『アオのハコ』第一話の勝手なノベライズ版でございます。
とりあえず原作読んでからですかね、これだけだとなんだか分からないかもしれません。
要望があればつづくかもしれませんけど、なかなか時間かかるんですよね…。
まあ気長に待っていただければ。多分。

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最近三人称書いてないので、なんかやたら手間が。


アオのハコ#1 ノベライズ版

 私立栄明中学高等学校は、いわゆるスポーツ強豪校である。私立校であるからして何事にもお金はかかるものの、上手くすれば全国区のスター選手として羽ばたく可能性もあるという点で、親御さんも気前よく寄付やら何やらを弾んでくれる。そしてそのお陰で理事会も潤って、生徒たちの練習環境が整備されて更に結果が出るようになる。Win-Winの関係というヤツだ。

 そんなわけで、栄明生徒の多くはスポーツに打ち込む青春を送っている。それは時間を問わない、例えば朝早くであろうとも、休日であろうとも。

 冬休みも後半戦に入った一月某日、朝の冷たい風の中で体育館へと急ぐ男子生徒がそこにいた。

 中等部の三年生、猪股大喜。バドミントン部所属で、朝練のために毎朝こうやって走ってくる。

 ――いや、それだけとは言いがたい。少なくとも、ここ暫くは。

 だからこそ、顔にボールが直撃しても平生を装おうとしてしまうのだ。いや、実際には痛いのだが。まさか鉄扉を開けた途端にバスケットボールが飛んでくるとは思わないから、避けようもないまま顔面で受け止めたのだが。

「ご、ごめん! エルボーパスの練習してて……!」

 飛んできたボールの主に頭を下げられ、大喜は逆に申し訳なさそうな顔。自分が痛い思いをしたことより、目の前にいる()()が表情を曇らせている事が辛い。大喜は中学生の男子にしては珍しく、そういう優しい考え方が出来る子だ。それに何より、相手が相手だから。

 高等部一年にして女子バスケットボール部の次期エース候補、鹿野千夏。実力も人柄も美貌も揃ったスゴい人、少なくとも大喜はそう思っているし実際雑誌やローカルテレビ局の取材を何度も受けている辺り、もっとスゴいかもしれない。

 二人は朝練で毎日顔を合わせる、それだけの関係。

 それだけ、である。()()()()()()()()()()()()

 しかし大喜としては、このままで居続けたくはない。

 何故なら大喜は千夏が、――好きだから。

 

 時間は流れて、既に昼過ぎ。

 冬休み中ではあるが、学内は生徒で溢れている。授業がないだけで平常運転なのが、スポーツ強豪校たる所以だ。その分部活をすればいいわけだから。……仮にも教育機関がそれで良いのか、それは神のみぞ知る。

 そんなこんなで昼の休憩をする生徒たちの中、大喜は友人である笠原匡に呆れられていた。その理由は先程うっかり呟いた一言。

「あー……結婚できたらなあ、千夏先輩と」

 それだけで白眼視された上に滔々と格の違いを語られて、さしもの大喜も少しだけ凹んでしまう。とは言え、だ。大喜は基本的にネガティブな感情には強い。と言うか本能的に楽天的で、大抵の逆境は気付かない内に渡り終えてしまう精神的な軽業師。言い方を変えれば、モノを考えないおバカさん。

 千夏先輩を好きになって、大喜は格の差に押し潰された事はない。むしろ「強豪に挑むのは楽しい」「上手くいかなくても、目指すのは自由だ」という、模範的なアスリート気質とも言える状態になっていた。

