漆黒のスーツに身を纏った男が、ゆっくりと目を開く。
薄く開いた眼に、窓から陽の光が射し込む。
ここは、どこだ?
それを確かめるように、男は身体を預けていたベッドから半身を起こす。
「なぜ、俺は生きている?俺は、確かにあの時…」
彼の名はローラン。ある世界の都市の中では「黒い沈黙」の名を冠する、名うての便利屋
しかし、彼は妻を失った哀しみと怒りに狂ったままに多くの人間を殺し、数え切れないほどの恨みを買った。
そして、彼は殺された。黒い沈黙の名は、都市の中に消えて忘れ去られた…はずだったが、まだ男は生きている。
彼は自分が居る部屋を見回す。どうやら寮か何かのひと部屋のようだ。本棚があって、そこには「ウマ娘」と呼ばれる何かに関する資料が多数並べられていた。
「ウマ娘…聞いたこともないな。馬ならJ社の観光施設で見たことあったけどさ。」
兎に角、ここはどうやら彼が知る「都市」と呼ばれる場所ではないらしい。
「さて、どうしたもんか…」ぽりぽりと困ったように頭を掻きながら、とりあえずこの施設の全貌を掴むことにして、彼は自室(と思われる部屋)を出た。
ここは、中央トレセン学園。
中高一貫の名門校であり、全てのウマ娘たちの憧れであり、この門を潜れるのはたったひと握り。
数多のウマ娘たちが果てしない栄光を目指して、競走生活三年間を駆け抜けてゆくための場所だ。
今日もひとり、早朝のランニングに勤しむ栗毛のウマ娘がいる。
彼女の名はサイレンススズカ。走っていることが趣味であり、自他ともに認めるほどの競走ジャンキーだ。
そんな彼女は、早朝のランニングのコースを走りながら考える。
「今日は…そうね、三女神像の前を通ろうかしら。」
グラウンドを出て速度を大きく落とし、ゆったりと広大な敷地を駆ける。
普段なら、この時間に起きてくるのは彼女くらいのものであろうが…今日は違った。
彼女の眼に留まったのは、一人の男だ。
齢は30半ば、黒いスーツと手袋を身に纏っていて、金色の公認トレーナーバッチを左胸に付けている…それでいて、なんとも言えない哀愁の漂う男だ。少なくとも、独特な出で立ちが彼女の興味を引いたことは間違いないだろう。
彼女は、その男の前で立ち止まる。
「…俺に何か用か?」
訝しげに話す男。
「おはようございます。そのバッチ…トレーナーさんですよね?」
彼女は臆せず、挨拶を交わす。
これが後に類まれな栄光を歩むふたりの、ごく平凡な馴れ初めだった。
登場人物紹介
・ローラン
都市で「黒い沈黙」の名を冠する特色の便利屋
諜報系の仕事の方が得意ではあるものの、その戦闘能力は並の相手を鎧袖一触にしてしまえる程の強者である。
冗談も言えることから、人当たりと面倒みが良く、心配性でもある。
妻を失う原因となった友を許せず、苦痛の中に沈んでいくはずだった。
・サイレンススズカ
後に「異次元の逃亡者」の名を欲しいままにする至高のウマ娘…の卵。
三女神によって、彼と巡り会うこととなった。
今はまだ、本人の大逃げの才は芽吹いておらず、練習でもタイムが奮っていない。
用語解説
・「都市」
ローランの出身地を、便宜上「都市」と呼ぶ。
苦痛に満ちた場所で、ひたすらに人の不幸によって廻るような残酷な世界。輝きを目指すトレセン学園とは真逆に存在するような世界だ。
・「特色」
便利屋