の筋肉に魔力を通す、戦車を叩き壊す程の強度にはならないが零の状態から全力で動かしても身体を傷めないだけの頑丈さが生まれる。人を殺すには充分な強度だ。しなやかに、地を這うように動き出そうとしてマダムに頂いたジャケットを着ていた事を思い出す。そうだ、ここは戦場ではない
「どうかされましたか?今日は配達の予定は無かったと思うのですが?何か急ぎの品でしょうか?」
魔法を行使し風に乗せてアンナの耳元に直接言葉を届ける、驚いた様にアンナの肩が跳ねて、振り返る前に手を振り自分の声だとケニーは示す。戦場では伝令などに使われる一般的な魔法だが確かにただ暮らしていく上では馴染はないだろう。悪い事をした。
「すいません、驚かせてしまって。今日はどうしました?何かマダムに要件でしょうか?」
手を振りながらそういえば今度はケニーの声だと気付いたのだろう、驚いた様子無く手を振りながらこちらにトコトコと小さな歩幅で必死に歩いてくる。もう少しだ、ケニーもまたアンナに近づきながら手を振る、あと五歩、アンナは彼女に良く似合う服を着ている、褒められれば良いのだが、そう思うが服の褒め方などケニーは知らない。後一歩。届いた。
声と掌が届く距離、この距離なら彼女が何かするより早くケニーは殺せるだろう。ここならば大丈夫だ、たとえ魔法による自爆におよんだとしても魔法で被害を最小限に留める事が出来る。マダムや客人は気付くことすらないまま事態に対処できるだろう。そんな事考えているケニーの前で、アンナは笑っている。
「ケニーさんは魔法が使えるんですね!私、びっくりしちゃいました」
額に浮かぶ汗、大きな麦わら帽は彼女に良く似合っている。何より発汗を抑え熱中症になるのを防いでくれる。
「すみません、驚かせるつもりは無かったのですが」
良かったら使ってください、そう言ってケニーは腰につけていたタオルを彼女に渡す、まだ日は高い。あの坂を上って来るのは小さく脆い身体では大変だっただろう。
「それで、本日はどのようなご用件ですか?」
アンナが汗を拭き終わったのを見てケニーが声を掛ける。最小限の力で魔法を行使し、右手に熱を生み出す。ケニーは身体が覚えている通りにそうして備えていた。
「実はですね、今日はケニーさんをデートに誘おうと思いまして」
ケニーの眉が八の字に寄る、困惑している。居心地の悪さすら感じる間がない程ケニーは困惑していた。