聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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砕ける均衡、焚き火の告白

帰路は、来た時より速かった。

 

私の身体が回復したことで、歩く速度が上がった。耳鳴りはほぼ消え、右手の感覚も完全に戻っている。剣を握れば拍を通すこともできる。錨も問題なく機能する。

 

月涙の泉を出て二日。緑深の大森林を抜け、街道に戻った。ここからさらに二日で境界山脈の麓、そこから東門まで三日。合計五日の行程だ。

 

三人で歩く旅にも慣れてきた。

朝はカミラさんが粥を作り、シルヴィアが茶を淹れる。出発前に私が周囲の安全を確認し、シルヴィアが計測板で拍の異常がないか調べ、カミラさんが加護をかける。帰路だからか、行きのような緊張はない。

 

「今夜は、少しいい野営地を探そう。明日から山道に入ると、平坦な場所が少なくなる」

 

地図を見ながら言うと、シルヴィアが頷いた。

 

「川沿いに開けた場所があるはずだよ。地形図に載っている」

 

「そこにしましょう。水が使えると助かります」

 

カミラさんが同意した。

 

夕方、川沿いの草原に野営地を見つけた。小川のせせらぎが聞こえる開けた場所で、頭上に星空が広がっている。秋の終わりの空気は冷たいが、清々しい。

 

焚き火を囲んで夕食を取った。カミラさんの作った芋と干し肉のスープ。シルヴィアの淹れたローズヒップの茶。いつの間にか定番になったこの組み合わせが、妙に落ち着く。

 

「泉のデータ、まだ整理しきれていないんだけど」

 

シルヴィアが茶を啜りながら言った。

 

「碑文の内容と、星喰いの塔の壁面の記述を照合すると、かなり重要な仮説が立てられそうだ。帰ったらすぐに取りかかりたい」

 

「どのくらいかかる?」

 

「三日あれば初期解析は終わる。ただ、碑文の完全な翻訳には教会側の古語資料も必要になるかもしれない」

 

「教会の古語写本でしたら、大聖堂の書庫に所蔵があります。閲覧の許可を取りましょう」

 

カミラさんが応えた。

 

二人が自然に協力の話をしている。泉で碑文を一緒に読み解いてから、何かが少しだけ変わった気がする。対立がなくなったわけではないが、学術的な目的のために手を組むことへの抵抗が薄れている。

 

探索者としては、仲間が協力し合うのはありがたい。戦場で背中を預けるには信頼が必要だ。

 

「よし。帰ったら三人でまた集まろう。学院と教会と探索者で、データを突き合わせる」

 

「了解だ」

 

「はい」

 

話がまとまった。焚き火が赤く揺れている。

 

身体が温まり、満腹になると、急に眠気が押し寄せてきた。回復したとはいえ、拍の代償が身体に残す疲労は深い。

 

「先に寝る。見張りは――」

 

「私が一番手を引き受けるよ。カミラが二番手でいいかい?」

 

「はい。お任せください」

 

「じゃあ頼んだ」

 

外套を被り、焚き火から少し離れた場所に横になった。草地が柔らかく、背中が沈む。今日は地面が優しい。

 

目を閉じた。

二人が焚き火のそばで何か話している声が、遠くなっていく。

 

 

眠りに落ちた。

 

それから、どのくらいの時間が経っただろう。

意識の底で、二つの声が聞こえた気がした。

 

 

(グレンが寝てしまった。)

 

シルヴィアは焚き火の炎を見つめていた。

 

パチリと薪が弾ける。火の粉が夜空に舞い上がり、星に混じって消えていく。グレンの寝息が規則的に聞こえている。深い眠りだ。拍が安定している。よかった。

 

焚き火の向こう側に、カミラが座っている。

膝を揃え、手を膝の上に置いた、いつもの姿勢。金色の髪が炎の光を受けて揺れていた。

 

二人きりになるのは、三人旅を始めて以来、何度かあった。見張りの交代の合間や、グレンが水を汲みに行った隙間。でも、どちらも当たり障りのない会話で済ませてきた。天気の話、明日の行程、食事の相談。

 

今夜は、何かが違った。

 

空気が、少し変わっている。

 

「シルヴィアさん」

 

カミラが口を開いた。声は穏やかだ。いつもの、聖女の声。

 

だが、その穏やかさの下に、何かが構えている気がした。

 

「ん?」

 

「一つ、お訊きしてもよろしいですか」

 

「何かな」

 

「あなたは、グレンさんのことが好きなんですね」

 

焚き火が弾けた。

火の粉が舞い、シルヴィアの銀色の髪の上を通り過ぎていく。

 

その問いに驚きはなかった。

むしろ、遅かったと思った。もっと早くに訊かれると思っていた。泉で、あるいは塔の中で。

 

「……何を今さら。最初から隠してなんかいないよ」

 

声は平静だった。冗談めかすこともできたが、やめた。この問いには冗談で返すべきではないと、身体のどこかが知っていた。

 

カミラは頷いた。予想通りの答えだったのだろう。表情は変わらなかった。

 

