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景から「私デスアイランドに出られるわ」とラインが来た。どうやらオーディションに合格したらしい。
景には悪いがてっきり落選したとばかり思っていたのでその事実は意外だった。とりあえず俺はおめでとうと言う。
高い倍率を潜り抜けたということで普通なら手放しで喜ぶのだろうが、景にはオーディションにおける一件があるため喜んでばかりではいられない。
「このままじゃ駄目だわ」と景は言っていたことからも、本人もそれを自覚している様だ。
それから数日後、公式サイトにて正式にキャストが発表される。
百城とアキラ君をはじめとした十二人のスターズ所属俳優。そしてオーディションを合格した十二名の計二十四名。もちろん景も入っていた。
そして驚くべきことに、その中にはなんと湯島さんも含まれている。あの湯島茜である。
これでデスアイランドを見に行く理由が一つ増えた。
そう思い喜んでいたのだが、俺の頭には一つのことが浮かび上がる。
確か公園でのあの夜、景は「茜ちゃん」と発言していた。
あの時は景が泣いており深く追求できるような空気では無かったので特に気に留めていなかったのだが、景の言った「茜ちゃん」と俺が好きな女優である湯島茜は同一人物かも知れない。そう思った。
景に聞いてみたら、一緒にオーディションを受けていたのは湯島茜であることは確からしい。
驚くべき新発見だ。
だがあんなことがあった後では迂闊に話題に出すのも憚られるのでそれ以上景には聞いていない。
既にオーディション組と百城の顔合わせは済んでいるらしく、景に百城のことを聞いたら何だか怯えていたのだが一体何があったのだろう。
別にイジメとかする奴ではないことは俺が十分知っているのでその心配はない。
天才同士何か惹かれ合うモノがあり、百城はついつい距離を詰めすぎてしまったのかな、と思っていたのだがどうやら景は「綺麗すぎて人間じゃないみたい」と言ったのだとか。
それは確かに百城の地雷を踏んだ気がする。
何というか、百城は自分を兎に角美しく見せることに全精力を注いでいる人間なのだ。
天使として在る為には日々の絶え間無い努力を惜しまない。
言語化するのは難しいが、言うならば天使としての「仮面」を被っている、とでも言うべきか。
そして、景は百城とはまるで正反対の演技をする。
過去に経験した自身の感情を蘇らせる、メソッド演技と呼ばれるモノ。そこには仮面などは存在せず、むしろ全てを曝け出す。
多分百城は景の言葉に怒りを感じたのだろうが、それをいつまでもずるずる引きずるような奴じゃないし撮影は景とも上手くやるだろう。多分。
景としても、撮影の度に暴走しては敵わないから百城の技術を実際に近くで見て、そして習得できれば理想的なのではないだろうか。
百城の技術は一朝一夕で真似できるものでは無いのだろうが参考にはなるだろう。
何しろこの国の若い女優の中では一番の売れっ子だ。人気なのには当然理由がある。
景は電話で「天使さんみたいに自分をフカンする力を盗んでくるわ」と言っていた。
最近俺は勉強やら部活やらバイトやらで忙しく夜凪家に顔を出せていないが、大黒天の二人がいるしルイとレイも楽しくやっていることだろう。
そのせいなのかは分からないが、最近景からの電話の本数が増えた気がする。
スマホを買ったばかりの頃やたら友達と電話したくなる現象なのだろうか。
あと、どうやら出発は三日後らしい。
多分出発の前日辺りにもう一度「頑張ってこいよ」的な内容の電話はするのだろうが、それはそれとして「応援している」と言った。
湯島さんと景は顔合わせの際再会したらしいが未だに気まずそうである。であるので湯島さんの話題は出しづらく、「頑張って仲直りしろよ」程度のことしか景には言っていない。
もし機会があればサインを貰ってきてくれ、なんて今の景に俺から言えるはずもない。
そんなことを景と電話でやりとりし終えた俺は飯を食うことにした。時刻は八時半。いつもに比べてちょっと遅い時間だ。
冷凍庫から特売で買い込んだ冷凍うどんを取り出し、レンジでチン。
それを皿に出して生卵とめんつゆをかけて料理終了。所要時間は約四分だ。あと納豆一パック。
一人暮らしを始めて、キラキラした私生活の一環としてお洒落な自炊に憧れないこともないがやはり楽な方が良い。
うどんからエネルギーとなる炭水化物を摂取して、納豆と卵から俺の血肉となるタンパク質を。更に野菜ジュースも飲んでいる俺に隙はない。
卵は栄養が豊富な完全食として知られているし、大豆は畑の肉と呼ばれる程の良質なタンパク質が含まれている。
本当にこれらの素晴らしい食品をあんなに安く買ってもバチが当たらないのだろうか。
昔見たテレビ番組の記憶が正しければ、納豆と生卵は栄養素が損なわれるという理由で一緒に食べない方が良いらしいのだが面倒くさいので俺は特に気にしていない。
外食する日か、夜凪家でメシをご馳走になる日以外はこの一ヶ月間毎日コレである。
理由は単純。安くて早くて簡単だから。つまり最強。
しかし、普通に美味いのだが流石に飽きてきた。今度は袋パスタでも買って来ようかとは考えている。
でも、味付けとか面倒くさくなって結局素パスタに納豆と生卵をぶっかけるだけになる未来が見える。それじゃあ今とほとんど変わらない。
ちなみに俺は料理がド下手である。口が裂けても上手なんて言えない。
練習すれば恥ずかしくない程度にはなるのだろうが、今はそんなことに割く時間は無い。
だから多分卒業するまで下手なままであるのだろうし、故にできるだけ過程の少ないシンプルな料理でなければ食事の度にその微妙な出来で落ち込むことだろう。
だったら毎食チルドかインスタント食品で良いじゃないかと言われそうだが、なんとなく身体に悪そうなので避けている。
