聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

31 / 33
星綴りの遺言、朝の調和

連結が成功してから、空間が変わった。

 

壁面の文字が完全に浮かび上がっていた。前回来た時は断片的にしか光っていなかったものが、今は球状空間の全面を覆い尽くしている。青白い光が天井から床まで隙間なく満ち、まるで文字そのものが呼吸しているかのように、穏やかに明滅していた。

 

台座の上で二つの石が静かに光っている。律動の石が青く脈打ち、静寂の石が銀に鎮まる。交互に、正確に、二つの心臓のように。

 

崩壊は完全に止まっていた。落ちかけていた天井の石片すら、元の位置に戻りつつあるように見えた。拍の安定が、空間の構造そのものを修復している。

 

手を離した。

 

シルヴィアとカミラさんの手から、自分の手を。

 

指先が離れる瞬間、微かな名残惜しさがあった。拍の余韻だろう。二人の律動がまだ掌に残っている。温かいものと、冷たいもの。

 

「壁の文字が」

 

シルヴィアが壁面に近づいた。声がまだ少し掠れている。目の下に涙の跡があったが、拭われた後だった。

 

「前回は途中で崩れて読めなかった碑文の続きだ。今なら全文が読める」

 

カミラさんも壁面に手を伸ばした。金の髪に青白い光が反射して、まるで光の中に立っているように見えた。

 

「これは——聖典の古語と、学院の古代語が混ざっています。二つの言語で、同じことを書いている」

 

シルヴィアが振り返った。

 

「同じ内容を、二つの言語で?」

 

「はい。教会に伝わった系統と、学院に伝わった系統。元は一つだったのかもしれません」

 

二人が壁面に向き合い、解読を始めた。

 

私は台座の傍で膝を抱えていた。身体の消耗が激しい。二つの石の拍を同時に受けた負荷が、全身に残っている。でも、前回のような暴走の後遺症はない。耳鳴りもない。錨が持ったのだ。

 

壁面の文字を見上げた。私にも読める範囲の古語がある。

 

「我々は——」

 

断片的に声に出して読む。

 

「我々は……拍を一つにしようとして……失敗した」

 

シルヴィアが続きを拾った。

 

「だが、二つの拍が二つのまま調和する道があったのだ」

 

カミラさんが、その先を読んだ。声が透き通っていた。

 

「押すことと招くこと。動かすことと静めること。どちらか一方では世界は保てない。どちらも必要だ」

 

沈黙が落ちた。

 

壁面の光の中で、三人が言葉を反芻していた。

 

「二つの拍が二つのまま調和する」

 

シルヴィアが呟いた。

 

「星綴り文明は、拍を一つに統合しようとした。大陸規模で、すべての拍を同調させようとした。それが大離散。離脱に失敗して、すべてが崩壊した」

 

「でも、答えは統合ではなかった」

 

「そう。二つのまま。律動と静寂。押すことと招くこと。学院と教会。——対立ではなく、補完。一つにならなくていい。二つのまま、重なればいい」

 

シルヴィアが振り返って、カミラさんを見た。

 

カミラさんも、シルヴィアを見ていた。

 

二人の間にある空気が、また変わっていた。連結の前とも、焚き火の夜とも違う。

 

敵意でも、嫉妬でも、同情でもない。

 

もっと静かで、もっと深い。同じものを見つめた者同士にしかわからない、何か。

 

「カミラ」

 

「はい」

 

「さっき。拍を合わせた時に——聞いてしまった。君の祈りの中身を」

 

カミラさんの肩が微かに震えた。だが、目を逸らさなかった。

 

「はい。私も、聞きました。あなたの——七年分の。全部」

 

短い沈黙。

 

「感想は?」

 

シルヴィアの声には、いつもの皮肉が戻りかけていた。でも、少し柔らかい。

 

「……あなたの想いは、炎のようでした。鋭くて、熱くて、でも——とても一途で。冗談で隠していた分だけ、裏側が深くて。私には想像できないほど」

 

「君の祈りは——」

 

シルヴィアが言葉を探していた。

 

「途切れ途切れで、泣き声混じりで、全然聖女らしくなかった。でも——」

 

一拍、間を置いた。

 

「美しかった。あの祈りは、美しかったよ。本物だった」

 

カミラさんの目に、薄く光るものが浮かんだ。

 

「ありがとうございます」

 

声が震えていた。でも、笑っていた。

 

壁面の碑文が穏やかに光っている。二つの言語で書かれた、同じ真実。

 

押すことと招くこと。どちらも必要だ。

 

「続きがある」

 

シルヴィアが壁面の下部を指した。文字が小さくなり、個人的な記述のように見える。

 

「これは——碑文を刻んだ者の、最後の言葉だ」

 

カミラさんが声に出して読んだ。

 

「一人の術者が、失いかけた最愛の人の拍を繋ぎ止めようとした。その想いが拍を暴走させ、世界を揺るがした。離散は技術の失敗ではなく、神罰でもなく——愛ゆえの暴走だった」

