もうだいぶ昔の、でも決して色褪せない青き春の思い出。
七年前、魔導学院。
◆
同盟者殿、とシルヴィアは私を呼んだ。初めて会った夜の呼び名が、しばらくの間そのまま残った。
図書塔での徹夜から一週間ほど経った頃だ。講義棟の廊下で彼女とすれ違うと、銀髪の少女は本を三冊抱えたまま足を止めた。
「同盟者殿。明日の古語翻訳、もう終わった?」
「まだ半分」
「ふうん。じゃあ今夜、図書塔に来て。私のを見せてあげるから」
まっすぐな目だった。取引でも施しでもなく、ただ一緒にやろう、と言っているだけ。断る理由がなかった。
「わかった。ランプは私が持っていく」
「ありがとう、同盟者殿」
「そろそろグレンでいいぞ」
「……じゃあ、グレン」
ほんの少し間があった。名前を呼ぶのに照れるような間。
その夜も図書塔で肩を並べた。それが二度目で、三度目があり、四度目があり、数えるのをやめた頃には、図書塔の第四閲覧室は私たちの定位置になっていた。
◆
学食の朝。
私はいつも通りの魚の塩焼き定食。シルヴィアはいつも通りのパンとスープ。向かい合って食べるのが習慣になっていた。
「そのスープの具、何だと思う?」
シルヴィアがスプーンの上の茶色い塊を眺めている。
「豆だろう」
「芋だよ」
「どう見ても豆だ」
「どう見ても芋だ。煮崩れているだけで、繊維の感じが明らかに芋」
「繊維の感じって……食事に解析を持ち込むな」
「世界のすべてが解析の対象だよ、グレン」
真顔で言い切るところが、この女の怖いところだ。
あの頃のシルヴィアは、今より少しだけ声が高かった。冗談と本気の境目がまだ曖昧で、笑い方も今ほど器用ではなかった。何かに夢中になると周りが見えなくなり、食事を忘れ、睡眠を忘れ、私が声をかけなければ三日でも徹夜しかねなかった。
「おい、昨日から何も食べてないだろう」
「……食べたよ。干し葡萄を三粒」
「それは食事とは言わない」
パンを半分ちぎって差し出すと、彼女はしばらく見つめてから、黙って受け取った。そして一口齧って、眉を上げた。
「おいしい。……何も変わらないパンなのに」
「腹が減ってただけだ」
「そうかな」
小さな声だった。こちらを見ていたような気がしたが、振り返った時にはもうスープに視線を落としていた。
◆
私には、学院の図書塔に通う理由がもう一つあった。
古い書庫の奥に、歴代の探索者が残した遺跡踏査記録が眠っている。革表紙の手帳、巻物、走り書きのメモ。正式な学術資料として分類されていないものばかりだが、私にとっては宝の山だった。
ある夜、一冊の手帳を見つけた。表紙に「風門ヨリ東、三日ノ行路」とだけ書いてある。中を開くと、精密な地図と、見たこともない術式の模写が何ページにもわたって描かれていた。
「シルヴィア、これを見てくれ」
隣で論文を書いていた彼女の腕を、思わず引いた。
「わっ……何? 今いいところなんだけど」
「この術式の模写。星綴りの遺跡のものだと思う。配置パターンが、講義で見た星図盤の回路と似てる」
「……見せて」
シルヴィアの目が変わった。論文のことは一瞬で吹き飛んだらしい。手帳を奪い取るように受け取り、ランプの下で食い入るように見つめ始めた。
「これは……確かに星綴りの系統だ。でもこの記号、私も見たことがない。新しい変種か、あるいは未記録の方言体系か……」
「方言体系って、術式に方言があるのか」
「あるよ。地域によって記号の用法が変わる。これはどこの遺跡?」
「境界山脈の西麓。手帳の主は七十年前の探索者だ。たぶん学院に報告せずに個人で潜ったんだろう。記録が公式には残っていない」
「七十年前の未報告遺跡……」
シルヴィアの瞳がきらきら光っていた。ランプの火を映しているだけかもしれないが、それだけではない光だった。知らないものを前にした時の、あの独特の輝き。
「グレン。これ、もっと調べたい」
「だろうな。私もだ」
「卒業したら、ここに行く?」
「行きたいな。まだ誰も正式に記録していない場所だ」
「私も行きたい。解読したい。——あなたが見つけて、私が解く。そういうの、いいと思わない?」
真剣だった。冗談の欠片もない、まっすぐな目。
あの頃のシルヴィアには、本音を冗談で包む癖がまだなかった。言いたいことを、言いたいように言う。それが時に不器用に響くことはあったが、私は嫌いではなかった。
「いいな。そうしよう」
私が答えると、彼女は顔を伏せた。
「……ありがとう」
声が小さかった。照れていたのかもしれない。
今にして思えば、あれが最初の約束だった。
◆
二年目の実地研修。
学院の裏手にある森を三日間踏査する課題だった。班はくじ引きで、シルヴィアと同じ班になった。
「運がいいな」
「運じゃない。私が教授に交渉したんだ」
「……え?」
「冗談だよ」
笑っていたが、目は笑っていなかった。
