原点を振り返ると、最初の願いは「たった一人の女性」を助けたい、という小さなものだった。
まだ、とても小さい頃。成人男性の半分にも満たない身長の頃。不慮の事故で両親を亡くし、天涯孤独となった男の子が、ゴミを漁り、盗みを働き生きていた。
金なんてものはない。雇ってくれるところもない。恩恵を授けてくれる神もいない。孤児院なんて知らない。生きるためには、誰かから奪うしかなかった。
そんな折に、彼がターゲットにしたのは、白い髪の女であった。
その手に持つジャガ丸くんを走りながら掠め取り、そのまま一口に全部食べて逃げよう――
「
――としたところで殺されかけた。
衝撃が身体を突き抜けたと思ったら、気付けば宙に舞っていた。自分が今どこを向いているのか、どこに居るのかさえわからなくなり、最後に聞こえたのは、小さな悲鳴くらいで。
意識は一瞬で暗転した。
次に目が覚めた時、彼が最初に見たのは灰色の髪の女が、「私は小さな子どもを魔法で殺しかけました」と
女は瞳を閉じているのに、何故かこちらを睨んでいるような圧力を覚えた。早く逃げ出したい、と彼が起き上がったところで。
「あら、起きたのね。じゃあ、はい、これ」
灰色の女とは反対の方から、声を掛けられた。
驚き振り向くと、そこには白い女が座っていた。真っ白な、雪のような女が、ジャガ丸くんを差し出してきた。
「食べたかったのでしょう?」
白い女からひったくるようにジャガ丸くんを受け取ると、彼はすぐさま口の中に詰め込んだ。まるで取られないように、とでも言いたげな様子で。ほとんど味わうこともなく、飲み込んだ。
「ふふ、お腹が空いていたのね」
当然だった。お腹が空いていなければ、誰が盗みなど働くものかと。
彼は静かに憤慨しながらも、それを口にはしなかった。背中からの圧力にビビっていた。
「じゃあ、お話し相手になって?」
「――は?」
待てどうしてそうなった、と言葉に出来ないまま間抜けな顔が晒された。
そんな彼を気にした風もなく、つらつらと今日あったことを語り始める白い女を目の当たりにしながら。
ヤベエ奴に捕まった、と。
彼は漠然とその考えに至っていた。
病弱な白い女の、つまらない話。
今日は何があった。体調がたまたまよくて気分よく外に出た。過保護な姉がついてきた。ジャガ丸くんを買ったら、掠め取られそうになって、姉が犯人を殺しかけた、などと。
人畜無害そうな顔して恐ろしいこと言うなこの女、と彼はドン引きしていたが。
「また、お話の相手になってくれない?」
これは前金ね、ともう一つ。白い女は手に持っていたジャガ丸くんを半分にすると、その片方を彼に差し出した。
彼は条件反射のようにそれを掠め取ると、また口の中にそれを突っ込んで飲み下した。そんなに慌てて食べなくていいのよ、と微笑みながら言う白い女の言葉は無視した。
「うん、おいしい」
ふわり、と花がほころぶような笑顔を見た時、彼の心に小さな痛みが走った。
逃げ出すように、彼はベッドから抜け出すと、すぐに出口の扉に手を掛けて。
「また、いつでもいらっしゃい」
去り際に、白い女から優しく声を掛けられる。
――またジャガ丸くんを用意して待っているわ、と。
どうしてか、鼻の奥からツンとこみあげてくるものを振り払うように。
彼はその日、その場所から逃げ出した。
後日、お腹が空いて戻ってきたとき、白い女は建物の入り口に立っていた。
「いらっしゃい」
気が付けば、その白い女に手を引かれていた。
とても暖かく、振りほどこうと思えばいつでも出来るほど弱い力。握られているというよりも、添えられるように。
温かいな、とどこか懐かしさを覚えながら。
彼は気が付けば抵抗もなく、女の話をすんなりと、聞くようになっていた。
咳をよくする女だった。
いつもベッドの上にいる女だった。
底抜けに誰かに優しくできるのに、世界は彼女に手を伸ばしてくれなかった。
なら、せめて自分が手を伸ばしたい。引いてくれた手を、今度は握り返す番だと、己を奮い立たせて。
「恩恵をくださいッ!」
初めて誰かに頭を下げて、彼は心からの渇望を叫んだ。
冒険者になった理由は、なんてことはない。
お節介で底抜けに優しい病弱な白い女を、少しでも助けたいと思ったから。
ダンジョンの中は未知に溢れているというなら、きっと白い女を救う術もあると、夢を見たから。
だから、彼は冒険者になったのだ。
白い兎を見ていると、どうしてか白い女を思い出した。
底抜けに優しいところなんてそっくりだ。目の色はともかく、顔つきはとてもよく似ていた。悪意を知らないような、無垢な笑顔が懐かしい。
