聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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第二の心臓、静寂の石

王都が見えたのは、出発から十日目の昼過ぎだった。

 

東門の塔が秋晴れの空に突き出ている。城壁の上で旗がはためいていた。帰ってきた。

 

「長い旅だったね」

 

シルヴィアが呟いた。

 

実際は二週間足らずの行程だったが、密度が違う。星喰いの塔で死にかけ、拍の代償を負い、月涙の泉で回復し、碑文を解読した。半年分の出来事が凝縮されたような旅だった。

 

東門の門番に帰還を告げ、三人で帰還者通りの石畳を歩いた。

秋の終わりの王都は、行商人の馬車と学生たちの声で騒がしい。冒険者ギルドの前を通り過ぎると、顔見知りの受付が手を振ってきた。帰還報告は後で出す。

 

「ここで別れよう。私は学院に直行する。データの整理を始めたい」

 

シルヴィアが言った。

 

「ああ。私はギルドで報告を済ませてから、学院に行く」

 

「私は教会で帰還のご報告を。大聖堂の書庫のことも確認しておきます」

 

カミラさんが微笑んだ。

 

三人が、三つの方向に分かれる。

シルヴィアは学院へ。カミラさんは教会区へ。私はギルドへ。

 

「二日後の土の日。学院の研究室に集合で」

 

「了解」

 

「はい。楽しみにしています」

 

カミラさんは軽く頭を下げて、白百合通りへ向かった。

シルヴィアは肩越しに手を振り、学院棟の方へ歩いていく。

 

私は一人、帰還者通りに立っていた。

 

三人でいた空間が、急に広く感じた。

十日間一緒にいたせいだろう。旅の癖が抜けるのに少し時間がかかりそうだ。

 

 

ギルドで簡潔な帰還報告を済ませ、宿に戻った。

荷を下ろし、装備を手入れする。剣を研ぎ、革の鎧を油で拭き、計測板の記録を日誌に転記した。

 

探索者の日常だ。帰ったらまず装備の手入れ。これを怠る冒険者は長生きできない。

 

右手で剣を握る。感覚は完全に戻っている。拍を通せば、灰水晶が澄んだ音で応える。

耳鳴りもない。シルヴィアの抑制装置は外してある。もう必要ない。

 

泉の水とカミラさんの浄化に感謝しなければ。

シルヴィアの装置にも。

二人がいなければ、拍の代償は長く尾を引いていただろう。

 

宿の窓から外を見た。秋の夕暮れが石畳を橙色に染めている。

窓辺の花瓶に、白百合が一輪挿してあった。出発前に活けておいたもの。枯れかけているが、まだ微かに匂いがする。

 

新しい百合を買おうか。そう思った。

 

「……何で百合なんだ」

 

自分で呟いて、自分で首を傾げた。

別に百合でなくてもいい。竜胆でも、野菊でもいい。でも、なぜか白百合が思い浮かんだ。

 

まあいい。明日、市場に出たら見てみよう。

 

 

土の日。学院の研究室。

 

シルヴィアの部屋は、いつにも増して資料が散乱していた。水晶盤のデータを紙に書き写したものが壁に貼られ、石碑の碑文の転写が机の上に広げられている。床にも紙が散らばっていた。

 

「よく来たね。座って。いや、座る場所を作るから待って」

 

シルヴィアが椅子の上の資料を床に移した。

 

「カミラさんはまだか?」

 

「もうすぐ来るはずだよ。古語写本を持ってくると言っていた」

 

茶を淹れてくれた。ローズヒップとアッサム。いつもの味。旅先で飲んだ同じ茶が、研究室で飲むとまた違う。壁の棚に並ぶ硝子器具が午後の光を弾いている。

 

扉を叩く音がした。

 

「失礼します」

 

カミラさんが入ってきた。法衣の上に外套を羽織り、腕に大きな本を三冊抱えている。

 

「大聖堂の書庫から、古語写本を三冊お借りしてきました。大離散に関する記述がある巻を選びました」

 

「ありがとう。そこに置いて」

 

