翌週の土の日。約束通り、私は王都教会の大扉を押し開けた。
朝の礼拝はすでに始まっていた。石造りの身廊にはお香の煙が薄く漂い、ステンドグラスから射す光が緋と藍のまだら模様を床に落としている。
「お越しくださったのですね、グレンさん」
声がした方を見上げると、祭壇前の回廊にカミラさんが立っていた。
今日は通常の司祭服ではなく、白を基調とした儀式用の法衣。薄絹を重ねた袖が揺れ、金糸の刺繍が朝日に光っている。胸元には女神メナスの象徴、双環のペンダント。
……立派だな。いつもの司祭服もいいが、儀式用は格が違う。聖像みたいだ。
「約束しましたからね。遅れたかと思いましたけど」
「いいえ。ちょうど賛歌が始まったところです。どうぞ、こちらへ」
カミラさんは信徒席の端、暖かな陽が差し込む列に私を案内してから、一礼して祭壇へ戻っていった。
祭壇の傍に活けられた白百合が、微かに香る。
◆
礼拝の間、私は姿勢を正して賛歌を聴いた。
歌詞は古い神語で、正直なところ意味の半分もわからない。だが、カミラさんの歌声だけは別だった。
澄んだ声が天井に昇り、朝の光と混じり合って、冷えた体の芯まで届くような心地がする。
昔、長旅の後で偶然この教会に迷い込んだとき、彼女の声に救われた。あの日から、礼拝よりもこの声を聴くことが、私の通う理由になっている。
……もっとも、そんなことを本人に言ったら困らせるだけだろう。
やがて祈祷が終わり、信徒が順に退堂する。
カミラさんが私のもとへ戻ってきた。微笑みはいつも通り穏やかだが、どこか落ち着かない様子にも見える。
「長い参列、お疲れさまでした。……今日の賛歌、眠くなりませんでしたか?」
「いや、むしろ目が冴えましたよ。カミラさんの歌声は山の夜明けみたいです」
「……っ。相変わらず、お上手ですね」
頬にうっすら朱が射した。
お上手? 褒め方が下手なのは自覚しているが、嘘は言っていない。山の夜明けは本当に良いものだ。冷えた空気の中で世界が明るくなっていく、あの感じに似ている。
「少しお時間をいただけますか? 談話室でお茶をご用意しました」
導かれたのは、側廊の奥にある小さな部屋だった。ステンドグラスの虹が壁に踊り、丸卓の上にはハーブティーの用意がある。ローズヒップとラベンダーの香り。
「差し支えなければ……シルヴィアさんの研究は、その後いかがですか?」
唐突にその名前が出て、少し驚いた。だが、カミラさんは表情を変えずにティーポットに手を添えている。
「前に短剣の修復をされたとお聞きしました。お身体を守る大切なものですから、気になって」
「魔晶石の解析は進んでいるようです。彼女は細かくは教えてくれないんですけど、夜通し実験しているみたいですね」
「そう……ですか」
カミラさんの声がほんの少し揺れた。茶を注ぐ手は優雅だったが、カップを受け皿に置く瞬間だけ、指がこわばったように見えた。
すぐに戻る。気のせいかもしれない。
「グレンさんは、ご一緒に研究を?」
「私は理論がさっぱりなもので。素材を届けて報告を聞くだけですよ」
「……素材、ですか」
カミラさんは俯きかけ、はっと顔を上げた。何か言いたげな目をしている。
……疲れているのだろうか。聖務は忙しいと聞く。
「大丈夫ですか? 無理してませんか」
「大丈夫です。ただ……少し」
言いかけて、彼女は出しかけた言葉を飲み込んだ。代わりにカップを差し出し、微笑む。
私はおとなしくハーブティーを受け取った。温かい。
◆
しばらく他愛のない話をした。孤児院の子供たちのこと、先日の市場のこと。
やがて、カミラさんが意を決したように口を開いた。
「……先日、市場でお会いしたときのことです。シルヴィアさんは、本当に楽しそうでしたね」
「そうですか? やけに寒い冗談ばかり言うので、機嫌が悪いのかと思いましたけど」
「冗談……ですか。ええ、たしかに。彼女はグレンさんといるとき、不思議な比喩や皮肉をよく口にしますね」
うつむいて、卓上の百合に視線を落とす。花弁の白に指を滑らせながら、静かに問いかけた。
「――グレンさんは、ご自分がどれほど大切にされているか、ご存じないのですか?」
「え?」
大切にされている? まあ、シルヴィアには研究パートナーとして頼りにされてはいるだろう。素材を届ける人間は必要だし。
その程度の話だろう。
「私はただ、良き相棒として助けられているだけですよ。彼女の研究熱に付き合うのは大変ですけどね」
その答えに、カミラさんの肩が小さく震えた。
笑ったのだと気づいたのは、顔を上げた瞬間だった。笑みは優しいが、翡翠の瞳の奥に、少しだけ痛みのようなものが見えた気がした。
「そう……ですよね。シルヴィアさんらしいです。冗談めかして半分しか本音を見せないから、きっと……」
「カミラさん?」
「いえ、独り言です。どうか気にしないで。――でも、どうか気をつけてくださいね。大切にしているものほど、人は不器用になるものですから」
遠回しな言い方だ。何のことだろう。
そこへ廊下を走る子供たちの靴音が近づいた。扉が叩かれ、少年が顔を覗かせる。
「カミラ司祭! 花飾り運ぶの、手伝うよ!」
「ありがとう。すぐ行きます」
カミラさんが立ち上がり、白百合の束を抱えて私に微笑んだ。
「ごめんなさい、時間を取らせて。今日お越しいただけただけで十分です。――東の山脈へは、お気をつけて」
「大丈夫ですよ。女神のご加護を祈ってくれるでしょう?」
「ええ、祈ります。――ずっと」
小さく告げて、子供たちと共に廊下へ消えていく。
角を曲がる直前、カミラさんは一度だけ振り返った。その目が朝の光を受けて細められている。何かを言いたげな、切なげな表情。
――名残惜しいのかな。来週は来れないから、仕方ないか。
◆
談話室に一人残された。冷めたカップに光が差し込んでいる。
席を立ちかけて、卓上の白百合に目が留まった。花瓶の中に、一本だけ茎が短く切られた百合が混じっている。不格好な切り方だ。子供がふざけて摘んだか、誰かが胸飾りにでもしたのか。
なぜか、その一本が気になった。
私はそっと白百合を一輪取り上げ、ポケットに滑り込ませた。
学術的な意味はない。迷信でもない。ただの衝動だ。
その理由を深く考えるほど、私は繊細にできていない。
大扉を開けると、春の陽が高く昇っていた。遠くで時計塔の鐘が二度鳴る。
学院へ戻り、午後には東の山脈への最終準備を整えなければならない。
胸ポケットの百合が、かすかに揺れた。