その日の午後、シルヴィアの研究室を訪ねると、彼女は水晶盤の前ではなく、窓際の机に向かっていた。
羊皮紙の束が山になっている。拍刻板の解読記録と、何やら長い文書。書き上がったばかりらしく、インクがまだ乾ききっていない。
「おやグレン、早いね。ちょうどよかった」
「何を書いてるんだ?」
「申請書だよ。学院長宛の、フィールドワーク許可申請」
首を傾げた。
「フィールドワーク?」
「そう。拍刻板の解読を進めるには、現地調査が必要なんだ。研究室の水晶盤だけでは限界がある。実際に遺跡の拍を計測し、拍刻板の術式と環境拍の相関を分析しなければ、"連結"の全容は見えてこない」
すらすらと専門用語を並べるが、要するに。
「……まさか、私の次の探索に同行するつもりか?」
「その通り」
シルヴィアは椅子を回し、こちらに向き直った。いつもの冗談めいた笑みではない。真剣な目をしている。
「水底の祭壇。エルム河中流域の水没した古代神殿だ。学院の古い記録に、魔晶石と関連する遺物の存在が示唆されている。拍刻板の"連結"を裏付ける証拠が、あそこにあるかもしれない」
「知ってるよ。乾季に入口が露出する遺跡だろう。水中での探索が必要だから、危険度はB級――」
「B級程度なら問題ない。私は結界と解析を担当する。君が前衛で道を開き、私が後方で計測と解読を行う。いつもの分業だよ」
「いつもの分業って、いつもは研究室でだろう。遺跡の中は勝手が違う」
「わかっている。だから準備をしているんだ。学院長の許可は明日には下りる。装備も揃えた。水中結界の術式も組んである」
用意がいい。いつの間にこれだけ準備したのか。
……いや、拍刻板を持ち帰ったのは一週間前だ。一週間あれば、シルヴィアなら何でもできる。
「しかし、危険だぞ。遺跡には水棲の魔獣もいる。研究員が行くような場所じゃない」
「では訊くが、グレン」
シルヴィアが立ち上がり、一歩こちらに近づいた。
「君が危険な場所に行くのに、私だけ安全な場所にいろと?」
「……」
「私は七年間、君が持ち帰る素材を研究室で受け取るだけだった。でも今回は違う。拍刻板の"連結"は、現地でしか検証できないものが含まれている。学術的に、私が行く必要がある」
学術的に。
そう言い切るシルヴィアの声は理路整然としている。彼女はいつもそうだ。冗談と合理で言葉を組み立てる。反論の余地を残さない。
でも。
「……本当にそれだけか?」
問い返すと、シルヴィアが一瞬だけ瞬きをした。ほんの一瞬。しかし私は見逃さなかった。
いつも冗談で隠す彼女の目が、ほんの一瞬だけ、素になった。
「それだけだよ。学術的な必要性。それ以外に何がある?」
すぐに笑みが戻る。いつもの、少し小悪魔的な笑み。
「ま、強いて言えば、君が前回みたいに傷だらけで帰ってくるのを、研究室で待つのは精神衛生上よろしくない。現地にいれば、即座に逆相処理ができるだろう?」
「それは……まあ、そうだが」
「決まりだね」
反論の隙を与えず、シルヴィアは机に戻って申請書の最後の行にサインを入れた。
◆
(本当の理由は知っている。自分でわかっている。)
(あの聖女が加護を授けた。お守りまで渡した。グレンの内ポケットに、あのペンダントが入っている。彼は気づいていないだろうけど、あれは"ただのお守り"なんかじゃない。)
(カミラ=ルシエル。あの女は穏やかな顔をして、着実に距離を詰めている。祈りで。治癒で。加護で。お守りで。一つずつ、一つずつ、グレンの日常に自分を刻み込んでいる。)
(なら、私は――私にしかできないことで、君の傍にいる。)
(学術的な建前? そんなものはどうでもいい。いや、嘘だ。学術的にも必要なのは本当だ。でも、それだけじゃない。)
(離れたくない。)
(もう二度と、君が傷だらけで誰かのところへ先に行くのを、研究室で知りたくない。)
(聖女が癒し、魔女が解く。それが役割分担だと言うなら、私は"解く"場所を研究室の外に広げるだけだ。)
(……私にはこれしかない。冗談と研究で鎧を作り、その中に本音を隠すことしかできない。七年間、ずっとそうだった。)
(でも、もう待つだけは嫌だ。)
◆
翌日、学院長エレノア=ハイゼンからの許可が下りた。
シルヴィアはフィールドワーク名目で二週間の研究室不在を承認され、探索用の装備を学院の備品庫から調達した。
研究棟の前で、荷物を確認する。
シルヴィアの荷は意外なほどコンパクトだった。水晶盤の小型版、触媒瓶の一式、記録用の羊皮紙束、それから――
「水中結界の術式。これを起動すれば、水没区画でも空気が確保できる。半刻ほどの持続時間だ」
「半刻で足りるか?」
「足りなければ再起動する。二回分の触媒は持ってきた」
準備に抜かりはない。さすがだ。
「出発は明後日の朝。水底の祭壇まで河船で二日。乾季の今なら入口が露出しているはずだ」
「了解。じゃあ明後日、東門で」
「東門? 河港区の船着き場でしょう」
「……そうだった。すまん」
「まったく。地図の読めない探索者なんて聞いたことがないよ」
呆れた顔でため息をつくシルヴィアだが、口元は笑っている。
「ねえグレン」
「ん?」
「二人で冒険に出るのは、学院時代の実地研修以来だね。あのとき君は、倒木の下に落ちた私を引き上げてくれた」
「ああ、覚えてる。あのときはびっくりした」
「……私もびっくりした。まさか、ろくに知らない相手のために崖を降りてくるとは思わなかったから」
「同じ講座の仲間だろう。当然だ」
「当然、か」
シルヴィアは荷袋の紐を結び直しながら、小さく笑った。
「君のその『当然』が、いつも私を困らせるんだよ」
「?」
意味がわからなかった。
当然のことを当然とやって、なぜ困るのか。
「まあいい。明後日、楽しみにしているよ」
「ああ。よろしく頼む」
シルヴィアは手を振り、研究棟の階段を上がっていった。淡紫の外套の裾が翻る。
回廊に一人残されて、ふと思った。
二人での冒険。学院時代以来。
あの頃は、私が探して、彼女が解く。そういう分業だった。
今回も同じだ。同じなのだが――なぜだか、少しだけ心拍が速い。
私は内ポケットのペンダントに無意識に触れ、すぐに手を離した。
なぜ触れたのかは、よくわからない。