壁面の転写作業を続けていたとき、それは起きた。
台座が、鳴った。
音ではない。拍だ。水晶の台座が、低く、深く、脈打ち始めた。
計測板が暴れた。針が左右に振り切れ、盤面が微かに発熱する。
「何だ……?」
「計測板のデータに反応している」
シルヴィアが水晶盤を台座に向けた。干渉紋が異常な速度で変化していく。
「魔晶石の計測データが、計測板に残留していた拍パターンを介して台座に伝わったんだ。台座がそれに共振を始めた」
「止められるか?」
「わからない。古代の装置だ。起動プロセスが不明――」
台座の脈動が強まった。
床に振動が伝わり、壁面の文字が一斉に明度を上げた。空間全体が、一つの巨大な心臓になったかのように脈打ち始める。
胸が、苦しい。
私の心臓が、台座の拍に引きずられている。
同調だ。心拍と魔晶石の共振。研究室で実験したあの現象が、ここでは桁違いのスケールで起きている。
「グレン!」
シルヴィアの声が遠くに聞こえた。
台座の拍が私の鼓動を掴み、加速させている。心拍が早まる。六十、七十、八十――数えられない。身体の内側で何かが引っ張られるような感覚。
錨に触れた。灰水晶が振動しているが、台座の拍に比べれば微弱すぎる。離脱できない。
視界が明滅する。
壁面の文字が渦を巻いているように見えた。天井と床の区別がつかなくなる。自分が立っているのか、浮いているのか。
「錨……が、効かない……」
声を出したつもりだが、自分の声が聞こえなかった。
台座の拍が空間全体を支配している。私の心臓はもう、私のものではない速度で打っている。
意識が薄れていく。
◆
(グレン! 離脱しなさい!)
シルヴィアは叫んだ。声は出ていた。だが、台座の拍が空気を震わせ、音が歪んで届いていないのかもしれない。
グレンが台座の前で膝をついた。
額に汗が吹き出し、顔が蒼白になっている。計測板を握りしめた手が痙攣している。
(だめだ。引き戻せない。錨が台座の拍に負けている。あの灰水晶は実験室レベルの拍には十分でも、古代の装置には――)
輪環を起動した。逆相の波動を台座に向けて放つ。台座の拍を打ち消す。それしかない。
だが、逆相がはじき返された。台座の拍が強すぎる。私の逆相では、この古代装置の出力に追いつかない。
(錨が足りない。私の拍だけでは――)
グレンの心拍がさらに加速しているのが、水晶盤の計測で見える。百を超えた。百二十。百四十。人間の心臓がこの速度で拍動し続ければ、やがて――。
(やめて。やめてよ。七年も隣にいたのに、こんなところで失うなんて――)
逆相の出力を上げた。触媒瓶を三本同時に砕き、増幅に回す。残りの触媒が尽きても構わない。グレンを引き戻すことだけが、今の全てだ。
しかし、足りない。
台座の拍は加速し続けている。空間全体がグレンの心拍と同期し、壁面の文字が脈打つように明滅する。彼の生命拍が、この巨大な装置の駆動力として吸い上げられている。
(離脱できない。私だけでは、無理だ。誰か――)
振り返ると、カミラが祈りの姿勢を取っていた。
◆
(女神よ、この人の拍を鎮めてください。)
カミラは両手を組み、目を閉じ、祈った。
祈りは静寂を生む。静寂は空白を生む。空白に世界の拍が流れ込み、乱れを正す。
それが神聖術の原理だ。それが、聖女として二十年間積み重ねてきた、私の全てだ。
(私の静寂をすべてこの人に――)
心を鎮めようとした。拍を静めようとした。
だめだった。
心臓が、静まらない。
グレンさんが膝をついている。顔が蒼白で、唇が紫色になりかけている。あの強い人が、あの何があっても立ち上がる人が、崩れかけている。
(この人を失う。)
その恐怖が、胸の奥から津波のように押し寄せた。
(この人がいなくなる。もう教会に来ない。もう「カミラさん」と呼んでくれない。もう、あの少しだけ困ったような笑顔を見られない。)
