冷たい風が肌を刺す。かじかむ手に震える身体。 しっかり防寒しないとまともに外を歩けない寒空の下。
「……長良さん何ですかその格好……」
「あ、阿賀野」
ジャージ姿の長良さんが立っていた。
「何してるんですか?」
「走り込み」
「もっと暖かい格好でやって下さいよ〜、見てるだけで寒くなってくる……」
「そう?」
「そうですよ! 何で平気なんですか!」
「う〜ん……、身体を動かしてるから?」
「え〜……」
身体を動かしてるからでこの寒さの中、本当にこんなにあっけらかんとしてられるものなのだろうか。
「阿賀野もする? 走り込み」
「嫌です」
「え〜……」
「そもそも私、書類を片付けなきゃいけないんで」
そう言って長良さんの走り込みを断ったのが昨日の出来事。
そしてその長良さんが私の部屋で何も言わず突っ立ているのが今現在の出来事。
「外は寒いですね〜」
「そうだね」
「……こたつは暖かいですね〜」
「そうだね」
私の言葉に短い返事をすることしかしない長良さん。もうそれだけで長良さんの目的が何なのか大体予測がついてしまう。
「長良さんも入れば良いのに〜」
「遠慮するよ。それより阿賀野……」
「長良さん聞いてください」
「まだ話途中なんだけど……」
早くも予測が確信に変わった。もう何も言われなくても長良さんの目的が分かる。
「聞いてください。私、ここ最近書類作業の手伝いをしてたんですよ」
「うん」
「で、それが昨日の深夜にやっと終わったんですよ。そして今日は珍しく何もない日なんです」
「うん」
「疲れてるから今日は休みたい……」
「分かった。じゃあ走りにいこうか!」
「私の話聞いてました!?」
「軽い運動は固まった筋肉と血流をほぐすから疲れ取れるんだよ?」
「長良さんの言う『軽い運動』は信用できません……」
やっぱりそうだ。こういうときは大体走り込みのお誘いだ。
「分かった!長良のプロテインあげるから行こう!」
「そんなんで釣られるわけないでしょ!」
でも今回はそう簡単に長良さんの思い通りにはなってあげない。
「阿賀野、準備できた?」
「できました〜……」
そう決意してたのに結局付き合うことになってしまった。と言っても私はちゃんと暖かい格好で、しかも自転車に乗っても良いという文字通り付き合うだけの破格の条件でOKしてくれた。ちなみに長良さんは昨日と同じジャージ姿だ。
「よーし! 早速行こう!」
「うわ速!? 待って下さい!」
長良さんが走り出した少し後に私も自転車を漕ぐ。相変わらず少しでも遅れるとあっという間に距離を空けられてしまうほどに速い。今回は自転車のお陰で比較的楽に追いつくことが出来るけど、いつもならこれに走って追いつかなきゃいけないんだもんな。
「今日はどれくらいやるんですか?」
「ん〜、走ってから考える」
その一言で確信した。ああこれは長くなる。
「……いつも思うんですけど鎮守府の同じ場所をず〜っとぐるぐる回ってて飽きないんですか?」
「飽きない。それに今回は鎮守府の外に出るから」
「え、そうなんですか?」
「うん、しっかり付いて来て!」
「はぁ……」
鎮守府の外まで走り込みに行くこと自体は珍しいことじゃない。でもそれは大概いつもの訓練だったり長良さんの特訓だったりでこういうどっちでも無いときに外に出ることは、少なくとも私の知る限りでは無い。
(何か珍しいな……)
自転車に乗ってもOKだったり、外に走り込みに行こうとしたり、後私のことをやたら走り込みに誘ったり、何だかいつもと違う。
(何かあったの……?)
長良さんの方を一瞥する。綺麗なフォームに一定のリズムで繰り返される呼吸と足音。いつもと変わらない走り方、いつもと変わらない姿の長良さんがそこに居る。
「長良さん……」
「どうしたの阿賀野?」
「え〜と……」
「……?」
「長良さんは……長良さんだな〜……って……」
「? 何それ」
「ははは……」
ちょっと話してみた感じ長良さんはいつもと変わらない。ということは何かあったというのは私の杞憂か、それともそこまで大したことじゃないのか。少しだけ安心して私は自転車を漕いだ。
そして走り始めて数時間、色々なところを周った私達は今、頂点が見えない急斜面な坂を登っていた。
「うわっと!」
「大丈夫?」
「はい……」
そんなところではペダルも重くなる。普段自転車に乗り馴れてないのもあって何度もバランスを崩して転びそうになってしまう。
「降りて押せば良いのに」
「何となく……今日は……漕ぎたい気分何です……」
「別に無理しなくて良いよ?」
「無理してません……」
「そう……? なら良いんだけど……」
長良さんはそれ以上何も言わずにまた走りに集中し始める。変だ。いつもの長良さんに『漕ぎたい気分』なんて言ったら大喜びでペースを上げるところなのに。
話しをしてみたいけど、今は重たいペダルを漕ぐのに精一杯だ。
「到着〜」
「疲れた……」
数十分後、中腹あたりに着くと一旦坂道が終わる。が、視界の先にはまた坂が見える。
(あれまた登るんだろうな〜……)
今から数十分あるいは数分後の未来を想像すると身体が重くなってしまう。
「阿賀野水飲む?」
「あ、飲みます」
長良さんから受け取ったペットボトルに口をつける。寒空の下だが冷たい水が喉を潤していく感覚が気持ちいい。
「何かあれですね〜、体温上がってるおかげでこんな寒い中でも冷たい水が美味しいですね」