 そんなおバカさん相手に正論を振りかざすのも疲れたらしく、匡は溜め息と共に話を変える。

「じゃあせめて、挑んでこいよ。遠くから見てるだけじゃ、勝ちも負けも無いだろうよ」

 そして玉砕しやがれ、という言外の毒舌は当然のごとく伝わらない。伝わったのは「挑んでこいよ」という言葉通りの意味だけ。

 挑む、それは同じステージに立つこと。勝ち負け以前に、そこにたどり着かなければならないのは確かな事だ。

 まずは名前くらい覚えてもらおう、そして仲良くなって連絡先も聞いて、いずれは遊びにでも誘ってみよう。そうすれば、もしかしたら。奇跡も起こるかもしれない。こういう時にこそ天性の楽天家気質が働くもの、大喜はすっかりその気になってしまっている。普通の男子中学生がキラキラ輝く女子高生相手にそれを実践するのは非常に難しいのだが、その辺をアッサリと思考から外してしまう辺りが大喜の大喜たる所以であろうか。

 決意めいた顔をする身の程知らずな友人に、匡は呆れるばかり。いっそ天罰でも当たらんかな、と思ったその時。

「なんの話してんの、よっと」

 寄ってきた無邪気な声と共に、大喜が両膝を後ろから押されてよろめいた。古典的なイタズラ、専門用語でいうところの膝カックンが炸裂したのだ。

 やったのは二人の友人、蝶野雛。新体操のエリートで栄明在学中にオリンピックに出かねない程の逸材として名を轟かせるスーパーエース、……と言われたり言われなかったりしている。ちなみに匡の位置からは忍び寄る姿がバッチリと見えていたが、敢えて言わなかった。言う必要もない、いつものことだ。三人とも小学校は違って中一からの付き合いだが、この二人はいつだってこうなのだ。他愛ないイタズラと遠慮の無いツッコミ、いつだって小学生のようなバカっぷり。弟妹がいる匡はこういうのには馴れているから、いつも微笑ましく見守っている。

 ――まあ、それは長く続かないだろう。匡はそう確信してもいるからこそ、今は笑って見守っていたいと思う。こんなバカガキ共も、いつかは大人になる。そうなってからもこんな風に笑い会える関係を維持するのは、きっと難しいだろう。……多分。メイビー。

「何よ、コイバナ~!?」

「ち、違うからっ」

 ワイワイと盛り上がるバカ二人を見ながら、匡はこっそりと心の中で願う。この平穏が続いてくれ、と。

 

 栄明の朝、部活の朝。もうじき学校も始まる、冬休みの宿題もそろそろ終えなければならない。それでも大喜にとって朝は練習をする時間なのだ。昨日雛が「男はなにより肉体美」なんて言うものだから帰りに衝動買いしたハンドグリップをガヒョンガヒョン言わせつつ、今朝も変わらず体育館へと急いでいる。

 肉体美と聞いて握力トレーニングにいくのはなんだか間違っている気がしなくもないが、別にモテたいとかそういうんじゃないし、雛の話を真に受けたわけでもないし。そんな風に何処かの誰かへ言い訳しながら、大喜は体育館脇の道を曲がり。

「――ぁ」

 小さく声を漏らして、立ち止まった。

 体育館の鉄扉前、セメント製の階段。鹿野千夏が、そこにいたのだ。冷えているであろう石段に腰を下ろしたまま、何やら本らしきものに視線を落としている。どうやら集中しているらしく、大喜の声には気づいてはいないようだ。

 栄明では体育教諭が持ち回りで体育館の鍵を管理しており、朝練の生徒が来る前に解錠をしてくれる。が、時たま担当者が来るのが遅れて閉まったままになっていることもある。先生だって、人間ですから。

 今日はたまたまそういう日だった、それだけの事ではある。しかし大喜にとっては、またとないチャンスとも言えた。

 普段は朝練ですれ違うだけの千夏が目の前にいる、話しかけるなら今しかない。

 そっと近付いて呼吸を整え、そして大喜は――固まってしまった。何を話せば良いのか、全くわからない。部活も委員会も違う、学年ももちろん違う。共通の話題など思い付かない、まさかいきなり自己紹介というのも変だし。

 でもこのまま黙っていれば、時間はすぐに過ぎてしまう。

 どうするか、と柄にもなく悩んでしまう大喜。だがその思考は「……くしゅっ」という小さなクシャミによって掻き消された。人を気遣える優しい男子である大喜が、寒さに震える女子生徒を前にしてモノを考えていられる筈がないのだ。

