翌週の土の日。
約束通り、私はメナス大聖堂を訪れた。今日は礼拝のためではなく、加護を受けるためだ。
「お待ちしておりました」
カミラさんは儀式用の白い法衣を纏っていた。先週と同じ装い。金糸の刺繍が朝日に光り、胸元の双環のペンダントが静かに揺れている。
……やはり、この人は儀式の装いをすると雰囲気が変わる。普段は穏やかで柔らかい印象だが、法衣を着ると凛とした空気を纏う。聖女、と人が呼ぶのもわかる気がする。
「加護の儀式は、祈祷室で行います。奥へどうぞ」
大聖堂の側廊を抜け、さらに奥。普段の談話室よりずっと深い場所に、小さな部屋があった。
石壁に囲まれた四角い空間。天井に穴が開いており、そこから細い光が一筋、床の円形の石畳を照らしている。壁には古い神語の刻印。蝋燭は一本もない。
光は天窓からの自然光だけだ。
「ここでいつも加護を授けているんですか?」
「はい。祈祷室は大聖堂の中で最も拍が静かな場所です。外の音も、鐘の振動も、ほとんど届きません」
言われてみると、確かに静かだ。自分の心臓の音が聞こえるほどに。
「では、ここに立ってください」
光の差す円形の石畳の中央に立つ。カミラさんが正面に来た。距離は近い。手を伸ばせば届く位置。
「目を閉じなくて結構です。ただ、呼吸を整えてください」
「わかりました」
深く息を吸い、吐く。剣の鍔に手を当てる癖が出そうになったが、今日は剣を預けてきた。錨なしで拍を落ち着かせる。
……少し不安だ。鎧を脱いで無防備になった気分に似ている。
カミラさんが一歩近づいた。
そして、両手をそっと私の額に置いた。
指先が冷たい。でも、触れた瞬間にじわりと温かさが染み込んでくる。前回の治癒と同じ感覚だ。
祈りの言葉が始まった。
古い神語の、低く長い詠唱。賛歌とは違う、もっと深い響き。骨に伝わるような振動。
彼女の手の下で、何かが動いた。
私の額から、肩へ、腕へ、胸へ。薄い膜のようなものが身体に沿って広がっていく。見えないが、感じる。まるで、水面に浮かぶときのような、全身を柔らかく包む圧力。
加護だ。静寂の層。
外部からの拍の干渉を緩衝する、聖女の力。
目を開けたまま、カミラさんの顔を見ていた。
目を閉じた彼女の睫毛が微かに震えている。唇が祈りの言葉を紡ぎ、額に薄く汗が滲んでいる。
集中している。全身で祈っている。
……不意に、加護の層が偏った。右肩にだけ厚く集まる感覚がある。左半身は薄い。
カミラさんが祈りを止め、目を開けた。
「……すみません」
「え?」
「少し、偏ってしまいました。右肩に厚くなって、左側が薄い。もう一度やり直します」
「いや、十分ですよ。左側だって完全に無防備じゃないでしょう?」
「でも、万全ではないのは――」
「カミラさん」
私は彼女の目を見た。翡翠の瞳に、悔しさのような光が浮かんでいる。
「十分ですよ。ありがとうございます」
◆
(集中しなさい、カミラ。静寂を保ちなさい。)
(この人の額に触れている。この人の拍に、私の祈りを重ねている。)
(女神よ――いいえ、これは女神への祈り。この人のための祈り。私情を挟んではいけない。)
(でも。この人に触れるたびに、私の静寂が揺れる。)
(好きだから祈りが深くなるのか。好きだから拍が乱れるのか。どちらが本当なの、女神メナスよ――)
(右肩に偏った。私の心が、この人の傷を負った右腕を覚えているから。あの裂傷を、この手で治したから。その記憶が、祈りの流れを歪めた。)
(聖女失格だ。私情で加護を歪めるなんて。)
(でも――この人を守りたいという気持ちだけは、嘘ではない。)
(嘘では、ないのです。)
◆
加護の儀式を終え、祈祷室を出た。
カミラさんは少し疲れた顔をしていたが、笑みを絶やさなかった。
側廊を歩きながら、彼女がふと足を止めた。
「グレンさん。一つ、お渡ししたいものがあります」
「何ですか?」
カミラさんは法衣の内側から、小さなものを取り出した。
ペンダントだ。細い銀の鎖に、二つの小さな環が組み合わさった意匠。双環。メナスの象徴。
彼女が胸元につけているものと同じデザインだが、こちらは一回り小さい。
「お守りです」
差し出された掌の上で、双環がきらりと光った。
「加護は時間とともに薄れます。このペンダントには、私の祈りの拍を少しだけ刻んであります。完全な加護の代わりにはなりませんが……拍が乱れそうなとき、これに触れれば少し落ち着くはずです」
「カミラさん、これは――」
「……ただのお守りです」
小さく付け足した。
「ただの」という言葉に、妙な力がこもっていた。
私はペンダントを受け取った。掌に載せると、ほのかに温かい。カミラさんの祈りの残滓だろうか。
「ありがとうございます。大事にします」
「……はい」
カミラさんは少しだけ俯いた。金色の髪が頬を隠す。
「大事にしてくださるなら、それで十分です」
「もちろんです。冒険には必ず持っていきますよ」
「本当ですか?」
「本当ですよ。約束します」
顔を上げた彼女の目が、少し潤んでいるように見えた。
光の加減だろう。祈祷室が暗かったから、明るい廊下に出て目が慣れないだけだ。
「じゃあ、今日はこれで。来週も来ますね」
「はい。お待ちしています。……ずっと」
最後の一言は、前にも聞いたことがある。祈りのように静かな声。
大扉を押し開けて外に出た。
ペンダントを首にかけるのは気恥ずかしいので、内ポケットに入れた。布越しに、微かな温もりを感じる。
……ただのお守りだ。
司祭が冒険者に渡すお守りなど、珍しくもないだろう。教会にはそういう慣習がある。たぶん。
でも、あの「ただの」という一言が、なぜか引っかかる。
「ただの」と付ける必要があったのだろうか。お守りはお守りだ。わざわざ「ただの」と断る理由がわからない。
……考えてもわからないものは、考えても仕方がない。
私は首を振り、学院への道を歩き始めた。
内ポケットの双環が、心臓の隣で小さく揺れていた。