一週間が過ぎ、土の日が来た。
昨夜の小雨が上がり、王都センシムの朝は澄んだ空気に満ちている。露店通り〈黄昏のアーケード〉の石畳はまだ少し濡れていたが、色とりどりの日除け布の下には早くも人だかりができていた。
「今日は頼んだよ、荷物持ちさん」
シルヴィアはいつもの葡萄色のローブではなく、淡紫の外套を羽織っていた。襟元に銀糸で月草の刺繍。肩先で結んだ髪飾りのリボンが、歩くたびにひらひら揺れる。
……正直、見慣れない格好で一瞬誰かわからなかった。
「似合ってるよ。学院にいるときと雰囲気が違うな」
素直にそう言ったつもりだったが、シルヴィアは片頬を上げてこちらを見た。
「……その顔、まさか『普段は地味なのに』なんて考えてないだろうね?」
「いやいや、褒め言葉だって」
「なら良いけれど」
鼻歌まじりで露店を覗き込む彼女の後を追い、私は試験管入りの竜胆根粉末やらガラス瓶やらを次々と受け取っては、背負い袋に詰めていく。
荷物持ち。それが今日の私の仕事だ。
探索者として星喰いの塔の最深部に到達した実績も、ここでは何の役にも立たない。
「シルヴィア、これ全部持ち帰れるか? まだ予定の半分だろう」
「心配いらないさ。最後に軽量化の封呪を掛けるよ。……それより、あれを見て」
視線の先――花屋から白百合の花束を抱えて出てくる、金髪の女性。
一瞬で分かった。カミラさんだ。
司祭服ではなく、白いボレロに薄桃のワンピースという柔らかな装い。私服姿は初めて見る。
彼女も私たちに気づき、瞳を丸くした。
「まあ、グレンさん! こんな所でお会いできるなんて」
「偶然ですね、カミラさん。お買い物ですか?」
「はい。孤児院で飾る花を探しに来たんです。今日は百合がとても良い香りで……」
にこやかに答えてから、カミラさんの視線がシルヴィアに移った。
「――そちらのお連れの方は?」
シルヴィアが一歩前に出る。微笑んではいるが、目元がわずかに鋭い。
「初めまして。魔導学院研究員、シルヴィア=ノルン。グレンの……探索成果を管理する、人です」
「まあ、ご研究仲間なんですね。私はカミラ=ルシエル。王都教会で司祭をしております。いつもグレンさんには助けられてばかりで」
「助けて"ばかり"、ね。……たとえば?」
「礼拝にお越しくださって、遺跡のお話で聖典の内容を補ってくださるんです」
カミラさんは胸前で百合を抱え、穏やかに笑う。
シルヴィアは唇に人差し指を当て、思案するような仕草。
「なるほど。けれど祈りだけでは、彼の怪我は癒えないでしょう? 昨日も短剣の刃こぼれを修復したばかりでね。危険と隣り合わせの彼を支えるのは、実用的な術式のほうだと思うけど」
「祈りは無力ではありませんわ。女神の御名の下、加護は戦場にも降り注ぎます。……それに、私は信じています。グレンさんが必ず無事に戻って来られると」
カミラさんは静かな声だが、一歩も退かない。
露店のざわめきの中、二人の視線がまっすぐにぶつかっている。
……なんだ、この空気。
買い物日和の市場で、なぜ私は冷や汗をかいているのだろう。
「えーと、二人とも、せっかくの市場なんだし和やかに――」
「グレン、少し手を貸して」
シルヴィアが私の掌を取り、指を絡めた。
手が温かい。というか、握力が強い。
「今からこの手で彼を引っ張って薬師街まで行くんだ。――だから失礼するよ、聖女さま」
「お待ちください。薬師街なら私も予定があります。道は同じですわ。ご一緒しても構わないでしょう?」
カミラさんは微笑んだまま、ふわりとスカートを揺らして並びかけた。
シルヴィアの眉がわずかに跳ね上がる。
「……どうしても、と? では、これを持ってくれるかな? 重いけど」
詰め終えた袋を片腕で持ち上げ、カミラさんに差し出しかけ――私が慌てて受け取った。
「二人とも! 荷物は私が持つ。な? せっかく顔を合わせたんだから、皆で行こう。カミラさんの花も綺麗ですね。孤児院の子達も喜びますよ」
話題を逸らすように笑うと、カミラさんは頬を染めて答えた。
「ええ……皆グレンさんのお話も大好きです。すみません、ご迷惑をおかけして。今日はもう帰ります。ただ、――来週の土の日に、またお越しいただけたら嬉しいのですが」
「おやおや、来週? 彼は遺跡調査の準備で忙しいんじゃないかな」
「いいえ、少しくらい時間はありますよね?」
二人から同時に視線を向けられた。
逃げ場がない。荷物を山ほど抱えた状態で、逃走する術もない。
「……わかりました。来週の午前には教会へ顔を出しますよ」
「ありがとうございます!」
カミラさんが嬉しそうに微笑む。
その背後で、シルヴィアの指が私の袖をきゅっとつまんだ。見上げる横顔は笑ってはいたが、目が笑っていなかった。
怖い。何が怖いかは分からないが、とにかく怖い。
「グレン。午後は学院で石の追加解析だ。――忘れないでくれ」
「もちろんさ。じゃあカミラさん、花が傷まないうちに届けたほうがいいんじゃないですか?」
「そうですね。では私はここで失礼します。……来週、お待ちしています」
カミラさんは百合の香りを残して去っていく。
見送る私の隣で、シルヴィアが小声で囁いた。
「――あの人の前で、私の手を離すのはやめてくれないかい?」
「え? 悪かったよ。荷物が重かったからつい」
「ふふ、言い訳は聞かないよ。……まあいいさ」
彼女は一歩先を歩き、外套の裾を翻した。
なぜ手を離しただけで注意されるのか。荷物が重ければ手を離すのは当然だろう。
そのあたりの機微が、私にはさっぱりわからない。
……いや、女性の考えることが分からないのは今に始まった話ではない。
分からないものは分からないのだ。
こうして市場の朝は終わり、荷物を山のように抱えた私は、二人の女性の間でひたすら冷や汗をかいただけだった。