聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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拍の帰還、一つの瓶に咲く花

王都が見えた時、東門の鐘が鳴っていた。

 

天頂の鐘。六打。正午だ。

 

帰還者通りの石畳を踏むと、身体の奥から安堵が湧いてきた。足がここを覚えている。何度も出て、何度も帰ってきた道だ。

 

冒険者ギルドの前を通りかかると、受付のマーリンが窓から身を乗り出した。

 

「グレン! 無事だったか!」

 

「ああ。報告は明日出す」

 

「了解。灰鷹亭のベルタが心配してたぞ。顔を出してやれ」

 

手を振って応じた。

 

三人で帰還者通りを歩いた。前回の帰還と同じように。

 

だが今回は、分かれ道で足が止まった。

 

ここで三つに別れる。シルヴィアは学院へ。カミラさんは教会へ。私はギルドへ。

 

前回と同じ。同じはずなのに、足が動かなかった。

 

「……また三日後の土の日に。報告と今後の方針を詰めよう」

 

「了解。学院長にはすぐに報告する。碑文の全文翻訳も始める」

 

「大司教様にもご報告します。教会の古語資料との照合も」

 

頷き合った。

 

シルヴィアが先に歩き出した。学院の方角へ。

 

三歩ほど歩いたところで振り返った。

 

「グレン」

 

「ん?」

 

「果実酒、忘れるなよ。約束だからね」

 

笑っていた。いつもの笑み。でも——前より、少しだけ柔らかい。

 

「忘れないさ」

 

シルヴィアは手を振って、銀杏並木通りの方へ消えていった。

 

カミラさんは、まだ立っていた。

 

「カミラさんも行かないと。大司教様が待ってるんでしょう」

 

「はい。でも、少しだけ」

 

カミラさんが私を見上げた。翡翠の瞳に、午後の光が差し込んでいる。

 

「グレンさん。今回のこと——たくさんお話ししたいことがあります。でも、今はうまく言葉にできません」

 

「急がなくていいですよ」

 

「はい。……ありがとうございます」

 

カミラさんは微笑んだ。穏やかな笑みだった。でもその奥に、塔の中で聞いた——いや、拍を通じて感じた、あの揺れが残っている気がした。

 

何を感じたのか、私にはまだわからないのだが。

 

「では、土の日に。教会でお待ちしています。……いつも通り」

 

「ああ。いつも通り」

 

カミラさんは頭を下げ、白百合通りの方へ歩いていった。白い法衣が秋の日差しの中に溶けていく。角を曲がる直前に、一度だけ振り返った。

 

目が合った。何かを言いたげな、切なげな表情。

 

——名残惜しそうだ。

 

いつもそうだ。教会で別れる時、廊下に消える直前にいつも一度だけ振り返る。あの顔はどういう意味なのだろう。

 

考えても、わからなかった。

 

 

灰鷹亭に戻ると、女将のベルタが出迎えてくれた。

 

「帰ったかい、グレン。無事で何より。風呂を沸かしてあるよ」

 

「助かります」

 

荷を下ろし、湯を使った。傷を洗い、髪を洗い、旅の埃を落とす。

 

装備を手入れする。剣を研ぎ、灰水晶に拍を通す。澄んだ音。短剣の刃を確認する。鎧を油で拭く。

 

探索者の日常だ。旅が終わったら装備の手入れ。何度繰り返したかわからない。

 

窓辺を見た。

 

出発前に活けておいた白百合は、さすがに枯れていた。花弁が茶色く丸まり、茎だけが花瓶の中に立っている。

 

花瓶の水を替え、枯れた百合を抜いた。

 

明日、市場で新しい百合を買おう。

 

……いや。

 

今回は、百合だけじゃなくて。

 

ふと、薬師街の記憶が蘇った。ルドガー翁の店の棚。「月下香」と銘の入った硝子瓶。あの甘い香りは、シルヴィアの髪の匂いに似ていた。

 

学院時代の図書塔。真夜中に書籍の山が崩れて、シルヴィアの手首を掴んだ夜。あの時に嗅いだ、月下香の匂い。

 

月下香も、一輪買ってみるか。花屋で売っているかは知らないが。

 

別に深い意味はない。部屋に花があると気分がいい、というだけだ。

 

「何で急にそんなこと思ったんだろう」

 

自分で呟いて、首を傾げた。

 

花瓶に水を張り、窓辺に置いた。空の花瓶。

 

