まえがき
璃月に護法夜叉あり。
護法とは、退魔の御業。
夜叉とは岩王帝君に仕えし法力師を指す。
かつてこの悠久の地に、五人の護法夜叉がいた。
彼らは護法夜叉の中でもとりわけ力を持ち、人々はこれを護法仙衆夜叉と呼ぶ。
その者達とはすなわち、
騰蛇大元帥、浮舎、
火鼠大将、応達、
螺巻大将、伐難、
心猿大将、弥怒、
そして金鵬大将、降魔大聖。
彼らは岩王帝君のもと一丸となり、その昔、璃月に訪れた大きな災いに立ち向かう。
戦は壮絶を極めたが、彼らはその命すら力と変え、この大地を守り抜いた。
現今、我ら璃月人の繁栄は彼らの活躍なくして語れない。
もしたまたまこの本を手に取ったあなたが、彼らの名を初めて聞いたのであれば、どうか、本の最後の頁までお付き合い頂きたい。
今より綴られる激動の物語が、彼らの生きたこの璃月を誇りとし、あなたの明日を生きる希望とならんことを心より願う。
最後に、この本の出版にご協力頂いた万文集舎様、現場取材に加え多大なる援助を頂いた往生堂様と並びにご関係者様方へ心よりの感謝を。
そして岩王帝君亡き今も、璃月のどこかで我々璃月人を見守ってくださる降魔大聖様へ最大限の敬愛を込めて。
著者:平安
一話 出会い
私の名は平安。
璃月港に住み、普段は書物を書く傍ら、璃沙郊の夜叉様を祀る寺の管理をしている。
幼き頃より、民俗学者であった祖父から護法夜叉の伝説を聞いて育った。
血沸き肉躍る戦いの数々や、その悲壮な結末は私の心を魅了し、大人になった今も護法夜叉に関連する品々には目がない。
秘蔵のコレクションを見たいという方がもしいれば、私は喜んですべてをお見せするだろう。
護法夜叉の中でも、私が一番尊敬するのは、『降魔大聖』その人だ。
しかもしかも、私はその昔、降魔大聖ご本人に会ったことがある。
少年のような幼い出で立ちとは裏腹に、瞳に浮かぶ確固たる意志と、積年の悲哀が印象的だった。
ああ、今でもあの時の降魔大聖の姿、仕草、お声が忘れられない。
……ただ残念なことに、彼との出会いは決して褒められたものではなかった。
むしろ、私の生涯の恥と言っても過言ではない。
だが、先に皆さまには伝えておきたい。
私の取り返すことのできない失敗、そして傷つけてしまった人々への深い謝意と消え去ることのない自責の念。
その懺悔と反省をもって今筆を執っているということを。
情けない話だが、かつて私は架空の仙人『掇星攫辰天君』と名を語り、救世救心を掲げ詐欺を働いた。
祖父の収集品の中から見つけた『禁忌滅却の札』の効力を用いて、夜叉のまねごとを始めたのがきっかけだった。
うわさを聞き付けた人々が集まってきた頃には、もう引き返すことはできなかった。
私は夜叉の書物の一説を引用したり、毒とも薬ともならないような言葉を信者へかけながら綱渡りの生活を送る。
どこかで、やめなければならないと思っていた。
しかし引き際を決めることができない日々は、ずるずるとどこまでも続いていく。
そんな愚かで恥にまみれたどうしようもない私のもとに、突如、転機が訪れたのだ。
その日私は、展望が美しいことで有名な望舒旅館で、体を休めていた。
購入した護法夜叉の本でも読み返そうと手を伸ばしたその時、私は白昼夢に襲われたのである。
瞼を開けるとそこに望舒旅館の客室はなく、見渡す限りの青空と、生い茂る草木が私を囲んでいた。
眼前には金髪の少女と、翡翠を身に纏い、濃緑の髪を風になびかせる少年。
(な、なにが起こったんだ⁉)
私は混乱し、取り乱す。
少年少女はそんな私に、仙人の術式を使って私を呼び出したのだとのたまった。
(ははん、なるほど。これは夢だな――)
私は望舒旅館でいつの間にか眠りにつき、夢を見ているのだと自分を納得させた。
こんな子供たちが自分すら知らない仙人の術式を、扱えるわけがない。
私はいつもそうして来たように『掇星攫辰天君』を名乗り、不敬な態度を改めるよう彼らへ言い渡す。
しかし驚いたことに、彼らはそんな私にあろうことか説教を始めたのだ。
私は膨れ上がった自尊心を傷つけられ、激昂した。
夢の中だと思い、気が大きくなっていたのもあったかもしれない。
