執筆するにあたってSSのwikiからちょっと借りたりもしてるんで…。
W○ki風書くのキッツ…。
シルバーバレット(競走馬)
日本の種牡馬、元競走馬(1980-201×)
シルバーバレット(欧字名:Silver Bullet、1980年(昭和55年)6月25日-201×年(平成2×年)11月30日)は、日本の元競走馬・種牡馬である。
現役期間 1982-1991年
欧字表記 Silver Bullet
香港表記 所向无敌
品種 サラブレッド系種
性別 牡馬
毛色 芦毛
生誕 1980年6月25日
死没 201×年11月30日(3×歳没・旧表記)
父 ヒカルイマイ
母 ホワイトリリィ
母の父 ホワイトバック
生国 日本(××××)
生産者 ****
馬主 白銀仁
調教師 灰方勤(栗東)
厩務員 白峰誠
タイトル 最優秀5歳以上牡馬(1991年)
最優秀父内国産馬(1991年)
JRA賞特別賞(1991年)
カルティエ賞年度代表馬(1991年)
カルティエ賞最優秀古馬(1991年)
エクリプス賞年度代表馬(1991年)
エクリプス賞最優秀古馬(1991年)
顕彰馬(1992年)
生涯成績 23戦23勝
(中央競馬) 19戦19勝
(イギリス) 1戦1勝
(フランス) 2戦2勝
(アメリカ) 1戦1勝
獲得賞金 █████████
タイトル 日本リーディングサイアー(2008-202×年)
日本BMI1位(2007-202×年)
概要↑
1982年11月に競走馬としてデビュー。新馬戦を大差勝ちしたあと阪神3歳Sを6馬身差で楽勝勝ちし、関西期待の星とクラシック制覇を期待されたが厩舎の火事によって負った後遺症にて断念。
それからは裏街道を歩み、一時は右脚の複雑骨折で予後不良になりかけ、また屈腱炎になり引退となりかけたが1990年ジャパンカップ制覇を皮切りにKGVI & QESなどをはじめとする海外G1を制覇した。
競走生活は1982-1991年の長きに渡り活躍し、また種牡馬としても長生きだった(1992-201×年)。
競走馬時代は白峰透を主戦騎手とし、無貌の馬、最速の蹂躙者と謳われた逃げ戦法や、サラ系という雑草の血統から下剋上を果たす強さから人気を博した。競走馬としても、種牡馬としても日本を代表する馬である。
生涯↑
出生
1980年6月の深夜、生産牧場であった××牧場で生まれる。父ヒカルイマイは1971年のクラシック二冠馬であったが当時はサラ系であったため種牡馬としてまったく人気がなく、母ホワイトリリィにこの馬がつけられた理由も牧場の資金繰りに窮した結果という散々なものからだった。
なお当時の××牧場にいた馬は当馬を妊娠していたホワイトリリィのみであり、その他の馬は種牡馬であれ繁殖牝馬であれ、近くの牧場に二束三文の値で売られていたという。
出生後の幼名は特になく、そもそも生まれ持った非常に華奢で小柄な体躯から××牧場の人間に疎まれていたと言われ、幼名がつけられたのは後に馬主である白銀仁に母子ともども○○牧場に引き取られた時であったという(○○牧場でつけられた幼名は「チビ」)。
馬主である白銀仁との出会いは××牧場にて当馬が殺処分されかけていたところであり、当馬の目に惚れ込んだ白銀氏が母ホワイトリリィとともに当馬を買い受け、競争年齢の3歳に達した1982年春に「シルバーバレット」と名付けた。
そして栗東トレーニングセンターの灰方勤厩舎に入厩。
はじめ白銀仁は他の厩舎にシルバーバレットを入厩させようとしたがそのすべてに当馬がサラ系であることを理由に断られ、唯一残ったのがこの灰方厩舎であった。
戦績
3歳時(1982年)
11月×日、京都開催の新馬戦でデビューする。鞍上はこの時点でベテランであった白峰透が務め、以後引退まで一貫して白峰が騎乗した。この初戦は持ったまま逃げ2着に大差を付けて快勝し、初勝利をあげる。そして間に1戦をはさみ、年末の阪神3歳ステークスに出走。またそこでも2着に6馬身つけ快勝。その強さから一躍関西の秘密兵器と見なされるようになった。
4歳時(1983年)
春-不幸
翌1983年になり、シルバーバレットはクラシック三冠に出走するはずだった。が、2月×日深夜に起こった灰方厩舎の火事により断念。その火事にて灰方厩舎の競走馬のほぼすべてが没し、唯一競走馬として残ったのが当馬となった。
秋-勝ち獲った王冠
春を全休したシルバーバレットの復帰戦は10月9日の毎日王冠であった。初の古馬との競走のため5番人気となったが楽に逃げ切ったあと、2戦のOP戦を走り1983年を終えた。
5歳時(1984年)
三冠馬をも置き去って