だから俺は料理上手な景を尊敬しているし、夜凪家での食事はとても楽しいのだ。
うどんの上に乗った黄身を箸で潰し、つゆと卵と麺を絡める。
いざ食おうとした時、机の隅に置いていた俺のスマホが鳴った。
メッセージではなく、通話の着信である。画面に表示されているのは百城のアイコンだった。
無視する理由もないので画面をスワイプして通話を開始する。
『今電話大丈夫?』
俺は現在家にいるので別に問題ないと答える。
百城は今何処から電話をかけているのだろう。彼女は売れっ子なので仕事中かもしれない。
『事務所だよ。さっきまでマネージャーさんとか他の子たちと打ち合わせしてたの。デスアイランドのね』
こんな時間までご苦労様だ。そういえば景が、顔合わせの日には百城以外スターズの役者は来なかったと言っていたな。
やはりスターズ所属ともなると各々が忙しくて、中々集まれる機会がこれまでなかったのだろう。
『あ、アキラ君も事務所にいるよ。この後代ろうか?』
いや、彼には俺から電話をかける予定だ。だから問題ない。
それに歳の近い男同士色々と積もる話の一つや二つくらいある。それは女人禁制だ。
それにしても、今回のアキラ君の演じる役は彼にぴったりなものだった。
クラスで人気者の爽やかなスポーツマン、そしてイケメン。
まだデスアイランドの実写映画が発表される前、漫画を読みながら「このキャラはなんだかアキラ君に似ているな」と思っていたのだが、偶然にも的中した。何だか嬉しい。
作中では序盤に急な勾配の坂を走って登る場面があるのだが、アキラ君ならあのシーンを自分でこなせるだろう。
彼は運動神経がいい。もしかしたら彼の安全のためにスタントマンを使うのかもしれないが。
兎も角、俺はこの作品でアキラ君の良さがもっと大勢の人間に知られて欲しいと思っている。
星アキラの名が出演者として発表された時、主催がスターズということもあり「またアキラかよ」といった様な声が少なくない数出ていたが、是非ともそういう意見を跳ね除けて頑張って欲しいものだ。
『そっか、了解』
百城のデスアイランド出演にもやはり同じような意見はあったが、件の記者会見の後は随分と数が減った。
記者会見における百城の客席からの登場を各社メディアは報道して話題になっている。
やはり皆天使の美しさに心を掴まれたのだろう。チョロいな。
『あ、そうだ。何かお土産で欲しいものある?』
確かデスアイランドの撮影は沖縄県の離島だったはずだ。柊さんに教えてもらった。
沖縄土産、何が良いのだろう。
ぱっと思いつくのはソーキそばに紅芋タルト、あとサーターアンダギーなどだろうか。
ちんすこうをうら若き女優である百城に買わせるのは何だか気が引けるから言わない。別に変な意味は無いが。本当だ。
とりあえず百城のチョイスならハズレはないだろう。彼女は俺よりも遥かにセンスが良い。俺は「百城に任せる」と言う。
『えー。それが一番困るのに』
まぁ、アレだ。貰ってからのお楽しみというやつだ。そっちの方が面白いだろう。
『分かったよ。じゃあ楽しみにしておいてね』
俺は百城にありがとうと感謝を伝える。
ちなみにSNSを覗いてみたところ、撮影現場を見に行く予定の人間はかなりいるらしい。しかもその九割くらいが百城目当てなのではないだろうか。
それくらい百城の人気は現在凄まじい。それを改めて意識させられた。
女性ファンも多いが、当然男の割合の方が高い。
男は皆美少女が大好きなのだ。
それは彼女の並外れた容姿もあるが、メディアに露出する際の無邪気さや清楚なイメージも理由としては大きいだろう。
そんな訳であるので、「百城千世子熱愛か!?」的な記事が出回ったらどうなるかは火を見るより明らか。
一体何億の損失が出るのだろう。俺の生涯年収より多いのは確実だ。
もし俺と街をぶらついているところを週刊誌にすっぱ抜かれた場合、俺は一生百城に頭が上がらなくなるだろう。
何しろそれによって世間からの評価がガラリと変わってしまうかもしれないのだ。そうなったら腹を切るかもしれない。
そうだ、百城に湯島さんのことを聞いてみよう。
「湯島茜どうだった?」と百城に言う。景から聞いた話では、この間の顔合わせの時に会っている筈だ。
『……顔合わせの時に会ったけど、何かあるの?』
どうもこうも、俺は彼女のファンである。
何と言うか、「ザ・年上のお姉さん」感が良い。俺の方が一コ上だけど。
子役の時からの出演作を見てみると芝居の技術も毎回上達していて、彼女の努力が画面のこちらまで伝わって来る。
あと、彼女を語る上で関西弁は外せない。標準語圏の人間からすると方言で喋るというだけで魅力的なのだ。
俺は百城に、湯島茜という役者の魅力を語る。何だか早口になってしまったが仕方ない。
高校の頃の友人だった山田君はガンダムの話をする時早口になっていたが、今の俺なら彼の気持ちを理解できる。
『……湯島さんのファンなんだ。初めて知ったよ』
今一番好きで応援している役者である。彼女はマイフェイバリットだ。
最近忙しすぎて湯島さんの出演作を観れていないから、脳が湯島さん成分を求めている。今週末に何本か借りてこよう。
何故こんなにも彼女にハマったのかは自分でもよく分からない。もしかしたら俺は母親がいないから母性に飢えているのかもしれない。
『……一番?』
一番。その言葉に百城は反応した。
声がワントーン低くなる。思わず背筋が震えた。
何だろう、湯島さんに対する百城の対抗心が刺激されたのだろうか。
俺は百城のファン一号であるので、そこら辺りも関係あるかもしれない。
あとはプロの役者としての自負とかだろうか。世間から見た人気は当然百城の方が高い。
『私より湯島さんが好きなんだ』
おい、その台詞だと俺が浮気したみたいじゃないか。付き合ってないけれども。
もしアキラ君あたりが聞いたら誤解を招くぞ。
あと声が何だか怖い。嫉妬か? 嫉妬なのか?
