出発まで三日。
私はギルドで正式な探索届を提出し、消耗品の補充に一日を費やした。替えのワイヤー、包帯、止血帯、火打ち石。回復薬はルドガー翁の店で上等なものを三本。
前回と違い、今回は三人分の物資を見積もる必要がある。シルヴィアは自分の研究用具を持つが、食料や野営道具は私が担う。カミラさんは身軽だが、法具の重さがある。
冒険者区の武具店で剣油を買い足し、灰鷹亭の部屋で装備を広げた。
剣を研ぐ。鍔の灰水晶に拍を通す。澄んだ音が返ってきた。問題ない。
短剣は新調した。前の短剣はシルヴィアが修繕してくれたが、今回は予備も持っていく。
星喰いの塔は甘くない。前回だけで、それは嫌というほどわかっている。
窓辺の花瓶を見た。市場で買った白百合が、まだ持っている。花弁の先がわずかに褐色に変わりかけているが、芯は白い。
留守の間に枯れるだろう。
でも、帰ったらまた買えばいい。帰ったら。
◆
シルヴィアは三日間、研究室から一歩も出なかった。
壁に貼った資料は、出発前の倍に増えていた。水晶盤のデータ、碑文の写し、拍の波形図。床に紙が散らばり、机の上は触媒瓶と計算式で埋まっている。茶を淹れる余裕すらない。いや、カップはあるが、中身が冷めたまま何時間も放置されている。
ローズヒップの酸味が冷えて苦味に変わる。それすら気にならないほど、頭の中は一つのことで占められていた。
連結術式の理論。
二つの石を台座に嵌め、同時に起動する。律動の石には能動的な拍の操作が必要で、静寂の石には受動的な拍の招き入れが必要。前者は学院魔術。後者は神聖術。
つまり——
「私と、カミラが、同時に。拍を合わせなければならない」
声に出して、自分の言葉に眉をひそめた。
理論は正しい。水晶盤のデータも、碑文の記述も、星喰いの塔の構造も、全てがこの結論を指している。泉で二人の術が偶然重なった時に暴走が止まったことが、何より雄弁な証拠だ。
だが。
「あの女と——心を合わせる?」
指先が輪環の縁を弾いた。金属の残響が狭い研究室に反響する。
拍の同調は、単なる周波数の一致ではない。自分の最も深い律動を相手に開くということだ。心臓の鼓動、呼吸の波、感情の揺れ。すべてが相手に伝わる。
シルヴィアの拍をカミラに開けば、何が見えるか。
七年分の、グレンへの想い。
冗談で隠してきた本音。
嫉妬。独占欲。
「誰にも渡さない」と呟いた夜の記憶。
全部、見られる。
カミラの拍を受け取れば、何が流れ込んでくるか。
あの女がグレンに注いできた祈りの中身が、全部。
「……冗談じゃない」
椅子を蹴って立ち上がった。窓に寄り、夜の学院を見下ろす。星の日の夜は天文台に灯りが点いているが、他の棟は暗い。
南東の方角に、教会区の灯火が微かに見える。大聖堂の尖塔が闇に浮かんでいる。あの下で、カミラは今何をしているのだろう。同じことを考えているのだろうか。
(あの女は、怖くないのだろうか。私に心の中を見られることが。)
いや——怖いだろう。聖女の仮面の下にあるものを、恋敵に晒す。怖くないはずがない。
でも。
机の上に、グレンの探索日誌の写しがあった。塔の最深部で意識を失いかけた時の記録。計測板のデータが乱れ、心拍が異常値を示している。
あの時、グレンは死にかけた。
律動の石一つであれだ。二つの石を同時に受ければ、負荷は計り知れない。錨があっても、グレンの身体が持つかどうか。
だから、理論を詰めなければならない。安全に起動する方法を。二つの術が干渉し合わずに、正確に重なる条件を。
そのためには——カミラとの同調が、完璧でなければならない。
シルヴィアは机に戻った。紙を広げ、計算式を書き始めた。
ペンが紙の上を走る。数式が行を埋め、次の行へ移る。
輪環の角度。位相の差分。同調に必要な時間。離脱の余裕。
計算は合う。理論は正しい。でも、一つだけ、数式では表現できない変数がある。
術者の感情。
拍は感情に影響される。怒り、恐怖、悲しみ——そして、恋。同調の最中に感情が乱れれば、拍が揺れ、干渉が起きる。
グレンを想う気持ちが、二人の間で衝突したら。
シルヴィアはペンを止めた。
窓の外に、教会区の灯火が見えている。遠くて小さいが、確かに光っている。
「グレンを護るためなら、私は何でもする」
呟いた。声が掠れていた。
「あの女と心を合わせることも。私の全部を見られることも。それでグレンが助かるなら、構わない」
ペンを握り直した。
「それが私の——七年分の、答えだ」
◆
同じ夜。メナス大聖堂の祈祷室。
カミラは一人、祭壇の前に跪いていた。
蝋燭の灯りだけが壁に揺れている。ステンドグラスは夜の闇に沈み、昼間の色彩を失っていた。女神メナスの双環だけが、蝋燭の光を反射してぼんやりと光っている。
