その男のことが、私は酷く気に食わなかった。
すました顔をして、さも当然のように。正義に葛藤してきた我々を嘲笑うかのように、何の迷いもなく人を助けるその男が、大嫌いだった。
都合のいい偽善者。考えなしに善人ぶった愚か者。後に降りかかる代償も考えず、無闇やたらと手を伸ばし、最後は助けた者に重荷を背負わせる性悪。あるいは身の程知らず。
そんな男の事を、あのポンコツが理想の正義だなんだと語る姿はあまりに酷で、哀れに思った。
正義とは武器だ。言動の暴力を正当化するための色のない旗である。
正義は決して理想と相容れるものではなく、理想に近づけるために摩耗させていく過程のことだ。
理想を前提に置くなど論外で、最善に限りなく近づけるために、正義は余分を削り取る。
理想とは、完全無欠の夢物語。たった一つたりとも取りこぼさず、全てを救済する、全知全能の所業。人である限り、決して到達できない夢の果て。
――彼奴が理想? 笑わせるな。あれは理想に見えるだけで、捨てられた犬猫を拾うだけ拾って、世話もまともに出来ない暗愚の類だ。
それでいて、一丁前に夢だけは見せるのだから性質が悪い。
現にこうして、一番の未熟者が夢を見せられた。はた迷惑この上ない。
何より、勝ち逃げなどしようとしたその無責任さが、心底気に食わない。
後にその信念を問いただしてみれば、愛玩動物に向けるような青臭い思い。心底呆れ果てる捻くれ者の思考ときた。
――アレは断じて、正義などではない。
正義が人の数だけ、その者の主観から作られるものであることを理解して尚、アレを正義と呼ぶことは口が裂けてもできない。
――憐憫だ。
アレは「可哀想」などと。腑の煮えくりかえる感情を押し付け、恩着せがましく「全てから見放された誰か」に手を伸ばし、断崖絶壁から救い上げる。そんな、どうしようもない類の男だ。
だから、余計に腹立たしくて仕方がない。
「彼奴に救われたことは、私の人生最大の汚点だ」
そんな男に、命を助けられた過去の己を。そして、そんな思いを抱いて助けに入った男を、今すぐにでもくびり殺してやりたい。
「この私に決定的な隙でも見せようものなら」
――今度こそ、その息の根を止める。
憎悪、嫌悪、そして殺意に研ぎ澄まされた昏い瞳で、男の似顔絵を睨みつけると。
ドスン、とその似顔絵の額に、小太刀を深々と突き刺した。
「……またやってるわね」
「いや、ノンキなこと言ってねーで止めろよ団長」
「ライラ。私、まだ死にたくないの」
「………なんで、あんな拗らせたんだか」
遠い目をしながら、隣の部屋にいた二人はため息を吐く。
「いっそ輝夜のこと抱いてくれないかしら。それでまるっと解決――」
「やめろ。翌朝になって二人とも死体で見つかるとか、あたしはゴメンだぜ」
「ですよねー」
ドスン、と再び刃を壁に突き立てる音を聞きながら。
二人はもう一度、大きなため息を吐いた。
「『流星の射手』?」
昔。まだ背丈も女の半分ほどの子兎だった頃。
祖父が出掛けて留守にしている日に、その子は義母に英雄譚を聞かせてほしいとよく頼み込んだ。
これも祖父の影響か、それとも母親譲りの性格か。
最初こそ、灰色の髪の女は考え込んだ。己が見聞きした英雄譚は、きっと彼の祖父に聞かされているだろう。しかし、身近なことを話すには、嫌悪感ばかり浮かんでまともに話せそうにない。
そんなことを考えて、ふと思いついたのが、最も新しい英雄譚。
己がたしかに見て、聞いて、その最期まで見送った英雄の話。
彼の祖父さえ知らず、同居する男も、実際に見たことはない。自分だけが知っている物語。
腹立たしいことに、レベル7を二人も救ってみせた、たかがレベル4の冒険者。これならば、と女はその
「巷でそう呼ばれている。ただ、長い話でもない。何せその男の英雄譚は、たった7日のうちに終わってしまったのだから」
「たった、7日だけ?」
「あぁ、そうだ。それも、笑える話はひとつもない。仲間だっていない。ただ、初恋の女の姉を救いたいからと、奔走した男の話」
ふっと、その口元を綻ばせながら、女は歌うように語る。
「悪しき時代の話。その都市は些か特別で、深い、深い穴……ダンジョンが、街の中にある。ダンジョンの中には、地上とは比べ物にならないほど凶悪なモンスターたちがひしめき、侵入してきた者を殺そうとする」
舞台設定は十分だろう。
瞳を輝かせ、続きの言葉を待っている子兎を見て、女は続きを紡ぐ。
「そして、敵はモンスターだけではない。悪い冒険者たちが、その時代には多く居た。ダンジョンのモンスターを地上に解き放ち、混沌と絶望をもたらそうとした者たちが居た」
それを成そうとした女がこうして涼しい顔で語っているとは、目の前の子兎は予想だにしないだろう。わかるわけもないし、知る必要もない。
「その わるいぼうけんしゃ は、モンスターとなかま なの?」
「違うな。モンスターに対面すれば、悪い冒険者もモンスターに襲われる。お互いに、仲間だという意識は微塵もない。ただ利用してやろうと、悪い冒険者がバカをやっているだけだ」
信念はあった。覚悟も決めていた。ただ、語る本人がそのバカ筆頭の一人であることにツッコミを入れる者は、この場には誰もいなかった。
