聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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月涙の旅路、震える祈り

星喰いの塔を発って三日目の朝、耳鳴りがひどくなった。

 

左耳の高音はもう慣れたが、右耳にも低い音が加わった。二つの音が頭の中で混じり合い、人の声が聴き取りにくい。

右手の感覚鈍麻も進んでいた。指先だけだったのが掌全体に広がり、水筒の水が冷たいのか温いのかを、口に含むまで判断できない。

 

カミラさんが何度か水を差し出してくれた。自分で水筒は持てる。そう言うと、彼女は少しだけ眉を下げて微笑んだ。

 

「大丈夫とおっしゃると思いました」

 

「……わかりやすいですか、私は」

 

「はい、とても」

 

それだけ言って、カミラさんは水筒を私の手に押しつけた。柔らかいが、有無を言わせない力加減。

 

 

 

シルヴィアが歩きながら何かを組み立てていた。水晶の欠片に銀の細線を巻きつけ、触媒瓶の粉末を表面に塗り込んでいる。親指の爪ほどの涙滴型の装置ができあがった。

 

「耳鳴り抑制装置。逆位相の拍をぶつけて打ち消す。右耳の後ろに貼って」

 

受け取って貼った。微かな振動。数秒後――右耳の低音が明らかに弱まった。人の声が聴き取りやすい。

 

「すごいな。歩きながら作ったのか」

 

「耳鳴りの拍パターンは水晶盤で計測してあったからね。パターンがわかれば設計は難しくない」

 

何でもないことのように言うが、歩きながら精密な装置を組むのは並大抵のことではない。限られた触媒を、私のために使った。

 

「ありがとう」

 

「実用品だよ。君の耳が使い物にならないと困る」

 

いつもの答え方だ。

でも、彼女がさっきからずっと、横目で私の顔を見ていたことは知っている。水晶盤を私の耳に近づけて、耳鳴りの周波数を計測していたことも。

 

カミラさんは少し後ろを歩いていた。

何も言わなかった。ただ、足音が一瞬だけ遅れて、またすぐに追いついた。

 

 

五日目の昼過ぎ、緑深の大森林の北辺に入った。

街道から森に入る分岐点に、ヴェルデン神聖国の紋章が刻まれた古い石碑が立っている。ここから先は外交上デリケートな領域だ。

 

「私が先に行きます」

 

カミラさんが旅装の上に白い法衣を重ね、胸元の双環のペンダントを表に出した。

 

「ヴェルデンの森林守護隊が巡回しているはずです。教会の司祭であることを示せば、通行の交渉ができます」

 

「一人で大丈夫かい?」

 

シルヴィアが訊いた。珍しく、皮肉のない声だった。

 

「はい。教会の名の下に行動することに関しては、私に任せてください」

 

カミラさんは背筋を伸ばし、森の中へ歩いていった。白い法衣が木漏れ日に光る。

その後ろ姿は、いつも教会で見る穏やかな彼女とは違った。もっと凛として、もっと強い。

 

「……強い子だね」

 

シルヴィアがぽつりと言った。

 

「外交交渉を一人でやるなんて、普通の二十歳の司祭にできることじゃない」

 

「確かに。大したもんだ」

 

「そうだね。……大したものだよ」

 

声に普段の棘がなかった。何かを認めるような、それが少し悔しいような、複雑な響き。

 

半刻ほどでカミラさんが戻ってきた。通行の許可が下り、月涙の泉への道案内もつけてくれるという。

 

「教会の正式な書簡を持っていたので、比較的スムーズでした。ヴェルデンの信仰は私たちの教義と根を同じくしています。月涙の泉での治癒行為を禁じる理由はない、と」

 

「書簡? いつの間に用意したんだ?」

 

「塔に向かう前に、大司教様にお願いして書いていただきました。星喰いの塔にどのような危険があるかわかりませんでしたから、万一に備えて近隣の教区から支援を受けられるよう、紹介状を」

 

「……用意がいいね」

 

シルヴィアが感心したような、少し悔しいような顔をした。

 

「グレンさんの治療のためですから」

 

カミラさんはさらりと言った。でも、その目は少しだけ潤んでいた。

……いや、森の中は木漏れ日が不安定だ。光の加減だろう。

 

 

六日目の夕方、泉に到着した。

 

森の中にぽっかりと開けた空間。直径十メートルほどの円形の泉で、水は透明、底に白い砂が敷き詰められている。泉を囲むように、腰の高さの石碑が等間隔で八つ並んでいた。表面の古代文字は光っていない。

 

「満月は明日の夜だ。それまで待てば、泉が活性化する」

 

シルヴィアが暦を確認した。一日待つことになる。

 

その間、カミラさんは何かと世話を焼いてくれた。包帯を替えて浄化の拍を通し、泉の水で粥を作り、額の汗を拭い。断ろうとするたびに「これは私がしたいからしていることです」と言い、すぐに「……いいえ、何でもありません」と口をつぐんだ。