それと別に百城は俺の中では殿堂入りみたいなもんなので、一番とか二番とかそういう感じじゃない。
どちらか片方しか全員が絶対に応援できないと言われたら流石に俺は百城を選ぶだろう。俺はファン一号なのだから当然だ。
ただし、湯島さんの出演作を全て見るくらいにはお気に入りだ。
『じゃあ私とどっちが良いの?』
そう質問されると困るな。どういう基準で判断すれば良いのか分からない。
役者としての技術なら百城が上だし見ていて安心感は凄く、そして何だか今の俺の心にグッとくるのは湯島さんである。
「良い」という曖昧な表現だと答えづらい。
あと、ここで返答をミスったら終わる気がする。何となくだが俺の直感は結構当たるのだ。
故に俺の答えは沈黙。俺はクラピカを信じる。
『……へぇ。そこで迷うんだ』
まぁ、どっちを選ぶかと言われれば当然百城だろう。
別に長い付き合いだから惰性でそうするのではなく、俺も役者百城千世子のファンの一人であるのだ。
百城の出演する作品も全て目を通している。
決してビビったとか、そういう理由ではないのだ。絶対に。
『じゃあ、まだ私が一番てことで良いんだね?』
何だかやたらと一番に拘るなこいつ。
だがまぁ、たとえ薬物やって警察に捕まっても俺は百城を応援するだろう。
だけれど、ヤクは絶対にやるなよ。
芸能人にとって男女関係の問題はもしかしたら何とかなるかもしれないが、そっちは完全にアウトである。昔からの友人が容疑者なんて笑えない。
「ごめんなさい」ってベロをチラリと出しながらあざとく謝っても世間の人間は許しては……いや、もしかしたら一定数は許すかもしれない。
やっぱり百城ほどの美人は最強だと分かる。
だが、もしやってたら百城をぶん殴ってでも止めに行こう。
『別に平気だよ、やる理由もないし。あと、「百城をぶん殴る」って言ったところだけ録音しといたから』
「これどーしようかな」とワザとらしく言ってみせる百城。
うわやりやがったこいつ。
発言の悪質な切り取りを百城はメディアに何度かやられたことがあるが、まさか百城本人がやる側になるとは予想していなかった。
電話の向こう側からは百城の笑い声が聞こえる。やはりこいつはとんでもない悪女なのではないだろうか。
まぁ百城なりのからかいなのだろう。本当に事務所に届けたりはしない……よな?
これで一つ新たに弱みを握られた訳か。一体何個目なのだろう、多すぎてもはや数えられない。
つーか何で電話を録音してるんだよ、怖ぇよ。それとも色々と厄介ごとのありそうな芸能界なら普通なのか。
『それにしても湯島さんかー』
さっきの音声は持ってて良いから、湯島さんのサイン貰ってきてくれないだろうか。現場だと色々事情があるのは理解しているので、別に無理そうだったら諦めるが。
『しょうがないな。良いよ、向こうで言ってみるよ』
ありがたい、恩に着る。
あと出来れば宛名も入れて欲しい。
百城にも湯島さんの素晴らしさを布教するため、今度家に行く時は一緒に視聴するか。
いや、もしかしたらもう既に見ているかもしれないけど。
『……負けないよ?』
百城はそう呟く。湯島さんをライバル認定したのだろうか。是非とも歳が近い役者同士切磋琢磨して頑張って貰いたいものだ。
それによって二人とも実力を伸ばしてくれること程嬉しいことはない。
『……あ、結構長話しちゃったね。そろそろ切ろうか?』
確かに、電話を始めてもうかなり時間が経っている。
俺もさっさとメシを食って勉強でもするか。万が一留年にでもなったら目も当てられない。
百城に「身体に気をつけろよ」と言う。そんなことは百城本人が一番よく知っているのは俺も承知しているので、さりげなく伝えるだけだ。
『ありがと。じゃあね、またかけるよ』
そう言って百城は電話を切った。まだ事務所に残って話し合いとかするのだろうか。
華やかな世界に憧れが無いと言えば嘘になるが、やはり芸能人も大変だな。
特に百城レベルになるとちゃんと寝ているのか心配になる。
夜更かしは肌に悪い。俺でもそれくらいは知っている。
百城の肌は白くて本当に綺麗で、目の下に隈などもないので睡眠不足ということは無さそうだが。
それとも時間は少なくても効率が良いとかだろうか。
考えても分からないので今度聞いてみよう。
人気芸能人が番組で「あの時期は本当に忙しくて、毎日殆ど寝ていませんでした」と語っているのはたまに見かける。
アイドル的な人気が百城は高いので、もしかしたら彼女のルックスに影響がある程の激務は事務所が許可しないのかもしれない。
しかしまぁ、今はテレビを点けりゃあ一時間に一回は必ず何かしらで百城が出てくる様な人気ぶりだ。CMなりドラマなり番宣なりで。
百城の仕事量がとんでもないだろうというのは素人の俺でも想像は出来るがそれがどんなモンなのか具体的にイメージできない。
あと、食事がゼリーだけの時があるのは頂けない。あれは駄目だ。俺でさえ毎日人間らしい食事はしているというのに。
あ、しまった。
景のことを言うのをすっかり忘れていた。
まぁ言いか、別に言わなくても。
景のことを頼むと伝えておいたアキラ君がいるのだから。彼はとても真面目で色々と器用である。
大抵のことはそつなくこなしてしまう人間なのだ。
百城に言うのは今度電話がつながった時で問題は無いだろう。
18
デスアイランドの撮影二日目。