シルヴィアが机の端を空けた。カミラさんが写本を並べる。羊皮紙に金文字の装飾が施された、重厚な書物だ。

 

「さて、本題に入ろう」

 

シルヴィアが壁に貼った資料を指した。

 

「旅の間に集めたデータを総合解析した。結論から言う」

 

目が鋭い。研究者がもっとも輝く瞬間の目だ。

 

「星喰いの塔の最深部には、二つの魔晶石があった。一つは『律動の石』。グレンが最初の探索で回収した、心拍と共振する石。もう一つは――」

 

シルヴィアが壁の図を指した。台座の窪みが二つ描かれている。片方に石が嵌り、もう片方が空。

 

「『静寂の石』。律動の石と対になる、逆位相の石。まだ塔のどこかにあるはずだ」

 

「静寂の石」

 

カミラさんが呟いた。

 

「静寂。それは――」

 

「そう。神聖術の根幹だね。静寂を招き入れ、拍を鎮める。律動が学院魔術の原理なら、静寂は教会の原理だ。二つの石は、二つの術の起源そのものかもしれない」

 

シルヴィアは水晶盤の記録を広げた。

 

「泉の碑文を思い出して。『二つの心臓は初めから二つだった。一つのように動いていただけだ』。星喰いの塔の装置は、この二つの石を嵌め込んで稼働するように設計されている。律動の石が拍を生み、静寂の石が拍を鎮める。二つが交互に作用することで、世界の拍を安定させる」

 

「でも、大離散で二つが離れた」

 

「そう。大離散の日に何が起きたかは正確にはわからない。でも結果として、二つの石は分離した。律動の石だけが台座に残り、静寂の石は消えた。一つだけでは装置は正しく動かない。グレンが魔晶石を持ち帰ったとき台座が暴走したのは、片方だけで起動しようとしたからだ」

 

シルヴィアの説明は明快だった。データと碑文と実体験が、一つの仮説に収束していく。

 

「二つの石を揃えて台座に嵌め、装置を正しく起動する。それが星綴り文明の遺跡が求めていること」

 

「でも、起動するには三つの要素がいる」

 

私が言った。泉の碑文の内容だ。

 

「能動的な拍の操作、受動的な拍の招き入れ、そして二つを繋ぐ錨」

 

「学院魔術と、神聖術と、探索者」

 

カミラさんが静かに確認した。

 

「シルヴィアさんと、私と、グレンさん」

 

三人の間に、重い沈黙が落ちた。

 

碑文も、データも、実体験も、全てが同じ結論を指している。この三人でなければ、装置は起動できない。

 

「まずは静寂の石を見つけることだ。石がなければ始まらない」

 

シルヴィアが腕を組んだ。

 

「石の所在について、手がかりがある。塔の壁面の碑文を全部照合した結果、静寂の石は台座から持ち出されたのではなく、塔の内部の別の場所に隔離されている可能性が高い。台座の暴走を防ぐために、意図的に離されたんだ」

 

「塔の中に、まだあるのか」

 

「地下十二層より深い層があるかもしれない。あるいは、私たちが見落とした隠し区画。碑文の中に、『静なる石は拍の届かぬ場所に安置せよ』という記述がある。拍の届かない場所というのは、完全な遮断区画だ。だからこそ前回の探索で見つからなかった」

 

「もう一度、塔に行く必要があるということですね」

 

カミラさんが言った。

 

「ああ。ただし――」

 

シルヴィアの表情が曇った。

 

「帝国の件がある」

 

扉を叩く音がした。

三人が同時に顔を上げた。

 

「入りたまえ」

 

シルヴィアが応じると、扉が開いた。

入ってきたのは学院の伝令だった。息を切らせている。

 

「シルヴィア研究員。学院長がお呼びです。至急とのことです」

 

「エレノア学院長が?」

 

「はい。『三人で来るように』と」

 

三人で。名指しか。嫌な予感がした。

 

 

学院長室は重い空気に満ちていた。

 

エレノア学院長が執務机の前に立っている。白髪を結い上げた細身の老女だが、姿勢は崩れていない。ただ、眉間の皺がいつもより深い。

 