 

司祭の務め、ではなく。したいから、している。

その言葉の意味を、私はうまく掴めなかった。

 

 

満月の夜が来た。

 

森の木々の間から丸い月が昇ると、石碑の古代文字が一つずつ青白い光を放ち始めた。泉の水が呼応するように淡い燐光を帯び、水底の白砂が星空のように輝く。

 

「綺麗だ……」

 

思わず声が出た。

 

カミラさんは両手を胸の前で組み、静かに祈りを捧げている。月光に照らされた横顔は、聖堂のステンドグラスに描かれた聖女のようだった。

――いや、ステンドグラスよりも、ずっと美しかった。

何を考えている。今はそんなことを考えている場合ではない。

 

泉に入った。水は腰まで。冷たいが、すぐに温かさが全身に広がる。古代の治癒の拍が月光と共振して、身体の奥に染み込んでいく。

右腕にぴりぴりとした刺激。痺れていた部分に血が通い直す感覚に似ている。

 

「カミラ、もし君の浄化を重ねられるなら、回復はさらに速くなるかもしれない。泉の拍に、神聖術の静寂を乗せて」

 

シルヴィアが岸辺から言った。

 

カミラさんが頷いた。法衣の裾をたくし上げ、泉に入ってくる。

 

「グレンさん、右手を」

 

差し出した右手を、カミラさんが両手で包んだ。

泉の水の中で、彼女の手は温かかった。祈りの拍が掌から流れ込み、泉の治癒の拍と混ざり合う。

 

右手の感覚が、はっきりと戻ってきた。指先の温度がわかる。カミラさんの掌の温度がわかる。温かい。

 

「感覚が……戻ってきた」

 

「よかった……」

 

カミラさんの声が震えていた。

月明かりの中で、彼女の目が光っている。涙ではない。安堵だ。

 

「……本当に、よかった」

 

私の手を握ったまま、小さく繰り返した。

その声は祈りのようだった。

 

岸辺で、シルヴィアが水晶盤を膝の上に置いていた。

データを記録しているように見えたが、その指は文字を書くのではなく、水晶盤の表面を無意味になぞっていた。何かを堪えるように。

 

 

泉から上がった。

右腕の感覚はほぼ戻った。耳鳴りも微かに残る程度。完全回復にはもう一晩必要かもしれないが、大きな山は越えた。

 

焚き火の傍で身体を乾かしていると、シルヴィアが来た。

 

「おやすみ、グレン。明日もう一度泉に入れば、ほぼ回復するだろう。そうしたら……」

 

足を止めた。振り返らない。

 

「そうしたら、次のことを考えよう。二つ目の石のこと。星喰いの塔のこと。……全部」

 

「ああ。おやすみ」

 

シルヴィアは毛布に潜り込んだ。銀色の髪だけが暗闇に浮かんでいる。

 

カミラさんも焚き火に戻ってきた。

 

「おやすみなさい、グレンさん」

 

「おやすみなさい」

 

「明日、右腕の具合を見せてくださいね」

 

「はい」

 

「……約束ですよ」

 

「約束します」

 

カミラさんは微笑んだ。穏やかな、いつもの笑み。

でも、その笑みの下に何があるのか、私にはわからなかった。

 

目を閉じた。

耳鳴りは、ほとんど聞こえなくなっていた。

代わりに聞こえるのは、虫の声と、風の音と、泉の水面が微かに揺れる音。

 

そして、なぜか――二人の寝息が、やけにはっきりと聞こえていた。

 

 

焚き火が弱くなった頃、カミラは泉の縁に座っていた。

グレンとシルヴィアが眠っている。二人の寝息が、静かな森に溶けていく。

 

(シルヴィアさんも、この人のことを――。)

 

知っている。最初から知っていた。

歩きながら装置を作る指先。「実用品だ」と言い切る声。七年分の想いが、あの人のすべてに滲んでいる。

 

(あの人のことを、嫌いにはなれません。あの人なりの方法で、この人を護ろうとしている。)

 

(でも、退けない。退きたくないのです。)

 

胸元のペンダントに触れた。

 

この旅の間、グレンさんの包帯を替え、額の汗を拭い、食事を作り、祈りを捧げた。

その全ての瞬間、私の心は慈愛だけでは説明できないものでいっぱいだった。

 

さっき、泉の中で。「感覚が戻ってきた」と言ったあの声を聞いたとき。私の目から涙がこぼれそうになったのは、司祭としての安堵だったのか。それとも。

 

(女神様。これは慈愛ですか、それとも我欲ですか。)

 

(答えはまだ出せません。でも、一つだけ確かなことがあります。)

 

(この人が傷つくなら、この手で癒したい。この人が苦しむなら、この声で祈りたい。)

 

(それが聖女の道を外れることになるとしても。)

 

水面に映る月が、風に揺れて崩れた。

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