帰りの船は、行きよりもずっと静かだった。
河面を叩く水音と、船頭の竿がしなる音だけが聞こえている。西の空が朱に染まり始め、両岸の紅葉が夕陽を受けて燃えるように光っている。
シルヴィアは船縁にもたれ、壁画の模写を膝に広げていた。が、筆は動いていない。視線が紙面を滑るばかりで、時折ふっと顔を上げて、水面のどこかを見つめている。
「どうした? 解読で引っかかったか?」
「いいや。――ちょっと、昔のことを考えていた」
珍しい。シルヴィアが手を休めて感傷に浸るのは、果実酒を飲んだときくらいだ。
「学院時代のこと?」
「うん。覚えてるかい、一年目の学食」
「……あの、何を食べても同じ味のするやつか」
「そう。君はいつも魚の塩焼き定食。私はいつもパンとスープ。あのスープ、具が何なのか最後まで分からなかったね」
「豆だと信じていたが、シルヴィアは芋だと言い張ってたな」
「今でも芋だと思っているよ」
笑い合った。河風が髪を巻き上げ、シルヴィアが片手で押さえる。
「あとは図書塔の徹夜。あれは何回やった?」
「数えきれない。翌朝の講義で二人とも居眠りして、教授に水をかけられたこともあったな」
「あのときの君の顔。びしょ濡れのまま真面目にノートを取ろうとしていた。周りは大笑いしてるのに」
「笑いごとじゃなかっただろう。教授の査読に落ちたら留年だぞ」
「そういうところが、昔から君だよ。真面目で、律儀で、鈍くて」
「鈍いは余計だ」
「事実さ」
船が緩やかに曲がり、岸辺の木々が近づいた。枝先から落ちた紅葉が一枚、水面に浮かんで船の横を流れていく。
シルヴィアがその葉を目で追いながら、ぽつりと言った。
「ねえグレン」
「ん?」
「あの頃から私は――」
言葉が途切れた。
彼女は口を開いたまま、一瞬だけ動きを止めた。喉の奥で何かがつかえたような、そんな沈黙。
「……なんでもない」
「なんでもなくはないだろう。何を言いかけた?」
「だから、なんでもないって。学食の芋スープが恋しいって言おうとしただけさ」
嘘だ。
シルヴィアの冗談には独特の軽さがある。今のは軽くなかった。
でも、彼女が「なんでもない」と言ったなら、それ以上踏み込むべきではないだろう。七年の付き合いで、それくらいは分かっている。
「……帰ったら学食に行くか。まだあの定食あるかもしれないぞ」
「ふふ、いいね。約束だよ」
シルヴィアは笑った。いつもの笑い方に戻っていた。
◆
王都の河港区に船が着いたのは、日が沈む少し前だった。
荷を担いで船着き場の石段を上がり、街路に出る。夕暮れの王都は橙色の光に包まれ、帰宅を急ぐ人々の影が石畳に長く伸びていた。
「東門を通って帰るかい? 学院は東側だから、その方が近い」
「ああ、そうしよう」
二人で並んで歩く。水底の祭壇から持ち帰った荷は重く、シルヴィアの機材も合わせると背嚢がずしりと肩に食い込む。だが、不思議と足取りは軽い。
商業区を抜け、東門が見える広場に差しかかったとき。
「あ」
シルヴィアが小さく声を漏らした。
視線の先——東門の門柱の傍に、白い姿が立っていた。
カミラさんだ。
司祭服に薄いショールを羽織り、門柱にもたれるようにして立っている。手には小さな風除けのランタン。夕闘の中で、その炎が橙色にゆらゆらと揺れている。
「……待ってたのか?」
私が近づくと、カミラさんが顔を上げた。翡翠の瞳が夕陽を映して光る。
「お帰りなさい、グレンさん」
穏やかな声。だが、よく見ると目元に薄い隈がある。
待っていたのは今日だけではないのかもしれない。帰還の日は伝えていなかった。教会の務めの合間に、毎日ここに来ていたのだろうか。
「シルヴィアさんも、お疲れさまでした」
