足音を殺して球状空間に入った。
壁面の文字が白く脈打ち、空間全体がぼんやりと明るい。台座までの距離は百メートルほど。広い。だが遮蔽物がない。近づけば必ず気づかれる。
背後でシルヴィアが小声で言った。
「警戒役の一人がこちらを向いている。あと二十歩で感知圏に入る」
「カミラさん、加護を厚くしてくれ。戦闘になる」
「はい」
カミラさんの祈りが私の身体を包んだ。薄い静寂の層が鎧の上に重なる。衝撃を吸収する緩衝材。
「シルヴィア、結界は?」
「いつでも張れる。合図をくれ」
「了解——行く」
走った。
灰色の革鎧が暗い空間を駆ける。足音が石の床に反響し、三人の工作員が同時に振り向いた。
「侵入者!」
警戒役の男が腕を振り上げた。掌から衝撃波が放たれる。帝国式の拍操作——学院のものより荒く、重い。
横に跳んで躱した。衝撃波が床を砕き、破片が飛び散る。
二人目の工作員が短槍を構えて突進してきた。穂先に拍が通されている。触媒を塗布した武器だ。当たれば拍の乱れを起こす。
剣で短槍を弾き、間合いを詰める。同調、転位——剣に拍を通し、切れ味を強化する。
短槍の柄を斬り落とした。工作員が後退し、予備の短剣を抜く。
「シルヴィア!」
「了解——結界!」
シルヴィアの結界が衝撃波を使った工作員を遮断した。半透明の壁が空間を仕切り、二人目だけが私の前に残される。
一対一なら、問題ない。
工作員の動きは速い。帝国魔導院の出身だろう。拍の操作を武術に組み込む帝国式の戦闘術は、学院の理論的なアプローチとは違い、実戦に特化している。
だが、遺跡での戦闘は私の領域だ。
床の振動から工作員の次の動きを読む。右足に重心が移った。斬り上げが来る。
半歩下がって斬り上げを躱し、返す刀で手首を打った。短剣が飛び、工作員が膝をつく。
結界の向こうでは、シルヴィアが衝撃波の工作員を逆相で封じ込めていた。工作員が放つ拍を、シルヴィアが正確に反転させて打ち消している。力で押すのではなく、技術で無力化する。銀狼の魔女の真骨頂だ。
カミラさんが二人目の工作員に浄化をかけた。拍の操作で強化されていた工作員の身体から、異常な拍が洗い流される。男は力が抜けたように崩れ落ちた。
二人、制圧。
残るは——
「グレン! 台座の方!」
シルヴィアが叫んだ。
振り向いた。台座の前で、リーダーらしき男が立ち上がっていた。
右手に何かを持っている。
淡い銀色の光。律動の石とは違う、静かで冷たい輝き。
「静寂の石……!」
男が笑った。黒い外套の下に、重厚な鎧が見える。剣を腰に帯びている。術者ではなく、戦士だ。拍の計測器をベルトに下げているが、構えは剣士のそれ。
「ガイデルン王国のA級探索者か。噂は聞いている。灰鷹の剣士」
低い声だった。帝国の訛りがある。
「その石を置いていけ」
「帝国が欲しがるのは兵器としての価値だ。お前たちのような学者が好む骨董品ではない」
「兵器にすれば暴走する。お前たちも巻き込まれるぞ」
「制御は我々の問題だ。お前が心配することではない」
男が剣を抜いた。刃に拍が通されている。切れ味が強化されている程度ではない。刃そのものが拍の発信源になっている。帝国製の魔剣か。
「シルヴィア、カミラさん。ここは私が」
「グレン——」
「石を奪い返す。二人は結界で他の工作員を押さえていてくれ」
迷いは一瞬だった。戦闘は私の領域だ。
男が踏み込んだ。速い。帝国の重装剣術は力任せに見えて、足運びが緻密だ。
剣が交差した。衝撃が腕に響く。重い。体格差がある。
離れて間合いを取った。
相手の拍を読む。呼吸、心拍、足の踏み込みのリズム。
帝国式は拍を武器に通して攻撃に乗せる。ならば——
同調。相手の拍に合わせ、一瞬だけ干渉の道を作る。
男が踏み込んだ瞬間、位相をずらした。
男の足が、一拍だけ遅れた。リズムが乱れ、踏み込みの勢いが削がれる。
その隙を突いた。剣を横薙ぎに振り、鎧の継ぎ目を狙う。
金属が裂ける音。浅い。だが確実に鎧に傷を入れた。
「……やるな」
男が表情を変えた。遊びが消え、本気の目になった。
