午後の光が傾き、宿の一室に長い影が伸びていた。
灰鷹亭。冒険者区にある私の定宿だ。上等ではないが、窓からの風通しが良く、女将の人柄も悪くない。
机の上に荷を広げる。地図、磨いた短剣、替えのワイヤー、包帯、火打ち石。革鞄の底にはシルヴィアから受け取った淡銀の水晶片を縫い込んだ薄板。左の内ポケットに小瓶が二つ――回復用と、ハイビスカスの薬酒。
胸元の白百合は、薬瓶に差して水を張った。小さく頭を垂れているが、まだ萎れてはいない。
せっかく持ってきたのだ。枯らすのはもったいない。
剣を取り出し、鍔の灰水晶を指で叩く。
澄んだ音が返った。
音が正しいかどうかは、いつも体が先に答えを出す。胸の奥の鼓動と鍔の響きがすっと並ぶ。落ち着く。これが私の拍だ。
シルヴィアから渡された抑制用の水晶片を石座にはめる。細い音が鳴り、刀身の重心がわずかに落ち着いた。
針金で固定しながら、ふと学院時代のことを思い出す。拍について最初にまるごと教わった日のことだ。
◆
黒板の前に、膝ほどの高さの水鉢が置かれていた。
師範は無駄のない動きで音叉を取り出し、水面に触れた。小さな波紋が生まれ、規則正しく揺れる。
「これが拍だ」
師範は胸に手を当て、それから水鉢を指した。
「世界のすべてのものには、固有の振動がある。心臓の鼓動。鐘の響き。風穴を抜ける気流。石の結晶の震え。この水面の揺れもそうだ。お前たちの心臓も、今この瞬間、拍を刻んでいる。聞こえるだろう? 自分の胸の音を」
教室が静まった。確かに、意識を向けると自分の鼓動が聞こえた。
「魔術とは、この拍を意図的に操る技術だ。やることは三つしかない」
師範はもう一本の音叉を取り出し、最初の音叉と同じ高さの音を鳴らして水面に近づけた。二つの振動が重なり、波紋がぐんと大きく膨らんだ。
「一つ目、同調。自分の拍を対象の拍に合わせる。こうして波が重なれば、干渉の道ができる。道がなければ、魔術は対象に届かない」
次に、片方の音叉を僅かに傾けた。音の高さが変わり、水面の波形が複雑に歪む。
「二つ目、転位。合わせた拍をほんの少しだけずらす。このずれが実際の効果を生む。物を硬くするのも、壊すのも、結界を張るのも、すべてこの"ずらし方"で決まる」
師範は音叉を水面から離した。波紋が急速に鎮まっていく。
「三つ目、離脱。術が終わったら、対象の拍から必ず手を放す。これを怠ると、お前の心臓が対象の拍に引きずられる。最悪、心臓が止まる。三つの中で一番地味だが、一番大事だ」
水面が静まり返った。白墨で描いた譜面だけが黒板に残っている。
「合わせて、ずらして、離れる。三つを守れなければ、事故は起きる」
隣で筆を走らせていたシルヴィアが、顔を上げた。
「同調は道を作る。位相の反転は斧になる。離脱は命綱だ。――そういうことだね、先生」
師範は頷いた。
「端的でいい。だが気をつけろ、ノルン。道は太くできるが、太くした分だけ戻るのが難しくなる」
「戻ることまで含めて設計する。それが一番美しいと思います」
シルヴィアはそれだけ言って、また紙に線を引いた。白い指が迷いなく動き、銀糸のような図を描いていく。
そのとき、彼女はふと筆を止め、私のノートを覗き込んだ。
「おやおやグレン、そこは写して済むところじゃない。動きで覚えないと」
「実地のときにやるよ。紙の上じゃわからない」
「そう言って、結局やらないのが君だ。――ほら、手を出して」
彼女は私の手首を取ると、水鉢の縁で脈を測った。人差し指が軽く押される。
「今の拍で十数えて」
言われるまま、水面のさざ波を見つめた。呼吸を整えると、波がゆっくり静かにまとまっていく。
「ね、合わせるというのは、こういうこと。剣でも同じ。まずは自分の拍を知り、場の拍に触る。ずらすのは、そのあと」
「わかった」
「本当にわかった?」
「わかったよ」
「本当に分かってるのかな? いつもこの調子だから」
しつこい。だが、正直なところ、彼女に手首を掴まれて脈を測られている状況で、冷静に「拍」だの「同調」だのと言われても、拍が安定するはずがない。
授業が終わる鐘が鳴った。
廊下に出ると、窓から夕陽が差し込み、古い床石を金色に照らしていた。人通りが途切れた階段に腰を下ろすと、シルヴィアは靴の先で段差を軽く叩いて、一定のリズムを刻んだ。
「ねえグレン。卒業したら、君はどこへ行く?」
「遺跡。未踏の場所。星喰いの塔の底も、境界の風門も」
「私は研究室。未知を"使える言葉"に変えたい。――良い分業だと思わない?」
「そうだな。私は探して、君は解く」
「うん。じゃあ約束。君が見つけた最初の何かは、私に最初に見せること」
「考えておく」
「考える、じゃない。決めて。決めるのが好きなんだ、私は」
そう言って、彼女はいたずらの前のような顔で目を細めた。
「それに、君と未知を分け合うのは、他の誰より私が似合ってる」
軽い冗談だと思った。あの頃の私は本当に、そう思った。
階段の上で風がすり抜け、彼女の銀の前髪を揺らした。夕陽に染まる横顔は、今より少し幼くて、けれど芯は同じだった。
◆
鐘が一度、遠くで鳴った。
現実に引き戻される。窓の外、王都の空は茜色が薄れて藍に変わりつつある。
鞄の口を閉じ、肩紐を調整する。地図を畳み、境界山脈の道筋を頭に入れる。峠の名、風の向き、避難小屋の位置。
腰のポーチには魔晶石に触れた計測板を入れた。鐘の時間に反応するなら、山でも試す価値がある。
机の白百合に目をやった。少しだけ水を足し、窓際に移す。
この花を見ると、カミラさんのことを思い出す。そして、それを見ていたシルヴィアの眼差しも。
扉に手をかけ、ふと指先が止まった。
胸の奥で、あの水鉢の波紋がまた揺れた気がした。合わせて、ずらして、離れる。三つさえ守れば、道は開く。
私にできるのは、昔も今も、ただそれだけだ。
背嚢を背負い、部屋を出る。階段を下りる靴音が、石に小さな拍を刻んでいく。
帳場で女将が手を振った。
「明日は早いのかい、グレン」
「ああ。日の出前に」
「なら今夜は鐘が三つ鳴るまでに寝な。山は昼より朝が冷えるよ」
「肝に銘じておきます」
外に出ると、風が頬を撫でた。遠い鐘が二度響く。
その音は、教会の賛歌と研究室の水晶の音と、そして自分の心臓の鼓動に、薄く重なった。どれもわずかに合って、わずかにずれて、でも確かに同じ方向へ進んでいる。
明日は境界山脈。風門を越え、小塔の跡を探し、古文書の指紋を拾う。
戻って来たら、教会に顔を出し、研究室に寄る。いつもの順番でいい。順番が拍を作る。
空は澄んで、尖塔の輪郭がくっきり見えた。
私は手袋を嵌め直し、一定の歩幅で夜の道を進んだ。