母の小言と、孤児院の笑い声と、いつもとちょっとだけ違う午後。
午前の依頼を片付けた帰り道、ふと思い立って下町の路地に足を向けた。
見慣れた仕立屋の看板。戸を開けると、布と糸の匂いがした。
「あら、グレン。珍しいじゃないの」
母さんは針を手にしたまま振り返った。膝の上に繕いかけの外套が広がっている。
「近くまで来たから、顔だけ」
「そう。ちょうどよかった、これ持っていきなさい」
有無を言わさず、繕い終えた手袋と厚手の靴下を押しつけてくる。どちらも私の寸法に合わせて直してあり、指先の補強まで施されていた。
「助かるよ。……相変わらず仕事が早いな」
「当たり前でしょ、何年やってると思ってるの」
母さんは針に糸を通しながら、何気ない声で付け加えた。
「そういえばグレン、あんた最近、教会の司祭さんのところによく通ってるんですって?」
「浄化してもらってるだけだよ」
「ふうん? 毎週?」
「……礼拝の日だから」
母さんは含みのある笑みを浮かべたが、それ以上は追及しなかった。
奥の居間で、父さんが帳簿を広げたまま茶を飲んでいた。私の顔を見ると、何も言わずに棚から瓶を取り出して杯を二つ並べた。
「まだ昼だよ」
「一杯ぐらいいいだろ」
馬鹿息子が珍しく帰って来たのだから、とは言わない。その代わりに酒を出す。昔からそうだ。
杯を合わせ、一口含む。いつもの度数の高い麦酒が喉を焼いた。
「たまには早く帰って来いよ。母さんがうるさい」
「お父さん! うるさいとは何よ!」
父さんは肩をすくめた。私も肩をすくめた。この辺りは親子だなと思う。
玄関で靴を履いていると、母さんがまた口を開いた。
「あとね、その司祭さんにもよろしく」
「だから、浄化を……」
「はいはい」
母さんはにこにこしている。背後で父さんが横目にニヤリとしたのが見えた気がした。
そういう話ではないのだ。あの人は司祭で、私はただの冒険者で。
まあいい。こういう面倒くささも含めて、実家だ。
◆
冒険者区への帰り道、教会街の角を曲がったところで、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「こら、リュカ、柵の上に乗っちゃだめですよ! あっ、マリー、そっちは――きゃっ」
石畳の広場に、白い法衣の背中と、その周りを走り回る小さな影が五つ六つ。
カミラさんだった。
子供たちに完全に囲まれている。一人が背中にしがみつき、一人がスカートの裾を掴み、一人が地面にしゃがんで何かを描いている。カミラさんはそれを必死にまとめようとしているが、到底追いつかない。
「あ、グレンさん!」
目が合った。翡翠の瞳が見開かれ、すぐに安堵で緩んだ。
「こんにちは。今日は土の日じゃないですよね?」
「ああ、通りがかりです。……大変そうですね」
「孤児院の子たちと遊ぶ日なんです。教会が週に二度、子供たちを預かっていて。普段は修道女が付き添うのですが、今日は私が……」
背中にしがみついた少年が「せんせー、この人だれー?」と大声を出した。
「えっと、この方はグレンさんで、冒険者を――」
「ぼうけんしゃ!?」
子供たちの目が一斉にこちらを向いた。嫌な予感がした。
「けんをみせて!」「ドラゴンたおしたことある!?」「まものはどうやってやっつけるの!?」
次の瞬間、五人に囲まれていた。カミラさんが「皆さん、急に飛びついては……」と言いかけたが、もう遅い。腕にぶら下がる子、足にしがみつく子、肩によじ登ろうとする子。小さいくせに力が強い。
「ドラゴンは見たことがない。魔物は……そうだな、蜜精なら先週退治した」
「みつせー?」「あまいの?」「たべられるの?」
「食べられない。べたべたして気持ち悪い」
「「「えー!」」」
カミラさんが口元に手を当てて笑っていた。
「グレンさん、子供の扱い、お上手ですね」
「……上手くはないですよ。向こうが勝手に来るだけです」
肩の上の少年がぐいぐい髪を引っ張ってくる。痛い。だが振りほどくわけにもいかない。