「さて、そんな悪い冒険者の中に、後に『流星の射手』と呼ばれる男の、助けたい人が居た」
「えっと。たすけたい ひと って おひめさま みたいな?」
「違うな。正真正銘、悪い冒険者だったさ」
こてん、と小首を傾げる子兎。少し話が難しかっただろうか、と考え、補足するように口を開く。
「男の思いは定かではない。ただ、悪い相手でも。好きだった相手の姉だ。その血縁を少しでも、守りたかったのだろう」
それに、と。
女はどこか呆れた様子で眉をひそめながら、一つ息を吐いて言葉を続ける。
「男は未熟で、青臭かった。誰も助けてくれない誰かに、手を差し伸べたいなどと。そんなことを本気で思う愚者だ」
だが、その信念こそが男を英雄にした。
「話が脱線したな。……その頃の都市は、悪い冒険者に溢れていた。少し気を抜けば、やれ殺し合いだ、やれ自爆だ、襲撃だと、喧しいことこの上なかった。当然、冒険者たちは悪者を相手に市民を、仲間を守るために戦い続けた。――冒険者たちにとって、それは決定的な脅威ではない。精々、強盗が現れた、くらいの危機感だったろう」
それも十分怖いような、と子兎は思ったが、頼りになる家族を思い出すと、それほど「怖い」とは思わなくなった。というより、目の前の女の方が強盗なんかより何万倍も怖い。
「しかし、その均衡を脅かす存在が都市に現れ、冒険者たちを襲撃した」
それこそが、当時最強のレベル7の冒険者であり。
ゼウスとヘラの残された眷属。もはや寿命が残されていない、【静寂】と【暴喰】の二人。三大クエストのうち、【静寂】は海を、【暴喰】は陸を征伐してみせた、掛け値なしの英雄。
「その内の一人が、男が助けたいと思った女だった」
「……え、つよいの?」
「あぁ、強いとも。当時、男はレベル4に対して、女はレベル7だったのだからな」
目をまん丸と、子兎は見開いていた。まさか強い誰かを助けようとしていたなんて、思っていなかったのだ。
何より、男の信念と矛盾するような状況が、子兎に混乱をもたらしていた。
「男は、都市の中に居る誰よりも早く動いた。あの男は、それを可能にするだけの、ひどくつまらない魔法が得意だった」
「まほう?」
「華々しいものではない。男の魔法は、ただ魔力を使い“魔法の矢を生み出す”だけのものだった」
魔導士であり、弓兵。
ただ、前線に立って一騎当千のような活躍をする、典型的な英雄とは違うのだと。子兎はすぐに理解した。
「すごいの?」
「……速さ。その一点だけは、他の追随を許さなかった」
瞬きの隙さえ許さない。
光った、と認識した時にはもう、着弾している。
レベル7だからこそ、そして女が特殊な
「音よりも速い光の矢。レベル7の冒険者も、さすがに反応が出来なかった。ただ、威力は所詮レベル4の魔法だ。どれだけ当たっても、決定打にはなりえなかった」
それでも、と語る女は言葉を続ける。
「怯ませた刹那。注意をひいた一瞬。鬱陶しく、関心を引く手管。何より、レベル7の襲撃者以外には、まさしく脅威となる一矢は……強者に対して時間を稼ぎ、同格相手を撤退に追い込み、格下は容易く屠ってみせた。男の矢が着弾した時、周りが見たのは光の残光だけだった」
――まさしく、流星のようだった。
子兎の瞳が、星のようにきらきらと光りはじめる。その瞳は真っ直ぐ、女の事を見つめて、身体を忙しなく揺らしている。
「それこそが、『流星の射手』の由来だった。光の矢で悪をくじき、強者に抗い、多くの誰かを救ってみせた」
それがプロローグだ。
女が実際に見たエピソードは、あと二つ。邪神から聞いたエピソードは、まだ幾つか。
次の話を見繕っているところで、家の入口が開けられる。ベルの関心は、すぐに帰ってきた男に向けられ「おかえり、ザルドおじさん!」とにぱっと眩しい笑顔が向けられる。
「あぁ、ただいま。どうした、えらくご機嫌じゃないか」
「アルフィアお義母さんに、お話聞かせてもらってたんだ!」
「ほう、なら英雄譚か?」
「うん! 『流星の射手』のお話!」
「ははっ! そうか、あいつのか!」
ザルドは大きく声を上げると、背負っていた籠を片手にキッチンの方まで向かう。
「俺もあいつには随分と手を焼かされた。的確に鬱陶しいくせして、めちゃくちゃ遠くに居たからな、あいつ。狙撃出来るなら、猪なんぞ無視して真っ先に狙っていた」
懐かしそうにそう言いながら「さて」と、ザルドは手を洗い、夕餉の準備を始める。
「ベル、仕込みを手伝ってくれ。今日のメニューはシチューだ」
「うん!」
子兎、ベルはキッチンの方に向かって手を洗い始めた。ザルドは背負い籠から食材を出しながら、まな板の上に並べている。
ベルをとられたことに眉根を寄せていた女、アルフィアは、しかし「ベルの料理が食べられるなら」と留飲を下げると、瞳を閉じて穏やかなひと時を楽しむことにする。
きっと望まれていたありきたりな日常が、そこには確かに広がっていた。
色々とこじらせてしまった病みヒューマンに黙祷
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