最初はきっと、憐憫からだった。
誰にも受け入れられない。人間にも、怪物にもなり切れない。誰にも、何者にも、負の感情以外を向けられない。人の心を持って生まれてしまった、哀れな怪物。
異端児たちを見て、彼は考えた。
人は親に守られ育っていく。怪物はダンジョンに力を与えられ、されどもお互いにいがみ合うことはほとんどなく、各々がその力で冒険者を殺しにかかる。
異端児たちには、何もない。
人のように守ってくれる親がいるわけではない。怪物のように、数が多いわけでもない。もしかすれば、同族に出会う前に、孤独に死ぬかもしれない。むしろ、孤独のままに死ぬことの方が多いだろう。
――独りのまま死んでいく。人の心を持つ何者かが、そんな悲しい結末を定められていい筈がない!
それこそが、彼が初めて抱いた、英雄願望。
人類だって玉石混淆。ならば、怪物にだって玉がある。
生きるために、稼ぐために、食うために。剣を取って生存闘争に明け暮れた彼は。
「俺がなってやるよ。お前たちの英雄に」
その日初めて、彼は志という芯を持って。
異端の英雄の道に、足を踏み入れた。
空ニ輝く アストラム 闇夜切り裂き閃いタ
たった独り 道を照らした 希望ノ星
広がる闇夜ニ たった独り 輝く貴方ヲ見上げるばかり
空ノ星まで届かない 地ニ足ついた 籠ノ鳥
私ハ必ず羽ばたきます 空ノ向こうへ 双星ニ
アストラム 空ニ輝く星の名ヲ 今ハ私ノ声ばかり
微睡に委ねていた意識が、少しずつ浮上する。
繊細で、心洗われるような歌声が耳を打つ。それをふと、もっと聞きたいと思って、覚醒していく。
くすんだ金色。目の前に広がるのは、朧のような色だった。頬や鼻をくすぐる感触を覚え身じろぎすると、ぴたり、と歌声が止む。
ほどなくして、視界が広がる。覆っていた朧は、瞬きの間に美しい女の顔に置き換わる。健康的に頬に朱が差し、柔らかく口元を綻ばせ、「おはようございます」と、どこか遠慮したような声音が耳に届く。
「……おはよう? ……今、何時」
「ダンジョンなので、時間ハわかりません」
「そりゃ、そうか。どれくらい経った? 寝てから」
「そろそろ、食事ノ時間になるかト」
「げ、もうそんな時間? やばいやばい、うちの主神様が待ってる」
音も立てずに、彼はさっさと起きて立ち上がる。
そこでようやく、その女の全貌が視界に収まる。
くすんだ金色、先が青みがかった、特徴的な髪の色。
エルフのように先が尖りながら、全体的にふっくらと丸みを帯びた特徴的な耳。
何より、腕の代わりに両翼を持つ、人の形ながら異形の姿。
それは
そんな怪物の特徴は、くるっと反転した美しい姿に、暖かく柔らかな瞳、波立たない美しい声。
それが、
くすんではいるが、照らされればきらりと光る金色の羽毛は、その羽先をマリンブルーに染めている。均一に、一糸乱れなく整えられた両翼は、芸術品のように美しい。
「また来る。移動するときは、フェルズ通して教えてほしい」
「……はい」
くすんだ金色の羽毛に覆われた太ももに、鳥の足。異形の足でも、レイは行儀よく正座のまま、小さく微笑んで頷いた。
彼が背を向けると、視線が確かに刺さる。ジッと、見つめられているのを彼自身が自覚するほどに。
その美しい声で訴えることはない。無言で、きっと無意識なのだろう。彼にとっては、後ろ髪を引かれるような感覚を覚える。
「ふぅ」
ふらり、と彼は千鳥足を思わせる危うい歩き方で、くるりと反転する。「とと」、などとわざとらしく声を上げて、レイのもとに戻って座り込んだ。
「まだ、頭起きてないわ。もうちょっと、ここに居る」
「わかりましタ」