カミラさんが丁寧に頭を下げた。微笑んでいる。微笑んでいるが、視線が一瞬だけ私たちの間——二人の距離を測るように動いた。そして、ほんの一瞬、目を伏せた。
それは本当に一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。
「ただいま、聖女さま」
シルヴィアが横から声をかけた。口元に薄い笑みを浮かべている。
「君の祈りが効いたかどうかは分からないけど――まあ、無事だよ。私が結界を張っていたからね」
「まあ、それは心強いですね。お祈りの甲斐がありました」
カミラさんはにこやかに応じたが、「私が結界を張っていたからね」という言葉の棘を受け流すような、静かな強さがあった。
「お二人とも、お怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫ですよ。シルヴィアのおかげで助かった場面もありましたし」
「私のおかげ、ね。君が水蛇を斬らなかったら私は結界ごと吹き飛んでいたけどね」
「お互い様だよ」
三人で並んで歩き始めた。
私が真ん中、右にシルヴィア、左にカミラさん。
夕暮れの道を歩きながら、カミラさんが訊いた。
「どのような遺跡だったのですか?」
「水底の祭壇です。河底に沈んだ古代の神殿で、壁画を見つけました。星綴り文明の――」
「詳しい話は報告書にまとめてからの方がいいだろう?」
シルヴィアが遮るように言った。
「学院長にも報告しなければならない。情報の管理は慎重にしないと」
「……そうだね、すまない」
カミラさんは何も言わなかった。ただ小さく頷いて、ランタンの炎を見つめていた。
◆
教会区と学院区の分かれ道に着いた。
「では、私はここで。明日の朝の礼拝がありますので」
カミラさんがランタンを胸の前に持ち、一礼した。
「来週の土の日、お待ちしています。……旅のお話、聞かせてくださいね」
「ああ、もちろん」
「グレンさん」
振り返りかけた彼女が、少しだけ声を低くした。
「無事で、本当に良かったです」
ランタンの光に照らされた横顔は、笑っていた。けれど、その笑みの奥に、何か堪えているものがあるように見えた。
カミラさんが白い背中を見せて歩き去っていく。ランタンの灯りが、だんだん小さくなる。
「……行ったね」
シルヴィアがぽつりと言った。
「ああ」
「あの人、毎日ここに来ていたのかもしれないね。ランタンを持って」
「まさか。そこまではしないだろう」
「……さあ、どうだろうね」
シルヴィアの声には、皮肉でも冗談でもない、静かな何かが混じっていた。
学院区に向かって二人で歩く。街灯の蛍光灯水晶が薄い光を落とし始めている。
「シルヴィア。さっき船で言いかけたこと」
「忘れて」
即答だった。
「忘れてくれ、グレン。本当にただの感傷だ。旅の疲れで、柄にもないことを言いそうになっただけさ」
「……わかった」
学院の尖塔が、藍色の空にそびえている。
シルヴィアが研究棟の入口で足を止め、振り返った。
「明日、壁画のデータを整理する。朝から来てくれるかい?」
「ああ。いつも通りだな」
「いつも通り。――うん、それがいい」
彼女はそう呟いて、扉を開けた。石の回廊に差し込む蛍光灯水晶の光が、銀の髪を青白く照らす。
「おやすみ、グレン」
「おやすみ」
扉が閉まった。
一人になった。
石畳を踏む靴音だけが響く。
空を見上げると、東の端に細い月が出ていた。
その月を見ながら、ふと思った。
カミラさんのランタンの炎と、シルヴィアの研究室の灯り。
二つの明かりが、王都の夜にそれぞれ灯っている。
冷たい夜風が頬を撫でた。私は外套の襟を立て、宿への道を歩き始めた。