5歳となったシルバーバレットは東京新聞杯、日経賞と勝ち、秋の初戦に昨年と同じ毎日王冠を選んだ。なおこの毎日王冠には同世代の三冠馬・ミスターシービーやこの後にジャパンカップを制すカツラギエースがいたが相変わらずの押切勝ちで勝利した。だがゴール板を通り過ぎた後に右脚を剥離骨折。休養となる。
6-7歳時(1985-86年)
天皇賞・春を目指して
1985年剥離骨折から復帰したシルバーバレットは復帰戦として新潟記念を選び、その後もスワンステークス・ステイヤーズステークスを連勝した。この当時から当馬の非凡な才は有名で、当時の雑誌の小さなコラムに記事が載せられている。
この非凡な才を見た陣営は次の目標として天皇賞・春を選び、その前哨戦として1986年ダイヤモンドステークスを選んだ。もちろんシルバーバレットは楽に逃げ切ったがまたゴール板を過ぎたすぐに右脚を骨折する。そのあまりの酷さは観客席から大きなどよめきが起こるほどであり、一時は獣医にも匙を投げられたという。だが馬主である白銀仁が「金はいくらでも出すからシルバーバレットを助けてくれ!」との懇願によりボルトを入れる手術がなされた。経過は良好であり、奇跡のごとく復活したシルバーバレットは1987年も現役を続行することとなる。
8-10歳時(1987-89年)
足踏み
ボルトを右脚に入れたシルバーバレットは札幌記念・小倉記念・ウインターステークスと連勝し、またも天皇賞・春を目指す。1988年になると京都記念・中京記念と勝利し、いざ天皇賞・春となるが今度は左脚に屈腱炎を発症。細心の注意をはらいながらの出走であったが屈腱炎を発症した事実に陣営は打ちひしがれ、シルバーバレットの引退案まで出た。が、馬主である白銀仁の息子であり、後に自身も馬主となる白銀創の必死の説得により陣営は再起。シルバーバレットの屈腱炎が良化したことにより1990年ジャパンカップへと向かっていく。
11歳時(1990年)
実力の証明
1990年、シルバーバレットはジャパンカップへと直行した。今までは前哨戦を使うのが灰方厩舎の方針であったが、シルバーバレットの実力とこれまでのシルバーバレットの怪我の遍歴からもしもがあってはいけないと直行策となったのだという。
ジャパンカップ当日、怪我明けと年齢により13番人気となったシルバーバレットだが「たった一頭だけ駆け抜けてきた」という破格のスピードダッシュからぐんぐん走り25馬身差の圧勝。この昨年ホーリックスが出した2:22.2のワールドレコードを大きく超える2:19.0での勝利となった。またこのタイムが2着馬であったベタールースンアップと4秒離れていたため、その結果当時のタイムオーバー制度が変更された。
12歳時(1991年)
世界をひっくり返して
1991年、前年引退するはずだったシルバーバレットはJRAや社来グループなどの強い希望から海外遠征と相成った。はじめはこれまでの日本馬の成績から軽視されたシルバーバレットだったがKGVI & QES、ムーラン・ド・ロンシャン賞と連勝し、いちばんの目的であった凱旋門賞では今現在も最大着差である36馬身差で圧勝。そのあともBCクラシックを18馬身差で圧勝し、1992年競走馬を引退した。
競争成績↓
特徴・評価↑
シルバーバレットに対しての評価
その競走能力に対しては、今ではこれまでに誕生した・これから誕生する競走馬にもこの馬ほどの存在が現れることはないだろうという評価が下されているが、当時はそのあまりにも華奢で小柄な体格から散々な言われようをされていたという。
主戦騎手である白峰透・調教師であった灰方勤は当馬と出会った最初期から「シルバーバレットのような存在にこれから会えることは二度とない」との評を与えていたが当時はサラ系である当馬にそんな評価を与えることを周囲の人々は「気でも狂ったか」と笑っていた。
だがその非凡さは徐々に無視できないものとなり、まだ競走能力のピークに達していない4歳の時点で「(シルバーバレットのあまりの速さに一緒に走った馬の)心が折れるから手加減してくれ」と言われてしまうほどであったという。
またシルバーバレットは脚の速い競走馬だと知られているがこの馬を知る多くの騎手・馬産家はその才能の本質を「どこでも同じように走れること」だと述べており、たしかに当馬の競走成績を見ると短距離~長距離、芝・ダートと幅広く、そのどれもで遜色のない結果を出している。
レーススタイル