「座りなさい」

 

三つの椅子が用意されていた。座ると、学院長が単刀直入に切り出した。

 

「昨日、辺境守備隊のヴェラ隊長から緊急報告が入った。境界山脈の遺跡群で、レグノヴァルド帝国の工作員が活動を活発化させている」

 

ヴェラ隊長。辺境の砦で会った、あの女性隊長だ。

 

「具体的には?」

 

「風門近辺で帝国の紋章を持つ者が複数確認された。さらに、星喰いの塔の周辺で拍の計測機器と思しきものが設置されているのが見つかった。ヴェラ隊長が撤去を試みたが、罠が仕掛けられていて断念した」

 

「帝国が塔の拍を計測している?」

 

シルヴィアの声が硬くなった。

 

「帝国は魔晶石の存在を知っているのか」

 

「おそらく。前回のスパイの件で情報が漏洩したと見るべきだろう」

 

学院長が書簡を広げた。

 

「ヴェラ隊長の報告によれば、帝国の工作員は少なくとも三人。うち一人は拍の操作に長けた術者と推定される。帝国魔導院の出身かもしれない」

 

「帝国魔導院……」

 

シルヴィアが唇を噛んだ。

 

「帝国の魔導院は、学院とは異なるアプローチで拍を研究している。軍事応用に特化していて、遺跡の遺物を兵器転用するのが常套手段だ。もし彼らが魔晶石の存在を知って、塔に入るつもりなら――」

 

「最悪、律動の石か静寂の石を持ち去られる」

 

私が言った。

 

「仮に帝国が石を手に入れても、装置の起動には三つの要素が必要だ。石だけでは暴走する。前回の私たちがそうだったように」

 

「そう。でも帝国は暴走を制御しようとするかもしれない。あるいは、暴走そのものを兵器として利用する可能性もある」

 

シルヴィアの指が膝の上で震えていた。怒りだ。遺跡を兵器に転用するという発想への、研究者としての怒り。

 

「学院としての方針を聞かせてくれ」

 

学院長が三人を見渡した。

 

「私は、静寂の石を先に確保すべきだと考える。帝国に渡してはならない。しかし、これは学院だけの判断で動ける範囲を超えている。教会にも関わることだ」

 

視線がカミラさんに向いた。

 

「カミラ司祭。教会はどう動くか」

 

カミラさんは背筋を正した。旅装ではなく法衣を纏った彼女は、教会の代表者の顔をしていた。

 

「帰還後に大司教様に報告を入れています。月涙の泉の碑文の内容と、静寂の石の存在について。教会としても、古代の聖遺物が帝国の手に渡ることは看過できません」

 

「それは心強い。教会と学院が連携して動けるか」

 

「はい。大司教様も同じご意見です。必要であれば、聖騎士団の護衛をつけることも検討すると仰っていました」

 

「ならば決まりだ」

 

学院長が書簡を片付けた。

 

「星喰いの塔への再調査を正式に命じる。目的は二つ。一つ、静寂の石の発見と確保。二つ、帝国の工作員の排除。グレン探索者が隊長を務め、シルヴィア研究員とカミラ司祭が同行する」

 

「了解」

 

「了解です」

 

「はい」

 

三人の声が重なった。

 

学院長は頷き、窓の外を見た。秋の終わりの空が、東の山並みの上で暮れ始めている。

 

「急いでくれ。帝国が先に塔に入れば、取り返しがつかなくなる」

 

 

学院長室を出て、研究棟の廊下を歩いた。

 

三人とも無言だった。学院長の言葉の重さが、まだ肩に残っている。

 

「準備期間は?」

 

「三日。装備と触媒の補充、結界術式の再構築。碑文の追加解読もできる限り進める」

 

「教会の聖騎士団との調整は私が。大司教様には今夜中に報告します」

 

「なら三日後の出発で」

 

頷き合った。

 

研究棟の出口に差し掛かったとき、シルヴィアが足を止めた。

 

「グレン」

 

「ん?」

 