手を組み、額をつけ、目を閉じる。
いつもの姿勢。いつもの祈り。でも、今夜は違う。
「女神メナスよ」
声は静かだった。静かだが、揺れていた。
「私は明後日、魔術師と心を合わせます。学院の術者と、拍を同調させます」
沈黙。大聖堂の石壁は何も答えない。
「それは教義に反するのでしょうか」
教会の教えでは、拍の操作は世界に委ねるべきものだ。自ら拍を操る学院魔術と、世界の拍を招き入れる神聖術は、同じ「拍」を扱いながら、根本的に方向が異なる。
学院の術者と拍を合わせるということは、能動的な操作を自分の中に受け入れるということだ。押し込む力と、招き入れる力を、一つの身体の中で交差させる。
それは果たして、女神の教えに沿うことなのか。
カミラは胸元のペンダントに手を触れた。双環の金属が冷たい。
——本当は、教義の問題ではないことを知っている。
シルヴィアと拍を合わせれば、自分の祈りの中身が見られる。
朝の祈り。夜の祈り。七百三十日、一日も欠かさなかった祈り。
その祈りの中心にあるのは、女神ではない。
グレンだ。
毎朝、目を覚ますと最初に祈る。「あの方が今日も無事でありますように」
毎晩、眠る前に祈る。「あの方がいつか、私の声に気づいてくださいますように」
聖女としての祈りの中に、一人の女としての祈りが混じっている。いや、もはや境界がわからない。グレンの無事を願うことは慈愛なのか、それとも——
「女神様、これは慈愛ですか。それとも我欲ですか」
何度目かの問いかけだった。泉に向かう旅路でも、焚き火の夜でも、心の中で繰り返してきた問い。
答えはいつも沈黙だった。
蝋燭の炎が揺れた。風もないのに。
カミラは目を開けた。ステンドグラスの闇の中に、女神の横顔がかすかに見える。
——答えは、出ている。
焚き火の夜に、シルヴィアに言った。「退きません」と。
あの時、もう答えは出ていた。
「慈愛でも我欲でも、どちらでもいい」
声が変わった。震えが消えている。
「私の祈りは本物です。グレンさんのことを想って祈るたび、私の拍は鎮まります。あの方を信じるとき、世界が最も静かになります。それが慈愛であろうと我欲であろうと――私の静寂は嘘ではありません」
指先から力が抜けた。
胸の中で、何かがすとんと落ち着いた。
今まで感じたことのない静けさが、身体の奥から広がっていく。呼吸が深くなる。心臓の音が遠くなる。
静寂が、深い。
今までで一番、深い。
迷いが消えた拍は、こんなにも静かになるのか。
カミラはゆっくりと立ち上がった。膝が少し痛む。長く跪きすぎた。
祈祷室を出て、回廊を歩く。夜の大聖堂は人気がなく、自分の足音だけが石の床に反響する。
窓から北西の方角を見た。学院の研究棟に、一つだけ灯りが見えた。あの窓の向こうで、シルヴィアが計算を続けているのだろう。
明後日、あの人と拍を合わせる。
グレンへの想いを、全部見られる。
怖い。
でも、退かない。
「シルヴィアさんも、きっと怖いのでしょうね」
呟いて、少し笑った。穏やかな笑みではなかった。もっと切なくて、もっと強い。
同じ人を愛する二人の女が、その愛を互いに曝け出して、手を合わせる。
残酷で、美しくて、どうしようもなく切ない覚悟だ。
カミラは双環のペンダントを握りしめた。
「女神様。明日、あの方に最後の加護をお授けします。今まで以上に深い加護を。私のすべてを込めた加護を」
窓の外で、星が瞬いていた。
◆
出発前日。
大聖堂の祈祷室で、カミラさんが私の額に手を置いた。
加護の儀式だ。もう三度目になる。最初は冒険の前に。二度目は塔に向かう前に。そして今日。
カミラさんの祈りの声が聞こえる。古い神語の音韻が、石造りの部屋に反響する。
「……」
今日の加護は、前と違う。
何が違うのか、言葉にするのは難しい。だが、肌に触れる力の質が変わっている。以前は温かい毛布のような感覚だったが、今日は——もっと深い。水底に沈み込んでいくような、静かで、重くて、でも苦しくない。
全身に薄い膜が張られていく感覚。それは均一で、偏りがなかった。前回は右肩にだけ厚くなったと聞いたが、今日は完璧だ。
祈りが終わった。カミラさんが手を下ろす。
「……加護を授けました」
「ありがとうございます。今日のは、何というか……すごく深い感じがしました」
カミラさんは少し目を伏せ、微かに頬を染めた。
「いえ。少し、集中できただけです」
そうかな。いつもより声が落ち着いていたし、手も震えていなかった。前とは明らかに何かが違う。
「グレンさん」
「はい」
「明日のこと。シルヴィアさんと私が、拍を同調させます」
「ああ。聞いている。二つの石を連結するために必要な手順だと」