私が拳を振り上げると、無駄のない動きで少女が私の前に立ちふさがる。
歯止めの利かなくなった私は、拳を思い切り振り抜いた。
今でもその時の衝撃は忘れられない。
少女の見た目が幼かったため、完全に侮っていた。
次の瞬間お返しと言わんばかりに、目にもとまらぬ剣術と、信じられないほどの威力の拳が雨あられのように私のもとへ降って来たのだ。
痛かった。
夢の中なのに、めちゃくちゃ痛かった。
それもそのはず。
夢だと思ったのは私の勘違いで、彼らは本当に仙人の術を使って私を望舒旅館から遠い地に呼び出していたのだから。
あとで聞けばその少女は渦の魔神オセルが璃月港を襲った時、璃月七星と共に魔神を退治した英雄様ご本人であった。
私のような一般人が敵う相手ではなく、ものの数秒で私は地に頭をこすりつけ降参した。
すると戦いを背後で見守っていた緑色の髪をした少年が、その姿には似つかわしくないほどの威厳を纏ったお声で、私を叱咤する。
そして私は知った。
彼が、彼こそが。
私が幼き頃より憧れた、降魔大聖その人であるということを。
気が付けば私は、自分の犯した罪さえ忘れて感動に打ちひしがれ、涙を流していた。
頂いたお言葉の一つ一つは、今でも胸に刻まれている。
私は今までの行いをすべて吐き出し、二度とこのようなことをしないと降魔大聖に誓う。
降魔大聖から許しを得てふと気付けば、私は望舒旅館で、本に手を伸ばしたまま固まっていた。
腕を見ると英雄様から受けた拳の跡がいくつも残っている。
私は改めて、これが夢ではないことを理解した。
その後私は『禁忌滅却の札』を英雄様にお返しし、騙した人々へ今まで巻き上げたお金をすべてお返しする。
足りないお金は借金してその足しにした。
そうすることでしか、罪を償うことができなかったのだ。
騙されていた人に真実を語ると、彼らは罵声を口にし、金を受け取ると私を冷たくあしらった。
それも仕方のないこと。
私の身から出た錆だ。
しかし、一部の人は違った。
「それでも、たとえその言葉が嘘だったとしても、私はあなたに救われた」
そんな言葉を、私に掛けてくれたのだ。
……正直、どんな罵詈雑言よりも、その言葉が一番堪えた。
このような優しく思いやりのある人の心を弄び、私は何を有頂天になっていたのだと。
過去に戻り、自分を思いっきりひっぱたいてやりたかった。
降魔大聖の言う通り、このままあの行いを続けていれば、間違いなくこの身は地に落ちていたであろう。
謝罪の日々を経た私は心の底より改心し、ひとり旅に出ることにした。
璃月の各地を回り、自分を見つめ直すためだ。
私は護法夜叉たちが守った璃月の風を全身に受け、大地のぬくもりを肌で感じ、雨の恵みに感謝を捧げた。
自然と一体となり、自分という存在の小ささ、弱さを実感した。
旅も終わりに近づき、私は決意する。
真人間としてこれからは生きていこう、と。
ちょうどそう心に決めた、あくる日のことだった。
私は夜叉の一人、銅雀様の廃寺を見つけたのだ。
最初、寺かどうかすらわからず素通りするところだった。
それほど寺の状態は悪かった。
屋根は落ち、壁は崩れ、動物の足跡がそこかしこについている。
銅雀様の彫像は苔むしており、昨晩の雨のせいも相まって、その瞳からまるで涙を流されているように見えた。
それを目の当たりにした瞬間、まるで雷で撃たれたような衝撃が全身を駆け巡る。
同時に直感した。
この誰も参拝する者がいなくなった寺こそ、現代の璃月を象徴していると。
岩王帝君は亡くなり、璃月は今や神や仙人ではなく、人が管理する時代である。
だがしかし、人とは元来弱きもの。
私の信者の多くは、人間関係に疲れ、心を病んだ人が大半だった。
たとえ神がいなくとも、人々の心には、支えが必要だ。
その為には、支えたりえる象徴が不可欠である。
私はそれを、かつて璃月を守った夜叉たちに見出した。
彼らの生き様や残された言葉は私という邪念を持った存在を超えて、少ない人数ではあるものの、その心を救うことができた。
では、それを誠心誠意伝えることができれば――。
(多くの璃月人が、明日を笑顔で暮らせるに違いない!)