心拍が跳ね上がった。祈りの静寂が砕けた。
静寂がなければ空白は生まれない。空白がなければ浄化は発動しない。
(だめ。私の心が静まらない。この人を失う恐怖で、拍が――)
涙が頬を伝った。
(女神メナスよ。私はあなたの聖女です。あなたの静寂をこの身に宿し、あなたの慈愛をこの手に託されました。でも今、私の心はあなたの教えに従えません。)
(この人を想う気持ちが、静寂を壊しています。)
(これは慈愛ですか。それとも――)
涙を拭わなかった。
拭う暇があるなら、その手でこの人に触れたい。
カミラは目を開けた。
祈りの姿勢を崩し、グレンに向かって走った。
◆
意識の端で、二つの声が聞こえた。
一つは鋭い声。輪環の唸りと共に、逆相の波動が何度も何度も台座に打ちつけられている。シルヴィアだ。
もう一つは、祈りの声。だが普通の祈りではない。途切れ途切れで、涙声で、それでも必死に言葉を紡いでいる。カミラさんだ。
二つの声が、同時に私に届いた。
身体が二つの方向から引っ張られるような感覚があった。
一つは鋭く、冷たく、正確に私の拍を引き剥がそうとする力。逆相。台座との同調を力ずくで断ち切ろうとしている。
もう一つは温かく、深く、私の拍そのものを静めようとする力。浄化。台座に引きずられた心拍を、本来の速度に還そうとしている。
二つの力が、干渉した。
逆相の波動が台座の拍を崩す。その隙間に、浄化の静寂が染み込む。崩れた拍を鎮め、安定させる。地下六層の結界で見たのと同じ原理。
だが、台座の拍は結界の比ではない。二千年分の蓄積が一気に解放されている。逆相だけでは崩しきれず、浄化だけでは鎮めきれない。
二つの力がぶつかり合い、はじけ、散り、また重なる。
その繰り返しの中で、一瞬――本当に一瞬だけ、二つの力の波形が完全に重なった。
逆相の谷と浄化の山が一致した。押す力と招く力が、同じ瞬間に、同じ位相で、台座の拍に干渉した。
空間全体が、震えた。
壁面の文字が一斉に白い光を放ち、台座の脈動が乱れ――止まった。
静寂が降りた。
完全な、深い、静寂。
心臓が、私の速度に戻っている。
◆
「……グレン!」
二つの声が同時に私を呼んだ。
目を開けた。
天井が見える。球状空間の頂点。青白い文字が、先ほどよりずっと穏やかな光を放っている。
仰向けに倒れていた。いつの間にか床に横たわっている。
「グレンさん! 目を開けて、聞こえますか?」
カミラさんの顔が覗き込んでいた。翡翠の瞳が潤んでいる。頬に涙の跡があった。
……泣いていたのか。なぜ。
「聞こえ……る」
「しゃべるな。拍がまだ不安定だ」
シルヴィアの声は硬い。怒っているような口調だが、声が微かに震えていた。
左手が私の手首を掴み、脈を測っている。指先が冷たい。いつもは温かいのに。
「心拍、八十二。下がった。……よかった」
シルヴィアの指が、ほんの一瞬だけ、私の手首を強く握った。脈を測る力ではない。もっと別の、何か。
「何が起きた?」
「台座が計測板のデータに共振して暴走した。君の心拍と完全に同期して、生命拍を吸い上げ始めた」
「それを、二人が……」
「私が逆相で台座の拍を崩して、カミラが浄化で君の拍を鎮めた。二つの術が干渉して、一瞬だけ重なったときに暴走が止まった」
シルヴィアは事実だけを淡々と述べた。だが、彼女の手はまだ私の手首を握ったままだ。離さない。
「カミラさんも……ありがとう」
「……いいえ」
カミラさんの声は、かすれていた。
俯いた拍子に、金色の髪から水滴が落ちた。汗か、涙か。
「間に合って……よかった」
それだけ言って、カミラさんは私から少し離れた。両手を組み、静かに目を閉じた。唇が動いている。感謝の祈りだろうか。
あるいは、自分の心を鎮めるための祈りか。
◆
しばらく横になったまま、拍が安定するのを待った。
