聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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帰還者の鐘、震える指先

二週間ぶりの王都は、春の盛りだった。

東門をくぐると、帰還者通りの石畳が柔らかい陽に温められている。すれ違う人々の服が薄くなり、露店に果実が並び始めていた。季節が動いている。

 

冒険者ギルドで簡単な帰還報告を済ませた。受付の担当者が右腕の包帯を見て眉を上げたが、「処置済みです」と答えたら、それ以上は聞かなかった。

探索者が傷を負って帰るのは日常茶飯事だ。いちいち騒いでいたらきりがない。

 

ギルドを出て、足はまっすぐ教会区に向かった。

白百合通りに入ると、花の香りが風に混じる。メナス大聖堂の尖塔が、午前の光を受けて輝いていた。

 

大扉を片手で押し開ける。右腕はまだ痛むので、自然と左手を使うようになっていた。

 

中に入ると、礼拝の時間は終わっていたらしく、信徒席はほとんど空だった。祭壇の蝋燭が静かに揺れている。

辺りを見回していると、側廊から白い姿が現れた。

 

カミラさんだ。

司祭服にエプロンをかけている。孤児院の世話でもしていたのだろう。

 

目が合った瞬間、彼女の表情が変わった。

 

「グレンさん……!」

 

小走りに駆け寄ってくる。視線が私の顔から右腕に移り、瞳が大きく見開かれた。

 

「その腕……! 怪我をなさったんですか?」

 

「大丈夫です。見た目ほどひどくは――」

 

「大丈夫ではありません。こちらへ」

 

有無を言わせない口調だった。

カミラさんにしては珍しく語気が強い。エプロンを外しながら、側廊の奥の小部屋に私を半ば引っ張っていく。

 

談話室だ。前にハーブティーをいただいた、あの部屋。

椅子に座らされ、包帯を外される。裂傷は回復薬で塞がりかけていたが、まだ赤く腫れており、痕も残っていた。

 

「……深い傷です。骨にも響いていますね。いつ負ったのですか」

 

「十日ほど前です。小塔の跡で守護者と遭いまして」

 

「十日……」

 

カミラさんの声が微かに震えた。すぐに表情を整え、私の腕をそっと両手で包む。

 

「浄化と治癒を施します。少し熱くなるかもしれませんが、動かないでください」

 

目を閉じ、祈りの言葉を紡ぎ始めた。

古い神語の詠唱。礼拝で聴く賛歌とは違う、もっと低く、もっと深い響き。

 

彼女の掌が温かくなった。

いや、温かいのは掌だけではない。腕全体に、じんわりと染み込むような熱が広がっていく。痛みが薄らぐ。腫れが引いていく。骨の軋みが、静かに溶けるように消えていく。

 

二年前にもこの感覚を味わったことがある。

初めてこの教会に迷い込んだとき、旅の疲れと小さな傷を癒してくれたのがカミラさんだった。あのときと同じ、澄んだ温度。

 

祈りの声が耳に響く。

世界の拍を招き入れる術。聖女の力。

その声を聴いていると、不思議と心臓の鼓動が穏やかになる。荒れていた拍が、自然に整っていく。

 

ふと、カミラさんの指が微かに震えていることに気づいた。

祈りは途切れていない。声は安定している。しかし、私の腕に触れている指先だけが、かすかに、けれど確かに震えている。

 

「カミラさん、大丈夫ですか? 無理してませんか」

 

「……大丈夫です。集中していますから、どうか話しかけないで」

 

言葉は厳しいが、声は柔らかい。

 

 

(彼が帰ってきた。生きて帰ってきた。)

(でも、こんなに深い傷を負って――十日も。十日間、この痛みを抱えて歩いたの?)

