聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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鼓動と鐘と、温室の小さな騒ぎ

教会を出て、鐘が二つ鳴るころ。

私は学院の研究棟へ足を向けた。胸ポケットには、なぜか持って出てしまった白百合が一輪。香りは強くないが、歩くたびに薄く鼻先をかすめる。

 

ノックすると、いつもの硝子と古書の匂い。

そして、いつもの声。

 

「やぁ、グレン。久しぶり。今ちょうど休憩のためのお茶が入ったところだよ」

 

シルヴィアは湯気の立つポットを片手に、銀匙でカップの中身をくるりと回した。ローズヒップにアッサム。いつも通りだ。

 

「解析の続き、聞かせてもらえるか?」

 

「もちろん。――その前に」

 

彼女は私の胸元を指さした。白百合が花弁を小さく震わせている。

 

「礼拝堂の空気を持って来るのはいいけど、研究室では匂いが混ざるよ。机の端に置いてくれるかい?」

 

「ああ、悪い。花粉が計器に入ると面倒だな」

 

素直に頷いて、空の薬瓶に花を挿した。

シルヴィアは「助かる」と短く言ったが、その目がほんの一瞬だけ百合を見つめていた。口元が引き結ばれた気がしたが、すぐにいつもの表情に戻る。

彼女が花に興味を示すとすれば、薬草としての成分に対してだけだ。百合は研究対象ではないだろう。

 

「さて――星喰いの塔の魔晶石。位相は双極、周期は心拍に近い。そこまでは先週の続き。今日は"環境音"との共振について話そう」

 

水晶盤に魔晶石を載せ、輪環の符をわずかに回す。盤面に淡い青の干渉紋が浮かんだ。

 

「午前中は礼拝があっただろう? 王都全域に鐘の基音が流れる。低い音は石壁を這って、ここにも届くんだ。その時だけ、この紋がほんの少し濃くなる」

 

「鐘と共鳴するのか」

 

「厳密には鐘の倍音の一部。心拍に似た周期で空気が震えると、こいつは嬉しそうに"鼓動を合わせて"くる。君の心臓と、鐘と、石。三つの拍が重なる瞬間がある」

 

拍。学院で最初に叩き込まれる概念だ。世界のあらゆるものには固有の振動がある。心臓の鼓動も、鐘の響きも、石の微かな震えも。魔術とは、その振動——拍を操る技術にほかならない。

 

「物騒だな」

 

「物騒で面白い。未知はいつだって二面性を持つ」

 

シルヴィアは輪環に指を置き、こちらを見た。

 

「試してみよう。君の剣の鍔に埋めた灰水晶、あれを錨にする。危険はないように制御するよ」

 

錨は安全装置だ。自分の拍を覚えた水晶片で、外の拍に引きずられそうになった時に元へ引き戻してくれる。遺跡探索では命綱に等しい。

 

私は剣を外して卓に立てかけ、鍔の水晶に掌を当てた。シルヴィアが私の手首を軽く掴み、もう片方の手で魔晶石の上に結界を張る。

指が脈を測るように触れてくる。近い。

 

「おやおやグレン、どこを見ているのかな?」

 

「石だ。ちゃんと石を見てる」

 

見てる。石を見てる。断じて彼女の指を見ているわけではない。

 

「ふふ。……深く息を吸って。拍を落とす」

 

呼吸を合わせると、盤面の青い縞がゆっくり収束し始めた。地下で水脈が脈打つような低い振動。耳鳴りのようでもあり、胸の奥で別の鼓動が重なるような感覚。

 

「聞こえるかい?」

 

「ああ。嫌に落ち着く……ような気がする」

 

「落ち着かなくていい。これ以上は危ない」

 

彼女は唐突に手首を放し、輪環を逆相に切り替えた。逆の波をぶつけて共振を打ち消す操作だ。干渉紋がすっと薄れる。

 

「君の拍に石を合わせるのは簡単だ。けれど、合わせすぎると戻れなくなる。錨があるうちに切り上げるのが肝要だよ」

 

「つまり?」

 

「都市の鐘と同期する性質がある。応用すれば都市規模の保護膜を維持する装置が理論上は可能だ。逆に悪用すれば、都市の拍を乱す増幅器になる。兵器にも護符にもなる」

 

「だから、私たちが正しく扱うと」

 

「そういうこと」

 

頷き合ったところで、遠くの塔が重い鐘を二度打った。学院の時報だ。

途端に水晶盤の縞がわずかに濃くなり、卓の硝子器具がかたかた鳴り始めた。

 

「――来る」

 