シルバーバレットは父ヒカルイマイとは違い「逃げ」戦法を好んだ。主戦騎手である白峰透が言うには「シルバーバレットは頭のいい馬であったから仕込めば他の走り方でもいけた」が、その体格の小柄さから一度馬群に飲まれればひとたまりもないとのことでもっぱら「逃げ」戦法を選んでいた。またスタートを大の得意としており、ハナを切って悠々と自分の思うがままにレースを進めるのを楽しみ、そして最終直線で父ヒカルイマイ譲りの末脚を爆発させ、逃げおおせることが常であった。その走りは当時の騎手たちからして「逃げて追い込む」とまで評されたもので、大いに恐れられていたという。
そしてシルバーバレットの大きな特徴としてコーナリングの上手さが挙げられる。元々シルバーバレットという馬は小さい歩幅で脚の回転を速くするピッチ走法をとる競走馬であったが、それを考慮に入れても「いつ手前を変えたのか分からない」、「コーナーを回りながら凄まじい勢いで加速してくる」、「そのコーナリングの上手さに父ヒカルイマイ譲りの末脚も加わるものだから打つ手がなかった」と後年評する騎手もいた。
精神面
シルバーバレットは非常に気性の大人しい馬であった。人間の言うことには従い、世話で困ったことはあまりなかったとされている。担当厩務員であった白峰誠いわく普段は『放っておけばいつまでもぼうっとしてるような馬』だったが一度レースになれば『怖いぐらい闘志を漲らせる馬』であったという。また輸送にもめっぽう強く、海外遠征の折もピンピンしていたため現地の人間を驚かせたという逸話が残っている。
身体面
シルバーバレットの調教師であった灰方勤は「シルバーバレットの馬体の欠点は目をつぶって済むようなものではなかった」「同じような馬が1000頭いてもその999頭は走らない」としている。その馬体の酷さは前述の通り生産牧場にて殺処分されかけていたほどのものであり、「この馬が生き残ったことこそ奇跡」だとも述べている。
███は、種牡馬時代のシルバーバレットが最盛期は200頭以上、多少落ちても年100頭以上の繁殖牝馬と種付けができていたことについて「抜群のスタミナと内臓機能、それに非常に柔らかい体が合わさった結果だ」と評しているが、その受胎率の高さについては「なぜそんなに高いのかさっぱり。もう笑うしかない」と評している。
種牡馬として↑
種牡馬成績・記録
前述の通り、シルバーバレットはサンデーサイレンス亡き後、入れ替わるように2008年から202×年まで1×年連続でリーディングサイアーとなっている。
シルバーバレットは、中央競馬における内国産種牡馬に関する記録の多くを更新した。リーディングサイアー、連続リーディングサイアー、通算勝利数、通算獲得賞金、通算重賞勝利数、通算G1級競走勝利数、年間勝利数、年間重賞勝利数、年間G1級競走勝利数、年間獲得賞金額、通算クラシック勝利数、1週間勝利記録はいずれも最多記録を所持している。
また、中央競馬・地方競馬をあわせた通算勝利は4820勝で、当時の世界の最多記録であった。
ブルードメアサイアーとしての成績
シルバーバレットをブルードメアサイアーに持つ競走馬は1998年に初めて誕生した。当初は、シルバーバレットの母方が持つ激しい気性が、悪い形で遺伝するのではないかと懸念されていたが、1世代目からG1級競走勝利馬が現れるなど破格の成績を出したため、リーディングブルードメアサイアーになるのにそう時間はかからなかった。
競走馬エージェントの█████は、シルバーバレットは種牡馬としての特徴である柔らかでしなやかな筋肉と穏やかな気性から生まれる「聞き分けの良さ」と「動じなさ」を、ブルードメアサイアーとしても遺伝させるとしている。
シルバーバレット系種牡馬の活躍と血の飽和、偏りの問題
シルバーバレット直仔の種牡馬デビューすると、日本のリーディングサイアー上位は彼らとサンデーサイレンス直仔によって占められるようになった。が、それでも種牡馬としてのシルバーバレットに勝っているとは言えず、シルバーバレットとその直仔の種牡馬の成績を見るとどうにも劣っているとしかいえない。だがシルバーバレット直仔の種牡馬の産駒も中央競馬における数々のG1級競走を制覇しており、更に国外でもシロガネリリィ(父シロガネハイセイコ)がBCフィリー&メアターフを、シロガネシデンカイ(父シロガネシンゲキ)がジュライカップを優勝し、その他の直仔種牡馬もシャトル種牡馬となり、その産駒が南半球やドバイのG1を勝利している。
日本国外へ輸出された種牡馬を見ると、イギリスに輸出されたグラスホッパーズの産駒フライウィズアウトリミッツがグランドナショナル親子制覇を果たし、また同じくイギリスに輸出されたシロガネリペインタの産駒リペインタージュニアがニジンスキー以来のイギリスクラシック三冠を達成し、カルティエ賞年度代表馬・最優秀3歳牡馬に選ばれている。