そう思えば行動は早かった。
翌日から私は寺の修繕に取り掛かる。
お金も人手も足りなかったが、それは些細なこと。
金銭は別の方法で稼ぎ、人手は時間を掛ければ何とかなる。
そうして孤軍奮闘していたところ、かつて私と拳を交えた英雄様が、寛大なことに手厚く支援して下さった。
【※注記 拳を交えたとはいえ、私の拳はかすりさえしていなかったことを、誤解を防ぐためここに記しておく】
うわさを聞き付けた近隣の方々のご助力もあり、ほどなくして寺は見事に生まれ変わった。
その結果、私のような人間が身に余るほどの感謝を告げられ、光栄にも寺の管理を任されることとなる。
少し長くなったが、これが私の来歴だ。
そしてこれから書こうとしているのは、そんな私に起こった、不思議な出来事の数々。
先に述べたように、私は心を入れ替えた。
なので、決して嘘偽りは書かない。
それはこの本に限らず、すべてにおいて一貫する私の信条だ。
なので、信じられないかもしれないが、これから書くことはすべて事実である。
事の発端は、ヤマガラさえずるうららかな昼下がり。
寺に届けられたたった一つの小さな木箱から全てが始まった。
私が寺の掃除をしていると、背後に人の気配を感じ振り返る。
そこには腰の曲がった老婆がひとり、立っていた。
後ろ手に持った袋を差し出しながら、老婆はおもむろに口を開く。
「家の掃除をしていたら、ちょうど蔵の奥からこんなものが出てきてねぇ。よくわからないが、きっと夜叉様に関わるものだと思って。家で保管しておいても、また埃をかぶって忘れられるだけだから、どうかお祀りしてもらえないだろうか」
見れば袋の中には、布で丁寧に包まれた木箱が入っている。
私は礼を言い、袋の中身を受け取ると、老婆は安心した表情を浮かべ去っていく。
その姿を見届けた後、私は早速寺の中でそれを紐解いた。
中から姿を現したのは、埃にまみれた、浅黒く細長い木箱。
こびりついた埃は、布でこすっても簡単には取れそうにない。
私はため息をついた。
実は、こういったことは珍しくない。
寺が新しくなり、参拝者が増えるにつれ、時折このようなものが届けられるのだ。
だがその多くは偽物であったり、夜叉とは関係のないものがほとんどである。
夜叉の伝説は今でこそ下火だが、その昔は有名であったが為、多くのまがい物が現存していた。
これもそのうちの一つだろう、と過度な期待はせずに、私は骨董品専用のブラシを用いて慎重に箱を磨いた。
おかげで埃のほとんどは落ち、箱に書いてあるかすれた文字もある程度は判別がつくようになる。
だが、どうしても汚れが落ちない箇所があった。
箱の下半分、ちょうど文字の後半にかけて、拭いても擦っても、まるで糊付けでもされたかのように黒い染みの汚れが取れない。
不思議に思った私は、薄暗い寺の中から外の日差しの下に出ると、太陽に箱をかざした。
そして次の瞬間、体中の毛が逆立った。
――これは汚れなどではない。
血痕、である。
誰かがこの箱の上から、大量の血をこぼしたのだ。
それが文字の上から木箱に染み込み、取れることのない染みとなっている。
幸運なことに太陽の日差しの下であれば、染みの奥に書かれた文字を何とか読むことができた。
