聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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二つの覚悟、交わらぬ祈り

出発まで三日。

 

私はギルドで正式な探索届を提出し、消耗品の補充に一日を費やした。替えのワイヤー、包帯、止血帯、火打ち石。回復薬はルドガー翁の店で上等なものを三本。

前回と違い、今回は三人分の物資を見積もる必要がある。シルヴィアは自分の研究用具を持つが、食料や野営道具は私が担う。カミラさんは身軽だが、法具の重さがある。

 

冒険者区の武具店で剣油を買い足し、灰鷹亭の部屋で装備を広げた。

剣を研ぐ。鍔の灰水晶に拍を通す。澄んだ音が返ってきた。問題ない。

 

短剣は新調した。前の短剣はシルヴィアが修繕してくれたが、今回は予備も持っていく。

星喰いの塔は甘くない。前回だけで、それは嫌というほどわかっている。

 

窓辺の花瓶を見た。市場で買った白百合が、まだ持っている。花弁の先がわずかに褐色に変わりかけているが、芯は白い。

 

留守の間に枯れるだろう。

でも、帰ったらまた買えばいい。帰ったら。

 

 

シルヴィアは三日間、研究室から一歩も出なかった。

 

壁に貼った資料は、出発前の倍に増えていた。水晶盤のデータ、碑文の写し、拍の波形図。床に紙が散らばり、机の上は触媒瓶と計算式で埋まっている。茶を淹れる余裕すらない。いや、カップはあるが、中身が冷めたまま何時間も放置されている。

 

ローズヒップの酸味が冷えて苦味に変わる。それすら気にならないほど、頭の中は一つのことで占められていた。

 

連結術式の理論。

 

二つの石を台座に嵌め、同時に起動する。律動の石には能動的な拍の操作が必要で、静寂の石には受動的な拍の招き入れが必要。前者は学院魔術。後者は神聖術。

 

つまり——

 

「私と、カミラが、同時に。拍を合わせなければならない」

 

声に出して、自分の言葉に眉をひそめた。

 

理論は正しい。水晶盤のデータも、碑文の記述も、星喰いの塔の構造も、全てがこの結論を指している。泉で二人の術が偶然重なった時に暴走が止まったことが、何より雄弁な証拠だ。

 

だが。

 

「あの女と——心を合わせる?」

 

指先が輪環の縁を弾いた。金属の残響が狭い研究室に反響する。

 

拍の同調は、単なる周波数の一致ではない。自分の最も深い律動を相手に開くということだ。心臓の鼓動、呼吸の波、感情の揺れ。すべてが相手に伝わる。

 

シルヴィアの拍をカミラに開けば、何が見えるか。

 

七年分の、グレンへの想い。

冗談で隠してきた本音。

嫉妬。独占欲。

「誰にも渡さない」と呟いた夜の記憶。

 

全部、見られる。

 

カミラの拍を受け取れば、何が流れ込んでくるか。

 

あの女がグレンに注いできた祈りの中身が、全部。

 

「……冗談じゃない」

 

椅子を蹴って立ち上がった。窓に寄り、夜の学院を見下ろす。星の日の夜は天文台に灯りが点いているが、他の棟は暗い。

 

南東の方角に、教会区の灯火が微かに見える。大聖堂の尖塔が闇に浮かんでいる。あの下で、カミラは今何をしているのだろう。同じことを考えているのだろうか。

 

(あの女は、怖くないのだろうか。私に心の中を見られることが。)

 

いや——怖いだろう。聖女の仮面の下にあるものを、恋敵に晒す。怖くないはずがない。

 

でも。

 

机の上に、グレンの探索日誌の写しがあった。塔の最深部で意識を失いかけた時の記録。計測板のデータが乱れ、心拍が異常値を示している。

 

あの時、グレンは死にかけた。

 

律動の石一つであれだ。二つの石を同時に受ければ、負荷は計り知れない。錨があっても、グレンの身体が持つかどうか。

 

だから、理論を詰めなければならない。安全に起動する方法を。二つの術が干渉し合わずに、正確に重なる条件を。

 