明日、花を入れよう。

 

 

日常が戻った。

 

学院と教会への報告は滞りなく進んだ。エレノア学院長は碑文の全文を読み、長い沈黙の後に「これは歴史を変える発見だ」と言った。大司教マティアスは、カミラさんの報告を聞いて目を閉じ、しばらく祈りを捧げてから「女神は真実を恐れない」と答えたという。

 

魔晶石——二つの石は、星喰いの塔の台座に安置されたまま、学院と教会の合同管理に置かれることになった。辺境守備隊が塔の周囲に常駐し、帝国の再接近を警戒する。

 

帝国の工作員は、塔から逃亡した後に辺境守備隊に拘束された。リーダーの男は取り調べに応じず、帝国への引き渡しが外交問題として処理されることになった。

 

世界を揺るがすような大事件のはずだが、王都の日常は変わらない。商業区の市場は相変わらず賑やかで、冒険者区の酒場では探索者たちがエールを傾けている。

 

土の日が来た。

 

 

午前。メナス大聖堂。

 

礼拝は短めに済ませた。いつも通り。賛歌を聞き、祈りの時間を過ごし、祝福を受けて退堂する。

 

カミラさんの歌声は、以前と少しだけ変わっていた。

 

何が変わったのか、最初はわからなかった。声の質でも、旋律でもない。もっと深いところ——拍、だ。彼女の拍が以前より静かになっている。迷いが消えた拍。それが歌声に乗って、大聖堂の石壁に沁み込んでいく。

 

「今日もいい声でした」

 

「ありがとうございます。最近、少し楽になったんです。祈ることが」

 

「楽に?」

 

「はい。以前は……うまく言えませんが、祈りの中に雑音があったんです。でも最近は、迷いなく祈れるようになりました」

 

「それはよかった」

 

カミラさんが微笑んだ。談話室のいつもの席。ラベンダーとローズヒップの茶が湯気を立てている。

 

窓から秋の日差しが差し込み、卓上の白百合を照らしていた。今日も花瓶に新しい百合が活けてある。

 

「カミラさん」

 

「はい?」

 

「あの——塔の中で、連結をした時。私の手を握っていた時に。何か……感じましたか?」

 

不思議な質問だと自分でも思った。でも、どうしても訊きたかった。

 

カミラさんの指が、カップの受け皿の上で一瞬だけ止まった。

 

「……はい。たくさん、感じました。シルヴィアさんの拍も。グレンさんの拍も」

 

「私の拍?」

 

「温かくて、力強かったです。でも少し——不器用でした」

 

「不器用?」

 

「ええ。まっすぐすぎて、角があって。でもそれが、とても安心できました」

 

カミラさんは茶を一口飲んだ。翡翠の瞳が、カップの縁越しに私を見ている。

 

「グレンさんの拍に触れた時、思ったんです。ああ、この人は本当に——」

 

言葉が途切れた。カミラさんは目を伏せ、小さく首を振った。

 

「いえ、何でもありません。独り言です」

 

またか。何かを言いかけて、飲み込む。いつもそうだ。

 

何を言おうとしているのだろう。

 

「カミラさん。無理に言わなくていいですけど、私は——あなたの言葉を聞きたいと思ってます」

 

カミラさんが顔を上げた。目が、少し潤んでいた。

 

「……ありがとうございます。いつか、きっと。言葉にできるようになったら」

 

「待ってます」

 

そう言ってから、自分の言葉に少し驚いた。待つ、と言った。何を待つのか、自分でもよくわからないのに。

 

カミラさんは笑った。泣き笑いのような、切ないほど綺麗な笑みだった。

 

「では、今日はこれで。——グレンさん、シルヴィアさんのところにも行かれるんですよね」

 

「ああ。午後に学院へ」

 

「ふふ。シルヴィアさんに、よろしくお伝えください。……あの方の淹れるお茶の味も、少し気になっていますので」

 

「えっ、茶の味?」

 

「女神のお導きを」

 

カミラさんは微笑んで、談話室を出ていった。

 

廊下の角を曲がる直前に振り返った。いつものように。切なげな表情。今日はそこに、小さな笑みが混じっていた。

 

 

午後。学院の研究室。

 

「やぁ、グレン。いつもの茶が入ったところだよ」

 

シルヴィアは机の前に座り、資料を広げていた。だが、前のような散乱はない。整頓されている。壁に貼られた碑文の写しも、きちんと分類されていた。

 