そして、静かに言った。

 

「私もです」

 

炎が揺れた。

空気が少し冷えた気がした。いや、風が吹いたのだ。川の方から、夜の風。

 

「知ってる」

 

シルヴィアは答えた。

 

「知ってるよ。最初に会った日からね。市場でグレンの名前を呼んだときの君の目、覚えてる。あれは信徒を見る目じゃなかった」

 

カミラは否定しなかった。

 

「はい。あの時にはもう」

 

「うん。私もそうだった。七年前の図書塔の夜には、もう」

 

焚き火の音だけが二人の間にあった。

パチリ。パチリ。薪が崩れて、炎の形が変わる。

 

「でも、グレンさんは気づいていません」

 

カミラが言った。事実の確認のように。

 

「ああ」

 

「あの方は、私たちの気持ちに、気づいていません」

 

「……うん」

 

シルヴィアは膝を抱えた。炎の熱が顔に当たるのに、少し寒い。

 

「それが一番、辛い」

 

声に出してしまった。

言うつもりはなかった。でも、出てしまった。焚き火の前で、同じ相手を想う女の前で。

 

カミラが息を呑んだ音が聞こえた。

 

「……はい。辛いです」

 

カミラの声が、少しだけ揺れていた。

聖女の仮面が、微かにひび割れた音。

 

「七年、隣にいました。ずっと。冗談を言って、茶を淹れて、研究の成果を見せて。毎週土の日に来てくれる彼を待って、来たら嬉しくて、帰ったら寂しくて。でも一度も、一度も、気づいてもらえなかった」

 

シルヴィアは炎を見つめたまま言った。

 

「君はどうだい。二年間。同じだったろう」

 

「……はい。毎週、教会でお会いして。お話をして。お茶を淹れて。帰る時間が来ると、いつも心臓が痛くなりました。行かないで、と言いたくて。でも言えなくて」

 

カミラの声は静かだった。でも、静かな分だけ深かった。水底の流れのように、穏やかに見えて、底の方はとても速い。

 

「あの人は、私たちを大切にしてくれています。それは嘘じゃない。毎週来てくれること、気にかけてくれること、怪我をしたら心配してくれること。全部、本物です」

 

「ああ、そうだね。あれは本物だ。グレンは嘘をつけない男だから」

 

「でも、それが『好き』なのかどうかは、あの方自身がわかっていない」

 

「わかってないんじゃなくて、そもそも考えたことがないんだと思う。自分が好かれるはずがないって前提があるから、好意を好意として認識できない」

 

シルヴィアは苦笑した。本当に笑えない苦笑だった。

 

「鈍感、って一言で片づけられたらどれだけ楽か。あれは鈍感じゃない。自己評価が低いんだ。自分は地味で、女に縁がなくて、戦うことしか能がないって本気で思ってる。こっちがどれだけ手を伸ばしても、『友人として大切にしてくれてるんだな』で終わる」

 

「……はい」

 

カミラが膝の上で手を握りしめた。

 

「先日の市場で、白百合を一輪持ち帰ってくれました。無意識に。それがどれだけ嬉しかったか、あの方はきっと覚えてもいません」

 

「月下香の匂いがする薬棚の前で、七年前の夜のことを少しだけ話してくれた。あれがどれだけ特別なことか、あの男は絶対にわかっていない」

 

焚き火が赤く揺れている。

二人の影が地面に伸び、ゆらゆらと揺れている。

 

「シルヴィアさん」

 

「ん」

 

「あなたの気持ち、少しだけわかります」

 

シルヴィアは顔を上げた。

カミラの翡翠の瞳が、炎に照らされて深い緑に見えた。

 

「七年分の想い。私には想像しきれません。でも、報われない想いの痛みは、二年でも七年でも同じです。時間の長さではないのです」

 

「……君に同情されるのは、少し悔しいけどね」

 

「同情ではありません。共感です」

 

シルヴィアは黙った。

共感。この女が使う言葉は、いつも正確だ。同情ではなく、共感。上から見下ろすのではなく、隣に立って同じ痛みを感じる。

 

(この女は強い。穏やかな顔の下に、底なしの芯がある。私と同じ——いや、違う種類の。)

 

(だからこそ厄介だ。嫌いになれない。冗談を投げても本気で受け止める。攻撃しても静かに立っている。怒りすらしない。それが一番やりにくい。)

 

(でも——少しだけ、わかる。この女がグレンを想う気持ちが、わかってしまう。塔の中で泣きながら祈っていた声を、私は聞いてしまった。あれは演技じゃなかった。)

 

「カミラ」

 

「はい」

 

「一つだけ言っておく」

 

シルヴィアは焚き火を見つめたまま言った。

 

「私は退かないよ。七年かけてここにいる。七年分の想いを、誰かに譲るつもりはない。たとえ相手が聖女でも、女神でも」

 

カミラは微笑んだ。穏やかな笑みではなかった。もっと深くて、もっと静かで、でも絶対に折れない笑み。

 

「私も退きません」

 

炎が二人の間で揺れた。

 