もしかしたら、本当にあの白い女の子どもなのかもしれないが、彼にとってそれは今、関係のないこと。
「【ヘスティア・ファミリア】……? おいおい、何の冗談だ? うちのファミリアに、そんな人間が所属していたなんて聞いたことがねえ」
絶叫して固まっている白い兎を横に、炎のように赤い髪の男、ヴェルフが訝しげに声を上げた。
そもそもヴェルフの認識では、【ヘスティア・ファミリア】はここ最近立ち上がった新興ファミリアであるという認識だ。その反応も仕方ない、と彼は困ったように頭を掻いた。
「そりゃそうだ。7年前に、【ヘスティア・ファミリア】は一度消滅した。だから、後輩君。君たちの前に居るのは、死人だと思ってくれ」
「ゆ、幽霊……!?」
「世間一般だとそうなってる。18階層に墓もあるぞ」
「――へぅ」
きゅーパタン、と春姫が目を回して気絶した。
それに目を白黒させたのは、他でもないアストラム本人だった。「えぇ……?」と困惑の声が漏れ出て、どうしたものかと考える。すぐにどうしようもない、と結論を出すと、彼は何事もなかったかのように視線を切った。
「……証拠がありません。そんなこと、リリたちはヘスティア様からも。……当事者の方々からも聞いていません」
「アルフィアとザルドのこと?」
「っ!」
体こそ震わせなかったが、その小人族、リリルカの視線がキッと鋭くなる。どこまで知っているのか、一挙一動見逃すまいと、隠しているつもりの警戒心が剥き出しだ。
「いや、だってさ? あー、どう説明したかな。すっごい暴露するけど、アルフィアの妹って、俺の初恋の人なんだよね」
「……はい?」
「……エ?」
リリルカだけでなく、レイさえも素っ頓狂な声を上げた。
反応されたことに、しかし彼は敢えて気づかなかったふりをして、言葉を続ける。
「それで、あの『死の七日間』の時にさ。アルフィアは死のうとしてた。でもさ、今は亡き初恋の人の姉が死ぬってのは……なんだ。見逃せなかった」
だから死ぬ気で助けた、と清々しいほど混じり気なしに、アストラムは笑って言った。
「世界さえも手を伸ばさず見捨てるなら、俺がこの手を伸ばして救う。振り解こうとするなら、無理やり掴んで引き上げる。たとえ助けた後に偽善と罵られようが構わない。俺の偽善で救われなかった誰かが救われるなら、それでいい。何もせず善意を口にするくらいなら、石を投げられようが偽善をやる。そうして生き残ってもらえりゃ、案外何とかなるもんだ」
だってさ、と彼は嬉しそうに笑みをこぼして、言葉を続ける。
「アルフィアのやつ、あんなことしでかしておいて、今じゃあんなに幸せそうだろ? ほら、生きてりゃ何とかなるじゃないか」
しん、と静まり返るその場で、誰もが呆気に取られてしまった。
リリルカは、底知れない馬鹿なお人好しがいることに、そしてあの最恐の女にそんなことを言える目の前の男に、信じられないものを見るような目を向けていた。
ヴェルフは、最初こそ何を言ってるんだと呆気に取られたが、話を全て聞き終えると、「くくっ」と声を漏らし、その肩を震わせた。
ベルはもう、その瞳に雷の如き光を宿していた。星なんてものじゃない。目の前で光り輝いている。アカリゴケなんかよりよっぽど眩しい。
三者三様の反応に、途端にアストラムはバツが悪くなる。
期待に応えられなくて悪いけど、と彼は前置きした上で、沈黙を破る。
「俺が【ヘスティア・ファミリア】所属と聞かされてないのは、争いの種になるから。じゃあ、アルフィアとザルドが何で本当に知らなかったのかと言うと……」
「えっ」
リリルカが「本当に知らなかったんですか」と目を丸くしているのにも気づかず、アストラムは先ほどまでの笑みを引っ込め、渋面にその顔を染めると。
「……俺、世間一般で死んだことになってて、それってアルフィアも、死んだと思ったままなんだ。連絡とったことないし。……まぁ、よしんば。アルフィアがオラリオ出てから連絡とれなかったのは仕方ないとして、さ」
時折言葉に詰まりながら、アストラムは最後まで続ける。
「俺、後輩君が入ってきた時にアルフィアが保護者やってたの知ってたんだよね。それを、ヘスティア様を拝み倒して言わないでくれってお願いした。理由はそれだけ。それとこれはお願いなんだが……つまり、なんだ。ーーバレたらアルフィアに殺されるから勘弁してください」
『………』
沈黙が耳に痛かった。
後輩たちに頭を下げる情けない先輩に、冷たい視線が突き刺さる。あの光り輝いていた瞳も、今では困惑に揺れてしまっている。
「ぷっ、くくっ、だははははははッ!」