「あの、千夏先輩っ。これ使ってください! 大丈夫、洗ったばかりですから!」

 一月の寒さに打ち勝とうと巻いていたあったかマフラーを千夏へ渡し、そして暖かい御茶入りの水筒も。そして使い捨てカイロに手袋、とありったけの防寒グッズが矢継ぎ早に渡されていく。

 そして手持ちを出し尽くしてようやく、大喜は正気に立ち返ることとなる。名前も知らない男子からあれこれ押し付けられた女子は、果たしてどう思うだろうか。そんな事を考えられるくらいには、思考力が戻ってきたのだ。

 やってしまった、これはやってしまった。思わぬ大暴走に、普段の楽天家ぶりもさすがに発揮しきれない。さしもの大喜も、最悪の事態を覚悟した。……のだ、が。

 現実というのは、思ったほどには悪くならないものだ。

「気遣ってくれて、ありがとう」

 不審者扱いされるかもという大喜の予想は見事に外れ、掛け値なしで女神の微笑みを浮かべる千夏。それは余りにも美しく、魅力的にも程がある。周りに誰もいないのが幸運だった、とさえ大喜は思ってしまった。この姿を見て、彼女を好きにならない人間がいるだろうか。いや、いるわけがない。

 ――と。

「……くしっ」

 美しすぎるものを見たせいかはたまた幸福すぎてバチが当たったか、親からさえ「あんたはバカだから、冬には絶対風邪を引かない」と言われている大喜の口から大きなクシャミが飛び出していった。

 なんでこのタイミングでと思っても、一度でたクシャミは取り消せない。こっちが寒そうにしてしまったら、逆に気を遣わせてしまうじゃないか。

 そう思ったときには、もう遅かった。

「私は大丈夫だから、あったかくしてなさい」

 千夏は少し申し訳なさそうな顔をして、さっき渡されたマフラーを大喜の首へとかけてくれたのだ。

 わずかに触れた千夏の指先は、大喜にはとても冷たく感じる。明らかにそっちの方が防寒するべきだとは思えど、大喜からはなにも言えない。ただ、ふと思っただけだ。千夏先輩って体温低い人なんだな、と。

「よし。――風邪引かないようにね、()()()()()()()()()

 え、と大喜が顔をあげるより少しだけ早く、千夏は鍵を持ってきた教員の所へと歩いていってしまった。

 鉄扉が開かれ千夏がすぐ脇をすり抜けて体育館へと入ろうとした、ほんの僅な時間。その間大喜は、ずっとフリーズしていた。

 ようやく戒めが解けた瞬間に脳裏を過ったのは、小さな疑問。

 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()?()

 ――現状の整理。改まって名乗った事もない、上級生に顔が売れているようなエースでもない。特に付き合いがあるわけでもない。そんな下級生の名前をわざわざ覚える理由が、あるだろうか。

 ――事実の認識。しかしああやって名前を呼んでくれた、それは疑いようもない事実。

 ――理論の飛躍。自分が知らないだけで千夏先輩には、名前を覚える理由が存在する。友好的な関係を築きたいという意思が存在する。

 ――理想の結論。千夏先輩も、俺の事を想ってくれている。

 斯くして幸福な四段論法を構築し、有頂天となる大喜。まあ幸せなのはいいことだが、それは長く続かないのだ。

 これから数分の後マフラーのタグにデカデカと書かれた「いのまたたいき」の文字列を発見し、大喜は悶絶することになる。母からの気遣いではあるのだが、思春期のハートには重すぎる。

 そっとしておいてあげよう。

 

 閑話休題。

 スポーツ強豪校である栄明にあって、各競技のエース格は一目おかれる存在である。一般生徒とはひと味違う、それこそ特権階級のような扱いを受ける。ただ四民平等が建前のこの時代、そんな風に見られるのは若干疲れてしまったりもするのだ。