夜凪は俯瞰の視点を持つことを己の目的とし撮影に臨む。
彼女の脳裏には前日に見た百城千世子の演技のイメージが映し出される。
初日の撮影は物語の導入部分であった。
修学旅行中の生徒を乗せた船は嵐に巻き込まれ、気がついたら謎の無人島に漂着していた。そしてスマホの中にはデスアイランドなる謎のアプリが───
それがこの映画の冒頭部分。所謂プロローグだ。
何とか生徒たちは合流を果たしたが、様々なイベントにより互いに疑心暗鬼に陥る。
そして遂には、デスアイランドの介入により決裂は決定的となり殺し合いが始まる。
昨日はそこで終わった。予定よりも三時間早い撮影終了だった。
それを可能にしたのが、百城演じるカレンをはじめとしたスターズ組によるスムーズな撮影進行。
一例を上げるとするならば、湯島と百城が生きて再会したことを喜び合う場面において、緊張から台詞が詰まってしまった湯島をフォローするようにカメラから彼女を隠した場面だろう。
カメラの位置関係を全て把握し、自分達がどのように撮られているかを完璧に理解している彼女だからこそ可能な芸当だ。
百城だけではない。
緊張によって自身の実力を十全に引き出せていないオーディション組に比べて、キャストの半分を占めるスターズ所属の俳優たちは初日から力を発揮した。
オーディション組は完全に雰囲気に呑まれてしまっている。
そんな内の一人である湯島が宿舎にて自分たちの現在の状態を危惧していたように、確かに良くない滑り出しだ。
もしこのままではスターズ組の引き立て役で撮影は終わってしまうだろう。
各々で撮影に臨む気持ちは異なれど、初日はそういったように、スターズとそれ以外ではっきりと二分されて終了した。
◆◇◆◇
「───皆……逃げて」
目の前でクラスメイトが斬り殺された。芝居であるのにもかかわらずその事実に吐き気を抑えられない夜凪はカメラのフレームから一旦外れる。
デスアイランドのアプリの指示に従わなかったことにより同級生が無惨に死に、それに怒りを覚えた女子生徒が元凶となった男子生徒を殺害するだけの、たった十数秒の撮影場面。
にもかかわらず夜凪には、自分が嘔吐を我慢できる自信は無かった。
そこで彼女がとった行動がフレームアウトである。
吐くのをどうしても我慢できないのならばそれをカメラに収められなければ良い、と彼女は考えた。
自分を俯瞰する能力。夜凪がその力をつけつつある証拠だった。
視点を増やす。それが夜凪にとって必須の課題。
これをクリアできなければ、どんなにメソッド演技の才能があろうとこれからのステップアップは期待できない。
それは彼女も理解している。
自分がどう見られているのか、どう映れば良いのか。その視点が今までの彼女には欠けていたのだ。
だからこそ主演男優にドロップキックをかまし、オーディションにおいて演技に入り込むあまり周りを鑑みることが出来ないという事態に陥った。
カメラの届かない所までしゃがみこみ、そこで夜凪の口から吐瀉物が溢れる。彼女の狙い通り撮影カメラにはその瞬間は映っていない。
いくら迫真の演技とはいえ女優の嘔吐は映せないと、流石の夜凪でも知っていた。
因みに彼女はこの日朝食を多く摂取した。
今回の映画撮影は人気コミックシリーズが原作、しかも大手のスターズが主催ということもあり予算が潤沢である。故に役者の待遇は良かった。
ホテル施設の充実も夜凪にとっては嬉しかったが、何よりも食事が豪勢なことに彼女は惹かれる。
この日は撮影二日目、そして初めての朝食。
朝からバイキング形式であり、食材にも高級なものがふんだんに使われていた。
夜凪家の財政事情では今まで口にすることのできなかった料理のオンパレードであり、テンションの上がった彼女はレイとルイに申し訳なく思いつつもガッツリ食べた。
そのせいかは不明だが、夜凪の勢い良く飛び出した吐瀉物は、斬り殺される生徒の役───堂上竜吾に少しだけかかった。
彼にとってはトラウマものであろう。御愁傷様としか言いようがない。
「良かったな、美少女のゲロだぜ」と羨ましがる人間はこの地球上に何名ほどいるのだろう。
夜凪は嘔吐しきると再びフレームインする。
彼女は口に手を当てており、顔は真っ青。完全に病人の様相だ。
もう一度言うが、今日の彼女は体調不良だという事実はない。
「ケイコ」という本来原作には登場しないキャラクターに完全になりきり、だからこそクラスメートが斬り殺されるという状況に耐えられないほどに感情が揺さぶられたのだ。
彼女のメソッド演技はその領域に達している。
場面のセリフが全て終了すると同時に夜凪はその場に倒れこむ。彼女は身体が限界を迎え立つことすらできない状態だった。
周囲の人間は夜凪の容態を心配する。演技中に吐いたのだから、どこかが悪いのかと心配されるのは当然のことである。
「カット! OK!」
そんな騒然とする現場にデスアイランドの監督である手塚の声が響く。
◆◇◆◇
夜凪は自室のベッドで目を醒ます。あの後倒れた自分を誰かがここまで運んでくれたということだけは理解できた。
視線の先には白い天井、そして照明。続いて彼女が自覚したのは空腹感だった。
「……お腹空いた」
彼女が力なくそう呟くとぐぅ、とお腹が鳴った。
朝食べた分は全て撮影中に吐き出して、それから何も摂ってないので胃の中は空っぽである。