「おっ、分かって来たね阿賀野」
「うっ……!」
不味いことを言ったかもしれない。これで長良さんがやる気を出したらまたガッツリ走らされるかもしれない。話題を変えないと。
「……ねぇ長良さん。最近何か落ち込むようなことでもあったんですか?」
「? どうして?」
「いや……、今日の長良さんは何か……変に消極的というか……」
「? 消極的?」
「だっていつもの長良さんだったら走り込みのとき自転車とか絶対乗せてくれませんし……、もっと走ろう走ろうって言ってくるじゃないですか……」
「あー……、だって今日は走り込みじゃないし」
「えっ」
「ここに来たかっただけだから……散歩……? みたいな感じかな?」
ここに来たかっただけ。散歩みたいな感じ。成る程、ちょっと言いたいところはあるけど何で長良さんが妙に消極的なのかの理由が分かった。 長良さんにとってはこれは鍛える為の行為じゃなくて単なる移動だということだ。確かに『走りにいこう』とは言ってたけど『走り込みしよう』とは言ってない。
「……えっ、じゃあ長良さんは何で私のことしつこく誘ったんですか?」
「んー……、阿賀野と走りたかったから」
「…………」
「…………」
「えっ、それだけですか?」
「うん、それだけー」
「何ですかそれ……」
「えへへ」
そう言って長良さんがニコりと笑う。私はその笑顔を見てつい目を背けてしまう。何故かは分からないけど照れるというか、恥ずかしいというか、顔が熱くなるような感情が湧いてきたのだ。
「……後何分くらいで再開するんですか?」
「んー、今日はもう戻ろうと思う」
「え、じゃあもう登らないんですか?」
「うん、日も大分落ちてきたし、夜は寒いしね」
「そうなんですか……」
「……登りたかった?」
「いえ全然」
「そっか……、じゃあ戻ろう」
そう言って長良さんが歩き出す。私もペットボトルに残った水を飲み干して、自転車の方へ向かうと私より先に長良さんが自転車に乗る。
「あれ? 長良さん?」
「乗って」
「え?」
「後ろ乗って」
「…………」
そんな訳で今現在、私と長良さんは自転車の二人乗りで坂を下っている。
「何で二人乗りなんですか?」
「こっちの方が楽でしょ?」
「……走らないんですか?」
「走り込みの時ならね。今日は違うから」
「そういえばそうでしたね……」
どうやら長良さんの中で走り込みとそうでないかで明確に線引きがあるらしい。いつもの走り込みなら絶対に走って帰っているところでもこうやって自転車になんか乗ってるんだから。私にはその線引きがよく分からないけど。
(でもま、別に良いけどね……楽だし……)
そんなことを考えていると坂道の最後のカーブを曲がる。もうここまで来れば後は真っ直ぐ進むだけなのだが。
「……長良さんちょっとスピード速くないですか?」
「…………」
「もう少しゆっくり走らないと危ないと思うんですが……」
「…………」
「……何で何も言わないんですか……?」
「……ねぇ阿賀野、今から受け身の練習するから」
「はい……?」
「坂を下り切ったらタイミングでやるから」
「はい……?」
「スピード上げるよ!」
「え!? ちょっと待ってくださ……」
もうすぐ日も落ちて夜になろうという時間。私達は『歩いて』鎮守府に向かっていた。
「ちょうど最後の下りでブレーキが壊れてさ…….」
「はぁ……」
「それでどうしたら良いか考えて……あれしか無いなと思って……」
「はぁ……」
坂を下ってる途中でブレーキが壊れてどうやって止まろうか考えた結果、坂を下り切った瞬間にわざと自分から転げ落ちることで止まる。長良さんはそう考えたみたいだ。
別にそれ自体は良い。それ自体は良いのだが。
「それなら受け身の練習なんて言わなくて良かったんじゃないですか〜……」
「……不足の事態にも柔軟に対応する練習だよ!」
「それ今思いついたでしょ……」
「うん、今考えた!」
「……はぁ」
しかし振り返ってみると本当に走ってるだけの日だった。寒い中を何時間もただ走って、寒い中冷たい水飲んで、そして最後には自転車から転げ落ちる。いつもの私だったら聞いただけで気が滅入るような内容なのに、不思議と悪い気分はしない。
それどころか何故だか今ちょっと気分が良い。
(何でだろ……)
そんな不思議な感覚の答えが欲しくて思考を巡らせてみる。
『んー……、阿賀野と走りたかったから』
『うん、それだけー』
『えへへ』
すると何故か今日の長良さんの、しかも何故か顔が熱くなったところが脳内で再生される。
「…………!!!」
「!? どうしたの阿賀野!?」
そんな思考を振り払おうと頭の上でブンブンと手を振る。何で最初にあそこが思い浮かぶのだろう。そして何で私はまた顔が熱くなっているのだろう。
「……何でもないです」
「……ごめんね阿賀野付き合わせちゃって……、後で間宮さん奢るから」
「あ、いや、そういう訳じゃないんです……」
「……本当?」
「本当です」
「なら良いんだけど……」
「……早く戻りましょう。寒いです」
「そうだね……」
「…………」
冷たい風が肌を刺す。かじかむ手に震える身体。 しっかり防寒しないとまともに外を歩けない寒空の下の筈なのに私の顔はどうしてこんなに熱を持ってしまったのだろう。
(早く冷めてくんないかな……)
鎮守府に着くまで私はずっとそんなことを考えていた。
ちなみに間宮さんは奢ってもらった。