(祈りなさい、カミラ。拍を静めて。女神の力を招き入れなさい。)

(でも、この人の肌に触れると、私の鼓動が……静まらない。)

(静めなさい。聖女でしょう。あなたの静寂が、この人を癒すのだから。)

(わかっています。わかっている。だから祈る。祈ります。でも――)

(この傷を見るたび、この人がどれほど危険な場所を一人で歩いているか、思い知らされる。)

(一人で。いつも一人で。)

(ああ、女神様。どうか、この人をお守りください。私の祈りが少しでも届くなら――)

(次こそは。次こそは、出発する前に。この人を守る加護を、ちゃんと授けさせてください。)

 

 

祈りが終わり、カミラさんがゆっくりと手を離した。

 

腕を見ると、裂傷の痕はまだうっすら残っているが、腫れは完全に引いていた。動かしても痛みがない。肋骨の違和感も消えている。

 

「すごいですね。本当に治ってます」

 

「完全ではありません。跡が消えるまでには少し時間がかかります。……でも、もう痛みはないはずです」

 

「ありがとうございます、カミラさん。助かりました」

 

素直に礼を言うと、彼女は微笑んだ。

だが、その笑みの下に、何か――怒りに似た、それでいて泣きそうな何かが見えた気がした。

 

カミラさんは椅子に座り直し、両手を膝の上で組んだ。

しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。

いつもの穏やかな声ではなく、静かだが芯のある声で。

 

「グレンさん」

 

「はい」

 

「今後は、冒険にお発ちになる前に、必ずこちらへいらしてください」

 

「え?」

 

「加護をお授けします。女神メナスの加護は、戦場にも降り注ぎます。あなたの身体に薄い静寂の層をまとわせることができます。万全ではなくとも、傷を浅くすることはできるはずです」

 

「いや、でもそれは司祭としての職務外でしょう。ご迷惑を――」

 

「迷惑ではありません」

 

きっぱりと。

 

「断ることは、許しません」

 

私は言葉に詰まった。

カミラさんがこんなに強い口調で物を言うのは、初めて聞いた。

 

いや……初めてではないかもしれない。市場でシルヴィアと対峙したときも、彼女は一歩も退かなかった。穏やかな外見の下に、こういう芯がある人なのだ。

 

「……わかりました。次からはそうします」

 

「約束ですよ?」

 

「約束します」

 

カミラさんはようやく肩の力を抜き、いつもの柔らかな笑みに戻った。

 

「お茶を淹れますね。今日は長旅でお疲れでしょうから」

 

「ありがとうございます。……あ、カミラさん」

 

「はい?」

 

「その……歌、聴いてもいいですか。さっきの祈りの旋律。あれが聴こえると、なぜか安心するんです」

 

カミラさんは一瞬目を丸くして、それから頬を染めた。

 

「……ずっと歌っていましたよ。あなたが気づいていなかっただけです」

 

「そうだったんですか。すみません、ぼんやりしてました」

 

「いいえ。聴いていてくださるだけで、十分です」

 

ティーポットに手を伸ばす彼女の横顔に、ステンドグラスの光が虹を落としていた。

私はその光景を見ながら、ぼんやりと思った。

 

あの山中で口ずさんでいた旋律。

あれは、この声だったのだ。

 

いい歌だ。覚えていても、おかしくはない。

 

……なのに、なぜか胸の奥が、少しだけ温かい。

 

鐘が遠くで鳴った。天頂の鐘。六つの打音が、聖堂の石壁を伝って響いてくる。

午後は学院に行かなければ。シルヴィアに拍刻板を見せる約束がある。

 

「カミラさん、そろそろ失礼します。午後は学院に用事がありまして」

 

「学院……シルヴィアさんのところですね」

 

「ええ。探索の成果を渡さないといけないので」

 

「……そうですか」

 

カミラさんはティーカップを静かに置いた。

 

「行ってらっしゃい、グレンさん。……お帰りなさい」

 

最後の一言は、ほとんど囁きだった。

私は頭を下げて、談話室を出た。

 

大扉を押し開けると、春の風が頬を撫でた。

右腕を動かす。痛みはない。指先が自在に動く。

 

あの震えていた指のことが、少しだけ気にかかった。

祈りに集中していたから、と彼女は言った。そうなのだろう。

でも――「気にかかった」という感覚だけが、右腕の温もりと一緒に残っていた。

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