 蝶野雛はいま正に、それを実感している所。

 中等部どこらか全校に知られる有名人だけあって、なかなか「普通の友達付き合い」ができないのが目下の悩み。世間一般の女子中学生が他愛もない事で笑いあっている中、自分は何をやっているのやら。

 そういう悩みはフィジカルにも影響するから早く振り払いたい、そう思うと雛はいつも大喜を探してしまう。あのバカとバカな話をして気分転換したい、と思ってしまうから。

「……ん?」

 早速大喜を見付け声をかけようとした雛、しかし途中でその足は止まってしまう。

 どうも大喜は柄にもなく、真剣な顔をして何かを見ているようだ。その視線の先には、教師と話している女子生徒の姿がある。雛は特に面識はないが、彼女が誰なのかは知っている。学内における知名度は自分に匹敵する、女子バスケットボール部の鹿野千夏先輩。そして大喜が彼女を見ている理由も、()()分かっている。大喜はここしばらく鹿野先輩が好きらしい、と同じく友人である笠原匡に聞いているから。

 なるほど、なるほど。これは――からかわねばなるまい。

「高望みはいかんよ~? あんたバカなんだからさぁ」

「な、違うって! ただ、深刻そうだなって……その……」

 そこで思いきり想定通りの反応を返してしまう所が、大喜の大喜たる所以であると雛は考えている。主語も何もつけてない一言から勝手にあれこれ読み取って過剰反応する、そんな相手だからこそからかいがいもあるというものだ。

「あーそーいえば、こないだあの先輩オトコの人と一緒だったなー。仲良さそうだったなぁー」

 そこからぺらぺらと嘘八百を並べては、大喜を散々オロオロさせてやる雛。そうやっていると澱んだ気持ちもいつのまにか晴れて、疲れた心が癒されていく。そしてすっかりと元気になってようやく「ま、全部嘘だけどねぃ~っと」なんて言いながら、呆気に取られた大喜に背を向けて雛は駆け出していく。

 いつものことながら、大喜をからあって遊ぶのは雛にとって一番の娯楽となっている。

 しかし蝶野雛14歳、いまだその感情の()()を知らない。ただの暇潰しでも気分転換でもなく、ある大きな感情に突き動かされている事を。

 それを知るときは、まだまだ先である。……恐らくは。

 

 朝は先輩相手に恥を晒し、昼はクラスメイトにからかわれ。どうも上手くいかない大喜の一日は、夜になってもどこか冴えなかった。

「あ"、タオル……。体育館、かな」

 丸一日に及ぶ部活を終えて帰り支度をして、どういうわけかそのタイミングで忘れ物に気付いてしまった。いっそ気付かなければ家に帰って悔やむ位で済むのに、なまじ気づいた以上は探さなければならない。

 幸い栄明の夜は遅い、体育館が施錠されるまではまだまだ時間はあるだろう。なにしろ栄明の運動部と来たら普段でさえ19時辺りまでは普通に夜練をし、大会前となれば21時を過ぎても残っている。今時期は大会期ではないが、まだ一時間かそこらは平気ではないかと思われる。

 朝から晩まで部活しかしていないというのは学生として宜しくないかもしれないが、私立校なんてそんなもんだ。

 大喜が疲れた身体で向かった体育館は、やはり鉄扉が開けられたまま煌々と灯りも漏れている。

 昼間いたバド部のスペースを目指して足を踏み入れた、その瞬間。

 大喜は視線を奪われ、立ち止まってしまっていた。無心でシュート練習を続ける千夏が、そこにいたから。

 これは、知っている。見たことがある。たった一人でボールを放るその姿は、記憶の中にあるそれと余りにも似すぎている。しかしたった一つ、決定的な部分が違う。いや、()()()()()()()()()()()()()()()。そうであってくれ、と大喜が思ったその刹那。

「ん、……? あ、いのまたたいきくん」

 こちらに気付いて呼び掛けたその声、それに大喜は内心胸を撫で下ろした。その声は鈴の音のようで、その顔は微笑みを讃えていたから。大丈夫だった、ああなってはいなかった。

