カミラは頷いた。
「はい。合わせましょう、シルヴィア」
名前で呼んだ。「さん」をつけなかった。今この瞬間だけは、敬称も肩書きも邪魔だった。
二人が台座を挟んで向かい合う。シルヴィアが右手を差し出した。カミラがそれを取る。指が重なった。
冷たい指と、温かい指。
天井が崩れている。壁面の文字が明滅している。時間がない。
「シルヴィア、カミラさん。何をすればいい」
「グレン。二つの石の間に立って。両手を石に触れて。君の拍を通す。私たちの術が石を通して繋がる橋を、君の拍で支えるんだ」
「わかった」
台座に近づき、二つの石の間に膝をついた。右手を律動の石に、左手を静寂の石に。
石に触れた瞬間、拍が流れ込んできた。
右手から——律動。鼓動。脈打つ波。心臓と同じリズム。前回暴走しかけた、あの力。
左手から——静寂。無音。拍が鎮まっていく感覚。息を吐くことすら忘れるような、深い凪。
二つの力が同時に身体を通り抜けていく。右手から左手へ、左手から右手へ。矛盾する力が一つの身体の中でぶつかり合い、全身が軋むように震えた。
「っ——」
「グレン!」
シルヴィアの声が聞こえた。遠い。
「大丈夫……だ。始めてくれ」
歯を食いしばった。錨に意識を集中する。灰水晶が鳴る。拍を固定する。揺れるな。流されるな。ここにいろ。
「シルヴィア」
「うん。——始めるよ、カミラ」
シルヴィアが目を閉じた。輪環の術式を組む代わりに、カミラの手を握ったまま、自分の拍を石に向ける。
能動的な拍の操作。律動の石に同調し、その拍を意図的に増幅する。押す。動かす。形を与える。学院魔術の真髄。
台座の上で、律動の石が強く光った。
◆
(グレンの拍が、手の中で感じられる。石を通して。温かくて、力強い。この拍を守るために、私はここにいる。)
シルヴィアは律動の石に意識を沈めた。拍のパターンが水晶盤の映像のように浮かび上がる。双極位相。収縮と弛緩。心臓のリズム。
合わせる。同調する。石の拍を自分の拍に引き寄せ、増幅し、方向を与える。
術式が組み上がっていく。三日間かけて詰めた理論が、今、実行に移される。
だが——
カミラの手を握ったまま、拍を放つ。カミラとの間に、道が開かれる。
(嫌だ。)
反射的にそう思った。
カミラと拍を合わせれば、心の中身が見えてしまう。自分のも。カミラのも。
七年間、冗談で隠してきたもの。研究の陰に押し込めてきたもの。
——「ただ君と歩きたいだけなのかもしれない」と言って、すぐに香草の話に逃げた日のこと。
——「心と心も繋げるのかな」と水底の祭壇で呟いて、「冗談だよ」と笑った夜のこと。
——「あの頃から私は——」と言いかけて、飲み込んだ帰り道のこと。
全部、見られる。
冗談の裏にあった本気が。強がりの裏にあった脆さが。独占欲の裏にあった、ただの——
(好きだ。七年間、ずっと。グレンが好きだ。)
それが剥き出しになる。
(でも——)
天井が崩れた。石片が台座の傍に落ちる。時間がない。
(グレンを護るためなら。この想いを見られることくらい。)
歯を食いしばった。拍を開く。カミラに向かって、自分の律動のすべてを。
◆
カミラは目を閉じ、祈った。
いつもと同じ祈り。でも、今日は少しだけ違う。祈りの先にあるのは、女神ではない。
静寂の石に意識を沈める。石の拍は——拍がない。無音。空白。
この空白に、世界の拍を招き入れる。自分を器にして、静寂を注ぐ。神聖術の根幹。
「慈母メナスよ。この石に、あなたの静寂を」
祈りが深まっていく。拍が鎮まる。心臓の音が遠くなる。
そして——シルヴィアの手から、拍が流れ込んできた。
鋭い。冷たい。でも、必死な拍。
シルヴィアの心の中が、波のように押し寄せてくる。
(あ——)
見えた。感じた。シルヴィアの拍の奥にあるもの。
七年間の記憶。
図書塔で徹夜した夜。グレンがランプを灯して隣に座ってくれた。書籍の山が崩れて、グレンの手が自分の手首を掴んだ。その手の温度。月下香の香り。
研究室でグレンが帰った後、短剣の刃こぼれを撫でた夜。「誰にも渡さない」と呟いた声。
茶を淹れる度に、グレンの「助かるよ」の一言に込められた信頼が嬉しくて。
でも、それだけで。それだけしか返ってこなくて。
七年間、ずっと。
(シルヴィアさん——)
カミラの目の端に、涙が浮かんだ。
(あなたも、こんなに——)
同時に、カミラの中にあるものが、シルヴィアに流れていく。
二年間の祈り。
毎朝、目を覚ますと最初に。「グレンさんが今日も無事でありますように」。
毎晩、眠る前に。「あの方がいつか——」。
