二週間ぶりの王都は、春の盛りだった。
東門をくぐると、帰還者通りの石畳が柔らかい陽に温められている。すれ違う人々の服が薄くなり、露店に果実が並び始めていた。季節が動いている。
冒険者ギルドで簡単な帰還報告を済ませた。受付の担当者が右腕の包帯を見て眉を上げたが、「処置済みです」と答えたら、それ以上は聞かなかった。
探索者が傷を負って帰るのは日常茶飯事だ。いちいち騒いでいたらきりがない。
ギルドを出て、足はまっすぐ教会区に向かった。
白百合通りに入ると、花の香りが風に混じる。メナス大聖堂の尖塔が、午前の光を受けて輝いていた。
大扉を片手で押し開ける。右腕はまだ痛むので、自然と左手を使うようになっていた。
中に入ると、礼拝の時間は終わっていたらしく、信徒席はほとんど空だった。祭壇の蝋燭が静かに揺れている。
辺りを見回していると、側廊から白い姿が現れた。
カミラさんだ。
司祭服にエプロンをかけている。孤児院の世話でもしていたのだろう。
目が合った瞬間、彼女の表情が変わった。
「グレンさん……!」
小走りに駆け寄ってくる。視線が私の顔から右腕に移り、瞳が大きく見開かれた。
「その腕……! 怪我をなさったんですか?」
「大丈夫です。見た目ほどひどくは――」
「大丈夫ではありません。こちらへ」
有無を言わせない口調だった。
カミラさんにしては珍しく語気が強い。エプロンを外しながら、側廊の奥の小部屋に私を半ば引っ張っていく。
談話室だ。前にハーブティーをいただいた、あの部屋。
椅子に座らされ、包帯を外される。裂傷は回復薬で塞がりかけていたが、まだ赤く腫れており、痕も残っていた。
「……深い傷です。骨にも響いていますね。いつ負ったのですか」
「十日ほど前です。小塔の跡で守護者と遭いまして」
「十日……」
カミラさんの声が微かに震えた。すぐに表情を整え、私の腕をそっと両手で包む。
「浄化と治癒を施します。少し熱くなるかもしれませんが、動かないでください」
目を閉じ、祈りの言葉を紡ぎ始めた。
古い神語の詠唱。礼拝で聴く賛歌とは違う、もっと低く、もっと深い響き。
彼女の掌が温かくなった。
いや、温かいのは掌だけではない。腕全体に、じんわりと染み込むような熱が広がっていく。痛みが薄らぐ。腫れが引いていく。骨の軋みが、静かに溶けるように消えていく。
二年前にもこの感覚を味わったことがある。
初めてこの教会に迷い込んだとき、旅の疲れと小さな傷を癒してくれたのがカミラさんだった。あのときと同じ、澄んだ温度。
祈りの声が耳に響く。
世界の拍を招き入れる術。聖女の力。
その声を聴いていると、不思議と心臓の鼓動が穏やかになる。荒れていた拍が、自然に整っていく。
ふと、カミラさんの指が微かに震えていることに気づいた。
祈りは途切れていない。声は安定している。しかし、私の腕に触れている指先だけが、かすかに、けれど確かに震えている。
「カミラさん、大丈夫ですか? 無理してませんか」
「……大丈夫です。集中していますから、どうか話しかけないで」
言葉は厳しいが、声は柔らかい。
◆
(彼が帰ってきた。生きて帰ってきた。)
(でも、こんなに深い傷を負って――十日も。十日間、この痛みを抱えて歩いたの?)
(祈りなさい、カミラ。拍を静めて。女神の力を招き入れなさい。)
(でも、この人の肌に触れると、私の鼓動が……静まらない。)
(静めなさい。聖女でしょう。あなたの静寂が、この人を癒すのだから。)
(わかっています。わかっている。だから祈る。祈ります。でも――)
(この傷を見るたび、この人がどれほど危険な場所を一人で歩いているか、思い知らされる。)
(一人で。いつも一人で。)
(ああ、女神様。どうか、この人をお守りください。私の祈りが少しでも届くなら――)
(次こそは。次こそは、出発する前に。この人を守る加護を、ちゃんと授けさせてください。)
◆
祈りが終わり、カミラさんがゆっくりと手を離した。
腕を見ると、裂傷の痕はまだうっすら残っているが、腫れは完全に引いていた。動かしても痛みがない。肋骨の違和感も消えている。
「すごいですね。本当に治ってます」
「完全ではありません。跡が消えるまでには少し時間がかかります。……でも、もう痛みはないはずです」
「ありがとうございます、カミラさん。助かりました」
素直に礼を言うと、彼女は微笑んだ。
だが、その笑みの下に、何か――怒りに似た、それでいて泣きそうな何かが見えた気がした。
カミラさんは椅子に座り直し、両手を膝の上で組んだ。
しばらく黙っていたが、やがて顔を上げた。
いつもの穏やかな声ではなく、静かだが芯のある声で。
「グレンさん」
「はい」
「今後は、冒険にお発ちになる前に、必ずこちらへいらしてください」
「え?」
「加護をお授けします。女神メナスの加護は、戦場にも降り注ぎます。あなたの身体に薄い静寂の層をまとわせることができます。万全ではなくとも、傷を浅くすることはできるはずです」
「いや、でもそれは司祭としての職務外でしょう。ご迷惑を――」
「迷惑ではありません」
きっぱりと。
「断ることは、許しません」
私は言葉に詰まった。
カミラさんがこんなに強い口調で物を言うのは、初めて聞いた。
いや……初めてではないかもしれない。市場でシルヴィアと対峙したときも、彼女は一歩も退かなかった。穏やかな外見の下に、こういう芯がある人なのだ。
「……わかりました。次からはそうします」
「約束ですよ?」
「約束します」
カミラさんはようやく肩の力を抜き、いつもの柔らかな笑みに戻った。
「お茶を淹れますね。今日は長旅でお疲れでしょうから」
「ありがとうございます。……あ、カミラさん」
「はい?」
「その……歌、聴いてもいいですか。さっきの祈りの旋律。あれが聴こえると、なぜか安心するんです」
カミラさんは一瞬目を丸くして、それから頬を染めた。
「……ずっと歌っていましたよ。あなたが気づいていなかっただけです」
「そうだったんですか。すみません、ぼんやりしてました」
「いいえ。聴いていてくださるだけで、十分です」
ティーポットに手を伸ばす彼女の横顔に、ステンドグラスの光が虹を落としていた。
私はその光景を見ながら、ぼんやりと思った。
あの山中で口ずさんでいた旋律。
あれは、この声だったのだ。
いい歌だ。覚えていても、おかしくはない。
……なのに、なぜか胸の奥が、少しだけ温かい。
鐘が遠くで鳴った。天頂の鐘。六つの打音が、聖堂の石壁を伝って響いてくる。
午後は学院に行かなければ。シルヴィアに拍刻板を見せる約束がある。
「カミラさん、そろそろ失礼します。午後は学院に用事がありまして」
「学院……シルヴィアさんのところですね」
「ええ。探索の成果を渡さないといけないので」
「……そうですか」
カミラさんはティーカップを静かに置いた。
「行ってらっしゃい、グレンさん。……お帰りなさい」
最後の一言は、ほとんど囁きだった。
私は頭を下げて、談話室を出た。
大扉を押し開けると、春の風が頬を撫でた。
右腕を動かす。痛みはない。指先が自在に動く。
あの震えていた指のことが、少しだけ気にかかった。
祈りに集中していたから、と彼女は言った。そうなのだろう。
でも――「気にかかった」という感覚だけが、右腕の温もりと一緒に残っていた。