「随分片付いたな」

 

「帰ってから色々と……整理したんだ。頭の中も、部屋の中も」

 

茶を受け取った。ローズヒップとアッサム。いつもの味。研究室の硝子器具が午後の光を反射している。

 

「碑文の翻訳は?」

 

「八割方終わった。教会の古語資料との照合で、まだ未解読の部分があるけど、大筋はまとまっている」

 

「さすがだな」

 

「ふふ。褒めてくれるのは嬉しいけど、今回はカミラの協力がなければ無理だった」

 

シルヴィアがカミラの名を自然に呼んだ。「さん」も「聖女様」もつけず、ただ「カミラ」と。

 

以前なら「聖女様」と皮肉を込めて呼んでいたのに。

 

「塔の中で何があったか、訊いてもいいか」

 

「何がって?」

 

「お前とカミラさんの間で。何か変わっただろう」

 

シルヴィアは茶を啜り、少し考えるように天井を見た。

 

「……変わった、と言えば変わった。でも、何がどう変わったかは、うまく説明できない」

 

「そうか」

 

「一つだけ言えるのは——あの女の祈りを聞いたこと。拍を合わせた時に、全部聞こえてしまった」

 

シルヴィアの声が、少しだけ低くなった。

 

「それで?」

 

「……嫌いになれなくなった。悔しいけど」

 

小さく笑った。皮肉ではない笑みだった。

 

「あの祈りは本物だった。二年間、毎日。雨の日も晴れの日も。……私と同じくらい、あの女はグレンのことを——」

 

言葉が途切れた。シルヴィアは茶を一口飲み、何事もなかったように続けた。

 

「まあ、退くつもりはないけどね。それはそれ、これはこれ」

 

「何の話だ?」

 

「何の話でもない。研究の話だよ。碑文の共同研究で、私が退くわけにはいかないってこと」

 

研究の話、か。

 

シルヴィアの言葉は、いつも通り冗談と本気の境目がわからない。

 

だが今日は——いつもより、少しだけ本気の比率が多い気がした。

 

「グレン」

 

「ん?」

 

「果実酒。来週、研究棟の屋上で。カミラも誘っておいて」

 

「ああ。カミラさんも来るって言ってた」

 

「そう。……二人きりの約束だったのに」

 

口を尖らせたが、本気ではない笑みが漏れていた。

 

「三人の方が楽しいだろう」

 

「……まあ、否定はしないよ。今回ばかりは」

 

 

灰鷹亭に帰った。

 

夕暮れの宿の部屋。窓辺に、空の花瓶がある。

 

今日、市場に寄った。

 

白百合を一輪。そして——月下香を一枝。

 

白百合は教会区の花屋で。「いつもありがとうございます」と店主が笑った。いつもの、か。そんなに頻繁に買っていたのか。

 

月下香は、商業区の露店で。秋の終わりにしか出回らない花だと言われた。小さくて地味な花だが、匂いは甘い。シルヴィアの——いや、学院時代の図書塔の匂い。

 

二つの花を花瓶に挿した。白百合と月下香。白い大きな花弁と、小さな淡黄色の花。

 

「二つの花が、一つの瓶で咲いている」

 

呟いた。

 

不思議と、しっくりくる。

 

百合だけでは寂しかった。月下香だけでは寂しかった。でも二つ並ぶと、花瓶が完成する気がした。

 

窓からの夕日が二つの花を照らしている。白と黄。静かな花と甘い花。

 

……ふと、胸の奥がざわついた。

 

旅の疲れか。いや、もう回復している。戦闘の後遺症でもない。拍は安定している。

 

もっと柔らかくて、もっと厄介な何か。

 

二人の顔が浮かんだ。

 

シルヴィアの笑顔。「当然だよ。君を護るのは私の仕事だ」——あの笑みの下に、涙の跡があった。

 

カミラさんの微笑み。「お帰りなさい、グレンさん」——あの声が、いつもより揺れていた。

 

二人の手を握った時の感覚が、まだ掌に残っている。シルヴィアの手は冷たくて、でも力強かった。カミラさんの手は温かくて、でも震えていた。

 

「……なんだろう、この感じ」

 

胸の中のざわつきに、名前がつけられない。

 

冒険者として、危険な遺跡を踏破してきた。魔獣と戦い、罠を潜り抜け、古代の謎を解いてきた。知らないものに出会った時、それが何かを見極めるのは得意なはずだ。

 