シルヴィアは私の傍を離れず、水晶盤で計測を続けていた。カミラさんは少し離れた場所で祈りを続けている。
やがて身体を起こした。まだ少しふらつくが、立てる。
「台座の共振は完全に止まっている。もう大丈夫だよ」
シルヴィアが水晶盤を見せた。干渉紋は穏やかな波形に戻っている。
「ただし、君の拍にダメージが残っている。代償の第二段階――拍の乱れ。耳鳴りと感覚鈍麻が出るはずだ」
言われて初めて気づいた。
左耳に、微かな高音が聞こえている。蝉の声に似た、持続的な音。そして右手の指先の感覚が少し鈍い。触れているものの温度がわかりにくい。
「……確かに、耳鳴りがする。右手の感覚も少しおかしい」
「通常の浄化で治療すれば、回復に数週間。その間、拍の操作は控えたほうがいい」
数週間。長い。しかし生きているのだから、贅沢は言えない。
カミラさんが祈りを終えて戻ってきた。
目元が少し赤い。でも、声は落ち着いていた。
「グレンさん、浄化をかけてもよろしいですか。応急処置ですが、少しは楽になるはずです」
「頼みます」
カミラさんが私の右手を取り、祈りの拍を流し込んだ。温かい。さっきまで暴走していた心臓が、ゆっくりと深い鼓動に落ち着いていく。
右手の感覚が少しだけ戻った。完全ではないが、指先の温度がまたわかるようになる。
「……ありがとう。楽になった」
「まだ完全ではありません。帰ったら、しっかり治療しましょう」
カミラさんの手が私の手を包んでいる時間が、治療に必要な時間より少し長かった気がした。
……いや、気のせいだろう。浄化の拍は時間をかけたほうが定着する。それだけだ。
◆
台座の前に戻った。
暴走は止まっているが、空の窪みはそのままだ。もう一つの魔晶石が嵌っていた場所。
「さっきの暴走で、一つわかったことがある」
シルヴィアが水晶盤の記録を見ながら言った。
「暴走が止まった瞬間――私の逆相とカミラの浄化が重なった瞬間、台座が一瞬だけ『安定した稼働状態』に入った。暴走ではなく、本来の動作。二つの力が同時に入ったとき、この装置は正しく動くんだ」
「二つの力?」
「能動的な拍の操作と、受動的な拍の招き入れ。学院魔術と神聖術。壁に書いてあった通りだよ。『二つの心臓。一つは世界を静め、一つは世界を動かす』」
シルヴィアが壁面を見上げた。
「この装置は、二つの石を使って世界の拍を制御するために作られた。一つの石だけでは暴走する。二つ揃って初めて機能する。そして、二つの石を動かすには、二つの異なる力が必要だ」
押す力と、招く力。
能動と受動。
学院と教会。
「……そして、それを繋ぐ錨が」
シルヴィアが私を見た。
「君だ。グレン。さっきの暴走で、君の心拍が台座と同期した。君の拍が、この装置の『鍵』になっている。前に魔晶石を持ち帰った時に、君の拍パターンが装置に記録されたんだろう」
「私が、鍵……」
「錨にして鍵。二つの力を繋ぐ支点。壁画の二つの人影が手を合わせていたでしょう? その間に、何かが必要なんだ。合わせる力だけでも、招く力だけでもなく、二つを繋ぎ止める第三の存在が」
シルヴィアの目に、研究者の興奮と、それ以外の何かが混在していた。
カミラさんは何も言わなかった。
ただ、胸元の双環のペンダントに手を触れて、じっと台座を見つめていた。
◆
帰路は、来た時より静かだった。
自律結界はすでに突破した後なので、戻りは楽だった。地下九層の魔力干渉区画でも、錨の拍で三人の感覚を保ちながら進む。
シルヴィアが私の左側を歩き、カミラさんが右側を歩く。
来た時と同じ隊列。でも、距離が少しだけ近い。
二人とも、口数が少なかった。
何かを考えている。あるいは、何かを抱えている。
「ねえグレン」
地下三層の通路で、シルヴィアが不意に声をかけた。
「ん?」
「さっきの暴走で、怖かったかい?」