「そりゃ本番中にゲロ吐いたらお腹も空くわ」
「 !? 茜ちゃん……」
いつの間にかベッドの傍に椅子を用意して座っていた湯島茜。その存在に景はびくりと身体を震わせる。
昼間の撮影ではまだ二人のやりとりがぎこちなかったことを夜凪は意識している。
オーディションの日を考えれば仕方ないことだ。
「しかもあのテイクがOKになってすぐ倒れてまうし。現場騒然やったで」
「ごめんなさい。倒れるとは思ってなくてまた迷惑かけた」
布団に潜り顔だけ出して湯島と会話をする夜凪。
こういった所作からも、夜凪が湯島に対してまだ申し訳無さなどを抱えているのが見てとれる。
「吐くのは折り込み済みみたいな言い方やね。あれがなんでOKなんか分からんくてあの場でOKテイク観せてもらってん、皆で」
一拍置いて、湯島は続ける。
「夜凪ちゃん、すごいね」
湯島の頭には、オーディションの際の夜凪とのやり取りが浮かぶ。
夜凪が同じ組として審査を受けた他の三人に語った、「芝居をしていると勝手に身体が動いてしまう」という言葉。
あの時の湯島は眉唾として真面目に受け取っていなかったが、目の前の夜凪が他ならぬその体現者だということに気がついた。そして、審査の際の暴走も。
「あれ、ほんまやったんやね」
「……?」
「ゴメンね」
「どうしてあやまるの?私結局また迷惑かけたのに」
湯島はオーディションの日、自らの思うがままに演技をする夜凪を審査の途中で押し倒して「人の気持ちが分からないのなら役者をやめてしまえ」と叫んだ。
あの時、夜凪に審査をめちゃくちゃにされたと判断したからだ。
高校を中退してまで目指した役者の道。彼女はデスアイランドのオーディションに全力を懸けていた。
湯島の考えは別に間違ってはいない。
一般的に見れば暴走したのは夜凪の方で、他の三人はそれを制御しようと必死だったのだから。それは他ならぬ夜凪本人が認めている。
湯島が夜凪に謝る道理は特にない。
だが、現在の湯島の考えはそれとは異なるようだ。
「夜凪ちゃんを誤解してオーディションめちゃくちゃにしたんは私やろ。迷惑かけたのは私の方や」
「ううん、私あの時武光君を本気で殺していたかも知れない。茜ちゃんが止めてくれなかったら大変だった!」
武光君を殺していたかも知れない。湯島はどこかズレている夜凪のそんな返答を聞いて、思わず笑いが溢れる。
「あっはっ」
「あははは」
その様子を見た夜凪も湯島と一緒に笑った。双方の表情は明るい。これまでの様なぎこちなさといったものは無かった。
何はともあれ、これで二人の間の軋轢は完全に取り払われた。
彼女らはこれで「友人」となる。笑い声は部屋の外にいる人間まで聞こえた。
烏山武光と源真咲。共に夜凪、湯島とオーディションを勝ち抜いた俳優だ。
夕食を食べていない夜凪のために、軽食を運んできている。
彼らも様子を窺いつつ、部屋の中に入った。
◆◇◆◇
「あ、そうだ。レイとルイに電話しないと……」
夜凪はベッドから出ようとする。幼い二人のきょうだいは心配しているだろうと予想した。
彼女のスマホはバッグの中だ。そのバッグはデスクの下にある。ベッドから降りて歩いていかなければ届かない。
夜凪は先程までベッドの端に腰掛けて、腿の上にプレートを置いて夕食をとっていた。
「動かんでもええよ夜凪ちゃん。ええと……この中やな?」
「あ、ありがとう茜ちゃん」
「別に構わへん」
湯島はバッグを持ってきて夜凪にスマホを手渡した。
「夜凪ちゃんきょうだいおるの?」
「弟と妹がいるの。弟がルイで、妹の方がレイ。今日は雪ちゃん……じゃなくて、スタジオの人と留守番してるの」
「へぇー夜凪ちゃんのきょうだいなら可愛いんやろうなぁ」
「二人ともとても可愛いわよ」
どこか得意げな夜凪はスマホを操作し、スタジオ大黒天でレイとルイを預かっているだろう柊雪に電話をかける。
シチューのCMの給料で購入した当初はタッチパネルの操作がおぼつかなかった彼女だがやはり彼女も現代の高校生らしく、今では操作も慣れたものだ。
呼び出し音が部屋に響く。
柊が電話に出るのに十秒もかからなかった。
『あ、けいちゃん今日どうしたの連絡遅かったけど。二人とも何だか心配してるみたいで布団に入っても寝てないの』
「ごめんなさい、撮影中に吐いちゃったの」
『ええっ!? 吐いたの!? 大丈夫!?』
「大丈夫よ。体調悪くなったとか、そういうのじゃないわ。でね、さっき起きたばかりなの」
『お大事に……あ、ちょっと待って』
「おねーちゃんから電話きたの!?」という声が聞こえる。これはレイの声だ。柊が呼んだのだろう。
ドタドタと近づいて来る足音。電話相手が代わった。
夜凪家の特殊な環境故か同年代の子より大人びているレイだが、こういう所は年相応である。
可愛い妹に思わず夜凪も頬が緩む。
『おねーちゃんどうしたの? 雪ちゃんのスマホから 電話かけても出ないから心配になっちゃった』
「吐いたの、オエって」
『へ、平気なの!? 食中毒とか?』
柊と同様にレイも焦ったような声を出す。姉がロケ先で吐いたとなれば心配になるのは当然だった。
夜凪の説明により、役に入るあまりそうなってしまったのだと理解したレイはほっと胸を撫で下ろす。湯島は「それで納得するんか…」と呟いた。
夜凪家の人間は、夜凪の役に入り込む力にすっかり慣れていた。
