聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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世界観説明のお話です。
いつかの未来の、あるかもしれないお話。


番外編 拍の手引き、果実酒つき

これはいつかの未来の、あるかもしれないお話……

 

 

研究棟の屋上は、思ったより広かった。

 

シルヴィアが古い毛布を石床に広げ、果実酒の瓶を真ん中に置いた。カミラさんが持ってきた焼き菓子の包みを開ける。私は三人分の杯を並べた。

 

秋の終わりの夜空。尖塔の向こうに星が散っている。風は冷たいが、毛布と外套があれば凌げる。

 

「約束したでしょう。星を見ながら果実酒」

 

シルヴィアが杯に注ぐ。琥珀色の液体が星明かりを受けて光った。

 

「少しだけいただきます」

 

カミラさんが杯を両手で包むように持ち、一口含んで目を丸くした。

 

「……甘いですね。もっと強いものかと思っていました」

 

「学院の地下蔵で三年寝かせたやつだよ。拍で温度を管理しているから、角が取れてまろやかになる」

 

「拍で温度管理?」

 

カミラさんが首を傾げた。金色の髪が肩から滑り落ちる。

 

「水晶片を樽の中に沈めて、一定の拍を与え続けるんだ。すると液温が安定する。振動が熱に変わる原理の応用だね」

 

「なるほど……教会では、拍をそのように日常に使うことはありません」

 

「教会ではそもそも『拍』って呼ばないんだっけ」

 

私が口を挟んだ。

 

「はい。教会では『世界の息吹』と呼びます。女神メナスの吐息が万物に宿っている、という教えですから」

 

「同じものなのにね」

 

シルヴィアが杯を回しながら言った。口調は軽いが、目が少し真剣だ。

 

「同じもの、なのでしょうか」

 

「少なくとも、学院と教会が観測している現象は同じだよ。呼び方と、扱い方が違うだけで」

 

カミラさんは黙って杯に目を落とした。否定はしなかった。

 

「じゃあ、拍ってそもそも何なんだ? って話になるよな」

 

私は焼き菓子を齧りながら言った。自分で言っておいて妙な気分だ。学院で散々習ったはずのことを、今さら聞いている。

 

「おや。グレン、君が訊くのかい?」

 

「私は実地で覚えたクチだからな。理屈はシルヴィアのほうが得意だろ」

 

「……甘えるのが上手いね、昔から」

 

シルヴィアが小さく息をついて、杯を置いた。講義のときの顔になる。

 

「いいよ。じゃあ、カミラにもわかるように話そう。——拍というのは、世界のあらゆるものが持っている固有の振動のことだ」

 

シルヴィアが自分の胸に手を当てた。

 

「今、君たちの心臓が動いているだろう? あの鼓動が、一番身近な拍。でも拍を持っているのは心臓だけじゃない。鐘の音。風穴を抜ける気流。地下水脈のうねり。石の結晶の震え。果実酒だって、杯の中で微かに揺れている。世界のすべてが、それぞれのリズムで振動している」

 

「そこまでは、教会の教えと同じです」

 

カミラさんが頷いた。

 

「違うのはここからだ。学院の魔術は、その拍を意図的に操る。やることは三つしかない」

 

シルヴィアが指を三本立てた。

 

「一つ目、同調。自分の拍を対象の拍に合わせて、干渉の道を作る。道がなければ、魔術は対象に届かない。音叉を二本鳴らして同じ高さの音を出すと、水面の波紋が大きくなるだろう? あれと同じ原理だよ」

 

「……ああ、学院時代に師範がやって見せてたな。水鉢の実験」

 

「覚えてるじゃないか。二つ目、転位。合わせた拍をほんの少しだけずらす。このずれが、実際の効果を生む。物を硬くするのも、壊すのも、結界を張るのも、ずらし方ひとつで変わる」

 

「結界というのは?」

 

カミラさんが訊いた。

 

「空間に拍の壁を張って、内と外を隔てる術だよ。私がよく使うやつ。攻撃を弾いたり、範囲を区切ったりする」

 

「ああ、シルヴィアさんが塔の中で張っていた、あの半透明の壁ですね」

 

「そう。あれも同調と転位の応用。——で、三つ目が一番大事。離脱」

 

シルヴィアの声が少し低くなった。

 

「術が終わったら、対象の拍から必ず手を放す。これを怠ると、自分の心臓が対象の拍に引きずられる。拍の断絶——心臓が止まる」

 

「三つの中で一番地味だけど、一番大事だ」

 

私は師範の言葉をそのまま繰り返した。

 

「実際、遺跡の中で何度か危ない目に遭った。ゴーレムの動力核に同調して拍をずらす——転位で動きを止めるんだが、核の拍が重すぎて、自分の心臓が引きずられそうになる。そこで離脱できなかったら終わりだ」

 

「グレンさん……」

 

カミラさんの声が微かに震えた。杯を持つ指が白くなっている。

 

「今はこうして無事に飲んでるだろ。大丈夫だ」

 

「大丈夫じゃなかった時のほうが多いけどね」

 

シルヴィアが冷たく言った。小さな棘。でも、その下にあるものを、私は最近少しだけわかるようになった気がする。

 

「……まあ、だから錨がある。剣の鍔に埋めた灰水晶が、私自身の拍を覚えていてくれる。外の拍に引きずられそうになった時、これに触れると自分の拍に引き戻される。安全装置だ」