「……どうかした?」

「あ、いや、あー……オーバーワークは良くないですよ、先輩」

 どうにか絞り出した言葉の単純さに、少しだけ大喜は自分の頭の悪さを嘆く。そんなの分かりきってるだろう、年上なんだから。無理を通して道理を蹴り飛ばすくらいでなければ上へ行けないのが、スポーツの世界だ。効率的で効果的な行動だけでは、頂点には辿り着けない。何処かで壊れるほど無理をしなければ、結果に繋がらないのだから。

「部活中のプレーが納得いかなくて、さ。それに今は――少しでもボールに触れていたいんだよね」

 そういう千夏の顔に、大喜がどこか影を感じた……のだが。

 考えを制するようかのように大喜の腕の中へ、ぽすんとバスケットボールが投げ込まれてきた。

「ね。1ON1、しよ!」

 

 1ON1とは、バスケットボールにおいてディフェンスとオフェンスが一対一になる状況。あるいはミニゲームの一種である。ゴールがある場所なら二人いれば出来るので、ちょっとした空き時間を使ってやっていたりもする。

 こう書けばお手軽ではあるのだが、実際にはタイマンなわけで。バリバリのエースとそうでない人がやった場合、大抵はまあエースの圧勝に終わる。

 とは言え大喜も頑張ったは頑張ったのだが、まさか勝ち目があるわけもなく。

「すこし休憩しよっか」

 と千夏がボールを置いた時には、大喜は既に肩で息をしている状態。

 一応大喜だって、経験がゼロではない。小さい頃は栄明バスケ部OGである母によって、英才教育されてきたのだ。……ただ。ただ、一回走り出すと周りが見えなくなる猪突猛進な性格が、致命的なまでにチームスポーツに向いていなかっただけで。

 それにバドが個人競技である以上、勝っても負けても自分のお陰で自分のせい。全て一人で背負う緊張感が、大喜にはどこか心地よく感じられている。

 黙って休んでいるのも気まずいからと、そこまで話した時点で千夏は愉快そうに笑いだした。

「なるほど、ドMだね。だからあんなに練習熱心なのか」

「……先輩には言われたくないですー」

 多少ねじくれてはいても誉められたんだから素直に喜べばいい所だが、そこは思春期のオトコノコ。やっぱり照れてしまうのも、男子らしさというものか。

 それに、それに。

「練習熱心を言うなら、先輩の方がスゴいですよ。中学引退の翌日も、練習してたじゃないですか」

 

 

 

 時間は一年半ほど、大喜が二年生の夏まで遡る。

 その頃の大喜は今ほどバドに熱中してはいなくて、それにあの日は大会期間明けで何処の部活もお休み。大喜はただほんとに、荷物を片付けようと学校まで来ていただけだった。

 が。静まり返っている筈の体育館から聞こえてきたのは、ボールの音。

 誰かいるのかな、と覗き込んだ大喜は――そのまま固まってしまった。

「――、……っ、ぅ……」

 そこにいたのは一人の女子生徒、中等部三年の鹿野千夏先輩。彼女は顔を涙で歪ませ、嗚咽を漏らしながら、ただ必死にバスケットボールをゴール目掛けて放り続けていたのだ。落ちて弾んだボールは床を転がり、そして少しの間を開けて再び捕まれ放り投げられる。何度も何度も、何度でも。

 溢れる想念は体育館を充たし、近づくことさえ許さない。そんな鬼気迫る状態に、大喜は声をかける処か立ち去ることしか出来なかった。

 大喜が彼女の涙の理由を知ったのは、その数日後。引退試合で結果を出せず、悔しさを噛み締めてああしていたと分かって、大喜は横っ面を張られたような衝撃に襲われた。

 あんな風に悔しがれるまで、頑張れる人がいる。自分を何処まで追い込もうとも、背負った重責を果たそうとする人がいる。バドが好きなだけで部活を続けている自分が、とても小さい人間にさえ思えてきた。

 その衝撃は大喜の心を大きく揺らし、そして書き換えてくれたのだ。

 

