聖女と魔女と、鈍感冒険者   作:玉露33333

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風門の向こう、遠い茶の味

東門を出て四日目の昼過ぎ、街道の果てに灰色の砦が見えた。

境界山脈の西麓に設けられた辺境守備隊の駐屯地だ。風門への最後の中継点であり、ここから先は街道とも呼べない獣道になる。

 

砦の門番に探索許可証を見せると、隊長に話を通すからと待たされた。

中庭のベンチに腰を下ろし、水筒の水を飲む。四日間歩き詰めだった脚がじわりと重い。春だというのに山脈から吹き下ろす風は冷たく、鼻先がかじかんでいる。

 

「灰鷹の剣士か。噂は聞いている」

 

声のした方を見上げると、がっしりした体格の女性が腕を組んで立っていた。革鎧の上に辺境守備隊の紋章入りの外套を羽織っている。

 

「隊長のヴェラ=ケストナーだ。星喰いの塔を単独踏破した男だろう? ここへ来る物好きは久しぶりでね」

 

「グレンです。今回は小塔の跡を調べに来ました」

 

ヴェラ隊長は目を細め、砦の内側を歩きながら話し始めた。

 

「小塔の跡か。ちょうどいい、伝えたいことがある。最近、境界山脈の遺跡群で妙なことが起きている」

 

「妙なこと?」

 

「拍の活性化だ。小塔だけじゃない。風門の奥の観測小屋に設置した計測板が、ここ一月で三回反応している。普段は年に一度あるかないかの頻度なのに」

 

足を止め、壁に掛けた地図を指で叩く。境界山脈の稜線に沿って、赤い点がいくつか打たれていた。

 

「この点が全部、反応があった場所だ。小塔の跡もその一つ。何かが山脈の地下で動き始めている」

 

「広域で、ですか」

 

「ああ。私は学者じゃないから理屈はわからん。だが、遺跡の守護者が勝手に目覚めた報告もある。気をつけろ」

 

礼を言い、補給を済ませて砦を出た。日が傾き始めている。風門まではここから半日の行程だ。今日は途中の岩窪で野営し、明朝に風門を抜ける。

 

 

風門、というのは大層な名だが、要は山脈の西壁に裂けた巨大な峡谷の入口だ。

幅は広い所で三十歩ほど。両側に切り立った岩壁がそびえ、その間を風が唸りながら駆け抜ける。常に強風が吹いているため、この峡谷を通過するだけでも相当の体力を使う。

 

翌朝、荷紐を締め直して風門に足を踏み入れた。

案の定、風が凄まじい。外套の裾がばたつき、砂礫が頬を叩く。身を屈め、岩壁に手をつきながら一歩ずつ進む。

 

風に逆らいながらふと、腰のポーチに手を当てた。

計測板が震えている。微かに、だが確かに。

風の振動ではない。規則的な脈動だ。魔晶石をシルヴィアの水晶盤に載せたときと同じ、あの心拍に似たリズム。

 

「……遠くから来てるな」

 

峡谷の奥、山脈の内部。そこに魔晶石と同じパターンを持つ何かがある。

ヴェラ隊長の言葉が頭をよぎった。拍の活性化。広域の異変。

 

風門を抜けるのに二刻かかった。

抜けた先は、嘘のように静かだった。苔むした岩場に低木が点在し、遠くに雪を頂いた稜線が連なっている。空気が澄んでいて、呼吸が深くなる。

 

計測板の振動はまだ続いている。弱くはなったが、方角は一定だ。北東――小塔の跡がある方向。

 

地図を広げ、ルートを確認する。ここから小塔の跡まで、山道を一日半。途中に避難小屋が一つ。

日誌を取り出し、計測板の反応と方角を書き留めた。シルヴィアに渡す記録だ。彼女なら、この数値から何かを読み解くだろう。

 

 

夜。

焚き火の傍で膝を抱えていた。

 

岩場に囲まれた窪地に野営を張った。結界を持たない私は、代わりに薪の煙で虫を追い、錨の水晶で拍を静めて気配を殺す。探索者の基本だ。

火は弱く保つ。明るすぎれば目立つ。

 

乾肉を齧りながら、ぼんやりと炎を見つめる。

火の粉が舞い上がり、夜空に消えていく。星が近い。王都では見えない、細かな星の粒が空を埋め尽くしている。

 

……ふと、口が勝手に動いた。

 

低い旋律。聞き覚えのある曲。

カミラさんの賛歌だ。礼拝のときに聴いた、古い神語の歌。意味はわからないが、旋律だけが耳に残っていた。

 

気づいて口を噤む。

なぜ今、これを口ずさんでいたのだろう。

 

焚き火に薪をくべると、パチリと弾ける音がした。

その音を聞いた瞬間、今度はシルヴィアの淹れるローズヒップの茶の味が舌の奥に蘇った。あの酸味と、少しだけ甘い後味。研究室の硝子器具が並ぶ棚と、湯気の向こうに見える藍紫の瞳。

 

「……なんだろうな」

 

独り言が岩壁に跳ねて返ってくる。

山の中で一人きりになると、変なことを考える。普段は気にも留めないことが、妙に鮮明に思い出される。

カミラさんの声。シルヴィアの茶。教会の白百合の香り。研究室の硝子の匂い。

 

旅の孤独がそうさせるのだろう。人恋しいのだ、きっと。

……いや、「人恋しい」は語弊がある。正確には、日常が恋しいだけだ。土の日に教会へ行き、午後に学院へ寄る、あの周回がないと落ち着かない。

日課というのは体に染みつくものだ。

 

焚き火が小さくなり、暗闇が近づいてくる。

剣を膝に立てかけ、鍔の灰水晶に指を触れた。澄んだ音が鳴る。拍が落ち着く。

明日は小塔の跡に向かう。集中しろ。

 

しかし目を閉じると、最後に浮かんだのは二つの顔だった。

笑っている。二人とも、笑っている。

片方は冗談めいた笑みで、もう片方は穏やかな微笑みで。

 

……夜の山は、余計なことを考えさせる。

私はそう結論づけて、外套を頭から被り、硬い地面に横になった。

 

星が冷たく、近い。

計測板が、まだ微かに脈打っている。

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