「今日の解析で一つ、言い忘れたことがある」

 

シルヴィアは廊下の壁にもたれた。夕暮れの光が窓から差し込み、銀色の髪に赤い色を落としている。

 

「静寂の石を見つけて、二つの石を台座に嵌めた後。装置を起動するとき、錨の役割を果たす人間——つまり君は、二つの石の拍に同時に同調することになる」

 

「同調?」

 

「律動の石と静寂の石、両方の拍を身体に受ける。前回の暴走は律動の石一つだけで、あれだけの代償が出た。二つ同時なら……負荷は計り知れない」

 

シルヴィアの声が低くなった。

 

「最悪の場合、拍が固定化して元に戻らなくなる。あるいは――」

 

「死ぬかもしれない、か」

 

「……うん」

 

シルヴィアは目を伏せた。

 

「だから、もう少し理論を詰めたい。安全に起動する方法を見つけたい。三日で足りるかわからないけど」

 

「シルヴィア」

 

「ん」

 

「見つけてくれ。お前なら見つけられる」

 

シルヴィアは顔を上げた。夕日に照らされた藍紫の瞳に、何かが揺れていた。

 

「……信用しすぎだよ、君は」

 

「七年の付き合いだからな」

 

シルヴィアは何か言いかけて、やめた。唇を一瞬だけ噛んで、すぐに笑った。

 

「そうだね。七年だ。――任せて」

 

彼女は研究室に戻っていった。扉が閉まる音がした。

 

廊下に私とカミラさんが残った。

 

「グレンさん」

 

「はい」

 

「三日間、私は教会でできる限りの準備をします。浄化の術も、加護の術も、今まで以上に深いものを」

 

「ありがとうございます」

 

「それと、一つお願いがあります」

 

「何ですか?」

 

カミラさんは胸元のペンダントに手を触れた。双環が夕日の光を受けている。

 

「出発の前日。大聖堂にいらしてください。加護をお授けします」

 

「ああ。約束しましたからね。冒険の前に必ず」

 

「はい。約束です」

 

カミラさんは微笑んだ。穏やかだが、どこか覚悟を秘めた笑顔だった。

 

「……今度は、間に合わせます。何があっても」

 

声は静かだった。でも、その静かさの中に、嵐の前の海のような深さがあった。

 

「行ってきます。また土の日に」

 

「はい。お待ちしています」

 

カミラさんは頭を下げ、教会区の方へ歩いていった。白い法衣が夕暮れの光に溶けていく。

 

私は学院の門に立ったまま、しばらく動けなかった。

 

三日後、また三人で星喰いの塔に向かう。今度こそ、二つ目の石を見つけに。

 

右手を握った。感覚は完全だ。力も戻っている。

 

でも、シルヴィアの言葉が頭に残っていた。

二つの石の拍に同時に同調する。負荷は計り知れない。最悪の場合。

 

探索者は危険を恐れない。恐れたら、一歩も前に進めない。今までだって、何度も死にかけてきた。星喰いの塔も、小塔の跡も、水底の祭壇も。

 

でも、今回は少し違う。

今回は、私一人の問題ではない。シルヴィアとカミラさんも一緒だ。私が倒れたら、二人に影響が出る。

 

だからこそ、生き延びなければならない。

 

学院の塔に、明かりが灯り始めていた。

シルヴィアの研究室の窓から、蝋燭の光が漏れている。もう解析を始めたのだろう。

 

教会区の方角を見ると、大聖堂の尖塔が夕空に黒く浮かんでいた。あの尖塔の下で、カミラさんが祈っているのだろうか。

 

二つの光が、王都の夕暮れの中にあった。

研究室の蝋燭と、大聖堂の灯火。

 

私はその中間に立って、夕日が沈むのを見ていた。

 

明後日の出発まで、やるべきことがある。装備の最終点検。ギルドへの正式な探索届の提出。消耗品の補充。

 

そして――市場に寄って、白百合を一輪買おう。枯れかけた花瓶の分を補充するだけだ。深い意味はない。

 

夕暮れの東門通りを、宿に向かって歩き始めた。

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