魔剣から拍が膨れ上がった。刃の周囲に青白い光が纏わりつく。
「帝国魔導院の到達術式だ。受けてみろ、灰鷹」
男が剣を振った。斬撃ではない。剣から放たれた拍の波が、弧を描いて飛んできた。
横に飛んで躱す。波が通り過ぎた場所の石床が割れた。
近距離の衝撃波。しかも剣を媒体にしている。厄介だ。
もう一撃が来た。今度は躱しきれない。
錨に触れた。灰水晶が鳴り、拍が安定する。
波を剣の腹で受け流した。衝撃が腕を痺れさせるが、錨が拍を固定してくれている。
反撃。
相手の拍に同調し、一気に転位する。位相のずれを大きく取り、相手の身体の中にある拍の流れそのものを撹乱する。
男の動きが一瞬、止まった。筋肉の連動が乱れ、剣を持つ手が鈍る。
その一瞬で、間合いを詰めた。
剣を振り上げ、男の魔剣を弾く。金属の悲鳴が球状空間に反響した。魔剣が宙を舞い、床に落ちる。
続けざまに、蹴りを入れた。男が後方に吹き飛び、台座の縁にぶつかって崩れ落ちた。
右手から、静寂の石が転がり落ちた。
拾い上げた。
淡い銀色の結晶体。律動の石より一回り小さく、表面の模様も異なる。銀糸ではなく、白い霜のような紋様が静かに浮かんでいる。光はない。脈打たない。ただ、手の中にあると、自分の拍が少しだけ鎮まる気がした。
静寂の石。
これが、律動の石の対になるもう一つの心臓。
「グレン!」
シルヴィアの声に顔を上げた。
台座が光っていた。
青白い光が台座の表面を走り、壁面の文字と呼応して空間全体が脈打ち始めている。リーダーが台座を弄った影響か。あるいは、静寂の石が台座から引き抜かれたことで、残された装置が暴走を始めたのか。
床が揺れた。天井から石片が落ちてくる。
「崩壊が始まる!」
シルヴィアが叫んだ。
台座の光が加速度的に強くなっている。壁面の文字が明滅し、空間全体の拍が乱れ始めていた。律動の石が回収された時に不安定になっていた装置が、静寂の石まで失ったことで完全に制御を失ったのだ。
「脱出するぞ!」
「待って、グレン——脱出では間に合わない。この崩壊は拍の暴走だ。塔全体に波及する。上の階層が先に崩れたら、出口が塞がれる」
シルヴィアの顔が青ざめていた。計測板の数値を見て、歯を食いしばっている。
「なら、どうする」
「暴走を止めるしかない。二つの石を連結して、装置を正常に起動させる」
「ここで? 今?」
「ここで。今。他に方法がない」
床がまた大きく揺れた。天井の崩落が広がっている。工作員たちは既に脱出を始めていた。リーダーの男も、傷を押さえながら出口に向かっている。
追う余裕はない。
「カミラさん!」
カミラさんが駆け寄ってきた。法衣の裾が埃で汚れているが、目は澄んでいた。
「シルヴィアさんの言う通りです。連結しましょう。今、ここで」
迷いがなかった。あの祈祷室で覚悟を決めた夜の静けさが、そのまま声に宿っている。
シルヴィアがカミラさんを見た。一瞬だけ、二人の視線が交差した。
焚き火の夜に交わした言葉が、そこにあった。退かない。退かない。
「――やろう」
シルヴィアが頷いた。
「グレン。律動の石を台座に置いて」
背嚢から律動の石を取り出し、台座の窪みに嵌めた。石が光を放ち、窪みにぴたりと収まる。
隣の窪みに、静寂の石を置いた。銀色の霜紋様が淡く浮かび上がる。
二つの石が台座の上に並んだ。律動と静寂。脈打つ光と、静かな銀。
台座が低く唸り始めた。二つの石の間に、微かな光の筋が走る。
だが、まだ繋がっていない。糸が切れたまま、ほつれた端同士が触れ合おうとして届かない。
連結には、三つの要素が必要だ。
能動的な拍の操作。受動的な拍の招き入れ。そして、二つを繋ぐ錨。
シルヴィア。カミラ。そして——私。
「始めるよ」
シルヴィアが台座の傍に立ち、カミラさんと向き合った。
崩れゆく塔の中で、二人の女が向き合っている。
銀色の髪と、金色の髪。藍紫の瞳と、翡翠の瞳。
そして、シルヴィアが口を開いた。
「聖女——いや」
言い直した。冗談でも皮肉でもなく。
「カミラ。……頼む。私と、拍を合わせてくれ」
その声には、七年分のすべてが詰まっていた。