それから、レイは今日の出来事を適当に話す。
柊が夕飯を作ってくれたこと、黒山は珍しく仕事で事務所にいないこと、あとは学校で起きたことなどだ。途中からルイも参加する。
きょうだい三人での楽しそうな会話を聞き、湯島も烏山も源も何だか心が温かくなるのを感じた。これがきょうだい愛の力である。尊い。
特に湯島の景を見ながら浮かべる笑みは柔らかく、どこかの誰かが見たら枕に顔を埋めて叫んでいることだろう。
『おねーちゃん、おにーちゃん以外の友達できたの?』
「ええとね、今部屋にいるわ。茜ちゃん、武光君、真咲君。ビ、ビデオ通話していいかしら…?」
友人と一緒にビデオ通話をするなど夜凪には初めての経験で緊張している。
高校では友人も少なく、故に彼女にとっては大きな一歩だった。夜凪家に出入りしている青年が見れば拍手でお祝いするだろう。
「全然ええよ。むしろ私も妹ちゃんと弟君と話してみたいわ」
「俺も構わない」
「同じく」
「じゃ、じゃあやるわね……」
恐る恐るといった様子で景がカメラの形をしたアイコンをタップするとビデオ通話に切り替わる。
画面を上下の半分に分けてレイとルイが映し出される。
柊はレイたちの背後にいるのだろうが見えない。
きょうだいの時間を邪魔しないようにという気遣いだった。
「わー、妹ちゃん可愛ええなぁ」
『お人形さんみたいで可愛い……』
「え、ホンマ?嬉しいなぁ、ありがとう」
湯島とレイは女子同士何か惹かれ合うものがあるのかすぐに打ち解けている。
烏山と源は女子同士の会話を邪魔しないためにフレーム外に一度出た。
女子の会話というのは男が入っていけるものではない。
『あ、おねーちゃん。この後おにーちゃん来るんだって。ルイが電話したらいいよって言ってくれたのよ』
「え、本当に!?」
『うん、今日は泊まるんだって。もうすぐ来るはずなんだけど……』
夜凪は目を輝かせたように反応した。青年は最近夜凪家を訪れていない。
以前の公園で会った日から、夜凪も度々誘ってはいるのだが「忙しい」という理由で断られていた。
「あれ、夜凪ちゃん家って四人きょうだいなん?」
「いや、違うわ。レイの言っていたおにーちゃんっていうのは、私たちが仲良くしている人なの」
夜凪家の会話からしておにーちゃんなる人物と親しい関係にあるのだと予想した湯島は、どんな人間なのか興味が湧く。
それに、夜凪の反応に湯島は何かを感じ取ったようだ。
その時、インターホンが鳴る。
『あ、来た』
こんな時間にスタジオ大黒天を訪れるのは、これから来るという約束をした青年か酔っ払いか頭のおかしい奴の三種類だ。
後者の二種類は滅多におらず、確率的には青年が一番高い。
レイはスマホを持ったまま玄関に向かう。
『はいはーい、今開けまーす』
万が一不審者だった場合のことを考えて鍵を開けたのは柊だった。
そこにはレイの予想通り青年が立っていた。左手にはポリ袋がぶら下がっており、中には数種類のアイスが見られる。
スタジオ大黒天にいる人間のために道中買ってきたものだ。
玄関に腰掛けて靴を脱いでいる青年にレイは近づく。ルイも玄関に迎えに来た。
その間内カメのままで夜凪たちには、久しぶりに夜凪家を訪れた青年と喋っているレイだけが見えている。
青年の姿は映らず声のみがデスアイランド組に伝わっている。
『ねぇおにーちゃん、今おねーちゃんの新しいお友達と話しているの』
『って言うと……向こうで仲良くなったのか』
『うん、そうみたい。おにーちゃんも映る?』
『いや、俺は別にいい。俺が混ざったら悪いだろうし』
「そんなこと言わないで話しましょ」
『ほら、おねーちゃんもこう言っているんだし』
レイと景にここまで言われては、青年は断ることも出来ない。
「とりあえず手洗いうがいだけしてくる」と洗面所に青年は向かい、その間にレイたちは部屋に戻る。
カメラのフレーム外にいた烏山と源も湯島が手招きして呼び、青年以外の全員がカメラ内に揃った。
「それにしても、夜凪ちゃんに友達がいるのってほんまやったんやな」
「なっ……! ひ、ひどいわ茜ちゃん! 本当に仲良いのよ!?」
「冗談やて、ごめんな」
そう言って夜凪の頭をポンポンと撫でる湯島。そんな二人のやりとりを見て、本当に仲直りしたのだと改めて思う烏山と源。
デスアイランドのオーディションが終了したばかりの頃ではとてもではないが考えられなかった光景だ。
『二人とも仲よさそうだね』
ルイが湯島にそう言った。
「そうやでー。ええと……確か君はルイくんやな? もしかしてレイちゃんと双子ちゃんなん?」
『うんそうだよ!』
「やっぱり。きょうだいにしてもやけにそっくりやなーと思ってたんや」
そんな会話をしていると、大黒天側からドアが開く音がする。
レイが画面の外側に視線を向けながら手招きしている。どうやら青年が来たらしい。
くっついていて座っていたレイとルイが間を一人分空け、そこに青年を誘う。
二人の間に座った青年はカメラに向かって頭を下げて挨拶をする。
『この度は撮影お疲れ様です。ええと、夜凪の友人です……?』
「なんで疑問形なの!? 私たちお友達よね!?」
「あはは、真面目な人やなぁ。ども、自分は湯島茜って言います」
青年がスタジオに来たのはルイから「おねーちゃんいなくて寂しい」と言われたからだ。彼はバイト終わりに直接スタジオ大黒天に足を運んでいる。