そのためには——カミラとの同調が、完璧でなければならない。

 

シルヴィアは机に戻った。紙を広げ、計算式を書き始めた。

 

ペンが紙の上を走る。数式が行を埋め、次の行へ移る。

輪環の角度。位相の差分。同調に必要な時間。離脱の余裕。

 

計算は合う。理論は正しい。でも、一つだけ、数式では表現できない変数がある。

 

術者の感情。

 

拍は感情に影響される。怒り、恐怖、悲しみ——そして、恋。同調の最中に感情が乱れれば、拍が揺れ、干渉が起きる。

 

グレンを想う気持ちが、二人の間で衝突したら。

 

シルヴィアはペンを止めた。

 

窓の外に、教会区の灯火が見えている。遠くて小さいが、確かに光っている。

 

「グレンを護るためなら、私は何でもする」

 

呟いた。声が掠れていた。

 

「あの女と心を合わせることも。私の全部を見られることも。それでグレンが助かるなら、構わない」

 

ペンを握り直した。

 

「それが私の——七年分の、答えだ」

 

 

同じ夜。メナス大聖堂の祈祷室。

 

カミラは一人、祭壇の前に跪いていた。

 

蝋燭の灯りだけが壁に揺れている。ステンドグラスは夜の闇に沈み、昼間の色彩を失っていた。女神メナスの双環だけが、蝋燭の光を反射してぼんやりと光っている。

 

手を組み、額をつけ、目を閉じる。

 

いつもの姿勢。いつもの祈り。でも、今夜は違う。

 

「女神メナスよ」

 

声は静かだった。静かだが、揺れていた。

 

「私は明後日、魔術師と心を合わせます。学院の術者と、拍を同調させます」

 

沈黙。大聖堂の石壁は何も答えない。

 

「それは教義に反するのでしょうか」

 

教会の教えでは、拍の操作は世界に委ねるべきものだ。自ら拍を操る学院魔術と、世界の拍を招き入れる神聖術は、同じ「拍」を扱いながら、根本的に方向が異なる。

 

学院の術者と拍を合わせるということは、能動的な操作を自分の中に受け入れるということだ。押し込む力と、招き入れる力を、一つの身体の中で交差させる。

 

それは果たして、女神の教えに沿うことなのか。

 

カミラは胸元のペンダントに手を触れた。双環の金属が冷たい。

 

——本当は、教義の問題ではないことを知っている。

 

シルヴィアと拍を合わせれば、自分の祈りの中身が見られる。

 

朝の祈り。夜の祈り。七百三十日、一日も欠かさなかった祈り。

 

その祈りの中心にあるのは、女神ではない。

 

グレンだ。

 

毎朝、目を覚ますと最初に祈る。「あの方が今日も無事でありますように」

毎晩、眠る前に祈る。「あの方がいつか、私の声に気づいてくださいますように」

 

聖女としての祈りの中に、一人の女としての祈りが混じっている。いや、もはや境界がわからない。グレンの無事を願うことは慈愛なのか、それとも——

 

「女神様、これは慈愛ですか。それとも我欲ですか」

 

何度目かの問いかけだった。泉に向かう旅路でも、焚き火の夜でも、心の中で繰り返してきた問い。

 

答えはいつも沈黙だった。

 

蝋燭の炎が揺れた。風もないのに。

 

カミラは目を開けた。ステンドグラスの闇の中に、女神の横顔がかすかに見える。

 

——答えは、出ている。

 

焚き火の夜に、シルヴィアに言った。「退きません」と。

あの時、もう答えは出ていた。

 

「慈愛でも我欲でも、どちらでもいい」

 

声が変わった。震えが消えている。

 

「私の祈りは本物です。グレンさんのことを想って祈るたび、私の拍は鎮まります。あの方を信じるとき、世界が最も静かになります。それが慈愛であろうと我欲であろうと――私の静寂は嘘ではありません」

 

指先から力が抜けた。

胸の中で、何かがすとんと落ち着いた。

 

