聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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グレンとシルヴィアの学生時代の話。
もうだいぶ昔の、でも決して色褪せない青き春の思い出。


番外編 銀色の季節、図書塔の夜

七年前、魔導学院。

 

 

同盟者殿、とシルヴィアは私を呼んだ。初めて会った夜の呼び名が、しばらくの間そのまま残った。

 

図書塔での徹夜から一週間ほど経った頃だ。講義棟の廊下で彼女とすれ違うと、銀髪の少女は本を三冊抱えたまま足を止めた。

 

「同盟者殿。明日の古語翻訳、もう終わった?」

 

「まだ半分」

 

「ふうん。じゃあ今夜、図書塔に来て。私のを見せてあげるから」

 

まっすぐな目だった。取引でも施しでもなく、ただ一緒にやろう、と言っているだけ。断る理由がなかった。

 

「わかった。ランプは私が持っていく」

 

「ありがとう、同盟者殿」

 

「そろそろグレンでいいぞ」

 

「……じゃあ、グレン」

 

ほんの少し間があった。名前を呼ぶのに照れるような間。

 

その夜も図書塔で肩を並べた。それが二度目で、三度目があり、四度目があり、数えるのをやめた頃には、図書塔の第四閲覧室は私たちの定位置になっていた。

 

 

学食の朝。

 

私はいつも通りの魚の塩焼き定食。シルヴィアはいつも通りのパンとスープ。向かい合って食べるのが習慣になっていた。

 

「そのスープの具、何だと思う?」

 

シルヴィアがスプーンの上の茶色い塊を眺めている。

 

「豆だろう」

 

「芋だよ」

 

「どう見ても豆だ」

 

「どう見ても芋だ。煮崩れているだけで、繊維の感じが明らかに芋」

 

「繊維の感じって……食事に解析を持ち込むな」

 

「世界のすべてが解析の対象だよ、グレン」

 

真顔で言い切るところが、この女の怖いところだ。

 

あの頃のシルヴィアは、今より少しだけ声が高かった。冗談と本気の境目がまだ曖昧で、笑い方も今ほど器用ではなかった。何かに夢中になると周りが見えなくなり、食事を忘れ、睡眠を忘れ、私が声をかけなければ三日でも徹夜しかねなかった。

 

「おい、昨日から何も食べてないだろう」

 

「……食べたよ。干し葡萄を三粒」

 

「それは食事とは言わない」

 

パンを半分ちぎって差し出すと、彼女はしばらく見つめてから、黙って受け取った。そして一口齧って、眉を上げた。

 

「おいしい。……何も変わらないパンなのに」

 

「腹が減ってただけだ」

 

「そうかな」

 

小さな声だった。こちらを見ていたような気がしたが、振り返った時にはもうスープに視線を落としていた。

 

 

私には、学院の図書塔に通う理由がもう一つあった。

 

古い書庫の奥に、歴代の探索者が残した遺跡踏査記録が眠っている。革表紙の手帳、巻物、走り書きのメモ。正式な学術資料として分類されていないものばかりだが、私にとっては宝の山だった。

 

ある夜、一冊の手帳を見つけた。表紙に「風門ヨリ東、三日ノ行路」とだけ書いてある。中を開くと、精密な地図と、見たこともない術式の模写が何ページにもわたって描かれていた。

 

「シルヴィア、これを見てくれ」

 

隣で論文を書いていた彼女の腕を、思わず引いた。

 

「わっ……何? 今いいところなんだけど」

 

「この術式の模写。星綴りの遺跡のものだと思う。配置パターンが、講義で見た星図盤の回路と似てる」

 

「……見せて」

 

シルヴィアの目が変わった。論文のことは一瞬で吹き飛んだらしい。手帳を奪い取るように受け取り、ランプの下で食い入るように見つめ始めた。

 

「これは……確かに星綴りの系統だ。でもこの記号、私も見たことがない。新しい変種か、あるいは未記録の方言体系か……」

 

「方言体系って、術式に方言があるのか」

 

「あるよ。地域によって記号の用法が変わる。これはどこの遺跡?」

 

「境界山脈の西麓。手帳の主は七十年前の探索者だ。たぶん学院に報告せずに個人で潜ったんだろう。記録が公式には残っていない」

 

「七十年前の未報告遺跡……」

 

シルヴィアの瞳がきらきら光っていた。ランプの火を映しているだけかもしれないが、それだけではない光だった。知らないものを前にした時の、あの独特の輝き。

 

「グレン。これ、もっと調べたい」

 

「だろうな。私もだ」

 

「卒業したら、ここに行く?」

 

「行きたいな。まだ誰も正式に記録していない場所だ」

 

「私も行きたい。解読したい。——あなたが見つけて、私が解く。そういうの、いいと思わない?」

 

真剣だった。冗談の欠片もない、まっすぐな目。

 

あの頃のシルヴィアには、本音を冗談で包む癖がまだなかった。言いたいことを、言いたいように言う。それが時に不器用に響くことはあったが、私は嫌いではなかった。

 

「いいな。そうしよう」

 

私が答えると、彼女は顔を伏せた。

 

「……ありがとう」

 

声が小さかった。照れていたのかもしれない。

 

今にして思えば、あれが最初の約束だった。

 

 

二年目の実地研修。

 

学院の裏手にある森を三日間踏査する課題だった。班はくじ引きで、シルヴィアと同じ班になった。

 

「運がいいな」

 

「運じゃない。私が教授に交渉したんだ」

 

「……え?」

 

「冗談だよ」

 

笑っていたが、目は笑っていなかった。

 