「二年は短いかもしれません。でも、祈りの深さは時間では測れません。私は二年間、毎日あの方のために祈ってきました。朝も夜も。雨の日も晴れの日も。あの方が遠くの山にいるときも、教会に来てくれないときも。一日も欠かさず」

 

「七百三十日分の祈り、か」

 

「はい。七百三十日分の祈りと、七年分の想い。どちらが重いかは、量れません」

 

沈黙が落ちた。

焚き火が弾ける音だけが、夜の草原に響いている。

 

シルヴィアは膝を抱えたまま、空を見上げた。星が冷たく瞬いている。

 

「……辛いね」

 

「はい」

 

「本当に、辛い」

 

カミラの声が微かに震えた。

 

「でも、退きません」

 

「うん。私もだ」

 

二人は同時に焚き火を見つめた。

炎が二つの顔を照らしている。一つは銀色の髪を炎の光で金に染め、一つは金色の髪を炎の影で暗くしている。

 

対照的で、でもどこか似ている。同じ痛みを知る者同士の、静かな共鳴。

 

「ねえ、カミラ」

 

「はい」

 

「塔の中で、君が泣きながら祈ってた時。あれ、私の逆相と重なったでしょう」

 

「はい。あの瞬間、シルヴィアさんの拍が感じられました。とても鋭くて、冷たくて、でも……必死でした」

 

「君の祈りも感じた。途切れ途切れで、泣き声混じりで、全然『聖女』らしくなくて。でも、あれが本物だった。あの祈りがなかったら、グレンは助からなかった」

 

「シルヴィアさんの逆相がなくても、助かりませんでした」

 

「……そうだね」

 

シルヴィアは小さく笑った。皮肉ではない、本当の笑みだった。

 

「嫌だね。恋敵と一番息が合うなんて」

 

カミラも笑った。

初めて見る笑い方だった。聖女の仮面でもなく、取り繕った微笑みでもなく。もっと素朴で、もっと脆い、女の子の笑い方。

 

「ええ。少し、困りますね」

 

焚き火が小さくなっていた。

薪をくべる。炎が息を吹き返し、二人の影を大きく伸ばす。

 

遠くで、グレンの寝息が聞こえている。

安らかな寝息だ。何も知らない。何も気づかない。

 

「……あの人が起きる前に」

 

カミラが呟いた。

 

「はい?」

 

「何でもありません。……おやすみなさい、シルヴィアさん」

 

「おやすみ。見張り、頼んだよ」

 

「はい」

 

シルヴィアは毛布に潜り込んだ。

目を閉じる。

 

(退かない。七年分。私の全部。)

(でも——)

(あの女の祈りが、本物だったことは、知ってしまった。)

(それがどうしようもなく辛いのは、なぜだろう。)

(嫌いになれたら楽なのに。)

 

眠りが落ちてきた。焚き火の温もりが遠くなる。

 

最後に見えたのは、焚き火の向こうで膝を抱えるカミラの横顔だった。翡翠の瞳に炎が映っている。泣いてはいない。笑ってもいない。ただ、じっと焚き火を見つめている。

 

同じ痛みを知る者の、静かな顔。

 

 

翌朝、目を覚ました。

 

空気が冷たい。晩秋の朝露が草に光っている。焚き火は消えかけていて、白い灰が残っていた。

 

身を起こすと、カミラさんとシルヴィアが並んで朝食の準備をしていた。

カミラさんが粥を温め、シルヴィアが茶を淹れている。無言だが、動きに衝突がない。

 

……何かが変わった気がする。

 

いつものことだ。二人の間の空気は日によって微妙に違う。でも今日は、前と違う種類の静けさがあった。対立の静けさではない。もっと深くて、もっと穏やかな。

 

「おはよう」

 

「おはよう、グレン。よく寝てたね」

 

「おはようございます、グレンさん。よくお休みになれましたか」

 

「ああ。久しぶりにぐっすり寝た。身体が軽い」

 

二人が一瞬だけ目を合わせた。何かを確認するような、あるいは共有するような。

 

「昨夜、何かあったか?」

 

「いいや。平和な夜だったよ」

 

シルヴィアが茶を差し出した。いつものローズヒップ。

 

「ええ。とても平和でした」

 

カミラさんが粥をよそった。いつもの干し肉と根菜。

 

平和だった、と二人は言う。

そうなのだろう。見張りの間、何事もなかったのだろう。

 

粥を食べ、茶を飲んだ。

シルヴィアの茶は少し酸味が強い。カミラさんの粥は少し塩が効いている。どちらも昨日と同じ味のはずなのに、今日はなぜか、少しだけ違って感じた。

 

荷をまとめて出発した。

山道に向かう街道を、三人で歩く。

 

シルヴィアが左。カミラさんが右。私が真ん中。

いつもの隊列だ。何も変わっていない。

 

でも、二人の歩幅が少しだけ揃っている気がした。今までは、シルヴィアが速くてカミラさんが遅れがちだったのに。

 

朝の光が街道に差し込んでいる。三つの影が前方に伸びていた。

 

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