三人で歩く旅は、一人の時とまるで違う。
まず、速度。私一人なら日没まで歩き通すところだが、カミラさんの体力を考慮して休憩を多く取る必要がある。シルヴィアも学者であり、長距離行軍には慣れていない。
それから、会話。一人旅では半日口を開かないこともざらだが、三人だと嫌でも言葉が生まれる。
「グレンさん、この花は何ですか?」
街道の脇に咲く紫の小花を指して、カミラさんが訊いた。
「竜胆です。秋の山道によく咲きます」
「綺麗ですね。教会の庭にも植えられないかしら」
「竜胆は山の花だから、平地では育ちにくいですよ」
「そうですか……残念です」
「根を乾燥させると薬になるよ。胃腸薬の原料。ルドガー翁の店にもある」
シルヴィアが横から口を挟んだ。歩きながら計測板の数値を確認している。
「薬、ですか。シルヴィアさんは本当にお詳しいですね」
「研究者だからね。知識は広く浅く。……あ、グレン、右に逸れて。この先の橋は老朽化していて、荷が重いと危ない」
「了解」
こういう場面ではシルヴィアが頼もしい。学院の記録で地形情報を頭に入れてきたのだろう。迂回路を選び、小川を渡る。カミラさんが足を滑らせかけたのを、私が手を差し出して支えた。
「ありがとうございます」
「足元、気をつけてください」
「はい。……グレンさんの手、温かいですね」
「歩いてるからでしょう」
後ろからシルヴィアの視線を感じた気がしたが、振り返ると彼女は計測板に目を落としていた。
◆
一日目の夕方、街道から外れた林の中に野営地を作った。
焚き火を囲み、三人で座る。
「夕食は私が作りましょう」
カミラさんが荷袋から鍋と食材を取り出した。干し肉、根菜、ハーブの束。
「グレンさん、温かいスープがお好きでしたよね。前に教会でお話しされていましたから」
「覚えてるんですか? 随分前の話だと思いますが」
「ええ。境界山脈の冒険の帰りに、温かいものが食べたくなるとおっしゃっていました」
鍋に水を注ぎ、手際よく野菜を刻んでいく。聖務の合間に孤児院の食事も作っているのだろう。包丁の使い方が慣れている。
「私は料理より結界を張るよ」
シルヴィアが焚き火の向こう側で触媒瓶を取り出した。
「安全な夜を過ごすにはそちらの方が重要だろう?」
「もちろんです。お願いします」
カミラさんが穏やかに頷く。表面的には協力的だが、二人の間に薄い膜のようなものがあるのを感じる。敵意ではない。もっと静かな、互いの距離を測るような緊張。
シルヴィアが結界を展開した。薄い拍の壁が野営地を囲む。
「これで半径二十歩以内は安全だ。魔獣が入れば反応する」
「流石ですね。私の加護と合わせれば、より安心です」
カミラさんが双環のペンダントに手を当て、短い祈りを捧げた。加護の静寂が、結界の上に薄い層となって重なる。
「……へえ」
シルヴィアが片眉を上げた。
「加護と結界を重ねると、互いに干渉しないで共存するんだね。反発するかと思った」
「祈りは拍を招き入れるだけですから。シルヴィアさんの結界が拍を制御している中に、静寂を加えるだけです」
「能動と受動の共存、か。面白い」
研究者の目になった。冷えていた空気がほんの少しだけ和らぐ。
学術的な興味が、シルヴィアの棘を丸くすることがある。
◆
スープが出来上がった。
湯気の立つ鍋から木椀に注がれた中身は、干し肉の出汁と根菜の甘み、ハーブの香りが混じり合って、想像以上に美味い。
「うまいです。すごく」
「本当ですか? よかった」
カミラさんが嬉しそうに笑った。その笑顔を見て、少し申し訳なくなる。普段なら乾肉と水だけで済ませるところだ。温かい食事のありがたさは、一人旅の経験があるからこそわかる。
「悪くないね」
シルヴィアも椀を傾けた。感想は短いが、二杯目をよそっているところを見ると気に入ったのだろう。
「シルヴィアさんは普段、どのようなものを召し上がるんですか?」
「研究室でパンと茶。たまにグレンが差し入れてくれる果物」
「差し入れ?」
カミラさんが私を見た。
「いや、学院の帰りに露店で見かけたら買ってくだけですよ」
「毎回だけどね」
シルヴィアが付け加えた。何気ない口調だが、「毎回」という言葉に妙な重みがある。
カミラさんは椀に目を落とした。スープの表面に焚き火の光が揺れている。
「……グレンさんは、お優しいですね」
「いえ、ただの……まあ、ついでですよ」
「ついで、ね」
シルヴィアが繰り返した。私は黙って三杯目のスープに口をつけた。
◆
食後、焚き火に薪をくべながら、翌日の行程を確認した。
明日の昼には平原に出る。星喰いの塔は平原の中央に孤立して立っているから、遠くからでも見えるはずだ。