森の中は蒸し暑く、虫が多かった。シルヴィアは虫が苦手だった。今でこそ温室の蜜精を平然と誘導しているが、あの頃は蛾が飛んできただけで声を上げていた。

 

「近い。近い。シルヴィア、私の背中にくっつくな」

 

「くっついてない。戦略的に後方を確保しているだけだ」

 

「それをくっつくと言うんだ」

 

声は強がっていたが、外套の裾を掴む指が白かった。

 

二日目の午後、斜面で足を滑らせた彼女が、倒木の下の窪みに転がり落ちた。

 

「シルヴィア!」

 

見下ろすと、三メートルほど下の窪みで、彼女が倒木に挟まれて動けなくなっていた。怪我はなさそうだが、自力では上がれない。

 

他の班員を呼びに行く時間はある。だが、倒木が不安定に軋んでいる。待っている間にさらに崩れたら危ない。

 

考えるより先に、崖を降りていた。

 

手がかりの少ない斜面を、木の根を掴みながら降りる。足元の土が崩れる。構わない。

 

「グレン……! 何をして——」

 

「動くな。今行く」

 

倒木の隙間に手を入れ、彼女の腕を掴んだ。引き上げる。軽い。こんなに軽いのか、と思った。

 

二人で崩れた斜面をよじ登り、平らな地面に転がり出た。息が上がっている。土と葉っぱが全身についている。

 

「怪我ないか」

 

「……ない」

 

シルヴィアの声が震えていた。今まで聞いたことのない、掠れた声。

 

「まさか——ろくに知らない相手のために、崖を降りてくるとは思わなかった」

 

「ろくに知らないって……もう一年以上の付き合いだろう。同じ講座の仲間だ。当然だ」

 

「当然……」

 

彼女は土まみれの顔で、私を見上げた。

 

藍紫の瞳が、やけに大きく見えた。

 

「グレン。……君の『当然』は、たまにすごく困る」

 

「?」

 

意味がわからなかった。

 

だが彼女はそれ以上何も言わず、立ち上がって外套の土を払った。手が微かに震えていた。寒さのせいだと、そのときは思った。

 

 

実地研修から戻った晩。

 

図書塔に行くと、シルヴィアが先に来ていた。第四閲覧室の定位置に座り、何かを書いている。

 

近づくと、私の名前が書かれた紙を慌てて裏返した。

 

「何を書いていたんだ?」

 

「研究ノート」

 

「私の名前が見えたが」

 

「共同研究者の名前を書いただけだよ。何も変なことは書いてない」

 

頬が少し赤かった。蛍光灯水晶の光のせいだろうか。

 

「それより」

 

シルヴィアが話題を変えた。

 

「さっきの遺跡の手帳、もう少し調べた。術式の配置から推測すると、あの遺跡には拍刻板が残っている可能性がある。卒業したら、本当に行ってみない?」

 

「行こう」

 

即答した。

 

「君が見つけた情報を、私が現地で確認する。見つけたものは君が解読する。そういう分業がいい」

 

「……うん」

 

シルヴィアが頷いた。頷いてから、こちらを見た。

 

「ねえ、グレン」

 

「ん?」

 

「君は——将来、どういう探索者になりたい?」

 

「未踏の場所に行きたい。星喰いの塔の底も、境界の風門も。まだ誰も見つけていないものを、最初に見たい」

 

我ながら大きなことを言っている。でも、本気だった。

 

「かっこいいね」

 

「……馬鹿にしてるだろ」

 

「してない。本気で言ってる」

 

目が合った。蛍光灯水晶の細い光の中で、銀色の髪が薄く輝いている。

 

「私は研究室に残る。未知を『使える言葉』に変えたい。でも——」

 

少し間があった。

 

「君が見つけた最初の何かは、私に最初に見せてね。約束して」

 

「考えておく」

 

「考えるじゃない。決めて」

 

声が強くなった。

 

「決めるのが好きなんだ、私は」

 

そう言って、いたずらの前のような顔で目を細めた。でも、そのすぐ下に、もっと切実な何かが滲んでいた気がした。

 

「それに——君と未知を分け合うのは、他の誰より私が似合ってる」

 

軽い冗談だと思った。あの頃の私は本当に、そう思った。

 

「わかったよ。約束する」

 

「……ありがとう」

 

彼女は顔を伏せた。前髪が目元を隠していた。

 

窓の外で、学院の鐘が夜明けを告げた。三つ。もうすぐ朝だ。

 

「あ、やばい。今日一限の講義がある」

 

「……しまった。私もだ」

 

二人で慌てて本を片付けた。本の山がまた崩れかけて、今度はシルヴィアが私の手首を掴んで引き寄せた。

 

「危ない」

 

「……ああ、ありがとう」

 

顔が近い。月下香の匂いがする。

 

シルヴィアが手を放した。放してから、自分の手を見つめていた。

 

「行こう。遅刻したら教授に水をかけられる」

 

「それは居眠りした時だろう」

 

「遅刻も居眠りも似たようなものだよ」

 

「全然違う」

 

「細かい男だね」

 

軽口を叩きながら、図書塔の階段を駆け降りた。

 

朝の光が廊下に差し込んでいた。古い床石を金色に照らしている。

 

走る彼女の背中を追いながら、私は思った。

 

こういう朝が、ずっと続けばいいのに。

 

いや——そうじゃない。いつかは卒業して、それぞれの道を行く。私は遺跡へ、彼女は研究室へ。

 

でもまあ、約束はした。見つけたものは最初に見せる。それでいい。それだけで、繋がっていられる。

 

その程度のことしか、あの頃の私は考えなかった。

 

銀色の髪が朝日に透けて、一瞬だけ金に光った。

 

その光景を、七年経った今でも覚えている。

 

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