胡桃に連れられて、お化けが見られるというツアーに参加した。
初日の夕食は望舒旅館で宴会となり、私はかなりハイペースで酒をあおってしまった。
いつの間に眠っていたのだろうか。
気が付けば私は、どこともわからない砂浜に立っていた。
聞きなれた声が聞こえてくる。
これはもしや、あの夢の続きなのだろうか……。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
波の音が聞こえる。
穏やかで、心が安らぐような柔らかい音色。
体は軽く、音がするたびにゆらゆらと揺れる。
まるで、風に揺られる馬尾のように、私は体をその音色に預け続けた。
「ん、ここは……」
そこへ突然低い男性の声が割り込んできて、空気が大きく揺さぶられる。
(なんだ、気持ちよく人がくつろいでいたのに)
私は瞼を開けようとして気が付いた。
瞼がないのだ。
瞼だけではない。
目もないし、腕もない。
おおよそ、身体というものを私は持っていなかった。
その事実にやや驚いたものの、特に気にすることもなく受け入れはじめている自分がいる。
不安は、不思議となかった。
なぜなら意識を少し集中すれば、目はなくとも周囲の情景がそのまま浮かんできたからだ。
体はないのに、音が聞こえ目が見える。
奇妙な体験だった。
見回すと、そこは波が打ち寄せる遠浅の浜辺。
水平線が白み始めているあたり、夜明け前だろうか。
あたりはまだ薄暗く、波の音が規則正しく響くのみ。
人気のない砂浜に、ふたつの影があった。
そのひとつが大きく伸びをして立ち上がる。
「ふっ……あぁ、よく寝た。伐難、教えてくれ。戦況はどうなっている?」
その声は、私が目覚める前に聞いた声と同じだった。
なぜか私はその声に親近感を覚える。
まるで毎日耳元で聞いていたようなその声。
(あの声は確か……)
だんだん意識がはっきりしてくる。
そう、そうだ。
この声は、弥怒の声だ。
でもおかしい。
なぜ弥怒が外に出ているのだ?
私の頭の中にいたはずでは?
それにここは……、まさかあの夢の中なのだろうか。
私がそんなことを考えていると、もうひとつの影がもぞもぞと動き出す。
「み、弥怒殿……。今回は、どこまで覚えているのですか?」
弥怒の動きがぴたりと止まる。
「ぬ……、そうか。また、己れは記憶を失っていたのか……」
うなだれる弥怒に、座ったままの影が優しく語り掛けた。
「大丈夫です。何度でも、伐難が教えてあげます。弥怒殿が忘れるたびに、一から何度でも。ふふっ」
「いや、さすがにそれは悪い。それに一からはさすがに必要ないぞ。己れは伐難のことを覚えているし、記憶がないのは最近のことばかりだ。特に伐難のことは忘れようにも忘れるはずなどない。あんな強烈な記憶、どれほど業障に蝕まれようとも、魂にこびりついて消しても消えぬわ」
「う……」
弥怒の影が誇らしげに胸を張ると、伐難は逆に膝を抱いて小さくなった。
「そ、その、弥怒殿はどこまで覚えているのですか? ほ、ほら、普通は昔の記憶ほど曖昧になるはず……です」
「なんだ、己れを試しているのか? いいだろう。あの日、招集に顔を出さなかった伐難を心配して、己れはあの法螺貝の家を訪ねた。ああ、今でも覚えている。晴れ渡る空、青い海、白い砂浜に、フジツボのついた大きな法螺貝。だが、近づけば近づくほど、まるで空気がよどんでいるような、そんな感覚を覚えたものだ。不思議に思い、法螺貝の入り口まで来ると中から人の気配を感じる。己れは伐難がそこにいたことに安堵すると同時に、鼻は強烈な異臭を訴えていた」
「す、ストップ、ストップです! み、弥怒殿、やめてください! あ、あれは仕方なかったのです! 朝起きたら扉があかなくなっていて、外に出ようにも出られなかったんです!」
「ほう。ではその状態から救い出した己れによくそのような弁解ができたものだな。あれは伐難が自室の片付けをめんどくさがり、ため込んだゴミが扉につっかえていただけではなかったか?」
