聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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帰り道の温度、途切れた言葉

帰りの船は、行きよりもずっと静かだった。

河面を叩く水音と、船頭の竿がしなる音だけが聞こえている。西の空が朱に染まり始め、両岸の紅葉が夕陽を受けて燃えるように光っている。

 

シルヴィアは船縁にもたれ、壁画の模写を膝に広げていた。が、筆は動いていない。視線が紙面を滑るばかりで、時折ふっと顔を上げて、水面のどこかを見つめている。

 

「どうした? 解読で引っかかったか?」

 

「いいや。――ちょっと、昔のことを考えていた」

 

珍しい。シルヴィアが手を休めて感傷に浸るのは、果実酒を飲んだときくらいだ。

 

「学院時代のこと?」

 

「うん。覚えてるかい、一年目の学食」

 

「……あの、何を食べても同じ味のするやつか」

 

「そう。君はいつも魚の塩焼き定食。私はいつもパンとスープ。あのスープ、具が何なのか最後まで分からなかったね」

 

「豆だと信じていたが、シルヴィアは芋だと言い張ってたな」

 

「今でも芋だと思っているよ」

 

笑い合った。河風が髪を巻き上げ、シルヴィアが片手で押さえる。

 

「あとは図書塔の徹夜。あれは何回やった?」

 

「数えきれない。翌朝の講義で二人とも居眠りして、教授に水をかけられたこともあったな」

 

「あのときの君の顔。びしょ濡れのまま真面目にノートを取ろうとしていた。周りは大笑いしてるのに」

 

「笑いごとじゃなかっただろう。教授の査読に落ちたら留年だぞ」

 

「そういうところが、昔から君だよ。真面目で、律儀で、鈍くて」

 

「鈍いは余計だ」

 

「事実さ」

 

船が緩やかに曲がり、岸辺の木々が近づいた。枝先から落ちた紅葉が一枚、水面に浮かんで船の横を流れていく。

 

シルヴィアがその葉を目で追いながら、ぽつりと言った。

 

「ねえグレン」

 

「ん?」

 

「あの頃から私は――」

 

言葉が途切れた。

彼女は口を開いたまま、一瞬だけ動きを止めた。喉の奥で何かがつかえたような、そんな沈黙。

 

「……なんでもない」

 

「なんでもなくはないだろう。何を言いかけた?」

 

「だから、なんでもないって。学食の芋スープが恋しいって言おうとしただけさ」

 

嘘だ。

シルヴィアの冗談には独特の軽さがある。今のは軽くなかった。

 

でも、彼女が「なんでもない」と言ったなら、それ以上踏み込むべきではないだろう。七年の付き合いで、それくらいは分かっている。

 

「……帰ったら学食に行くか。まだあの定食あるかもしれないぞ」

 

「ふふ、いいね。約束だよ」

 

シルヴィアは笑った。いつもの笑い方に戻っていた。

 

 

王都の河港区に船が着いたのは、日が沈む少し前だった。

荷を担いで船着き場の石段を上がり、街路に出る。夕暮れの王都は橙色の光に包まれ、帰宅を急ぐ人々の影が石畳に長く伸びていた。

 

「東門を通って帰るかい? 学院は東側だから、その方が近い」

 

「ああ、そうしよう」

 

二人で並んで歩く。水底の祭壇から持ち帰った荷は重く、シルヴィアの機材も合わせると背嚢がずしりと肩に食い込む。だが、不思議と足取りは軽い。

 

商業区を抜け、東門が見える広場に差しかかったとき。

 

「あ」

 

シルヴィアが小さく声を漏らした。

視線の先——東門の門柱の傍に、白い姿が立っていた。

 

カミラさんだ。

 

司祭服に薄いショールを羽織り、門柱にもたれるようにして立っている。手には小さな風除けのランタン。夕闘の中で、その炎が橙色にゆらゆらと揺れている。

 

「……待ってたのか?」

 

私が近づくと、カミラさんが顔を上げた。翡翠の瞳が夕陽を映して光る。

 

「お帰りなさい、グレンさん」

 

穏やかな声。だが、よく見ると目元に薄い隈がある。

待っていたのは今日だけではないのかもしれない。帰還の日は伝えていなかった。教会の務めの合間に、毎日ここに来ていたのだろうか。

 

