星喰いの塔を発って三日目の朝、耳鳴りがひどくなった。
左耳の高音はもう慣れたが、右耳にも低い音が加わった。二つの音が頭の中で混じり合い、人の声が聴き取りにくい。
右手の感覚鈍麻も進んでいた。指先だけだったのが掌全体に広がり、水筒の水が冷たいのか温いのかを、口に含むまで判断できない。
カミラさんが何度か水を差し出してくれた。自分で水筒は持てる。そう言うと、彼女は少しだけ眉を下げて微笑んだ。
「大丈夫とおっしゃると思いました」
「……わかりやすいですか、私は」
「はい、とても」
それだけ言って、カミラさんは水筒を私の手に押しつけた。柔らかいが、有無を言わせない力加減。
シルヴィアが歩きながら何かを組み立てていた。水晶の欠片に銀の細線を巻きつけ、触媒瓶の粉末を表面に塗り込んでいる。親指の爪ほどの涙滴型の装置ができあがった。
「耳鳴り抑制装置。逆位相の拍をぶつけて打ち消す。右耳の後ろに貼って」
受け取って貼った。微かな振動。数秒後――右耳の低音が明らかに弱まった。人の声が聴き取りやすい。
「すごいな。歩きながら作ったのか」
「耳鳴りの拍パターンは水晶盤で計測してあったからね。パターンがわかれば設計は難しくない」
何でもないことのように言うが、歩きながら精密な装置を組むのは並大抵のことではない。限られた触媒を、私のために使った。
「ありがとう」
「実用品だよ。君の耳が使い物にならないと困る」
いつもの答え方だ。
でも、彼女がさっきからずっと、横目で私の顔を見ていたことは知っている。水晶盤を私の耳に近づけて、耳鳴りの周波数を計測していたことも。
カミラさんは少し後ろを歩いていた。
何も言わなかった。ただ、足音が一瞬だけ遅れて、またすぐに追いついた。
◆
五日目の昼過ぎ、緑深の大森林の北辺に入った。
街道から森に入る分岐点に、ヴェルデン神聖国の紋章が刻まれた古い石碑が立っている。ここから先は外交上デリケートな領域だ。
「私が先に行きます」
カミラさんが旅装の上に白い法衣を重ね、胸元の双環のペンダントを表に出した。
「ヴェルデンの森林守護隊が巡回しているはずです。教会の司祭であることを示せば、通行の交渉ができます」
「一人で大丈夫かい?」
シルヴィアが訊いた。珍しく、皮肉のない声だった。
「はい。教会の名の下に行動することに関しては、私に任せてください」
カミラさんは背筋を伸ばし、森の中へ歩いていった。白い法衣が木漏れ日に光る。
その後ろ姿は、いつも教会で見る穏やかな彼女とは違った。もっと凛として、もっと強い。
「……強い子だね」
シルヴィアがぽつりと言った。
「外交交渉を一人でやるなんて、普通の二十歳の司祭にできることじゃない」
「確かに。大したもんだ」
「そうだね。……大したものだよ」
声に普段の棘がなかった。何かを認めるような、それが少し悔しいような、複雑な響き。
半刻ほどでカミラさんが戻ってきた。通行の許可が下り、月涙の泉への道案内もつけてくれるという。
「教会の正式な書簡を持っていたので、比較的スムーズでした。ヴェルデンの信仰は私たちの教義と根を同じくしています。月涙の泉での治癒行為を禁じる理由はない、と」
「書簡? いつの間に用意したんだ?」
「塔に向かう前に、大司教様にお願いして書いていただきました。星喰いの塔にどのような危険があるかわかりませんでしたから、万一に備えて近隣の教区から支援を受けられるよう、紹介状を」
「……用意がいいね」
シルヴィアが感心したような、少し悔しいような顔をした。
「グレンさんの治療のためですから」
カミラさんはさらりと言った。でも、その目は少しだけ潤んでいた。
……いや、森の中は木漏れ日が不安定だ。光の加減だろう。
◆
六日目の夕方、泉に到着した。
森の中にぽっかりと開けた空間。直径十メートルほどの円形の泉で、水は透明、底に白い砂が敷き詰められている。泉を囲むように、腰の高さの石碑が等間隔で八つ並んでいた。表面の古代文字は光っていない。
「満月は明日の夜だ。それまで待てば、泉が活性化する」
シルヴィアが暦を確認した。一日待つことになる。
その間、カミラさんは何かと世話を焼いてくれた。包帯を替えて浄化の拍を通し、泉の水で粥を作り、額の汗を拭い。断ろうとするたびに「これは私がしたいからしていることです」と言い、すぐに「……いいえ、何でもありません」と口をつぐんだ。