「――‼ そ、それは……」
「さらに言うと、その扉を無理やりこじ開け、空腹で動けなくなった伐難をゴミ溜めから救出し、翌朝になるまで部屋を片付けてやったのはどこのどいつだ?」
「ふぐっ……、み、弥怒殿ですぅ……」
伐難はすでに、涙声になっていた。
「うむ。わかればよいのだ」
満足そうに弥怒はうなずく。
「ひ、ひどいですぅ。ば、伐難は弥怒殿が忘れても、何度だって教えてあげると言いました。なのに、弥怒殿はそうやって伐難をいじめるのです……。伐難がお片付けが苦手で、ついいろんなものをため込んでしまうのをわかっていらっしゃるのに……」
伐難はすんすんと鼻を鳴らした。
もとより小さくなっていた伐難の影だったが、気が付けばその大きさはさらに小さくなっているように見える。
「馬鹿者」
弥怒は、笑っていた。
「だから、あの時約束したではないか」
その言葉を聞いて、伐難がゆっくりと首を持ち上げる。
「弥怒殿……、もしや……覚えていてくださったのですか……?」
弱々しく尋ねる伐難の声を、一笑に付した後、弥怒は付け加えた。
「当たり前だ。この戦いが終わったら、また伐難の家を片付けに行ってやる、と確かに約束したぞ」
ひときわ大きな波が音を立てて砂浜を駆けのぼり、空気を混ぜる音を響かせながら遠ざかっていく。
その音が次の波にかき消されるまで、ふたりの間にはゆったりとした静寂が流れた。
やがて、伐難がおもむろにその小さな唇を開く。
「……伐難は、今とっても嬉しいのです。ここのところずっと、戦いが続いていました。たった今、この瞬間でさえつかの間の休息にすぎません。でも、伐難はさっきまでより、ずっと元気です。心の中でぐるぐると螺旋を描いていた黒いもやもやも、今はだいぶましになりました。ふふっ」
弾むような伐難の声を聞いて、弥怒はやや口ごもりながらもたしなめる。
「今のどこに喜ぶようなところがあるというのだ。まったく、恥ずかしいと思わないのか。伐難も立派な仙衆夜叉の一人だ。だのにも拘わらず、部屋の片付けすら他人任せなど、他の夜叉たちに知られたらどうするつもりなのだ」
「大丈夫、なのです。そうなる前に、弥怒殿が片付けてくれます。伐難が得意なことは、この頭の触角でお魚を探して捕まえること。そして、この大爪で岩王帝君に歯向かうもの、璃月にあだなすものを切り裂くこと。お片付けは守備範囲外です。苦手なものは、苦手なのです」
ふふん、と今度は伐難が胸を張る番だった。
弥怒はやれやれと頭を抱える。
「なぜこうもその一点だけは、自信たっぷりなのだ、伐難よ」
「ふふっ、弥怒殿。なぜだかわかりますか? あの時、弥怒殿はもうひとつ、伐難と約束をしてくれました。だから、伐難は伐難の苦手で頭がぐるぐるすることはありません」
弥怒はそれを聞き、やや恥ずかしそうに頭をかいた。
「ほ、他に約束などしただろうか?」
「しました。ちゃんとしました。伐難は他の仙衆夜叉たちに比べて目はあまりよくありませんが、人の耳よりよく聞こえる触角を持っています。伐難が何かを聞き漏らすことなどありえません」
「ぐ……」
腕を組んだ弥怒が、やや悔し気に喉から声を漏らす。
「さあさあ弥怒殿。伐難の恥ずかしいことを覚えていたのですから、最後まで覚えていることを言うのです。このままでは、伐難は恥ずかしくて戦いに行くことすらできません」
「ぬぅ……た、確かに約束した……」
「何を、です?」
「その……また部屋が散らかったら呼べばよい、片付けにいってやると」
「ぶー、ダメです! 大事なところがまるでお魚の浮袋みたいにすっからかんです! もう一度、もう一度やりなおし、です!」
「ぐっ……! し、仕方ないやつだな……。はぁ。なぜ己れがこんな目に」
「いいから早く言うのです!」
「わかった、わかった! ああ、確かに言った。また部屋が散らかったらいつでも呼べばよい、どんな時でも片付けに行ってやる、とな!」
「正解、ですっ!」
やけくそになりやや乱暴に吐き捨てた弥怒に対し、伐難は今にも飛び跳ねそうな声で応えた。