美しく声音が弾む。本人(……本鳥?)は、微笑んだままで、ポーカーフェイスを気取っている。その表情も、どこか先ほどよりも柔らかく、まなじりが緩く垂れている。
「後ろ向いて」
荷物袋の中に手を入れて、彼はガサゴソと何かを探す。その間に、彼女はふわりとそよ風を起こし、彼に背を向ける。
彼が手にしたのは櫛だった。飾り気のない、木の色素直なとき櫛。
それを、レイの髪にゆっくりと通す。穏やかに、規則的に、すっ、すっ、と髪を梳く音が優しく耳を打つ。彼女はされるがまま、石像にでもなったかのように微動だにしない。
櫛を通す間、両者の間に一言たりとも会話はない。
髪の毛が終われば、櫛を替える。今度は翼を軽く、撫でて空気を含ませる程度に梳く。
梳き終わってから彼が「よし」と独り言ちると。
「――♪」
美しく、高い声音をレイが上げる。機嫌が良い、といわんばかりのソプラノボイスだ。短いハミングは聞く者の心に沁み込み、心を軽くする。聞いているだけで気分が仄かに高揚する。
「変わらないな」
昔からそうだった。レイは彼に向けて、「ありがとう」の代わりに歌声を届ける。彼もその歌声は聞き心地が良く、緊張の糸が緩む。
約束事のような応酬が、両者の間だけで成立していた。
「変わりましタ」
「そうかね」
「はい」
「なら、変わったのか。それとも、変えたのかね」
彼は、饒舌な方ではなかった。
どちらかと言えば寡黙で、必要なことを黙々とこなしていく。ことさら、リラックスしていると口数が顕著に減るのだ。
微睡むように、緩んだ沈黙の中。
これといった話題は口に出ない。仮眠をとる前に、そんなことは話し終わっていた。レイを含めて、彼女の仲間たち全員に、土産話のように聞かせた。
「……まだ、時間が掛かる。ここは、底が見えない」
「はい」
「でも、くたばる前にはやり切るさ」
彼はヒューマンだ。もう二十も半ばの男で、現役でいられる年月は、どれだけよく見積もっても40年といったところか。
もともとあった時間を含めれば、既に5分の1の猶予が削れている。それでも、彼が目指した大偉業の終わりは、その末端すら姿を見せない始末だ。彼は未だに、当時最高派閥であった【ゼウス・ファミリア】の最高到達階層にさえたどり着けていない。攻略の情報が出回っている状況で、これなのだ。
ならば、未開拓領域の最高到達階層ともなれば、進捗は牛歩の如く遅延していくのは自明の理。
今のペースでは、仮にダンジョンが100層からなる構造であったとするならば。
彼が生きている間での完全踏破は、不可能とさえいえるだろう。
「次ハ、アステリオスも連れて行きましょウ」
「……そうだな。あいつ、強いからな」
それに、と彼は続けてぽつりと呟く。
「うちにも、良い新人が入った。遠くない内に、きっと肩を並べられる」
彼は立ち上がると、今度こそ出口に向かって歩き出す。
「またな」
「――」
レイから返される声音に、彼は振り返らない。
強く、強く大地を踏みしめて。
真っ直ぐ、堂々と、進み続けるのであった。
「振られちまったな、レイ」
「振られてなどいませン」
彼が去った後。のそり、と赤い鱗に覆われた
「揶揄ってやるなリド。随分な進歩だろう? まぁ、その反応をあいつにも見せてやれば、一晩くらい一緒に居てくれそうだがな」
「ヨセ、ラーニェ。追撃シテドウスル」
「いやー、レイもアスっちにもっとアピールしないとな! とりあえず、25階層で逢引ってのはどうよ」
「……次ノ遠征も」
「オレっちは留守番しとくからよ。アスっちのことはレイに任せる」
「私は深層ともなれば厳しいからな。ここでゆっくりさせてもらう」
「ありがとウ」
各々が怪物の姿を持ちながら、人並みの知性と理性を備えた、異端の存在。
十数年前、