教会でグレンが帰る時間が来るたび、心臓が痛くなったこと。
「行かないで」と言いたくて。言えなくて。
「またお越しいただけたら」としか言えなくて。
白百合を切って花瓶に挿した日のこと。グレンがそれを一輪持ち帰ったと知って、嬉しくて、でもきっと深い意味はなくて、それがどうしようもなく切なくて。
(カミラ——君も——)
シルヴィアの拍が震えた。
二人の間で、感情が溢れた。堤防が決壊するように。
同じ人を愛している。同じ痛みを抱えている。同じ言葉を飲み込んでいる。
そして——その想いが、拍の同調を阻んでいた。
二つの術が干渉し合い、互いを打ち消そうとしている。律動と静寂が噛み合わない。グレンへの想いが、二人の拍を乱している。
(だめだ。同調が崩れる。このままでは——)
シルヴィアが唇を噛んだ。計算通りにいかない。感情の変数が大きすぎる。
(怖い。この女に全部見られるのが怖い。グレンへの想いも、嫉妬も、「渡さない」と呟いた夜の醜さも——)
カミラの拍も乱れていた。
(怖い。シルヴィアさんに祈りの中身を知られるのが。聖女の仮面の下にある、ただの女の、抑えきれない想いが——)
「女神よ——いいえ」
カミラの唇が、祈りとも告白ともつかない言葉を紡いだ。
「グレンさん。聖女でなくてもいいから——あなたの傍に——」
言葉が途切れた。理性が、かろうじて引き留めた。
だが遅かった。その一瞬の心の叫びが、拍を通じてシルヴィアに流れた。
シルヴィアの目が見開かれた。
(——聞いてしまった。この女の、本当の祈りを。)
同調が完全に崩れかけた。二つの術が干渉し、台座の光が不安定に明滅する。崩壊が加速した。
◆
異変を感じた。
二つの石の間で、拍が荒れ狂っている。律動と静寂がぶつかり合い、私の身体を引き裂こうとしている。
右手が燃えるように熱い。左手が凍るように冷たい。
シルヴィアとカミラさんの拍が乱れている。手を握り合ったまま、二人とも苦しそうに顔を歪めている。
何が起きているのか、正確にはわからない。拍の同調がうまくいっていないことだけはわかる。
天井の崩落が近づいている。大きな石片が台座の数メートル先に落ちた。衝撃で床が揺れる。
時間がない。
だが、私に術の制御はできない。学院魔術も神聖術も、私の手に余る。
私にできるのは——
錨になること。
二人の間に立ち、二つの拍を繋ぐこと。
右手を律動の石から離し、シルヴィアの手を取った。
左手を静寂の石から離し、カミラさんの手を取った。
「二人とも」
シルヴィアが目を見開いた。カミラさんが息を呑んだ。
「私がいる。錨になる」
右手にシルヴィアの拍が流れ込む。鋭く、激しく、でも——温かい。
左手にカミラさんの拍が流れ込む。静かで、深くて、でも——震えている。
二つの拍が、私の身体を通って繋がった。
律動と静寂が、私の心臓を媒介にして、一つの流れになる。
錨を握りしめた。灰水晶が高く鳴った。
「合わせるな。二つのまま。二つの拍のまま、重ねるんだ」
自分でも何を言っているのかわからなかった。でも、身体が知っていた。
拍の三原則。合わせて、ずらして、離れる。
でもこれは、合わせて、ずらして——離れない。離れずに、二つのまま、重なる。
学院で教わったどの技法でもない。教会のどの祈りでもない。
ただの、冒険者の勘だ。
シルヴィアの拍が安定し始めた。カミラさんの拍が鎮まり始めた。
二人の手の力が、少しだけ強くなった。
三つの心臓が、それぞれのリズムを保ったまま、重なっていく。
台座が光った。
二つの石の間に、光の筋が走った。ほつれていた糸が、ようやく繋がった。
律動の石が脈打ち、静寂の石が鎮める。脈打ち、鎮め、脈打ち、鎮め。
二つの心臓が、一つのように動き始めた。
崩壊が——止まった。
天井の崩落が止まった。壁面の文字が安定した光を放ち始めた。空間全体の拍が、穏やかな波に変わっていく。
「……成功した」
シルヴィアの声が掠れていた。
「はい。……繋がりました」
カミラさんの声も震えていた。
私は二人の手を握ったまま、膝をついていた。全身が汗で濡れている。心臓が早鐘を打っている。
でも——
錨は持った。拍は安定している。
二つの石が、台座の上で静かに光っている。律動と静寂。交互に明滅しながら、一つの調和を奏でている。
三人の手が繋がったまま、しばらく誰も動かなかった。
動けなかったのだ。
拍を重ねた余韻が、まだ身体に残っていた。シルヴィアの鋭い拍も、カミラさんの深い静寂も、まだ私の手の中にある。
二人とも、何も言わなかった。
ただ、手を握る力だけが、静かに、確かに、伝わっていた。