シルヴィアが舌打ちし、詠唱を走らせた。

私は剣を抜き、鍔の灰水晶を結界の縁に押し当てる。器具が震え、棚の管瓶の液面が歪む。

 

「逆相、三拍――今!」

 

彼女の声に合わせ、私は剣を垂直に立てて錨にした。鍔の水晶が澄んだ音を鳴らし、干渉紋が逆流する。胸の鼓動が一瞬つまづく感覚。次の瞬間、震えが嘘のように止んだ。

 

「……ふぅ。危なかった」

 

「今のが、さっき言っていた"拍が重なる瞬間"か」

 

「そう。君がいて助かった」

 

短く礼を言い、彼女は結界を解いた。魔晶石は、また静かに脈打っている。

 

 

ちょうどその時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。扉が開き、白衣の助手が顔を覗かせる。

 

「ノルン先輩! 温室が――蜜精が集まって通路を塞いでます! アカネノラが一斉に開花したみたいで……」

 

「蜜精……また一斉に咲いたのか。わかった、すぐ行く」

 

シルヴィアが外套を羽織り、私を見た。

 

「グレン、手を借りる。危険は少ないけど、刺されると痺れるから覚悟して」

 

「了解」

 

温室に向かうと、ガラス張りの長い廊下が高い湿度と甘い匂いで満ちていた。赤い六弁の花〈アカネノラ〉が列をなして開花し、蜜光を放っている。その周りに小さな光の粒――蜜精がぶんぶん渦を巻いて、通路を完全に塞いでいた。

 

「強い風はだめだ。花粉が死ぬ」

 

「なら誘導か。餌で釣る?」

 

「そう。……君が前に買ってくれた"旅人の休息"。ハイビスカスと蜂蜜のやつ、持ってるかい?」

 

「研究費で返すって言ってた小瓶か」

 

「今、返すよ。貸して」

 

私が小瓶を渡すと、シルヴィアは蓋を少しだけひねり、柔らかな風の術で甘い香りを前方に押しやった。蜜精の群れが一斉にそちらへ向きを変える。

 

「いい子だ。ゆっくり歩いて、右手の巣箱まで誘導するよ」

 

私が小瓶を掲げて歩くと、光の粒は素直についてくる。途中、怯えている見学の生徒がいたので通路の端で待たせ、群れが通り過ぎるのを見守った。

巣箱に着くと、蜜精は自分から滑り込むように収まった。

 

シルヴィアが袖で額の汗を拭き、小さく笑う。

 

「助かった。君の面倒見の良さは相変わらずだね」

 

「ただの荷物持ちだよ」

 

「そう。荷物持ちで、錨で、相棒」

 

冗談の響き。私は肩をすくめて笑った。

 

 

研究室に戻る途中、シルヴィアが唐突に歩みを緩めた。

 

「そういえば」

 

さりげない口調で。

 

「胸の百合。研究室には匂いが合わないし、花は実験室だと枯れるのが早い」

 

「ああ、さっき瓶に挿したやつか。終わったら戻しておくよ」

 

「戻さなくていい。――ううん、冗談だ。気のせいさ」

 

何が冗談なのかはわからなかった。

でも彼女が冗談と言うのだから、冗談なのだろう。

いつものことだ。シルヴィアの冗談の半分は、私には意味がわからない。

 

部屋に戻ると、魔晶石は先ほどより静かだった。シルヴィアは水晶盤に手を置いて、短くまとめる。

 

「今日の追加解析はここまで。鐘との共振、抑制の準備、応用の可能性。――君は明日出立だね」

 

「早朝に。境界山脈へ。二週間で戻る」

 

「なら、帰ったら最初に来るんだ。君の見た未知を、真っ先に私に渡しなさい」

 

「了解」

 

剣を納め、荷紐を締め直した。扉に向かう直前、シルヴィアがいつもの距離で囁く。

 

「グレン。――無茶をしたら、怒るよ」

 

「怒るのは教授じゃないのか」

 

「教授の怒りはレポートで済む。でも、私の怒りは研究室じゃ済まない」

 

軽い口調だ。しかし、目が笑っていない。

私は曖昧に笑い、手を振った。

 

廊下に出ると、午後の光が斜めに差していた。

薬瓶の中の白百合は、小さくうなだれている。戻すなと言われた気もするし、戻せと言われた気もする。

どちらにせよ、私が理解するにはまだ何かが足りない。

 

鐘が遠くでまた一つ鳴った。

私はその音を背に受け、明日の荷造りのことを考えながら、学院の階段を降りていった。

 

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