結局、そのまま広場で一刻ほど過ごすことになった。
子供たちに剣の型を見せろとせがまれ、木の棒で素振りの真似をさせ、追いかけっこに付き合い、石積み遊びの審判をやらされた。疲れる。だが、悪い気分ではなかった。
カミラさんは一番小さい女の子の隣に膝をついて、髪を編んでやっていた。細い指が丁寧に動くのを、女の子が大人しく待っている。
「グレンさん、見てください。マリーの三つ編み、上手にできました」
「……ああ。似合ってますよ」
マリーと呼ばれた女の子が照れて、カミラさんの法衣に顔を埋めた。カミラさんは困ったように笑って、その頭を撫でた。
「この子たちとは、長いんですか」
「二年ほどです。私がこの教会に着任してから」
カミラさんは広場を見渡した。走り回る子供たち。笑い声。石畳に落ちる短い影。
「この子たちを見ていると、思うんです。祈りとは、結局こういうことなのかもしれないと」
「こういうこと?」
「大きな奇跡ではなくて。目の前の誰かの髪を編んであげること。転んだ膝を拭いてあげること。そういう、小さなことの積み重ね」
「……立派な考えだと思います」
「立派だなんて。ただ、好きなんです」
そう言って、カミラさんは笑った。飾りのない、素の笑い方だった。教会の談話室で向かい合っているときとは、少し違う顔。
鐘が鳴った。子供たちを迎えに来た修道女が、広場の入り口で手を振っている。
「みんな、お迎えですよ。今日はここまで」
「えー!」「もっとあそぶー!」「ぼうけんしゃのおにいちゃんがー!」
カミラさんが一人ずつ手を取って、修道女のところへ送り出していく。最後にマリーが私の脚にしがみついて離れなかった。
「マリー、グレンさんが困ってしまいますよ」
「やだ。おにいちゃん、また来る?」
「……暇なときにな」
女の子は満足して手を離し、修道女に駆けていった。
広場に二人だけが残った。子供たちの笑い声の残響が、まだ石畳のどこかに漂っている気がした。
「すみません、巻き込んでしまって」
「いや、楽しかったですよ」
嘘ではなかった。
「グレンさんが楽しかったと言ってくださると、なんだか嬉しいです」
カミラさんは少し照れたように視線を落とした。それから、思い出したように顔を上げる。
「あの、今日はどうしてこちらに? 土の日ではないのに」
「実家に寄った帰りです。母が仕立屋をやっていて、この近くなんですよ」
「まあ……お母様が。お近くだったんですね」
「ああ。まあ、大した家じゃないですけど」
「そんなことありません。ご家族がいらっしゃるのは、素敵なことです」
カミラさんの声が、ほんの少し静かになった。だが、すぐにいつもの柔らかい微笑みに戻る。
「お母様によろしくお伝えください」
「……ああ」
母さんが聞いたら大喜びするだろうな、と思った。だがそれは言わないでおいた。
「では、土の日に」
「はい。土の日に」
カミラさんは軽く頭を下げ、教会の方へ歩いていった。法衣の白が、午後の光に淡く滲んでいく。
冒険者区への道を歩きながら、ふと手元を見た。母さんの繕った手袋が鞄に入っている。靴下も。
仕立屋の息子が、冒険者をやって、教会の司祭と孤児院の子供たちと遊ぶ。
不思議な一日だ。でも、悪くはなかった。
◆
教会の回廊を歩きながら、カミラは胸元のペンダントに触れた。
グレンさんが子供たちと遊んでいる姿。大きな手で小さな背中を支え、真剣な顔で石積みの審判をして、髪を引っ張られても怒らない。
冒険の話をするときとも、教会で私と話すときとも違う、もっと柔らかい顔をしていた。
お母様が仕立屋をされている、と言っていた。庶民の温かな家庭で育った人。あの穏やかさは、きっとそこから来ているのだろう。
マリーが「また来る?」と聞いたとき、グレンさんは「暇なときにな」と答えた。
――期待しては、いけない。
あの言葉は孤児院の子供たちに向けたもので、私に会いに来てくださるという意味ではない。
わかっている。わかっているのに。
ペンダントを握る指に、少しだけ力がこもった。