聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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泉に映るもの、三つの影

二度目の夜、泉に入った。

 

前日の治癒で右腕の感覚はほぼ戻っていたが、深層の拍の乱れがまだ残っている。シルヴィアの計測では、心拍の基底リズムに微かな不整がある。放置すれば固定化する恐れがあるという。

 

「今夜で仕上げよう。月は昨日ほど満ちていないけど、泉の残留拍はまだ十分に活性化している」

 

シルヴィアが水晶盤で泉の拍を計測しながら言った。

 

泉に腰まで浸かる。水が身体を包み、昨日と同じ温かさが広がった。治癒の拍が身体の奥に染み込んでいく。

 

カミラさんが泉に入り、私の右手を取った。昨日と同じ手順。浄化の祈りを泉の治癒と重ねる。

 

「少しだけ、深い浄化をかけます。痛みがあれば言ってください」

 

「わかった」

 

カミラさんの祈りが始まった。

昨日より深い。身体の芯まで静寂が届く。心臓の鼓動が緩やかになり、不整だったリズムが少しずつ整っていく。

 

シルヴィアが岸辺で水晶盤を操作していた。泉の拍データを記録しているのだろう。

 

ふと、彼女が声を上げた。

 

「グレン、カミラ、見て」

 

声に緊張はなく、驚きがあった。研究者が予期しない発見をしたときの声だ。

 

泉から顔を上げると、石碑が変わっていた。

八つの石碑の古代文字が、昨日とは違うパターンで発光している。文字の配列が動いていた。文字が順番に明滅し、一つの文章を構成している。

 

「石碑の文字が読める状態になっている。昨日は発光しているだけだったけど、今日は文字配列が安定した。おそらく、泉の中で浄化と治癒が同時に行われたことで、石碑の古代術式が起動したんだ」

 

シルヴィアが石碑の前に屈み込み、水晶盤で走査を始めた。

 

「手伝おう」

 

泉から上がろうとしたが、カミラさんに右手を握られたまま引き留められた。

 

「まだです。浄化が途中です」

 

「でも石碑が――」

 

「シルヴィアさんに任せましょう。グレンさんの治療が先です」

 

有無を言わせない口調。カミラさんは祈りを続けた。

仕方なく泉の中から、シルヴィアが石碑を解読するのを見守る。

 

 

「読めた」

 

シルヴィアの声が泉の水面を渡って届いた。

 

カミラさんの浄化がちょうど終わったところで、二人で泉から上がった。身体を拭きながらシルヴィアの元へ向かう。

 

八つの石碑のうち、三つの文字が完全に判読できる状態だった。残り五つは部分的にしか読めない。

 

「碑文の内容を読むよ」

 

シルヴィアが水晶盤のメモを見ながら、声に出した。

 

「『この泉は、大いなる離散の日に流れた涙から生まれた。世界の拍が二つに引き裂かれ、大地が泣き、空が嘆き、海が震えた日に。二つの拍は一つであった。一つの心臓が二つに分かれたのではない。二つの心臓が初めから在り、一つのように動いていただけであった』」

 

カミラさんが息を呑んだ。

 

「二つの心臓が、初めから……」

 

「続きがある。『離散の日、二つの心臓は互いを見失った。律動の心臓は拍を刻み続け、静寂の心臓は祈りを捧げ続けた。しかし、片方だけでは世界を保てなかった。律動だけの世界は暴走し、静寂だけの世界は停滞した。二つが再び出会い、手を合わせるとき、世界の拍は正しき律を取り戻す』」

 

シルヴィアが読み終えた。

 

沈黙が降りた。泉の水面が月光を受けて青白く揺れている。

 

「律動の心臓と、静寂の心臓」

 

私が呟いた。

 

「星喰いの塔の壁に書いてあった言葉と同じだ。『二つの心臓。一つは世界を動かし、一つは世界を静める』」

 

「ええ。でも、ここでは少し違うことが書いてある」

 

シルヴィアが石碑の前で腕を組んだ。

 

「星喰いの塔の碑文は、二つの心臓を『装置の部品』として語っていた。二つを合わせれば調和、離せば均衡。でもここの碑文は、もっと――」

 

「もっと、人間的です」

 

カミラさんが静かに言った。

 

「涙から生まれた泉。泣いた大地。嘆く空。……これは技術の記述ではなく、物語です。誰かが嘆いて、泣いて、祈った記録」

 

「そう。ここの碑文には感情がある。星喰いの塔は技術者の記録で、ここは……祈りの場所だ」

 

シルヴィアが呟いた。

 

カミラさんが五つ目の石碑に近づいた。部分的にしか読めない文字を、指でそっとなぞる。

 

「この文字列……聖典に似ています」

 

「聖典?」

 

「はい。メナス教の聖典に『神罰の章』という一節があります。『女神は世界の乱れを嘆き、涙を流された。涙が落ちた地は聖域となり、祈りの力を永遠に宿した』と」

 

「学院では『大離散は技術の失敗』と教わった」

 

シルヴィアが返した。だが、その声には対立の色がなかった。

 

「古代文明が拍の制御に失敗し、世界が大規模な拍の乱れに見舞われた。それが学院の公式見解だ」

 

「技術の失敗と、女神の涙」

 

私は二人を見た。

 

「どちらが正しいんだ?」

 

シルヴィアとカミラさんが同時に口を開き、同時に閉じた。

互いを見て、一瞬だけ目が合った。

 

「……どちらも、かもしれない」

 

先に言ったのはシルヴィアだった。

 