そんな中、大きな笑い声を上げて重い空気を吹き飛ばしたのはヴェルフだった。
もう我慢できねえ、と彼は腹を抱えてよじれさせ、目尻に涙を浮かべて笑っている。時折咳き込みむせながらも、彼は大口開けてひとしきり笑った後。
「つまり、英雄様も女房の尻に敷かれた男ってこった!」
「恐ろしいこと言うな!?」
冗談じゃない、と思ってアストラムが反射的に叫ぶも、ヴェルフは気にせず「気に入ったぜ」と、まだ肩を震わせながら口にする。
「ま、ベルの保護者には言いつけるけどな」
「……じゃあヘスティア様に伝えといてくれ。3ヶ月くらい音信不通になりますって」
「部外者の俺が言うのもおかしなことだけどよ。……時間が経つほど、バレた後が怖ぇぞ」
それによ、とヴェルフはベルの方を見てから。
「ベルはあんたに憧れてるんだ。なら先輩として、情けねぇ姿見せてくれんなよ」
「……」
アストラムは何も言い返せなかった。先輩を自称するなら、確かにこんな姿を見せるのは格好悪い。
英雄なんてものを気取るつもりはさらさらないが、ファミリアの後輩に向けて格好つけるくらいなら、許されてもいいだろう。
「まぁ、うん。今回の作戦が終わったら、アルフィアに会いにいく」
果たして半殺しで済ませてくれるだろうか。死者は還れと本気で殺される可能性も否定はできない。
その時は、これでもかと自分の行いを誇ってやろう。どうせ死ぬのなら、それくらい許されたっていいはずだ。
「……というか、こんな自分語りする前に。お前が口添えしてくれたら話が丸く収まっただろ」
思い出したように、レイの隣で話を聞いていたアリーゼを睨む。
アリーゼはケロッと悪びれた様子もなく「たしかに!」と、まるで天啓でも得たように目を見開き、大声を上げた。
「でも、アトラったらいつもツンツンして自分のこと話さないじゃない。なら、聞ける時には聞いてしまった方が得よ!」
ドン、と胸を張って答える姿には、反省の色が欠片もない。むしろ誇っているところが余計にタチが悪い。何を言っても無駄なのは明白であった。
はぁ、とアストラムは大きくため息を吐くと、手を二回打ち鳴らす。呆気に取られていた者たちが、ハッと我に返ったのを認めると、彼ははっきりと声を上げた。
「話は終わりだ。後輩君たちには悪いけど、俺は表立って君たちを助けることは出来ない」
「そして、それは私たち【アストレア・ファミリア】も同じよ。少なくとも、この子たちの問題が解決するまで、私たちも手が足りないの」
アストラムはレイの方に足を向けた。
アリーゼは、アストラムの方に足を向けた。
そうして、お互いに横切る寸前。
「外は任せた」
「中は任せるわ」
昔からの癖、符号のようなものだった。
誰に悟られることもなく、後ろ手に、お互いの拳を軽くぶつけた。
意味は『何があってもあなたを助けない』、だ。
「それじゃあ、私は戻るわ。もっと居たいけど、ファミリアの指揮とか全部ライラに任せちゃってるし。どっかの誰かさんのせいで輝夜は荒れてるし。だから、また今度。作戦が成功したら、今度こそパーッと飲み明かしましょう!」
イエーイ! と、片手に持ったジョッキを掲げると、それに続くように異端児たちもジョッキを掲げ、空間が震えるほどの声を上げた。
最後に、アリーゼはその中身を飲み干すと、アストラムに視線を送り。
「またねー!」
そのジョッキを、彼の方に綺麗な放物線状の軌道で投げ渡した。
彼がそのジョッキをキャッチした時、既にアリーゼの姿は消えていた。
「はぁ」
いつも山火事のような女だ、とアストラムは溜息をこぼすと。
「あんなのでも、“レベル7”だから。本当に困った時は、頼りにしたらいい」
まぁ後輩君の保護者の方がよっぽど頼りになるけど。
そう言って、アリーゼの去った入口に視線を向けるアストラムは。
どこか幼さを残した、あどけない笑みを浮かべていた。
仮にアリーゼとアストラムが戦闘になった時、お互いに千日手になって勝負が決まらない。
『死の七日間』の時のアルフィア(持病持ち)に対しては、現在のアストラムも勝率一桁%だけど、現在のアリーゼは勝率半々といったところ。
『死の七日間』の時のザルド(毒進行中)に対しては、現在のアストラムは勝率9割以上だが、現在のアリーゼは勝率半々。
現在のアリーゼ・ローヴェルは、割ととんでもない化け物スペックの持ち主。
ただし、現在の誰かに通用するかは、話が別ということで。
『何があってもあなたを助けない』
二人の関係性を示すには、それが一番適切な言葉だった。
また、アリーゼが聡明でめちゃくちゃ察しのいい女性なのは原作準拠です