教会を出て、鐘が二つ鳴るころ。
私は学院の研究棟へ足を向けた。胸ポケットには、なぜか持って出てしまった白百合が一輪。香りは強くないが、歩くたびに薄く鼻先をかすめる。
ノックすると、いつもの硝子と古書の匂い。
そして、いつもの声。
「やぁ、グレン。久しぶり。今ちょうど休憩のためのお茶が入ったところだよ」
シルヴィアは湯気の立つポットを片手に、銀匙でカップの中身をくるりと回した。ローズヒップにアッサム。いつも通りだ。
「解析の続き、聞かせてもらえるか?」
「もちろん。――その前に」
彼女は私の胸元を指さした。白百合が花弁を小さく震わせている。
「礼拝堂の空気を持って来るのはいいけど、研究室では匂いが混ざるよ。机の端に置いてくれるかい?」
「ああ、悪い。花粉が計器に入ると面倒だな」
素直に頷いて、空の薬瓶に花を挿した。
シルヴィアは「助かる」と短く言ったが、その目がほんの一瞬だけ百合を見つめていた。口元が引き結ばれた気がしたが、すぐにいつもの表情に戻る。
彼女が花に興味を示すとすれば、薬草としての成分に対してだけだ。百合は研究対象ではないだろう。
「さて――星喰いの塔の魔晶石。位相は双極、周期は心拍に近い。そこまでは先週の続き。今日は"環境音"との共振について話そう」
水晶盤に魔晶石を載せ、輪環の符をわずかに回す。盤面に淡い青の干渉紋が浮かんだ。
「午前中は礼拝があっただろう? 王都全域に鐘の基音が流れる。低い音は石壁を這って、ここにも届くんだ。その時だけ、この紋がほんの少し濃くなる」
「鐘と共鳴するのか」
「厳密には鐘の倍音の一部。心拍に似た周期で空気が震えると、こいつは嬉しそうに"鼓動を合わせて"くる。君の心臓と、鐘と、石。三つの拍が重なる瞬間がある」
拍。学院で最初に叩き込まれる概念だ。世界のあらゆるものには固有の振動がある。心臓の鼓動も、鐘の響きも、石の微かな震えも。魔術とは、その振動——拍を操る技術にほかならない。
「物騒だな」
「物騒で面白い。未知はいつだって二面性を持つ」
シルヴィアは輪環に指を置き、こちらを見た。
「試してみよう。君の剣の鍔に埋めた灰水晶、あれを錨にする。危険はないように制御するよ」
錨は安全装置だ。自分の拍を覚えた水晶片で、外の拍に引きずられそうになった時に元へ引き戻してくれる。遺跡探索では命綱に等しい。
私は剣を外して卓に立てかけ、鍔の水晶に掌を当てた。シルヴィアが私の手首を軽く掴み、もう片方の手で魔晶石の上に結界を張る。
指が脈を測るように触れてくる。近い。
「おやおやグレン、どこを見ているのかな?」
「石だ。ちゃんと石を見てる」
見てる。石を見てる。断じて彼女の指を見ているわけではない。
「ふふ。……深く息を吸って。拍を落とす」
呼吸を合わせると、盤面の青い縞がゆっくり収束し始めた。地下で水脈が脈打つような低い振動。耳鳴りのようでもあり、胸の奥で別の鼓動が重なるような感覚。
「聞こえるかい?」
「ああ。嫌に落ち着く……ような気がする」
「落ち着かなくていい。これ以上は危ない」
彼女は唐突に手首を放し、輪環を逆相に切り替えた。逆の波をぶつけて共振を打ち消す操作だ。干渉紋がすっと薄れる。
「君の拍に石を合わせるのは簡単だ。けれど、合わせすぎると戻れなくなる。錨があるうちに切り上げるのが肝要だよ」
「つまり?」
「都市の鐘と同期する性質がある。応用すれば都市規模の保護膜を維持する装置が理論上は可能だ。逆に悪用すれば、都市の拍を乱す増幅器になる。兵器にも護符にもなる」
「だから、私たちが正しく扱うと」
「そういうこと」
頷き合ったところで、遠くの塔が重い鐘を二度打った。学院の時報だ。
途端に水晶盤の縞がわずかに濃くなり、卓の硝子器具がかたかた鳴り始めた。
「――来る」