 

「愛ゆえの」

 

私は呟いた。

 

「大離散の原因は、誰かが大切な人を救おうとしたこと。拍を繋ぎ止めようとした。でも一人の力では、連結が暴走した」

 

「二人いれば、違った」

 

シルヴィアが言った。

 

「能動と受動。押すことと招くこと。一人で両方はできない。だから暴走した。でも——二人なら。そして二つを繋ぐ錨がいれば」

 

シルヴィアが私を見た。カミラさんも。

 

「三人なら、できた」

 

その言葉が、壁面の碑文と重なった。

 

二つの拍が二つのまま調和する。

 

それは魔術の話だけではない。

 

「——行こう。外に出よう」

 

立ち上がった。身体は重いが、動ける。

 

台座の上で二つの石が静かに光り続けている。装置は安定している。もう暴走しない。

 

「石は、このままにしておくか」

 

「ここに置いておくのが正しい。これは本来、この場所にあるべきものだ。持ち出したから不安定になった」

 

シルヴィアが台座に手を触れた。

 

「帝国が再び来る可能性はあるが、連結した装置を解除するには同じ手順が必要だ。能動と受動と錨。三つ揃わなければ、石は台座から外せない」

 

「教会と学院で共同管理すれば」

 

「うん。帰ったら学院長に報告する。教会と合同で管理体制を作るべきだ」

 

カミラさんが頷いた。

 

「大司教様にも報告します。この碑文の内容は、教会にとっても重要です。大離散は神罰ではなく、愛ゆえの暴走だった。それは——聖典の解釈を根本から変えるかもしれません」

 

「教会、大丈夫か?」

 

「わかりません。でも、真実を隠すことは女神の教えに反します」

 

カミラさんの声は静かだったが、芯がある。覚悟を決めた人間の声だ。

 

「さあ、帰ろう」

 

三人で出口に向かった。塔の内部は安定し、崩落の痕跡だけが残っていた。自律結界は沈黙している。二つの石が連結したことで、防衛機構の必要性が消えたのかもしれない。

 

地下九層。地下六層。地下三層。

 

上に向かうにつれて、空気が変わっていく。石と埃の匂いから、外の風の匂いへ。

 

地上に出た。

 

朝日が昇っていた。

 

荒野の地平線に、赤と金が溶け合っている。冷たい秋の朝の空気が頬を撫でた。

 

三人で並んで、朝日を浴びた。

 

シルヴィアが左。カミラさんが右。私が真ん中。

 

いつもの隊列。でも今日は、それがいつもより近い気がした。

 

「……二人がいなかったら、私は死んでた」

 

ぽつりと言った。

 

連結の時。二つの石の拍に引き裂かれそうになった瞬間。二人の手を握って、初めて拍が安定した。あれは理論でも技術でもない。ただ——二人がいたから。

 

「ありがとう」

 

シルヴィアが笑った。朝日に照らされた銀色の髪が輝いている。目が赤い。泣いた跡だと、今ならわかる。

 

「当然だよ。君を護るのは私の仕事だ」

 

カミラさんも微笑んだ。金色の髪が朝風に揺れている。翡翠の瞳が朝日を受けて、深い緑に光っていた。

 

「お帰りなさい、グレンさん。……無事で、本当に良かった」

 

その声は、教会で毎週聞く声と同じだった。でも今日は、いつもより少しだけ——揺れていた。

 

三人で、朝日に向かって歩き始めた。

 

塔を背にして、王都への帰路。長い道のりだが、足取りは軽い。

 

「ねえグレン」

 

「ん?」

 

「帰ったら、果実酒を開けよう。この前約束したでしょう。研究棟の屋上で、星を見ながら」

 

「ああ……そういえばそんな約束もあったな」

 

「二人きりの約束だったんだけど」

 

シルヴィアが私を横目で見た。

 

「カミラも一緒でいいよ。今回ばかりは、ね」

 

カミラさんが軽く目を見開いた。

 

「よろしいんですか?」

 

「聖女が果実酒を飲むかどうかは知らないけど」

 

「……少しなら。女神様も、お許しくださるでしょう」

 

「ふふ。聖女の言い訳って、便利だね」

 

「シルヴィアさんこそ、研究者が屋上で飲酒していいんですか」

 

「細かいことを気にするのは学者の美徳じゃないよ」

 

二人のやり取りを聞きながら、私は歩いた。

 

何かが変わっている。二人の間の空気が。前のような棘がない。棘が消えたわけではないだろうが、その下にあるものが見えるようになった、という感じだ。

 

塔の中で何があったのか、正確にはわからない。拍を重ねた時、二人が何を感じたのか、私にはわからない。

 

ただ、二人が少しだけ——互いを見る目が、変わった。それだけはわかった。

 

朝日が高くなっていく。三つの影が荒野に長く伸びていた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。