「はい。その時に、もしかすると……少し不安定になるかもしれません。私たちが」
不安定。
「……同調は、難しいんですか」
「技術的なことだけではありません。拍を合わせるということは、心を開くということですから」
カミラさんは胸元のペンダントに手を触れた。
「でも、大丈夫です。覚悟は、できました」
穏やかな声だった。でもその奥に、昨夜の祈りの深さがそのまま残っている。
「私に何かできることはありますか」
「そうですね……」
カミラさんは少し考えて、微笑んだ。
「いつも通りでいてください。グレンさんがグレンさんのままでいてくださることが、私にとっての一番の――」
言葉が途切れた。何か言いかけて、飲み込んだように見えた。
「一番の?」
「……錨です。一番の錨です」
声が少し掠れていた。でもカミラさんは笑っていた。切ない笑顔だった。
何を飲み込んだのだろう。聞いてもいいのかどうか、迷っているうちに、廊下から子供たちの声が聞こえてきた。
「カミラ司祭、明日お出かけって本当ですか?」
「ええ、少しの間だけ。すぐに戻りますからね」
カミラさんは子供たちに向けて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。聖女の顔。
でもさっきの——言葉を飲み込んだ瞬間の顔は、聖女とは違う顔だった。
何だったのだろう。
「明日、東門で。夜明けに」
「はい。お待ちしています」
大聖堂を出ると、秋の終わりの冷たい風が頬を撫でた。
学院に足を向ける。シルヴィアにも出発前の確認をしておかなければ。
◆
研究室の扉を叩くと、返事がなかった。
もう一度叩いてから入ると、シルヴィアは机に突っ伏していた。周囲に散乱した紙と、冷めきった茶。ペンが指の間に挟まったまま眠っている。
「おい、シルヴィア」
肩を揺すると、銀色の髪の間から藍紫の瞳が覗いた。
「……ん。グレン?」
「寝てたのか。体調は」
「寝てない。少し目を閉じてただけだ」
嘘だ。頬にインクの跡がついている。明らかに紙の上で寝落ちしている。
シルヴィアは身を起こし、髪を指で梳いた。目の下に薄い隈がある。三日間ほとんど寝ていないのだろう。
「連結術式の理論は?」
「まとまった」
シルヴィアの顔が、一瞬だけ引き締まった。
「完璧とは言えないけど、安全な起動手順を組めた。私の逆相制御とカミラの浄化を段階的に同調させることで、拍の干渉を最小限に抑えられる。問題は——」
「問題は?」
「……いや、技術的なことは大丈夫。私が何とかする」
何か言い淀んだが、すぐに立ち上がり、壁の図を指した。
「グレン。君の役割を確認しておくよ」
「ああ」
「君は二つの石の間に立って、錨になる。律動の石と静寂の石、両方の拍を身体で受けて、繋ぐ。橋渡しだ」
「負荷は」
「正直に言う。大きい。でも、段階的に同調を進めることで、一度に受ける拍を制限できる。それと——」
シルヴィアが小さな水晶片を取り出した。
「追加の錨を作った。剣の石座に嵌めて。万が一の時に」
受け取った。澄んだ水晶だ。シルヴィアの拍が微かに残っている。暖かい。
「ありがとう」
「礼はいらない。君を危険に晒すのは、私の理論が不完全だからだ」
「完璧な理論で挑める冒険なんかない。私が知ってるのは、お前の理論が一番信頼できるってことだけだ」
シルヴィアが目を見開いた。一瞬だけ。そしてすぐに、いつもの小悪魔的な笑みに戻った。
「……本当に、信用しすぎだよ、君は」
「七年の付き合いだからな。何度目だ、それ」
「何度でも言うさ。だって本当のことだから」
笑みが柔らかくなった。疲労と、その下にある別の何かが、一瞬だけ透けて見えた。
シルヴィアが窓辺に寄り、外を見た。教会区の方角。大聖堂の尖塔が夕空に浮かんでいる。
「グレン」
「ん?」
「カミラのところに行ってきたんだろう。加護は?」
「受けた。今日のは、前より深かった気がする」
「……そう」
短い沈黙。シルヴィアは窓から目を逸らし、机の資料を片付け始めた。
「明日。夜明けに東門で」
「ああ」
「それと、グレン」
「何だ」
シルヴィアは私に背を向けたまま、書類を揃えていた。銀色の髪が肩の上で揺れている。
「明日の夜は、三人で焚き火を囲むことになるだろう。その時に、私がカミラと少し話すかもしれない。術の同調のために。二人にしてくれとは言わないけど、少しだけ——距離を取ってくれると助かる」
「わかった」
「うん」
それだけ言って、シルヴィアは振り返った。笑っていた。いつもの、冗談めかした笑み。
でもその笑みの奥に、覚悟の色があった。カミラさんと同じ——あの、切なくて強い色。
二人とも、何かを決めた顔をしている。
その「何か」が何なのか、私にはわからなかった。