今まで感じたことのない静けさが、身体の奥から広がっていく。呼吸が深くなる。心臓の音が遠くなる。

 

静寂が、深い。

 

今までで一番、深い。

 

迷いが消えた拍は、こんなにも静かになるのか。

 

カミラはゆっくりと立ち上がった。膝が少し痛む。長く跪きすぎた。

 

祈祷室を出て、回廊を歩く。夜の大聖堂は人気がなく、自分の足音だけが石の床に反響する。

 

窓から北西の方角を見た。学院の研究棟に、一つだけ灯りが見えた。あの窓の向こうで、シルヴィアが計算を続けているのだろう。

 

明後日、あの人と拍を合わせる。

グレンへの想いを、全部見られる。

 

怖い。

 

でも、退かない。

 

「シルヴィアさんも、きっと怖いのでしょうね」

 

呟いて、少し笑った。穏やかな笑みではなかった。もっと切なくて、もっと強い。

 

同じ人を愛する二人の女が、その愛を互いに曝け出して、手を合わせる。

 

残酷で、美しくて、どうしようもなく切ない覚悟だ。

 

カミラは双環のペンダントを握りしめた。

 

「女神様。明日、あの方に最後の加護をお授けします。今まで以上に深い加護を。私のすべてを込めた加護を」

 

窓の外で、星が瞬いていた。

 

 

出発前日。

 

大聖堂の祈祷室で、カミラさんが私の額に手を置いた。

 

加護の儀式だ。もう三度目になる。最初は冒険の前に。二度目は塔に向かう前に。そして今日。

 

カミラさんの祈りの声が聞こえる。古い神語の音韻が、石造りの部屋に反響する。

 

「……」

 

今日の加護は、前と違う。

 

何が違うのか、言葉にするのは難しい。だが、肌に触れる力の質が変わっている。以前は温かい毛布のような感覚だったが、今日は——もっと深い。水底に沈み込んでいくような、静かで、重くて、でも苦しくない。

 

全身に薄い膜が張られていく感覚。それは均一で、偏りがなかった。前回は右肩にだけ厚くなったと聞いたが、今日は完璧だ。

 

祈りが終わった。カミラさんが手を下ろす。

 

「……加護を授けました」

 

「ありがとうございます。今日のは、何というか……すごく深い感じがしました」

 

カミラさんは少し目を伏せ、微かに頬を染めた。

 

「いえ。少し、集中できただけです」

 

そうかな。いつもより声が落ち着いていたし、手も震えていなかった。前とは明らかに何かが違う。

 

「グレンさん」

 

「はい」

 

「明日のこと。シルヴィアさんと私が、拍を同調させます」

 

「ああ。聞いている。二つの石を連結するために必要な手順だと」

 

「はい。その時に、もしかすると……少し不安定になるかもしれません。私たちが」

 

不安定。

 

「……同調は、難しいんですか」

 

「技術的なことだけではありません。拍を合わせるということは、心を開くということですから」

 

カミラさんは胸元のペンダントに手を触れた。

 

「でも、大丈夫です。覚悟は、できました」

 

穏やかな声だった。でもその奥に、昨夜の祈りの深さがそのまま残っている。

 

「私に何かできることはありますか」

 

「そうですね……」

 

カミラさんは少し考えて、微笑んだ。

 

「いつも通りでいてください。グレンさんがグレンさんのままでいてくださることが、私にとっての一番の――」

 

言葉が途切れた。何か言いかけて、飲み込んだように見えた。

 

「一番の?」

 

「……錨です。一番の錨です」

 

声が少し掠れていた。でもカミラさんは笑っていた。切ない笑顔だった。

 

何を飲み込んだのだろう。聞いてもいいのかどうか、迷っているうちに、廊下から子供たちの声が聞こえてきた。

 

「カミラ司祭、明日お出かけって本当ですか?」

 

「ええ、少しの間だけ。すぐに戻りますからね」

 

カミラさんは子供たちに向けて、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。聖女の顔。

 