埃を取り去った部分と繋げて読めば、それは古い文字で護法夜叉の銘と封印の意を表している。
脈が速くなり、鼓動がうるさいほど大きくなる。
気づけば、箱を持つ手が震えていた。
私の経験が告げている。
これは、本物である、と。
そうと気づけば私は早足で寺の中へ戻り、箱を布の上に戻すと手袋をはめた。
日光は骨董品の劣化を早め、指の油は痛みの原因となる。
これが本物の夜叉の遺品だとするならば、私も万全の態勢で開封に臨む必要があったからだ。
私はじわりと、木箱の蓋を持つ手に力を籠める。
存外しっかりした作りなのか、木箱の蓋はその箱が作られた当時と同じように、簡単に開いた。
はやる気持ちを押さえ、深呼吸をする。
なにせ、久しぶりに出会った夜叉の遺物である。
いつの間にか額に浮かんでいた汗を袖口で拭い、ゆっくりと蓋をずらすと箱の隣に置いた。
中を覗き込むと、心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われる。
そこにあったのは、たった一枚の札。
箱と同じく、札の端にも血がべっとりとついている。
ただ不思議なことに、その血はまるで先ほどつけられたのではないかと見紛う程、鮮やかな紅色をしていた。
あの老婆か誰かが、箱を開けた時につけた血液ではないか。
そんな考えが頭をよぎるが、私はすぐにその考えを否定する。
丁寧に箱の掃除をした私だから分かる。
この箱は数十年、いや、それよりももっと長い間、一度も開けられた形跡はなかった、と。
「どういうことだ……」
思わず、口を突いて出た困惑に私ははっとした。
前にも同じことがあったのだ。
そう、あれは祖父の遺品を整理していた昔日。
私が道を踏み外すきっかけとなった、『禁忌滅却の札』との出会いとまるでそっくりなのである。
『禁忌滅却の札』には血痕はなかったが、あの時と同じ感動に、今も打ち震えている。
そう考えた途端、全身の血が凍りついた。
私は震える手で、箱の蓋を閉じる。
トラウマに、なっていたのだ。
『禁忌滅却の札』を中心とした、あの日々が。
(また、私は繰り返してしまうのだろうか……)
自問自答を何度も繰り返す。
そしてようやく、私は首を横に振った。
(あの日の私と、今の私は違う!)
折れそうになった心を、奮い立たせる。
好奇心に身を任せるようなことはしないと、私は降魔大聖に誓ったのだ。
「……これは然るべき人に見てもらい、もし危険な物であれば、たとえ歴史的価値がどんなに高かろうと破棄しよう」
私はため息交じりに、私はそう自分に言い聞かせた。
滅多にお目にかかれない貴重な宝物。
コレクションに加えたいという気持ちを抑えきることは難しい。
であれば、早いところ鑑定してもらい、なかったことにした方がましである。
そしてもし、危険なものでなければ。
晴れて、寺の宝物殿に収めることができるのだ。
「よし、やることは決まった」
そう自身に活を入れると、私は銅雀様に一礼し、箱を布で包み込み鞄の中へと仕舞った。
降魔大聖に会うことができれば話は早いのだが、奇跡でも起こらない限り再び会うことは難しい。
であれば。
私は鞄を背負うと、寺の外へと足を運ぶ。
目指すは璃月港。
私は私の知る、札に詳しい人物のもとを訪れるため、街道をひとり歩き始めたのであった。