森の中は蒸し暑く、虫が多かった。シルヴィアは虫が苦手だった。今でこそ温室の蜜精を平然と誘導しているが、あの頃は蛾が飛んできただけで声を上げていた。
「近い。近い。シルヴィア、私の背中にくっつくな」
「くっついてない。戦略的に後方を確保しているだけだ」
「それをくっつくと言うんだ」
声は強がっていたが、外套の裾を掴む指が白かった。
二日目の午後、斜面で足を滑らせた彼女が、倒木の下の窪みに転がり落ちた。
「シルヴィア!」
見下ろすと、三メートルほど下の窪みで、彼女が倒木に挟まれて動けなくなっていた。怪我はなさそうだが、自力では上がれない。
他の班員を呼びに行く時間はある。だが、倒木が不安定に軋んでいる。待っている間にさらに崩れたら危ない。
考えるより先に、崖を降りていた。
手がかりの少ない斜面を、木の根を掴みながら降りる。足元の土が崩れる。構わない。
「グレン……! 何をして——」
「動くな。今行く」
倒木の隙間に手を入れ、彼女の腕を掴んだ。引き上げる。軽い。こんなに軽いのか、と思った。
二人で崩れた斜面をよじ登り、平らな地面に転がり出た。息が上がっている。土と葉っぱが全身についている。
「怪我ないか」
「……ない」
シルヴィアの声が震えていた。今まで聞いたことのない、掠れた声。
「まさか——ろくに知らない相手のために、崖を降りてくるとは思わなかった」
「ろくに知らないって……もう一年以上の付き合いだろう。同じ講座の仲間だ。当然だ」
「当然……」
彼女は土まみれの顔で、私を見上げた。
藍紫の瞳が、やけに大きく見えた。
「グレン。……君の『当然』は、たまにすごく困る」
「?」
意味がわからなかった。
だが彼女はそれ以上何も言わず、立ち上がって外套の土を払った。手が微かに震えていた。寒さのせいだと、そのときは思った。
◆
実地研修から戻った晩。
図書塔に行くと、シルヴィアが先に来ていた。第四閲覧室の定位置に座り、何かを書いている。
近づくと、私の名前が書かれた紙を慌てて裏返した。
「何を書いていたんだ?」
「研究ノート」
「私の名前が見えたが」
「共同研究者の名前を書いただけだよ。何も変なことは書いてない」
頬が少し赤かった。蛍光灯水晶の光のせいだろうか。
「それより」
シルヴィアが話題を変えた。
「さっきの遺跡の手帳、もう少し調べた。術式の配置から推測すると、あの遺跡には拍刻板が残っている可能性がある。卒業したら、本当に行ってみない?」
「行こう」
即答した。
「君が見つけた情報を、私が現地で確認する。見つけたものは君が解読する。そういう分業がいい」
「……うん」
シルヴィアが頷いた。頷いてから、こちらを見た。
「ねえ、グレン」
「ん?」
「君は——将来、どういう探索者になりたい?」
「未踏の場所に行きたい。星喰いの塔の底も、境界の風門も。まだ誰も見つけていないものを、最初に見たい」
我ながら大きなことを言っている。でも、本気だった。
「かっこいいね」
「……馬鹿にしてるだろ」
「してない。本気で言ってる」
目が合った。蛍光灯水晶の細い光の中で、銀色の髪が薄く輝いている。
「私は研究室に残る。未知を『使える言葉』に変えたい。でも——」
少し間があった。
「君が見つけた最初の何かは、私に最初に見せてね。約束して」
「考えておく」
「考えるじゃない。決めて」
声が強くなった。
「決めるのが好きなんだ、私は」
そう言って、いたずらの前のような顔で目を細めた。でも、そのすぐ下に、もっと切実な何かが滲んでいた気がした。
「それに——君と未知を分け合うのは、他の誰より私が似合ってる」
軽い冗談だと思った。あの頃の私は本当に、そう思った。
「わかったよ。約束する」
「……ありがとう」
彼女は顔を伏せた。前髪が目元を隠していた。
窓の外で、学院の鐘が夜明けを告げた。三つ。もうすぐ朝だ。
「あ、やばい。今日一限の講義がある」
「……しまった。私もだ」
二人で慌てて本を片付けた。本の山がまた崩れかけて、今度はシルヴィアが私の手首を掴んで引き寄せた。
「危ない」
「……ああ、ありがとう」
顔が近い。月下香の匂いがする。
シルヴィアが手を放した。放してから、自分の手を見つめていた。
「行こう。遅刻したら教授に水をかけられる」
「それは居眠りした時だろう」
「遅刻も居眠りも似たようなものだよ」
「全然違う」
「細かい男だね」
軽口を叩きながら、図書塔の階段を駆け降りた。
朝の光が廊下に差し込んでいた。古い床石を金色に照らしている。
走る彼女の背中を追いながら、私は思った。
こういう朝が、ずっと続けばいいのに。
いや——そうじゃない。いつかは卒業して、それぞれの道を行く。私は遺跡へ、彼女は研究室へ。
でもまあ、約束はした。見つけたものは最初に見せる。それでいい。それだけで、繋がっていられる。
その程度のことしか、あの頃の私は考えなかった。
銀色の髪が朝日に透けて、一瞬だけ金に光った。
その光景を、七年経った今でも覚えている。