 

「シルヴィアさんが埋め込んでくれたものですよね」

 

「うん。私が調整した。——壊したら怒るよ、グレン」

 

「大事にしてるよ」

 

シルヴィアが一瞬だけ目を伏せた。星明かりの下では、表情がよく見えない。

 

杯に果実酒を注ぎ足しながら、カミラさんが口を開いた。

 

「学院の魔術が『操る』——拍を能動的に押すものだとすると、教会の神聖術は正反対ですね」

 

「どう違うんだ?」

 

「神聖術は、拍を操りません。祈りによって自分の拍を極限まで静めて、空白を作るのです。すると世界の拍が自然にその空白を埋めようとする。それが治癒や浄化や加護として現れます」

 

「能動と受動、か」

 

シルヴィアが頷いた。

 

「学院は押す。教会は招く。学院は精密だけど術者への負荷が大きい。教会は負荷が少ないけど、何が起きるかの制御が難しい。——対比構造としては美しいね」

 

「研究者の言い方ですね」

 

「褒めてるんだよ、カミラ」

 

カミラさんが少し驚いた顔をした。シルヴィアに名前で呼ばれることに、まだ慣れていないらしい。

 

「それと関係があるんだが——逆相と浄化の違いも、押すか招くかだ」

 

私は二人の話を繋いだ。たまには役に立つことを言いたい。

 

「逆相はシルヴィアがよく使う。暴走しかけた拍に逆向きの波をぶつけて、力で打ち消す。学院式だ。浄化はカミラさんの領域。乱れた拍を穏やかに洗い流して、元の状態に招き戻す。教会式」

 

「そうですね。方法は違いますが、乱れた拍を整える目的は同じです」

 

「逆相が消毒液で、浄化が清流に浸す感じか」

 

シルヴィアが不本意そうな顔をした。

 

「……学者としては色々言いたいけど、まあ、大雑把にはそう」

 

「ところで」

 

カミラさんが夜空を見上げた。星が瞬いている。

 

「自律結界という言葉を、塔の中でグレンさんが使っていましたね。あれは何ですか?」

 

「古代文明が遺跡に仕掛けた自動防衛機構だ。侵入者の拍を感知すると、自動で攻撃してくる。だから遺跡の中ではなるべく魔術を使わない。魔術を使えば拍が漏れて、結界に居場所を教えてしまう」

 

「数千年前のものが、まだ動いているのですか」

 

「動いてる。しかも経年で挙動が不安定になっているから、余計に厄介だ。——星綴り文明の技術は、本当にとんでもない」

 

「星綴り」

 

カミラさんが呟いた。

 

「教会では、あの文明の滅亡を神罰と教えています。拍を極めすぎた人間への、女神の裁きだと」

 

「学院では大離散と呼ぶ」

 

シルヴィアが言った。

 

「大陸規模で拍を同調させようとして、離脱に失敗した。全土の拍が一斉に乱れ、建造物は崩壊し、住民の大半が拍の断絶で亡くなった。——技術の暴走による事故、というのが学院の見解」

 

「神罰か、技術の事故か」

 

私は杯を傾けた。果実酒が喉を滑り落ちていく。

 

……

 

風が吹いて、シルヴィアの銀髪とカミラさんの金髪が同時に揺れた。

 

「……まあ」

 

シルヴィアが瓶を傾けて、三つの杯に果実酒を注ぎ足した。

 

「難しい話はここまでにしよう。今夜は星を見ながら飲む約束だったんだから」

 

「そうですね」

 

カミラさんが小さく笑って、杯を唇に運んだ。頬がほんのり赤い。果実酒のせいだろう。

 

「グレン、これ食べなよ。端の焦げたやつ、君が好きでしょう」

 

シルヴィアが焼き菓子を差し出した。覚えていてくれたのか。

 

「ありがとう。……あ、カミラさんも食べます?」

 

「いただきます。……あ、これ、おいしいですね。どこのお菓子ですか?」

 

「学院の購買だよ。月に一度だけ焼くの。グレンが学生の頃からあるやつ」

 

「へえ……グレンさんの学生時代」

 

カミラさんが少し遠い目をした。何を想像しているのかはわからない。

 

「大したものじゃないよ。授業をサボっては遺跡に潜って、シルヴィアに怒られてた」

 

「怒ってない。呆れてただけ」

 

「同じだろ」

 

「全然違う」

 

カミラさんがくすっと笑った。それを見たシルヴィアが、ほんの一瞬だけ唇を引き結んだ。

 

——こういう空気にも、名前があるのだろうか。

 

三人で並んで、星を見ている。シルヴィアが左。カミラさんが右。私が真ん中。いつもの並び。

 

心臓が静かに脈打っている。隣でシルヴィアの呼吸が聞こえる。反対側でカミラさんの穏やかな吐息が聞こえる。

 

三つの拍が、それぞれのリズムで刻まれている。同じではない。でも、不思議と調和している。

 

合わせて、ずらして——離れない。

 

師範に教わった三原則の、三つ目だけ破っている。でも、それでいい気がした。

 

「……星がきれいだな」

 

「うん」

 

「はい」

 

短い言葉だけ交わして、三人で黙って空を見上げた。

 

果実酒の瓶が、ゆっくりと空になっていく。

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