「塔の周辺に帝国の工作員がいる可能性は?」
シルヴィアが地図を広げながら訊いた。
「学院長は可能性に触れていた。警戒は必要だろう」
「近づく前に計測板で拍を確認する。人の気配があれば、拍に乱れが出るはずだ」
「私の加護で気配を消すこともできます。静寂の層で拍の発散を抑えれば、外部からは感知されにくくなります」
カミラさんが提案した。実用的だ。
「それは助かる。カミラ、使わせてもらうよ」
シルヴィアが自然にカミラさんの名を呼んだ。「さん」も「聖女」もつけずに。
カミラさんは一瞬驚いたように目を瞬かせ、それから小さく頷いた。
「ええ。お任せください、シルヴィア」
呼び捨てを返した。
何かが、少しだけ動いた気がした。
◆
夜が更け、星が濃くなった。
私は先に仮眠を取ることにして、外套を被って焚き火から少し離れた場所に横になった。
シルヴィアが見張りの一番手を引き受け、カミラさんは焚き火の傍で膝を抱えていた。
目を閉じる。すぐには眠れない。地面が硬く、背中が痛い。一人の時は気にならないのに、不思議だ。
うつらうつらしかけた頃、カミラさんの声が聞こえた。
歌だ。祈りの歌。教会の礼拝で聴いた、あの古い神語の旋律。
低く、静かに。焚き火の音に溶けるように。
薄目を開けると、焚き火の炎がゆっくりと穏やかに揺れていた。カミラさんの歌声に合わせるように、炎の先端が柔らかく踊っている。
神聖術の一種だろうか。それとも、ただ歌が美しいだけなのか。
焚き火の向こう側で、シルヴィアが膝を抱えてその光景を見つめていた。
計測板は膝の上に伏せられている。手が止まっている。
炎に照らされたシルヴィアの横顔は、いつもの冗談めいた笑みではなかった。
唇をほんの少しだけ噛んで、目を伏せかけて、それでもカミラさんの歌声から耳を逸らさずにいる。
その表情を、何と呼べばいいのかわからない。
悔しさ、のようでもある。羨望、のようでもある。
――私には歌えない。祈ることもできない。冗談と術式しか持たない私には、焚き火を穏やかにする力がない。
そんな声が聞こえた気がした。
もちろん、聞こえるはずがない。シルヴィアは何も言っていない。
歌が終わった。
焚き火がパチリと弾け、小さな火の粉が夜空に舞い上がった。
「……いい歌だね」
シルヴィアが言った。声が掠れている。
「ありがとうございます。旅の安全を祈る歌です」
「安全、か。……うん、ありがたいよ」
それだけ言って、シルヴィアは計測板に視線を戻した。
私はそっと目を閉じた。
二人の声が焚き火の音に混じって、遠くなっていく。
「カミラ」
「はい」
「君の歌のとき、焚き火の炎が変わった。あれは術式の応用?」
「いいえ。ただの歌ですよ」
「ただの歌で炎が変わるなら、それは術式より厄介だ」
「……褒め言葉ですか?」
「さあ。どうだろうね」
それ以上は聞こえなかった。
眠りが落ちてくる。硬い地面が、少しだけ柔らかく感じた。
◆
翌朝、目を覚ますと二人が並んで朝食の準備をしていた。
カミラさんが粥を温め、シルヴィアが茶を淹れている。無言だが、動きに衝突がない。鍋と湯沸かしの位置を自然に分けている。
「おはよう、グレン。よく寝てたね」
「ああ。昨夜は平和だったみたいだな」
シルヴィアとカミラさんが一瞬だけ目を合わせた。
「ええ、とても平和でしたよ」
カミラさんが微笑んだ。
「そうだね。平和だった」
シルヴィアが茶を差し出した。
何かあったのかと思ったが、二人とも穏やかな顔をしている。気のせいだろう。
粥を食べ、茶を飲み、荷を纏めて出発した。
三日目の昼前、林を抜けると視界が一気に開けた。
広大な平原。枯れ草が風になびき、地平線まで何もない景色。
その中央に、それは立っていた。
星喰いの塔。
黒灰色の石造りの塔が、平原の真ん中に孤立してそびえている。高さは尖塔を含めて五十メートルほどだが、周囲に何もないため、異様な存在感がある。
地上部分は半壊しており、壁面に蔦が絡んでいる。しかし、その廃墟の佇まいの奥に、地下へと続く巨大な構造が隠れていることを、私は知っている。
計測板を取り出した。
針が大きく振れている。前回来た時の三倍は反応が強い。
「拍の活性化、ここまで進んでいるのか」
シルヴィアが計測板を覗き込み、目を細めた。
「壁面の文字も、前より明るく光っているかもしれない」
カミラさんが塔を見上げた。風が金色の髪を靡かせている。
「あの中に、答えがあるのですね」
「ああ。行きましょう」
三人で、枯れ草の平原を歩き始めた。
星喰いの塔の影が、午後の陽の下で長く伸びている。三つの人影が、その影の中に吸い込まれていくように見えた。