シルバーバレット自身ばかりでなく、その直系の牡馬までもが種牡馬として活躍し数多くの種付けをこなすようになると、シルバーバレットの血を引く馬が過剰に生産され、それらの馬が種牡馬や繁殖牝馬となることで近親交配のリスクが高まり、やがては日本の競走馬生産が行き詰まりを見せるようになるのではないかという懸念が生じるようになった(血の飽和、偏りの問題)。20××年の朝日杯フューチュリティステークスにおいては同一GI最多出走となる12頭のシルバーバレット産駒が出走し、スペシャルウィーク産駒のバトルクライズが優勝した201×年の宝塚記念では、出走18頭のほぼすべてが「シルバーバレットの血を引いた馬」という事態も起こっている。
これに対し███は、サラブレッドの生産においては一つの系統が栄えれば次に別の系統が栄えるということが繰り返されて来たのであり、シルバーバレットもサンデーサイレンスの場合と同じくほかの系統が自然と栄えるようになる、加えてシルバーバレット系の馬を日本国外へ輸出するという対策方法もあると反論している。
××××は、「普通なら走るわけがない血統」ながら競走馬として活躍した本馬を「運命を覆した馬」と評した。しかし、種牡馬としてのシルバーバレットについては「サンデーサイレンスと同様に功の山を築く一方で、罪の山も残した」とも述べている。
また××は、シルバーバレットという競走馬が「(日本の競馬が好む)小が大を制する、脇役が主役を食う、底辺から這い上がった馬が頂点をめざす、どんでん返しの展開、意外性といった波瀾万丈、立身出世のシナリオ展開を最後まで成し遂げた」と賞賛する一方、シルバーバレットの直仔は代を重ねるごとに「その血ゆえに勝つことが当たり前になった」とし、シルバーバレットが競馬界全体にもたらした血統の寡占と格差社会によってそのような要素が骨抜きにされてしまったため、これがファンの競馬離れと周辺メディアの停滞を招く一因になったことは否めないと述べている。
特徴・評価
産駒の精神面
シルバーバレットの産駒は基本的に気性の穏やかな馬が多いことで知られた。競走馬エージェントの××は、産駒は穏やかな気性から生まれる「聞き分けの良さ」と「動じなさ」から「掛かることなく、騎手が指示するとおりにレースを行える」と分析し、「これほど騎手の腕が試される産駒を生み出す種牡馬はこの馬以外にいないだろう」と述べている。また馬主である白銀仁はシルバーバレットが日本で種牡馬として成功した秘密は度重なる不運に起因しているとし、「第一に『我慢強さ』、第二に『(血統背景からくる)負けず嫌い』にあり、それが産駒にも引き継がれ、最後まで諦めない闘争心となっている」と述べている。
自らもシルバーバレットに騎乗し、のちにシルバーバレット産駒にも多く騎乗して多くの勝利を挙げた白峰透は、「バレットの産駒はどんな子でも走る」と前置きした上で、「(レースを勝利するにおいて)負けず嫌いで絶対に諦めようとしない産駒の性格が自分によく合っていた」とも述べている。
白峰はシルバーバレットの産駒はスタートが上手く前目につけるタイプの馬が多かったとし、その一方で「最後の最後に二の足が使える馬が多いこと」を特徴に挙げている。乗りやすさにおいては「あれほど乗りやすい産駒はいない」としながらも「人の言うことをよく聞くから、レースを勝つ=騎手の腕の見せ所という怖い馬がほとんど」とも語っている。
また馬産地においても「(シルバーバレット産駒は)気性が大人しく、育成場に行っても物覚えがいい」「競走馬になれずともこのまま乗馬に回せるくらいには気性が穏やか」との評判があり、賢さを併せ持った産駒が多かった。
産駒の身体面・肉体面
産駒の特徴については**は、「外見・馬体ともに見栄えはしなくても肉体面が驚くほどにしっかりしていることがよくあった」と述べている。××によると「外見・馬体ともによくなくてもシルバーバレットの仔なら預かる」と話す調教師もいたという。
そして、シルバーバレット産駒は仕上がりが早い(調教の効果が表れやすい)傾向にあり、2歳のうちから能力を十分に発揮した。███によると、産駒は少し運動をさせただけで澄んだ心音が聞こえるようになるなどはっきりとした身体的変化を見せたという。○○によると、成功を収めたシルバーバレット産駒には細身の馬が多く、通常そのような馬は晩成型であることが多いが、シルバーバレット産駒の場合は馬体が未完成な時期にもクラシックを戦い抜く基本性能を備えていたと評している。
僕:
香港馬名で所向无敌(向かうところ敵無し)という意味のぶっちぎりの当て字名前を授けられたウッマ。
産駒が何やかんやいろいろとやらかしてたりやらかしてなかったり…。
内国産馬でSSと真正面からやり合ったバケモノ。
とても長生き。