目を開けて一日の最初に見上げるのは、まだ見慣れない天井。
間取りも違うからちょっとだけ戸惑ってしまう、そんなに複雑でもないのに。それに朝の身支度をするにも、物の配置が雑把だから手が混乱しそう。やっぱりこういうのは習慣だから、今までと場所が違うと手間取ってしまうな。
でもまあ、悪い気はしない。
自宅と呼ぶのはちょっと照れるけれど、しばらくしたらこの部屋にも慣れるだろう。もしかしたら、何年もここで過ごすかもしれないのだから。
季節は春めいてきた三月末、俺は猪股家を離れて千夏先輩が住んでいたマンションに移り住んだ。と言うかまあ、要するに長いお留守番なんだけど。
約一年千夏先輩は日本を離れる、その間ここをどうするか。誰も住まないまま家賃だけ払っても無駄だし、とは言ってもせっかく入ったのに一年も絶たず解約してしまうのも抵抗がある。それに一旦引き払ってから来年帰ってきて即新しい部屋探し、なんてのも大変だ。そもそも荷物をどうすんだって話。
そんなわけで家主がいない間、俺が住まわせて貰う事になった。丁度大学進学を機に一人暮らしをしようと思っていたから、渡りに船というやつだ。
千夏先輩が帰ってきたら、その時に後の事を考えよう。このまま同棲するか、それとも二人の新居を探すか。さて、どうするかな――と。
「あ、……後でゴミ捨てて来ないと」
一人暮らしは誰かになにか言われたりはしないけど、誰かがなにかしてくれることもない。置いたゴミはそのまま定常化してしまう。そうなる前に、片付け片付け。
それに大学はまだ始まらないとは言え、生活リズムは整えないと。
バタバタしててお隣さんにも挨拶してない、しっかりしないといけないのにどうも俺は抜けてるな。
千夏先輩を見送ったのは、卒業式の少し後。向こうでの準備もあるからやっぱり三月の内に立つ事にした、という訳で。
唐突な気もしなくはない、というか唐突だ。水族館の時もそうだけど、どうも途中経過をすっ飛ばすからなあ千夏先輩、あの人はいつもまっすぐ前だけを見ている。思い立ったら即座に動く、そういう人。
だから俺もそれに関して異を唱えないし引き留めない、これまでのように。でも寂しい事も不安な事も、ちゃんと伝え合う。お互いが支えあって歩いていく為には、こうやって行くのがいい。
いつも通りに過ごして、いつものように隣り合って眠って。起きてから二人で旅支度を整えて空港へ、千夏先輩は笑顔で手を振って歩いていった。
今生の別れじゃない、一年だけの空白。スマホもあるからいつでも連絡は取れる、一人になったからって湿っぽく落ち込むようなカッコ悪いマネはしたくない。て言うかそんな風にしていたらキリがない、俺はもっとシャンとしてないと。
それに他の皆とも距離が出来たんだ、一人でも逞しくやっていけると示していかないとそれこそ千夏先輩を心配させてしまう。
匡と守屋マネは同じ大学だけど、他は別々。雛なんて新体操日本代表として世界に飛び出しつつ、ちゃんと学業もやる気でいる。きっと今までのように皆で会ったりすることは、殆ど無くなるんだろう。母さんと千夏先輩のお母さんが、疎遠になっていったように。
毎日学校で会っていたからこそ親い間柄だったわけで、少しずつ俺たちもそうなっていくかもしれない。
あの日話したのが、最後になるかも……なんて。
俺と千夏先輩は、そうならないでいたい。そう信じて、頑張りながら待とう。
そういや晴人やあかりはどうなったかな、あいつらが三年生になるとかちょっと信じられないかも。一個しか違わないのに、なんかどうも危なっかしい。……針生先輩や花恋さんたちにしたら、俺も多分そんな風に見えてたんだろうけどさ。
あれからまだそんなに経っていないのに、なんとなく栄明での日々を懐かしく思ってしまう。
バスケというかチーム競技は向いてないと分かってバドに転向し、結果は芳しくなくてもただ楽しんでいたあの頃。俺は――千夏先輩を知った。
中学最後の試合での悔しさに涙を流しながら練習する姿を見て、思ったのだ。こんなにも真剣に、こんなにも熱く打ち込めたならと。
それから俺が目指す先、なりたいと思う先にはいつだって千夏先輩の背中があった。
まさかそんな人と、一つ屋根の下で生活する事になるとは思わなかったけど。
そして季節が巡る中で気持ちを伝えあい、交際が始まってからも順風満帆ではなかったな。部活もそうだし色んな事がうまく行かなくて、それでも二人もがき続けてこうして今がある。
栄明で過ごした年月は、忙しくも輝かしい時間だった。
まあ想い出に浸っているわけにはいかない、皆新しい世界へと歩んでいくんだから。
たくさん思い出を作って、何気ない時間を共に過ごして。一緒に未来を見たいと思う人がいるから、脚は止めない。
これからもずっと、人生は続く。この先もずっと、日々は終わらない。
でこぼこ道を、一歩ずつ。手を取り合って、いつまでも。
いつか振り返った時、笑い合えるように。