ちょうどその時、水平線から朝日が顔をのぞかせる。
まばゆい光が水面を輝かせ、砂浜を明るく照らし出した。
相変わらず人気のない砂浜で光を浴びるふたつの影。
片方は背を向け、やや気恥ずかしそうに空を仰ぎ、片方は満足げに太陽を見て目を細めている。
「もう時間、です」
先ほどまでとは打って変わり、感情を殺した声が短く砂浜に響いた。
「ああ。状況を教えてくれ」
弥怒が振り返ると、もうその顔にはいつもの穏やかさはない。
ピリピリとした緊張は大気にまで満ちていた。
「現在、妖魔の大群が南南西より接近中。伐難の部隊は陽動を担当、大方の妖魔をこの場所に引き付けます。その間に弥怒殿は陸路で迂回し、敵の本陣へ接近。単身で乗り込み指揮官クラスの妖魔へ遊撃を開始してください。指揮系統の混乱に乗じて、伐難の部隊は戦線を離脱、弥怒殿に合流し一気に畳みかけます」
「わかった。だが、陽動をすべて任せて大丈夫か? 伐難の部隊も、そう多くは残っておるまい」
伐難はふるふると首を振った。
「大丈夫です。伐難の索敵能力は、仙衆夜叉の中でも随一。おまけにこの場所には水が多いです。地は伐難に味方しています。安心して任せてください」
「無茶はするなよ」
「心配いりません。さ、時間がありません。弥怒殿も早く支度を」
伐難はそう促すと、準備運動を始める。
弥怒は何かを言おうとしたが、ためらったのち、言葉を飲み込んだ。
その代わりといった様子で懐へ手を伸ばすと、小さな琥珀色の結晶を取り出した。
「伐難。これを、持っていけ」
放り投げられた指先ほどの結晶は、伐難の背中めがけて飛んでいく。
すると伐難は振り向くことさえせず、大爪の先端で器用にそれをキャッチした。
「これは……?」
伐難が結晶を太陽にかざすと、それはキラリと輝き伐難の蒼い瞳に黄金色の光を落とす。
「それは吸障石。ある程度の業障を、内部に封じ込める封印を施した岩元素の結晶だ。気休め程度にしかならないだろうが、ないよりもましだ。身につけておくといい」
「……ありがとう、弥怒殿。弥怒殿はやはり、伐難に優しい」
「なっ、そういうわけではない! 己れはただ、同じ仙衆夜叉としてだな!」
「ふふっ」
くどくどと繰り返される弥怒の小言をさらりと聞き流しつつ、伐難は胸元の紐に吸障石を愛おしそうに縛り付ける。
「……聞いているのか?」
「ちゃんと聞いているのです。伐難の触角は、どんな音でも聞き漏らしませんから」
「まったく……」
腕を組みながら肩をすくめる弥怒。
しかし、弥怒に笑みを投げかけていた伐難の表情が一気に強張った。
「弥怒殿」
「……ああ」
弥怒もその緊張を察したのか、うなずいたかと思うと、身を低くし構える伐難を背にはじかれるように走り出す。
「死ぬなよ!」
「弥怒殿もお気をつけて!」
背後から聞こえた伐難の声に、弥怒はもう振り返らなかった。
しばらく弥怒が走り続けていると、複数の影が前方からこちらへと猛スピードで向かってくる。
すれ違う瞬間、弥怒が小さく口を動かした。
「伐難を頼んだぞ」
「御意」
その一瞬で意思の疎通が図られ、次の瞬間には影たちは伐難のいる浜の方角、弥怒のはるか後方へと走り去っていった。
彼らはおそらく、伐難の率いる部隊の夜叉たちなのだろう。
数えたところ10をわずかに超えるほど。
「当初100を優に超える斥候部隊を有した伐難隊も、今や精鋭を残すばかり、か」
風の中で、弥怒が寂しそうにそうこぼした。
弥怒は岩元素で足場を作り出し、岩山を走るように駆け上がっていく。
その速度はあまりに早く、私は追いかけるので必死だった。
だが、岩山には未だ朝もやがかかっており、弥怒の姿は霧の中でどんどん遠くなってしまう。
まってくれ、と叫ぼうとしても、のどがないため声も出ない。
私はただひたすら、霧の中を追いかけて、追いかけて、追いかけて――。
はっと目が覚めた時には、私は昨日の服を着た状態のまま、望舒旅館のベッドに横たわっていたのであった。