 

 

「だから俺も、そのくらい頑張れたら――」

 良いなあって思うんです、といいかけたその言葉は発せられないまま大喜の口の中で消えてしまう。()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 千夏は顔を真っ赤にし、呆然と大喜を見詰めていた。一瞬脳裏を過ったのは、あの日の泣き顔。しかし今の千夏に涙や嗚咽は何処にもなく、その顔を歪めはしない。でも千夏は無言のまま、動かない。

 そして永遠のような沈黙を経て千夏は、たった一言「忘れてた」と小さく呟いた。

 それはどういう――と問いかけようとした大喜の声は、開け放たれていた扉の外から来た声に掻き消される。

「まだやってんのかー、早く帰れよー」

 ハッと壁にかかった時計を見ると、既にかなり時間がたっていた。

 教員が施錠に来てもおかしくない、どころか遅いくらいの刻限になってしまっている。

「っと、片付けなきゃ。ごめんね、引き留めて」

「あ、……いや、俺もやります」

 慌ててボールを拾っては籠に放り込む千夏、そして大喜はそれを手伝いながら、少しだけ場違いな事を考えてしまうのだ。

 先輩を好きになったのは、あの瞬間だったのではないか、と。

 

 冬休みは、やっぱり短い。バタバタと過ごす間に休みは終わり、学校が始まるのだ。

 そして気が付けば一月ももう半ば、気の早い梅の蕾が自己主張し始める頃。

 それでもやっぱり大喜はかわりなく、朝になれば部活へいくのだ。親としては勉強しにいってほしいとは思っているだろうか、いやそもそもスポーツ強豪私立に行かせている時点でそんな期待はしていないかもしれない。

 慌ただしい朝、でも大喜はふとテーブルにあった開きっぱなしのスポーツ雑誌に目を止め。そして――絶句していた。

 そこに載っていたのは、誰あろう大喜の想い人だったのだから。

 まあ写真が載る事自体はそこまで珍しくはない、問題は何故それがこうやってここに置かれているかだ。

「か、……あさん、これ……」

「ああ、大喜。その子知ってる? 千夏ちゃんって言うんだけど、私が栄明でチーム組んでた子の娘さんなのよー」

 ……確かに栄明ではそういうケースがよくあって、親同士が仲良いからという理由で仲良くしている人たちも多い。そう、多いのだ。

 さしもの大喜とて、この痛恨のすれ違いは結構なダメージになってしまう。もっと早く気づいていれば、名前を覚えてもらおうとかそんなチマチマした事を考えなくて良かった。親同士の交流に混ざって、速攻で仲良くなれたのではないか。いやしかし、過ぎたことを気にしても仕方がない。大喜は常に、前向きだ。ここからだ、ここからこの筋をフル活用していけばいいじゃないか。

 そう気持ちを切り替えた、しかしその直後。更なる一撃が、大喜へと叩きつけられた。

「――残念よね、海外へ転勤なんて。三月には、引っ越すんですって。それでね――」

 一瞬、母が何を言ったのか大喜には分からなかった。

 海外。

 転勤。 

 引っ越す。

 それは。

 ――そんなの、は。

 そこまで考えて、大喜の目の前は真っ赤に染まった。何も見えない、聞こえない。ただ、身体だけが走り出していた――。

 

 大喜はモノを考えるのが、得意ではない。思考が苦手というか、下手なのだ。真っ直ぐ前にしか進めない、脇から入っていく事が出来ない。だからそう、今もただただ一直線に一つの事だけを考えている。