そして訪れていきなりデスアイランドに出演している役者たちとのビデオ通話に参加しろと言われ当惑していたが、面の皮は厚いのでそれを表には出さない。
とりあえず無難に挨拶をしたのだが、スピーカーから夜凪以外で何やら聞き覚えのある声がした。
顔を上げてみると半分に別れた夜凪側の画面に映っているのは四人いた。
元から青年の知り合いである夜凪景は勿論として、その他には烏山武光、源真咲。
この二人はデスアイランドのキャストとしてホームページに載っており、それを見ていた青年は二人を一方的にだが知っている。
そして最後の一人は湯島茜。
青年が今一番推している女優だった。思わず目を見開く。
『……』
「あれ、どうしたの?」
「え、夜凪ちゃん。この人いきなり固まったんやけどどしたん?」
「この人たまにおかしな行動をするのよ」
いきなりの急展開に青年の脳はパンクしていた。
彼は百城千世子にサインを頼んではいたが、まさか本人と会話を出来るとは思ってもみなかった。
最初はそっくりさんかと疑ったが見れば見るほど湯島茜本人である。
それに、彼は口下手な夜凪があそこまで気まずい関係になったのをほんの二日で解決できると予想だにしていなかった。
このような理由から、青年は理解した。「あ、これ夢だわ」と。
たまにやけにリアルな夢があり、これもその一種だと一人納得する。
理解は完全に間違っていた。しかしそれを教える人はいない。
これまで青年は何度も湯島が夢に出てきた経験があるが、その度に起床した時の喪失感を感じていた。
彼は夢の中で湯島と会話を楽しんでいたが、朝目が覚めてそれが自分の良いように作り出した虚像でしかなかったのだと知りなんとも言えぬ虚しさを覚える。
例えるなら、底の果てしなく深い賢者タイムのような感覚。
「何やってんだ俺」と思わず頭を抱えてしまう案件だった。
彼がそんな経験から学んだことは、傷はまだ浅いほうが良いということだ。
たとえ自身の欲望が作り出した偽物だとしても会話をしてみたいと思うが断腸の思いでそれを我慢する。
夢の中のイマジナリーな存在とは長く関わった分だけ起きた時のダメージは大きい。
目の前の湯島茜を無視せねばならないという事実に思わず涙が溢れた。
「な、なんか泣き出したんやけど……」
「ど、どうしたのかしら…?」
急激な青年の変化に柊はあたふたし始める。
湯島は若干引いていた。それなりに長い付き合いのある夜凪も理解できていない。
青年は立ち上がり壁の方に向かって歩き始める。壁に手を添え、頭を思いっきりぶつけた。ドゴォ!と鈍い音が鳴り響く。頭から血が流れる。
『えっ、ちょ、ちょっといきなり何してんの!?』
柊の絶叫がスタジオに響いた。
19
昨日借りてきた本を布団で読んでいたらついつい夢中になってしまい、「あとちょっとだけ」を繰り返して気がついたら早朝の四時を回っていたのは今日の出来事。
流石に徹夜はマズイと思い、それから一時間だけ寝ていつも通り五時に起きて朝勉強して、大学行って授業受けてバイトをこなした。
そして下宿に帰ろうと思ったらルイから連絡が来た訳だ。
景が一ヶ月もの間撮影に行って、しかも今日は子供には面倒見のいい黒山さんも仕事でいなくて寂しいから、俺がスタジオ大黒天に来られるか。
そういう内容だった。
最近夜凪家と直接会う機会が少なかったので、俺もレイとルイに会いたくなってしまったし、スタジオの入っているビルの一階にある銭湯で風呂にゆっくり浸かって疲れを取りたいとも考えた。
あの銭湯、ゆっくりするには本当に丁度いいのだ。
風呂からあがった後の牛乳も堪らない。腰に手を当てながら一気に飲み干すと三割増しくらいで美味しく感じるのだ。
そうしたらさっさと寝てしまおう。そう思っている。
全然寝てなくて、更に一日中何かしら動き回っていたからクソ眠い。
気を抜いたら直ちに睡魔に負けてしまうだろう。今なら立ったまま寝られる自信がある。
そういう経緯があり、俺はスタジオ大黒天に足を踏み入れる。
鍵を開けてくれたのは柊さんだ。今日は柊さんが二人の面倒を見ているらしい。
自分の分も入れて四つ。風呂上がりにでも食おうと思い買ったコンビニのアイスを彼女に手渡す。
美人に「ありがとう」と言われたのは悪い気分ではない。買ってきて良かった。
玄関で靴を脱ぐために座り込んだら、何やらレイがスマホを持ったまま近づいてくる。
柊さんのスマホで景と電話をしているのだろう。
そう思っていたのだが、どうやら景だけでなく向こうでできた友達とビデオ通話をしているらしい。
あの景にたった二日で友人ができたことにも驚いたが、更に意外だったのは俺も出ろと言われたことだ。
レイに「おにーちゃんも一緒にお話しようよ」と言われた時は断った。
景のきょうだいであるレイとルイはともかく、向こうの人と一切面識のない俺が会話に混じっても浮くだけ。そう思った上での返答だ。
だが景にも参加して欲しいと言われれば参加するしかない。気が進むとか、進まないとか、そういう問題ではないのだ。
俺はそこまで言われた上で断れる性格をしていなかった。
とりあえず手洗いうがいをして三人の所に戻ってくれば、レイとルイは真ん中を俺のために開けてくれた。
別に端っこで良いのだがわざわざ言うことでもあるまいし、そのまま従う。