シルヴィアが舌打ちし、詠唱を走らせた。
私は剣を抜き、鍔の灰水晶を結界の縁に押し当てる。器具が震え、棚の管瓶の液面が歪む。
「逆相、三拍――今!」
彼女の声に合わせ、私は剣を垂直に立てて錨にした。鍔の水晶が澄んだ音を鳴らし、干渉紋が逆流する。胸の鼓動が一瞬つまづく感覚。次の瞬間、震えが嘘のように止んだ。
「……ふぅ。危なかった」
「今のが、さっき言っていた"拍が重なる瞬間"か」
「そう。君がいて助かった」
短く礼を言い、彼女は結界を解いた。魔晶石は、また静かに脈打っている。
◆
ちょうどその時、廊下から慌ただしい足音が聞こえた。扉が開き、白衣の助手が顔を覗かせる。
「ノルン先輩! 温室が――蜜精が集まって通路を塞いでます! アカネノラが一斉に開花したみたいで……」
「蜜精……また一斉に咲いたのか。わかった、すぐ行く」
シルヴィアが外套を羽織り、私を見た。
「グレン、手を借りる。危険は少ないけど、刺されると痺れるから覚悟して」
「了解」
温室に向かうと、ガラス張りの長い廊下が高い湿度と甘い匂いで満ちていた。赤い六弁の花〈アカネノラ〉が列をなして開花し、蜜光を放っている。その周りに小さな光の粒――蜜精がぶんぶん渦を巻いて、通路を完全に塞いでいた。
「強い風はだめだ。花粉が死ぬ」
「なら誘導か。餌で釣る?」
「そう。……君が前に買ってくれた"旅人の休息"。ハイビスカスと蜂蜜のやつ、持ってるかい?」
「研究費で返すって言ってた小瓶か」
「今、返すよ。貸して」
私が小瓶を渡すと、シルヴィアは蓋を少しだけひねり、柔らかな風の術で甘い香りを前方に押しやった。蜜精の群れが一斉にそちらへ向きを変える。
「いい子だ。ゆっくり歩いて、右手の巣箱まで誘導するよ」
私が小瓶を掲げて歩くと、光の粒は素直についてくる。途中、怯えている見学の生徒がいたので通路の端で待たせ、群れが通り過ぎるのを見守った。
巣箱に着くと、蜜精は自分から滑り込むように収まった。
シルヴィアが袖で額の汗を拭き、小さく笑う。
「助かった。君の面倒見の良さは相変わらずだね」
「ただの荷物持ちだよ」
「そう。荷物持ちで、錨で、相棒」
冗談の響き。私は肩をすくめて笑った。
◆
研究室に戻る途中、シルヴィアが唐突に歩みを緩めた。
「そういえば」
さりげない口調で。
「胸の百合。研究室には匂いが合わないし、花は実験室だと枯れるのが早い」
「ああ、さっき瓶に挿したやつか。終わったら戻しておくよ」
「戻さなくていい。――ううん、冗談だ。気のせいさ」
何が冗談なのかはわからなかった。
でも彼女が冗談と言うのだから、冗談なのだろう。
いつものことだ。シルヴィアの冗談の半分は、私には意味がわからない。
部屋に戻ると、魔晶石は先ほどより静かだった。シルヴィアは水晶盤に手を置いて、短くまとめる。
「今日の追加解析はここまで。鐘との共振、抑制の準備、応用の可能性。――君は明日出立だね」
「早朝に。境界山脈へ。二週間で戻る」
「なら、帰ったら最初に来るんだ。君の見た未知を、真っ先に私に渡しなさい」
「了解」
剣を納め、荷紐を締め直した。扉に向かう直前、シルヴィアがいつもの距離で囁く。
「グレン。――無茶をしたら、怒るよ」
「怒るのは教授じゃないのか」
「教授の怒りはレポートで済む。でも、私の怒りは研究室じゃ済まない」
軽い口調だ。しかし、目が笑っていない。
私は曖昧に笑い、手を振った。
廊下に出ると、午後の光が斜めに差していた。
薬瓶の中の白百合は、小さくうなだれている。戻すなと言われた気もするし、戻せと言われた気もする。
どちらにせよ、私が理解するにはまだ何かが足りない。
鐘が遠くでまた一つ鳴った。
私はその音を背に受け、明日の荷造りのことを考えながら、学院の階段を降りていった。