エルム河を下る船は、穏やかだった。
河面に秋の陽が反射し、両岸の木々は紅葉の始まりを見せている。乾季に入り、水位は普段より低い。船頭が竿を操り、浅瀬を避けながら中流域に向かう。
「こんな穏やかな旅もあるんだね。山を登るよりずっと楽だ」
シルヴィアは船縁に肘をつき、流れる景色を眺めていた。葡萄色のローブではなく、動きやすい革の上着に麻のズボン。肩に短い杖型の水晶器具を担いでいる。
いつもの研究室の姿とは違うが、不思議と似合っている。
「河船は初めてか?」
「学院の遠征実習以来。あのときは先輩に船酔いの術式をかけてもらった」
「今は大丈夫なのか?」
「君がいるから」
「?」
「錨がある安心感さ。船酔いも拍の乱れの一種だからね」
なるほど。そういう理屈か。
……いや、錨は私の剣の鍔にあるのであって、私自身が錨というわけではないのだが。
まあ、シルヴィアの言い回しは昔からこうだ。
◆
二日目の昼過ぎ、目的地に着いた。
エルム河の中流、川幅が広がって浅くなる一帯。乾季で水位が下がった河底から、石造りの構造物が頭を覗かせていた。
水底の祭壇。
星綴り文明の古代神殿が、数千年の間に河底に沈んだもの。入口は通常、完全に水没しているが、今の季節なら膝丈ほどの水深で辿り着ける。
「行くよ」
河岸に荷を置き、装備を最終確認する。剣、錨、計測板。シルヴィアは小型水晶盤と触媒瓶。
水に入る。冷たい。秋の河水が脛を打ち、足元の石が苔で滑る。
シルヴィアが手を伸ばしてきた。
「掴まって。滑るから」
「いや、掴まるのは私のほうだろう」
「いいから。私は結界で足元を固定できる」
言い終わる前に、シルヴィアの掌が私の手首を握った。冷たいが、しっかりした握りだ。七年前、図書塔で崩れた本の山から引き寄せたときと同じ――細いが、強い手。
入口の亀裂に辿り着く。石壁に囲まれた下り階段が、水の中に消えている。
「ここからは水没区画だ。結界を頼む」
「了解。――展開」
シルヴィアが短い詠唱を唱えると、私たちの周囲に薄い膜のようなものが生まれた。空気の泡。結界の中だけが乾いている。
「半刻。この中にいれば呼吸できる。ただし結界の外に出たら水が入るから、離れないように」
「わかった」
二人で階段を降りていく。水の壁がすぐ傍にあるのに、結界の中は乾いていて、会話もできる。不思議な感覚だ。
◆
水没区画を抜け、奥へ進むと、空気が保たれた区画に出た。
天井から水が滴っているが、床は乾いている。古代の結界が生きているのだろう。壁面に蛍光灯水晶の欠片が残っており、微かな光を放っている。
「ここは……古代の結界で空気が維持されている。私の結界を切っても大丈夫だね」
シルヴィアが結界を解除し、触媒の消費を抑えた。賢い判断だ。
さらに奥へ。通路は緩やかに下り、やがて広い部屋に出た。
祭壇だ。
石造りの長方形の台。その向こうの壁面に――壁画があった。
色は褪せているが、はっきりと見える。
二つの人影が、手を合わせている。重なった手の間から光が放たれ、光は周囲に広がって世界を満たしている。
一方の人影は動的な姿勢――腕を伸ばし、能動的に何かを発している。もう一方は静的な姿勢――膝をつき、受け入れるように手を開いている。
「グレン、これ……」
シルヴィアが息を呑んだ。小型水晶盤を壁画に向け、拍を計測している。
「壁画自体に拍が残っている。古い、でも生きている拍だ」
壁画の下に、古代文字が刻まれていた。シルヴィアが指でなぞりながら読み解く。
「"二つの拍を連結し、世界の拍を静める術"……」
「静める?」
「待って。もう少しある。"大いなる乱れの後に――"いや、"大いなる離散の後に残された"……"修復のための"……」
シルヴィアの目が大きく見開かれた。
「"修復のための術式"。グレン、これは――大離散を防ぐための術じゃない。大離散の後に残された、世界を修復するための術式だ」