司祭の務め、ではなく。したいから、している。
その言葉の意味を、私はうまく掴めなかった。
◆
満月の夜が来た。
森の木々の間から丸い月が昇ると、石碑の古代文字が一つずつ青白い光を放ち始めた。泉の水が呼応するように淡い燐光を帯び、水底の白砂が星空のように輝く。
「綺麗だ……」
思わず声が出た。
カミラさんは両手を胸の前で組み、静かに祈りを捧げている。月光に照らされた横顔は、聖堂のステンドグラスに描かれた聖女のようだった。
――いや、ステンドグラスよりも、ずっと美しかった。
何を考えている。今はそんなことを考えている場合ではない。
泉に入った。水は腰まで。冷たいが、すぐに温かさが全身に広がる。古代の治癒の拍が月光と共振して、身体の奥に染み込んでいく。
右腕にぴりぴりとした刺激。痺れていた部分に血が通い直す感覚に似ている。
「カミラ、もし君の浄化を重ねられるなら、回復はさらに速くなるかもしれない。泉の拍に、神聖術の静寂を乗せて」
シルヴィアが岸辺から言った。
カミラさんが頷いた。法衣の裾をたくし上げ、泉に入ってくる。
「グレンさん、右手を」
差し出した右手を、カミラさんが両手で包んだ。
泉の水の中で、彼女の手は温かかった。祈りの拍が掌から流れ込み、泉の治癒の拍と混ざり合う。
右手の感覚が、はっきりと戻ってきた。指先の温度がわかる。カミラさんの掌の温度がわかる。温かい。
「感覚が……戻ってきた」
「よかった……」
カミラさんの声が震えていた。
月明かりの中で、彼女の目が光っている。涙ではない。安堵だ。
「……本当に、よかった」
私の手を握ったまま、小さく繰り返した。
その声は祈りのようだった。
岸辺で、シルヴィアが水晶盤を膝の上に置いていた。
データを記録しているように見えたが、その指は文字を書くのではなく、水晶盤の表面を無意味になぞっていた。何かを堪えるように。
◆
泉から上がった。
右腕の感覚はほぼ戻った。耳鳴りも微かに残る程度。完全回復にはもう一晩必要かもしれないが、大きな山は越えた。
焚き火の傍で身体を乾かしていると、シルヴィアが来た。
「おやすみ、グレン。明日もう一度泉に入れば、ほぼ回復するだろう。そうしたら……」
足を止めた。振り返らない。
「そうしたら、次のことを考えよう。二つ目の石のこと。星喰いの塔のこと。……全部」
「ああ。おやすみ」
シルヴィアは毛布に潜り込んだ。銀色の髪だけが暗闇に浮かんでいる。
カミラさんも焚き火に戻ってきた。
「おやすみなさい、グレンさん」
「おやすみなさい」
「明日、右腕の具合を見せてくださいね」
「はい」
「……約束ですよ」
「約束します」
カミラさんは微笑んだ。穏やかな、いつもの笑み。
でも、その笑みの下に何があるのか、私にはわからなかった。
目を閉じた。
耳鳴りは、ほとんど聞こえなくなっていた。
代わりに聞こえるのは、虫の声と、風の音と、泉の水面が微かに揺れる音。
そして、なぜか――二人の寝息が、やけにはっきりと聞こえていた。
◆
焚き火が弱くなった頃、カミラは泉の縁に座っていた。
グレンとシルヴィアが眠っている。二人の寝息が、静かな森に溶けていく。
(シルヴィアさんも、この人のことを――。)
知っている。最初から知っていた。
歩きながら装置を作る指先。「実用品だ」と言い切る声。七年分の想いが、あの人のすべてに滲んでいる。
(あの人のことを、嫌いにはなれません。あの人なりの方法で、この人を護ろうとしている。)
(でも、退けない。退きたくないのです。)
胸元のペンダントに触れた。
この旅の間、グレンさんの包帯を替え、額の汗を拭い、食事を作り、祈りを捧げた。
その全ての瞬間、私の心は慈愛だけでは説明できないものでいっぱいだった。
さっき、泉の中で。「感覚が戻ってきた」と言ったあの声を聞いたとき。私の目から涙がこぼれそうになったのは、司祭としての安堵だったのか。それとも。
(女神様。これは慈愛ですか、それとも我欲ですか。)
(答えはまだ出せません。でも、一つだけ確かなことがあります。)
(この人が傷つくなら、この手で癒したい。この人が苦しむなら、この声で祈りたい。)
(それが聖女の道を外れることになるとしても。)
水面に映る月が、風に揺れて崩れた。