「この碑文はどちらとも取れる。技術の失敗で世界が引き裂かれたのか、女神が涙を流したのか。あるいは、同じ出来事を別の言葉で記述しただけなのか」

 

「同じ出来事を……」

 

カミラさんが繰り返した。

 

「はい。女神の涙は、技術者の言葉では『世界の拍の崩壊』かもしれません。技術の失敗は、聖典の言葉では『女神の嘆き』かもしれません。同じ真実を、違う角度から見ている」

 

「教会と学院が同じ出来事を別の言葉で語っている、ということか」

 

シルヴィアの声に、揶揄も冗談もなかった。純粋な考察の声だ。

 

「水底の祭壇の碑文でもそうだった。教会の祈りの言葉と学院の詠唱が、元をたどれば同じ古代語に行き着く。根は一つだ」

 

「根は一つ。でも枝は二つに分かれた」

 

カミラさんが微笑んだ。寂しい笑みだった。

 

「二千年かけて、離れてしまったのですね」

 

「離れた。でも、今日この場所で、また繋がりかけている」

 

シルヴィアがカミラさんを見た。

いつもの鋭い視線ではなく、もっと静かで、もっと真摯な目だった。

 

「君の浄化と泉の拍が重なったとき、石碑が起動した。学院の術式だけでは読めなかった碑文が、教会の祈りと合わさって初めて見えた。これは偶然じゃない」

 

「ええ。偶然ではないと、私も思います」

 

二人は碑文を見上げた。

同じ文字を、同じ方向から見ている。対立ではなく、並んで。

 

……これは、初めてかもしれない。シルヴィアとカミラさんが、互いを見るのではなく、同じものを見ている姿は。

 

 

残りの石碑の解読を続けた。

 

五つ目の石碑は半分崩れており、完全な判読はできなかった。だが断片から、重要な情報が拾えた。

 

「『二つの心臓を繋ぐ者が在る。律動を身に宿し、静寂を招く者。世界の錨となりて、二つの拍を束ねる器』」

 

「錨」

 

私は剣の鍔に手を触れた。灰水晶の錨。拍を安定させる、私の道具。

 

「君のことだよ、グレン」

 

シルヴィアが言った。予想はしていたが、改めて言われると奇妙な感覚だ。

 

「星喰いの塔でも同じことを言ったけど、この碑文でも裏づけられた。君の拍は錨の性質を持っている。二つの異なる拍を繋ぎ止める支点。だから魔晶石と共振し、だから台座に引き寄せられた」

 

「私がいなければ、あの暴走は起きなかった、ということか」

 

「逆だよ。君がいなければ、暴走を止められなかった。私の逆相とカミラの浄化が重なったとき、それを繋いでいたのは君の拍だ。二つの術が偶然重なったんじゃない。君の拍が二つを引き合わせたんだ」

 

シルヴィアは水晶盤を見つめた。

 

「答えが見えてきた。二つの石を使ってこの装置を正しく起動するには、三つの要素が必要だ。能動的な拍の操作。受動的な拍の招き入れ。そして、二つを繋ぐ錨」

 

「学院魔術と、神聖術と、探索者」

 

カミラさんが静かに言った。

 

「シルヴィアさんと、私と、グレンさん」

 

三人の間に、沈黙が落ちた。

泉の水面が揺れている。月明かりに照らされた水面に、三つの影が映っていた。

 

私の影は真ん中にあって、左にシルヴィア、右にカミラさん。三つの影が泉の水面で揺れ、混ざり合い、また分かれる。

 

「……きれいだ」

 

呟いたのは、泉に映る月のことだった。

丸い月が水底に沈んでいるように見える。手を伸ばせば触れられそうなのに、触れれば壊れる光。

 

「ええ」

 

カミラさんが応えた。何がきれいなのかは訊かなかった。

 

「そうだね」

 

シルヴィアも応えた。視線は泉の水面に落ちている。

 

三人で、泉に映る月を見ていた。

森の中は静かで、虫の声と水の音だけがある。石碑の青白い光が少しずつ薄れていく。

 

カミラさんが私の右隣に座っていた。肩は触れていない。腕一つ分の距離。

シルヴィアが私の左隣に座っていた。同じくらいの距離。

 

それぞれの距離で、それぞれの沈黙を保って。

 

「ねえ、グレン」

 

「ん?」

 

「今日わかったことは、大きい。二つの心臓は最初から二つだった。一つを二つに割ったんじゃなく、二つが並んで動いていた。離散で離れたけれど、また出会えば元に戻れる」

 

「元に戻れる、か」

 

「戻るんじゃないのかもしれない。新しい形で、再び並んで動き始める。別のものとして。でも、一緒に」

 

シルヴィアの声は静かだった。研究の考察というよりも、もっと個人的な何かを言っているように聞こえた。

 

カミラさんは何も言わなかった。

ただ、膝を抱えて泉を見つめていた。月光が金色の髪を銀に染めている。

 

「帰ろう」

 

私が言った。

 

「明日の朝、出発する。泉の治療はもう十分だ。腕も耳も、ほぼ回復した」

 

「そうだね。帰ったらデータの解析がある。石碑の碑文を全部整理して、塔の碑文と照合して。やることは山積みだ」

 

シルヴィアが立ち上がった。いつもの研究者の顔に戻っている。

 

「安全な旅路を祈ります」

 

カミラさんも立ち上がった。穏やかな笑顔で。

 

焚き火に戻り、それぞれ毛布にくるまった。

 

森が深い。月が高い。

泉の水面に映っていた三つの影は、もう見えない。

 

でも、焚き火の光が地面に落とす三つの影は、さっきより少しだけ近く見えた。

 

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