「……正直に言えば、怖かった。意識が持っていかれる感覚は、今まで味わったことがなかった」
「そう」
シルヴィアはそれだけ言って、少し間を置いた。
「私もだよ。怖かった」
珍しい言葉だった。シルヴィアが自分の感情を素直に口にすることは滅多にない。冗談で隠すか、研究の言葉に置き換えるか。
「でも」と彼女は続けた。
「止まったでしょう。二つの術が重なって。……あれは、偶然じゃないと思う」
「偶然じゃない?」
「二人がたまたまタイミングが合っただけだったら、あの精度の一致は起こらない。どちらかが意識して合わせたか、あるいは――」
シルヴィアは言葉を切った。
「あるいは?」
「……あるいは、同じものを想っていたから、拍が自然に重なったのかもしれないね」
何かを含んだ言い方だった。
私には意味がわからなかった。
カミラさんも何も言わなかった。ただ、足音が一歩分だけ遅れて、またすぐに追いついた。
◆
塔の外に出た。
夕暮れの空が広がっていた。荒野の向こうに沈みかけた太陽が、灰色の石壁を橙色に染めている。風が顔を撫でた。地上の風だ。地下十二層にはなかったもの。
深く息を吸った。秋の空気が肺を満たす。生きている。まだ、ここにいる。
耳鳴りは続いている。右手の感覚鈍麻も。だが、それは代償だ。あの装置の前で心臓が暴走した代償。受け入れるしかない。
シルヴィアが塔の壁にもたれて座った。疲労の色が濃い。触媒を大量に消費した代償で、拍がかなり消耗しているはずだ。
カミラさんは草の上に腰を下ろした。両手を膝の上に置き、静かに目を閉じている。祈りか、休息か、あるいはその両方か。
私は二人の間に座った。
三人で、夕焼けを見ていた。
「……今日の成果をまとめよう」
シルヴィアが水晶盤を取り出した。疲れていても、研究者はデータを整理する。
「台座には二つの窪みがあった。魔晶石は二つ存在する。壁面の碑文は『二つの心臓』を語っている。そして、二つの術が同時に干渉したとき、装置は正しく動いた。これらの事実から導かれる仮説は――」
「もう一つの石を見つけて、二つを揃えてこの装置を正しく起動させること。それがこの遺跡の本来の目的」
「そう。でも、今日の探索で君が代償を受けた。まずはそれを治さないと」
シルヴィアの声に、ほんの少しだけ、普段は隠している柔らかさが滲んだ。
「治療に関しては、私が責任を持ちます」
カミラさんが目を開けた。
「教会の浄化で拍の乱れを治療できますが、今回の代償は深い。通常の手順では数週間かかります」
「数週間は長い。帝国のスパイの件もある。もっと速い方法がないか」
シルヴィアが顎に手を当てた。考え込む仕草。そして、何かを思いついたように顔を上げた。
「月涙の泉なら」
「月涙の泉?」
「緑深の大森林の北辺にある古代の泉だ。満月の夜に青白い光を放ち、その水には古代の治癒力があるとされている。学院の記録に何度か登場する。通常の浄化では数週間かかる拍の乱れでも、あの水に浸かれば大幅に短縮できる可能性がある」
「しかし、あそこはヴェルデン神聖国との国境付近だろう。外交上――」
「ええ、デリケートな場所です」
カミラさんが頷いた。
「でも、教会の名の下であれば通行が可能です。ヴェルデンの信仰と私たちの信仰は根を同じくしています。私が交渉しましょう」
シルヴィアが一瞬だけカミラさんを見た。
何かを言いかけて、飲み込んだ。
「……頼めるかい」
「はい。グレンさんの治療のためです。必ず、道を開きます」
カミラさんの声は静かだったが、有無を言わせない強さがあった。
退かないときは退かない。この人は、いつもそうだ。
夕日が沈んでいく。
荒野に三つの影が伸びていた。長く、細く、橙色の大地の上に。
耳鳴りが、微かに続いている。
右手の指先が、まだ少し鈍い。
でも、両隣にいる二人の体温だけは、はっきりと感じられた。