 大好きな、鹿野千夏の事だけを。

 大喜は頭の中で問いかける――それでいいんですか、と。

 悔しさに涙するほどの情熱がありながら。誰よりも努力していながら。周囲に慕われていながら。

 ()()()()なんかで、全てを棄ててしまえるのか。何もかも、ここに置き棄ててしまうのか。

 そんなの、良いわけがない。誰が良いと言おうが、俺は許さない。

 激しい想いだけがその足を突き動かし、気が付けば大喜の前には、目を見開いた千夏がいた。

 どんな無理な走り方をしたのか、身体中が軋んで痛い。きっとボロボロになっているだろう、とぼんやり思いはすれど。大喜には、それに構っている余裕がない。

 ただ、心のままに。言葉を選ぶ暇もないまま、叫んでいた。

「インターハイ、行ってください!! 親の都合なんかで、諦めたりしないでください!!」

 大喜は考えるのが苦手な人間ではあるが、それ故に一度心に刻まれた事はけっして忘れない。あの日千夏の涙が、大喜の中に強く強く傷痕を焼き付けたのだ。何があろうと、止まらない。全てを賭けて挑む、負けて尚戦い続ける。その覚悟は、大喜の一番奥に宿った。命ある限り、絶対にそれが失われる事など有り得ない。

 自分を変えた――変えてしまった人が、なにかに屈して道を曲げるなんて我慢ならない。

 身勝手と言えば、身勝手な思いだろう。それでもそれは偽らざる、大喜の本心である。

 それを正面から突きつけられた千夏は、少しの間困惑した顔をして。それから、ゆっくりと口を開いた。

「うん、……ごめん。私()行かないんだよ……ね」

 どうしていいか分からない気まずい表情で、千夏は更に続けた。家族は確かに海外へ移住するけれど、自分は母の知り合いの家に住まわせてもらうと。だから転校もしないし、インターハイ目指してこれからも栄明でバスケするんだよ、と。

 ここまで聞いて、ようやく。ようやく大喜は、知ることとなった。自分が如何に、考え無しで突っ走るバカなのかを。そして親が海外へ行くからって、高校生の娘がそれに着いていくとは限らないという事。更に特に接点も無い後輩がボロボロになってワケわかんない事言い出したら絶対にドン引きする、という事も含めて。

 全開のアドレナリンが引いて冷静さを取り戻しつつある頭に、それは余りにも辛すぎた。

「えあ、そ、ならいいんですっ」

 急速に襲ってきた羞恥心に押され、逃げ出そうとする大喜。しかしその背中に投げ掛けられた言葉が、彼をその場に縫い止めてしまう。

「私もね、悩んだよ。家族と離れるのは寂しいし、でも――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 え、と振り返ったその先で。千夏は晴れやかに、笑っていた。

「きみが思い出させてくれたお陰だよ。ありがとう、いのまたたいきくん」

 それはまるで、天使のように美しく。好きになってしまうには、十分すぎる程の輝きを放っていた――。

 

 さて、大好きな人に感謝され夢の中にいるような時間を過ごした大喜くんではあったが。

 一晩経ってその余韻が消えてくると、代わりに別の強い感情に心を支配されてしまった。

 すなわち「俺なにやってんだろう」という自己否定感に。結果的になんだか感謝されたが、自分が何をしたか考えると死にたくなる。大喜の精神的なバランス感覚はあくまで通常時に働くもんであって、常識はずれの事態には対応しきれないのだ。

 ここまで大規模なやらかしは経験がないし、多分今後も有り得ない。これからどの面下げて朝練で会えばいいのか、見当もつかない。唯一の救いは、今日が日曜日ということか。

 大喜にとって日曜日は、千夏先輩に会えない日。普段は少しだけ気が重くなる日である。それを良い意味で受け入れたのは、きっと大喜にとって初めての経験だろう。

 ――だが。んだが、世の中は上手く出来ている。避けたい事は、一番来てほしくないタイミングでやって来るものなのだ。

 空腹を抱えたままベッドに潜り直した大喜はまだ、これから起きる事を何一つ想像できていない。

 もうすぐ猪股家を訪れる客人の事も、そして春から生活が大きく変わってしまうことも。

 この一日で大喜くんの人生はとんでもない大転機を迎えるのだが――それはまだ、少し先のお話。

 そしてその行く末は、全てが全てハコの中。開けてみるまでは、分からない。

 願わくば若人たちの進む道が、アオく眩しく輝きますように。

 皆様是非、お見守り下さいませ。


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