市場を抜けて角を曲がると、薬師街〈賢者の小路〉が広がった。
雨上がりの石畳からは湿った土の匂いが立ち昇り、軒先に吊るされた乾燥ハーブの束がそこに甘い香りを混ぜている。ローズマリー、シナモン、それから何かの果実酒。鼻がおかしくなりそうだ。
「まずはルドガー翁の店だね。トリカブト精油を切らしているんだろう?」
「よく覚えてるな。私の在庫事情まで把握してるのか」
「君の荷物を毎回点検してるからね。当然さ」
さらりと言うが、それは普通なのだろうか。
まあ、シルヴィアは研究者だ。観察と記録が習慣なのだろう。私の装備管理もその延長ということで納得しておく。
ルドガー薬舗は、紫煙色の看板布を掲げた老舗だ。
入口を潜ると、天井まで積み上げた樫の棚が左右に迫り、琥珀色のランプの光がガラス瓶の封蝋に反射して、やたらとキラキラしている。
カウンターの奥で帳簿を繰っていた小柄な老人――ルドガー翁が、眼鏡を押し上げて私たちを見た。
「おお、〈銀狼の魔女〉に〈灰鷹の剣士〉か。珍しい組み合わせじゃの。今日も奇妙な素材でも売りつけに来たのかえ?」
「今日は買う方ですよ、翁。トリカブト精油を三瓶、錬金用淡銀クリスタを五錠、それから――」
シルヴィアが品名を挙げ始めた途端、翁が値段を出し、シルヴィアが即座に反論する。学会報告の最新相場を引用し、他店の仕入れ値まで持ち出して、するすると値を下げていく。
見事というか、容赦がないというか。翁も苦笑しながら折れていた。
「悪知恵は衰えんのう、嬢ちゃん。――して、そこの若造は相変わらず荷役か?」
「ええ、力仕事は私の専門でして」
肩をすくめると、翁は屈託なく笑った。
「だが、最近の魔晶石取引。あれは見事な品だった。無茶をせんようにな」
軽く頭を下げ、シルヴィアと共に店の奥を覗く。棚の狭間に、深緑のガラス瓶が並んでいた。ラベルに記された銘は"月下香"。
その字を見た瞬間、記憶の底から古い夜の光景がふっと浮かんだ。
◆
七年前。魔導学院附属図書塔・第四閲覧室。
真夜中の鐘が鳴ろうかという時刻だった。蛍光灯水晶が一本だけ細く光っていて、あたりはほぼ真っ暗だ。
私は参考書を返しに来ただけだった。
扉を開けると、積み上げられた魔術書の山の向こうに、銀髪の少女が俯いていた。手元の羊皮紙にペンを走らせる音だけが、静寂を刻んでいる。
「閉館時間はとうに過ぎてるぞ。戻る道のランプも消えかけてる」
少女は顔を上げた。藍紫の瞳が、薄暗がりの中でやけに鮮やかだった。
「今、手を止めるわけにはいかない。明朝の教授査読に間に合わないんだ」
淡々と言うが、指先が微かに震えていた。疲労か、焦りか。
書庫の小窓に霧雨が叩きつけている。廊下のランタンはとっくに消えている。こんな暗い中、一人で帰すわけにもいかない。
「じゃあ――私が残るよ。ランプを借りて来る」
「……どうして?」
「同じ講座を受けてるんだ。教授は全員分まとめて落とす主義だろ。被害は私にも来る」
本当はただ放っておけなかっただけだ。
彼女は視線を逸らし、小さく笑った。
「合理的だけど、不思議と嫌味がないね。――君、名前は?」
「グレン」
「私はシルヴィア=ノルン。……よろしく、同盟者殿」
その夜、私は書庫の窓際にランプを三つ灯し、彼女と肩を並べて古語の翻刻をした。
ページを繰る音と、インクの匂い。集中が切れかけた頃に見る彼女の横顔は、ひどく真剣で、瞳の奥だけがきらきら光っていた。
夜明け前、塔の鐘が冷えた空気を震わせる頃――全ての照合が終わり、本の山が崩れた。
反射的に手を伸ばし、倒れかかった彼女の手首を掴んで引き寄せた。
「怪我ないか?」
息がかかるほど近い距離。
羊皮紙とインクの匂いに混じって、甘い花の香りがした。月下香だ。彼女の髪か、服か。
そのときの匂いを、なぜか今でも覚えている。
◆
「グレン? 聞いているかい?」
肘で小突かれて現実に戻った。シルヴィアが呆れ顔で私を見ている。
「悪い、ちょっと昔のことを思い出してた。あのときさ――本の山が崩れて、君の手首を掴んだの覚えてるか?」
シルヴィアは一瞬目を丸くして、すぐに微笑んだ。
「忘れられるはずないよ。君の掌は当時から温かかった。凍えた書庫で、随分救われたんだ」
「私は必死だっただけさ。本当に危なかったからな」
「そうやって過小評価する癖、いい加減直したほうがいいよ。君は昔から――私にとっては恩人なのだから」
冗談めいた口調だが、声が少し柔らかい。
私は照れ隠しに咳払いして、会計を済ませた。
◆
昼近くになり、買い物も終盤。最後の店でシルヴィアは真紅の果実酒を手に取った。瓶の中で液面が揺れ、陽光を受けて深い赤に輝く。
「古代レシピの〈竜娘の吐息〉だって。夜通し解析するとき、これを二人でどうかな」
「珍しいな、君が酒を選ぶなんて」
「君と飲むなら悪酔いしないはずさ。研究棟の屋上で星を見ながら、どう?」
「はは、いいな」
帰路、封呪で軽くなった荷袋を肩に、二人並んで石畳を歩く。雨上がりの水たまりに空が映り込んで、足元が少しだけ眩しい。
「ねえグレン。来週、東の境界山脈へ行くんだろう?」
「ああ。小規模だけど古文書の指紋がある遺跡だ。帰りは二週間後くらいになる」
シルヴィアは足を緩め、外套の胸元を握った。
「なら――無事戻ったら、一番に私のところへ来て。君が何を見て何を感じたか、全部聞かせてほしい」
「もちろん。君に渡す資料も山ほどあるしな」
「……うん」
応えると、彼女はそっと手首を差し出した。
私は迷わずその手を取る。七年前、黴臭い図書塔で月下香の匂いに包まれながら掴んだ、あの細い手と同じ温度だった。
あの頃からずっと、私たちはこうだ。同盟者。探す者と解く者。
「ありがとう。今日は本当に楽しかったよ」
「私もだ。また一緒に来よう」
学院の尖塔が見え始めた頃、シルヴィアはふと足を止めた。
「ねえグレン。帰って来たら――深夜の研究棟で果実酒を開けよう。星図を広げて、未知を語り合って。……二人きりで」
「は、はあ……いいけど、他の研究員に見つからないか?」
「見つからないよう結界を張るさ。……約束だよ?」
指先で私の掌をきゅっと押し返してから、彼女はくるりと踵を返した。淡紫の外套の裾が夕光に翻る。
二人きりで果実酒。星図を広げて。
……まあ、彼女のことだ。どうせ果実酒を二杯飲んだあたりで研究の話に没頭して、気づけば朝になっているパターンだろう。
私は肩の荷袋を揺らしながら、薬師街の甘い雨の匂いの中を歩き続けた。