「シルヴィアさんも、お疲れさまでした」

 

カミラさんが丁寧に頭を下げた。微笑んでいる。微笑んでいるが、視線が一瞬だけ私たちの間——二人の距離を測るように動いた。そして、ほんの一瞬、目を伏せた。

 

それは本当に一瞬のことで、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

 

「ただいま、聖女さま」

 

シルヴィアが横から声をかけた。口元に薄い笑みを浮かべている。

 

「君の祈りが効いたかどうかは分からないけど――まあ、無事だよ。私が結界を張っていたからね」

 

「まあ、それは心強いですね。お祈りの甲斐がありました」

 

カミラさんはにこやかに応じたが、「私が結界を張っていたからね」という言葉の棘を受け流すような、静かな強さがあった。

 

「お二人とも、お怪我はありませんか?」

 

「ああ、大丈夫ですよ。シルヴィアのおかげで助かった場面もありましたし」

 

「私のおかげ、ね。君が水蛇を斬らなかったら私は結界ごと吹き飛んでいたけどね」

 

「お互い様だよ」

 

三人で並んで歩き始めた。

私が真ん中、右にシルヴィア、左にカミラさん。

 

夕暮れの道を歩きながら、カミラさんが訊いた。

 

「どのような遺跡だったのですか?」

 

「水底の祭壇です。河底に沈んだ古代の神殿で、壁画を見つけました。星綴り文明の――」

 

「詳しい話は報告書にまとめてからの方がいいだろう?」

 

シルヴィアが遮るように言った。

 

「学院長にも報告しなければならない。情報の管理は慎重にしないと」

 

「……そうだね、すまない」

 

カミラさんは何も言わなかった。ただ小さく頷いて、ランタンの炎を見つめていた。

 

 

教会区と学院区の分かれ道に着いた。

 

「では、私はここで。明日の朝の礼拝がありますので」

 

カミラさんがランタンを胸の前に持ち、一礼した。

 

「来週の土の日、お待ちしています。……旅のお話、聞かせてくださいね」

 

「ああ、もちろん」

 

「グレンさん」

 

振り返りかけた彼女が、少しだけ声を低くした。

 

「無事で、本当に良かったです」

 

ランタンの光に照らされた横顔は、笑っていた。けれど、その笑みの奥に、何か堪えているものがあるように見えた。

 

カミラさんが白い背中を見せて歩き去っていく。ランタンの灯りが、だんだん小さくなる。

 

「……行ったね」

 

シルヴィアがぽつりと言った。

 

「ああ」

 

「あの人、毎日ここに来ていたのかもしれないね。ランタンを持って」

 

「まさか。そこまではしないだろう」

 

「……さあ、どうだろうね」

 

シルヴィアの声には、皮肉でも冗談でもない、静かな何かが混じっていた。

 

学院区に向かって二人で歩く。街灯の蛍光灯水晶が薄い光を落とし始めている。

 

「シルヴィア。さっき船で言いかけたこと」

 

「忘れて」

 

即答だった。

 

「忘れてくれ、グレン。本当にただの感傷だ。旅の疲れで、柄にもないことを言いそうになっただけさ」

 

「……わかった」

 

学院の尖塔が、藍色の空にそびえている。

シルヴィアが研究棟の入口で足を止め、振り返った。

 

「明日、壁画のデータを整理する。朝から来てくれるかい?」

 

「ああ。いつも通りだな」

 

「いつも通り。――うん、それがいい」

 

彼女はそう呟いて、扉を開けた。石の回廊に差し込む蛍光灯水晶の光が、銀の髪を青白く照らす。

 

「おやすみ、グレン」

 

「おやすみ」

 

扉が閉まった。

 

一人になった。

石畳を踏む靴音だけが響く。

 

空を見上げると、東の端に細い月が出ていた。

その月を見ながら、ふと思った。

 

カミラさんのランタンの炎と、シルヴィアの研究室の灯り。

二つの明かりが、王都の夜にそれぞれ灯っている。

 

冷たい夜風が頬を撫でた。私は外套の襟を立て、宿への道を歩き始めた。

 

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