でもさっきの——言葉を飲み込んだ瞬間の顔は、聖女とは違う顔だった。

 

何だったのだろう。

 

「明日、東門で。夜明けに」

 

「はい。お待ちしています」

 

大聖堂を出ると、秋の終わりの冷たい風が頬を撫でた。

 

学院に足を向ける。シルヴィアにも出発前の確認をしておかなければ。

 

 

研究室の扉を叩くと、返事がなかった。

 

もう一度叩いてから入ると、シルヴィアは机に突っ伏していた。周囲に散乱した紙と、冷めきった茶。ペンが指の間に挟まったまま眠っている。

 

「おい、シルヴィア」

 

肩を揺すると、銀色の髪の間から藍紫の瞳が覗いた。

 

「……ん。グレン?」

 

「寝てたのか。体調は」

 

「寝てない。少し目を閉じてただけだ」

 

嘘だ。頬にインクの跡がついている。明らかに紙の上で寝落ちしている。

 

シルヴィアは身を起こし、髪を指で梳いた。目の下に薄い隈がある。三日間ほとんど寝ていないのだろう。

 

「連結術式の理論は?」

 

「まとまった」

 

シルヴィアの顔が、一瞬だけ引き締まった。

 

「完璧とは言えないけど、安全な起動手順を組めた。私の逆相制御とカミラの浄化を段階的に同調させることで、拍の干渉を最小限に抑えられる。問題は——」

 

「問題は?」

 

「……いや、技術的なことは大丈夫。私が何とかする」

 

何か言い淀んだが、すぐに立ち上がり、壁の図を指した。

 

「グレン。君の役割を確認しておくよ」

 

「ああ」

 

「君は二つの石の間に立って、錨になる。律動の石と静寂の石、両方の拍を身体で受けて、繋ぐ。橋渡しだ」

 

「負荷は」

 

「正直に言う。大きい。でも、段階的に同調を進めることで、一度に受ける拍を制限できる。それと——」

 

シルヴィアが小さな水晶片を取り出した。

 

「追加の錨を作った。剣の石座に嵌めて。万が一の時に」

 

受け取った。澄んだ水晶だ。シルヴィアの拍が微かに残っている。暖かい。

 

「ありがとう」

 

「礼はいらない。君を危険に晒すのは、私の理論が不完全だからだ」

 

「完璧な理論で挑める冒険なんかない。私が知ってるのは、お前の理論が一番信頼できるってことだけだ」

 

シルヴィアが目を見開いた。一瞬だけ。そしてすぐに、いつもの小悪魔的な笑みに戻った。

 

「……本当に、信用しすぎだよ、君は」

 

「七年の付き合いだからな。何度目だ、それ」

 

「何度でも言うさ。だって本当のことだから」

 

笑みが柔らかくなった。疲労と、その下にある別の何かが、一瞬だけ透けて見えた。

 

シルヴィアが窓辺に寄り、外を見た。教会区の方角。大聖堂の尖塔が夕空に浮かんでいる。

 

「グレン」

 

「ん?」

 

「カミラのところに行ってきたんだろう。加護は?」

 

「受けた。今日のは、前より深かった気がする」

 

「……そう」

 

短い沈黙。シルヴィアは窓から目を逸らし、机の資料を片付け始めた。

 

「明日。夜明けに東門で」

 

「ああ」

 

「それと、グレン」

 

「何だ」

 

シルヴィアは私に背を向けたまま、書類を揃えていた。銀色の髪が肩の上で揺れている。

 

「明日の夜は、三人で焚き火を囲むことになるだろう。その時に、私がカミラと少し話すかもしれない。術の同調のために。二人にしてくれとは言わないけど、少しだけ——距離を取ってくれると助かる」

 

「わかった」

 

「うん」

 

それだけ言って、シルヴィアは振り返った。笑っていた。いつもの、冗談めかした笑み。

 

でもその笑みの奥に、覚悟の色があった。カミラさんと同じ——あの、切なくて強い色。

 

二人とも、何かを決めた顔をしている。

 

その「何か」が何なのか、私にはわからなかった。

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