でも、これだけはわからない。

 

学院で教わった拍の三原則。同調、転位、離脱。感情を感じた時、自動的に離脱する癖がある。離脱すれば楽だ。何も感じなくて済む。

 

でも——今日は、離脱しなかった。

 

このざわつきを、切り離さなかった。

 

なぜだろう。

 

窓辺の花瓶を見た。白百合と月下香が、夕暮れの光の中で並んでいる。

 

二つの花が、一つの瓶で咲いている。なぜか、しっくりくる。

 

その理由は、まだわからない。

 

 

研究室で一人、茶を飲んだ。

 

ローズヒップの酸味が舌に残る。グレンが帰った後の研究室は、いつも少しだけ広く感じる。七年間、ずっとそうだった。

 

壁に貼った碑文の写しを見つめる。二つの言語で書かれた、同じ真実。

 

「二つの拍が二つのまま調和する」

 

目を閉じると、連結の瞬間が蘇る。カミラの手を握った。カミラの拍が流れ込んできた。

 

七百三十日分の祈り。毎朝、毎晩。一日も欠かさず。

 

(あの女は——私と同じくらい、グレンが好きだ。)

 

それが、拍を通じて、嫌というほどわかってしまった。

 

(それがわかっても、退く気はない。でも——)

 

茶を一口飲んだ。

 

(少しだけ、認める。あの祈りは、美しかった。)

 

(嫌いになれたら楽なのに。)

 

窓の外を見た。教会区の方角。大聖堂の尖塔が夕空に浮かんでいる。

 

(あの女も今頃、同じことを考えているのだろうか。)

 

口元が微かにほころんだ。皮肉ではない笑みだった。

 

 

大聖堂の祈祷室で、祈りを捧げた。

 

カミラは手を組み、目を閉じ、静寂の中に沈んでいた。

 

連結の瞬間が、まだ身体に残っている。シルヴィアの拍。鋭くて、冷たくて、でも必死だった。

 

七年分の想い。冗談で隠してきた本気。「誰にも渡さない」と呟いた夜の、剥き出しの愛。

 

(シルヴィアさんの想いは、炎のようでした。私の祈りとは全く違う。でも、同じくらい本物でした。)

 

目を開けた。ステンドグラスの光が祈祷室に差し込んでいる。女神メナスの横顔が、穏やかに微笑んでいた。

 

(女神様。私はまだ退きません。でも、あの人のことを、少しだけ——尊敬します。)

 

胸元のペンダントに触れた。双環が温かい。

 

(それと、もう一つ。)

 

(今日、グレンさんが「待ってます」と言ってくれました。何を待つのかは、あの方はわかっていないでしょう。でも――あの言葉を、私はずっと覚えています。)

 

祈祷室を出て、回廊の窓から外を見た。

 

学院の方角に、一つだけ灯りが見えた。シルヴィアの研究室。あの窓の向こうで、冷めた茶を飲みながら碑文を読んでいるのだろう。

 

同じ人を愛して、同じ痛みを知って、退かないと誓い合った。

 

敵のはずなのに、嫌いになれない。

 

(困ったものです。)

 

カミラは小さく笑い、教会の廊下を歩いていった。

 

 

灰鷹亭の窓辺で、花瓶を見つめている。

 

白百合と月下香。

 

二つの花が、一つの瓶で咲いている。

 

——なぜか、しっくりくる。

 

外では、暮鐘の鐘が鳴り始めていた。王都に夕暮れが降りてくる。研究室の灯りと、大聖堂の灯火が、街のあちこちに点り始めた。

 

私はその中間に立って、二つの花を見ていた。

 

柔らかくて、厄介な何かが、胸の中で静かに脈打っている。

 

まだ名前はつけられない。

 

でも今日は——離脱しなかった。

 

それだけが、確かなことだった。




これにて一章完結です。
これまで読んでいただきありがとうございました。
毎回思いつきの設定を書いてはエタるということが多かったので、キリの良いところまで作れてよかったです。
二章以降はまただいぶ間が空くと思いますが、帝国編にしようかな、みたいに考えています。
ちょうど最後らへんに出てきましたし。
作者があまり出るものではないと思っているので感想に返信はしていませんでしたが、いつも楽しみに読んでいました。
改めて、この小説を読んでいただきありがとうございました。
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