「修復?」
「星綴り文明は大離散で滅んだ。でも、滅ぶ前に――あるいは滅びながら――修復の方法を遺跡に刻んだ。二つの拍を連結し、世界の拍を安定させる術。それがこの壁画の意味だ」
シルヴィアは壁画の前で立ち尽くしていた。研究者の目ではなく、もっと深い何かを見る目をしている。
◆
壁画の記録を取っていると、水没区画の方向から水音がした。
大きい。自然の音ではない。
「来た。水棲の魔獣だ」
剣を抜いた。計測板が不規則な拍を拾っている。
暗い通路の奥から、ぬめった鱗に覆われた胴体がずるずると這い出てきた。水蛇の一種。ただし通常の蛇とは桁違いの大きさだ。太さだけで人の胴ほどある。
「シルヴィア、下がれ!」
「結界を張る。三秒」
シルヴィアが短い詠唱で結界を展開。壁画のある部屋の入口に、拍の壁が立ち上がった。水蛇が結界にぶつかり、弾かれる。しかし力が強い。結界が軋んだ。
「長くは持たない。速くやって」
「了解」
結界の隙間から踏み込む。水蛇の頭部に剣を同調させ、鱗の隙間を狙って突く。
手応え。切先が肉に達した。水蛇が身をよじり、太い尾が壁を叩く。石片が飛ぶ。
だめだ。この通路では大振りの攻撃ができない。
「グレン、逆相で動きを止める。タイミングを合わせて」
シルヴィアの声。振り向くと、彼女が輪環の小型版を掲げていた。
「三、二、一――今!」
逆相の波動が水蛇の拍に干渉し、動きが一瞬止まった。その隙に、心臓に相当する部位に剣を突き立てる。
水蛇がびくりと跳ね、やがて動かなくなった。
「……助かった」
「こちらこそ。結界だけでは突破されるところだった」
二人で肩を並べ、息を整える。戦闘の後の空気は妙に温かい。汗と水しぶきで二人とも濡れている。
シルヴィアが壁にもたれ、髪から水滴を払った。銀の髪が湿って頬に張りついている。
「ねえグレン」
「ん?」
「もし世界に二つの拍を繋ぐ術があるなら……心と心も繋げるのかな」
不意をつかれた。
「……どういう意味だ?」
「さあ。壁画を見ていたら、ふと思っただけさ。二つの人影が手を合わせて光を放つ。それが"連結"だとしたら、人間にも同じことができるのかなって」
「人間の心を繋げる術なんて、聞いたことがないぞ」
「だろうね。――冗談だよ」
シルヴィアは笑った。いつもの笑い方だ。
冗談で覆い、本音を隠す。彼女はいつもそうする。
でも今回は、その笑みの下にあるものが、ほんの少しだけ見えた気がした。
見えたのは、寂しさだ。
七年間隣にいて、何でも共有してきたのに、「繋がっている」と確信できない寂しさ。
「帰るか。結界の触媒がもったいない」
「そうだね。壁画の記録は取れた。十分な成果だ」
立ち上がり、水没区画に向かう。シルヴィアが再び結界を展開し、空気の泡の中を二人で階段を上がっていく。
河の水面を突き破って外に出ると、夕焼けが空を赤く染めていた。
「綺麗だね」
「ああ」
河岸に座り、濡れた身体に夕日の温もりを受ける。
二人並んで、エルム河の流れを眺めた。水面に空の色が映り、赤と金が混じり合っている。
シルヴィアが膝を抱え、肩を少しだけこちらに寄せた。濡れた外套越しに、彼女の体温を感じる。
「ねえ」
「ん」
「あの壁画の二人。一方が押して、一方が招いて。二つで一つになる。……いい絵だったね」
「ああ。古代人は絵が上手かったんだな」
「……君はそういう感想なんだ」
「他にどんな感想があるんだ」
シルヴィアは答えず、ただ少しだけ肩を震わせた。笑ったのだろう。
やがて河風が冷たくなり、私たちは立ち上がって帰路についた。
帰りの船の中で、シルヴィアは持ち帰った壁画の模写を広げ、拍刻板のデータと照合し始めた。
研究に没頭する横顔は真剣で、瞳の奥だけがきらきら光っていた。
七年前の図書塔の夜と、同じ顔だ。
その横顔から、なぜか目が離せなかった。
船がゆっくりと王都に向かう。
夕闇の河面に、二つの影が揺れていた。