景の新しい友人というのにも興味が無かったというわけでは無いが、それ以上に向こう側の人に悪い印象を与えないように気をつける。
俺が通話に参加する以上、向こう側には俺は景の友人であると伝えられているのだろうし、なので俺の印象が悪くなれば景の印象も落ちてしまうかもしれない。
せっかくできた友人は是非とも大切にして欲しいのだ。彼女のこれまでを考えるとそれはもう切実に。
『ども、自分は湯島茜って言います』
そんな考えで通話に入っていったのだが、目の前に湯島茜がいた。
もう一度言う。湯島茜がいたのだ。
百城にサインは一応頼んでおいたが、まさか本人と会話できるとは少しも予想していなかった。
そこで、寝不足と疲労で大いに鈍った俺の脳は、これは夢の中だと結論を出す。
俺にとって湯島さんの夢を見るのは初めてではない。それによってこれまでに何度も痛い目を見てきた。
流石に懲りている俺は夢から醒めるために壁の方向に歩いていく。
◆◇◆◇
『あはははっ!夜凪ちゃんの友達、面白いなぁ』
腹を抱えて笑っている画面の向こうの湯島さん。笑いすぎて過呼吸になっている。
やばい、マジで恥ずかしい。穴があったら入りたい。俺の顔は今どんな惨状になっているのだろう。多分くっ殺状態だ。
「あはは、おにーちゃん顔真っ赤!」
ルイが俺を見ながら笑っている。最早何も言えずに下を向いた。このままさっさと帰りたいのだがそれで構わないだろうか。
今の俺の頭には包帯が巻かれている。
さっさと夢から醒めようと考えた結果壁に頭を打ち付けたことで出血したのを柊さんに治療してもらった。
幸い血はすぐ止まったようで、さほど大黒天の床を汚すことは無かった。
柊さんは「どうしてもう血が止まってるの」と驚いていたが、俺は昔から怪我が治るのは早い方なのだ。
多分俺の体内の血小板ちゃんは他の人より働き者なのだろう。
それにしても、体内の血球まで擬人化して大人気コンテンツにしてしまうとは、日本人というのは業の深い人種だと思う。
それはさておき向こう側からしてみれば、俺は通話に出てきていきなり自傷行為を始めたただのヤバい奴である。
これじゃあまるで俺が頭おかしいみたいじゃないか。
睡魔に負けそうになっている状態で奇行に走るのは俺に限ったことではない。
だから仕方ないのだと自分に必死に言い聞かす。そうしなきゃ恥ずかしすぎて正気を保っていられないだろう。
眠気もすっかり吹っ飛んだ。
とりあえず画面の向こうの四人には「湯島さんの大ファンで興奮したのと、寝不足と疲労で思考回路がおかしくなっていた」と説明したら、湯島さんと烏山君が笑ってくれたことで兎に角助かった。
こりゃもう徹底的にネタとして昇華しなければやってられない。
源君は見るからにドン引きしていたがしょうがない。誰でもそうなるだろう。
「確かに夜凪の友人なら……」と景の方を見ながら納得していたのは本当に申し訳ないと思っている。
『うちのファンって本当なん? めっちゃ嬉しいわぁ』
マジでファンです。出演作全部見てます。俺はそう言い切った。
笑っている湯島さんは後光が差している様に見える。百城が天使なら湯島さんは女神だろう。そうに違いない。
『えー。例えばどの作品が好きとかあるん?』
色々あって一つに絞るのは難しいが、強いて言うならば一つの作品が挙げられる。
それが発表されたのは三年前。撮影時期を考えればもっと遡るのだろうが、当時中学生であっただろう湯島さんは学園ドラマにてとあるネームドキャラを演じていた。
それが多分今まで見た中で一番好き。別に俺はロリコンじゃないが。
俺はそれを湯島さんに伝える。
『え、それ見てくれてるん!? キミ随分マニアックやね。うち的には会心の出来やったんやけど、あんまり知ってくれている人いなくて嬉しいわ』
やはり彼女にとっても演技が上手くいっていた作品らしい。
これで「あー、確かにそんな役もあったなぁ」と、覚えていないのにとりあえず話を合わせているようだったら更に恥ずかしい思いをしていたことだろう。
やばい、マジで会話が楽しい。今まで生きててよかった。
「おにーちゃん凄く嬉しそう……」
レイが意外そうにこちらを見ている。
夜凪家の前では良き歳上で在るように意識しているので、確かにこんなに表情を表に出すことは少ないかもしれない。
別にはしゃぎ過ぎないよう、これでも心を抑えている筈なのだが。
『ず、ずるいわ茜ちゃんばっかり!』
その時、景が身を乗り出してそう言う。
言われてみれば、俺ばかりが湯島さんと話をしていた。
景もルイやレイともっと話したいのだろう。
そのことを湯島さんとの会話に夢中になるあまり失念していた。
カメラに向かってすまないと頭を下げ俺は席を立つ。
もう十分話したので俺はお暇することとしよう。
『え、ちょ、ちょっと!?』
景の焦った様な声が聞こえる。
柊さんとレイは「マジかお前」と言いたそうな目で俺を見ていた。
「行っちゃ駄目だよ。何してるの?」
柊さんは目がマジだ。
彼女の圧に押され、俺はもといた場所に再び座り直した。
『ええと……あ、あのね、今日初めての台詞だったのよ私!』
勢い良くそう言った景に、俺は「お疲れさま」と言って笑いかけた。
どうやら夜はまだ長いようだ。
これまでの話にめっちゃ感想来ててつい笑ってしまった。脳汁ドバドハやで。
多分次回は一週間後あたりです。一万くらい書くので許して。