胡桃に連れられて、お化けが見られるというツアーの目的地は目と鼻の先。
黒いベンチに腰掛け、私と弥怒は胡桃の思い出話に耳を傾ける。
それは、胡桃が初めて葬儀を行った日の話。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
無二無三とは、まさにあの時のような状態のことを指すんだと思う。
過度な集中状態は、時間の感覚を麻痺させる。
気が付くと、あんなに緊張していたはずの胡じいの葬儀は、いつの間にか終わっていた。
周囲の話し声やざわめきが戻ってきて、私はやっと状況を理解し始める。
準備期間にして一ヶ月。
寝る間も惜しんで挑んだ葬儀は、ものの数刻であっけなく幕を閉じた。
放心している私の元へ、大勢の大人たちがぞろぞろとやってくる。
「いやあ、あんなに立派な葬儀は初めて見た!」
「往生堂も安泰だ。なんてったって、こんなに優秀な後継者がいるのだから」
「胡桃、いつの間にあれほどの葬儀ができるようになっていたんだ⁉」
「珍奇な娘だと思っていたが、これほどの才能を隠し持っていたとは!」
誰もが興奮した様子で、頬を上気させながら唾を飛ばしている。
生返事を繰り返しながら、私は目の前の光景をまるで他人事の様に感じていた。
実感が、ない。
葬儀を終えたという、実感が。
本当に終わったのかどうかすら、よくわからない。
胸の奥でもやもやした気持ちがぐるぐると渦を巻く。
私の反応が芳しくなかったからか、ただ興奮が冷めたのか、用事を思い出したのか。
それぞれの理由なんてわかったもんじゃないが、大人たちはふらりふらりと葬儀場を離れ始める。
やがて片付けを行う往生堂の従業員数名と、私だけがぽつんと会場に残されてしまった。
私は自分の手を見つめる。
――この手で。
この両手で、やり遂げたのだ。
胡じいの葬儀を。
あの日、約束したとおりに。
私は自分自身に何度も何度も言い聞かせる。
霓裳花は萩花洲のきれいな水辺に咲いている特上品を使った。
線香は瑠璃袋の夜露と花粉を固めたものを、過剰なほど大盤振る舞いした。
死者へ送る服は質素ながらも質の良い絹を使い、寸分たがわぬ方位の邪気を祓った。
「でも、本当にうまく、できたのかな……」
私は誰にも聞こえないように、小さくつぶやく。
興味のない大人たちの評価なんて、どうでもいい。
どれだけ褒められても、どれだけ持ち上げられても、満足なんてできるはずがなかった。
だって、立派なお葬式をしてあげると約束した相手は、たった一人だけなのだから。
「……わからない。わからないよ。胡じい」
顔を上げると、頭上には満点の星空が広がっている。
いつもの私であれば、その美しさに惹かれて歓声のひとつでもあげただろう。
でもその時の私はそんな夜空でさえ、空虚なものに感じて仕方がなかった。
無我夢中に、一心不乱に、猪突猛進に走ってきたが故に、目的地を通り過ぎた今、胸に広がるこの気持ちをどうすればいいのかさえ分からなかった。
「胡桃!」
会場の入り口から、誰かが私を呼んでいた。
「まだこんなところにいたのかい? 今日は疲れただろうから、うちに来て泊まりな」
声のする方を見れば、親戚のおばさんが駆け寄ってくる。
「さ、おいで。いろいろ思うところはあるだろうけどさ。とりあえず今日は早く寝るんだよ」
おばさんは返事も聞かずに私の手を握ると、すたすたと歩きはじめる。
私は特に抗うわけでもなく、そのままおばさんに手を引かれるまま、会場を後にした。
親戚の家におじゃました私は、軽い夜食を取らせてもらい、身体を清め、客室の寝床に着く。
そのすべてがまるで夢を見ているかのように過ぎていき、自分という存在を少し離れたところから眺めているような錯覚さえ覚えた。
久々のベッドは、そんな私の身体をふかふかの綿で包み込む。
そうすることで、やっと自分の輪郭がここにあることがわかった。
丸2日もずっと起きていたので、いつもだったら毛布を被った瞬間に眠りに落ちていてもおかしくない。
でもその時はどんなに体勢を変えてみても、柵を飛び越えるスライムの数を数えてみても、眠気という眠気をまるで感じなかった。
私は目を開けて、寝返りを打つ。
シーツに広がった自分の髪からは、ほのかに線香の匂いがした。
その瞬間、私は眠れない理由をようやく理解する。
「そっか。まだ、私の中で終わってなかったんだ。胡じいのお葬式」
そうつぶやいた自分の声を聞くと、心のもやが、わずかだが晴れたような気がしてくる。
そうと決まれば、話は早い。
私は毛布を蹴飛ばし、ピョンとベッドから飛び降りる。
寝息を立てるおばさんたちの寝室を横切ると、こっそり家を抜け出した。
夜店で数日分の食料を買いだめ、携行鞄に詰めていく。
水平線が少しだけ明るくなり始めた早朝。
多くの人が寝静まる時間でも、璃月港は眠らない。
街のはずれにやってくれば、商人たちの隊列が荷物をたずさえ、出発しようとしているところだった。
「ちょっとちょっと、待って待って〜」
私が声をかけると、商人の一人がこちらをみて驚いた。
「こんな時間に、子供が一体何の用だ?」
「この商隊、石門を抜けてモンドに向かうんだよね? モラを払うから、お願いっ! 途中まで乗せてって!」
私は両手を頭の上で合わせ、舌をぺろりとだした。
「いやいや、こっちも重量ギリギリまでスライム気球に乗せて荷物を運ぶんだ。これ以上乗せたら流石に、重量オーバーだよ」
私はそれを聞き、少し怒ったふりをする。
「あ、ひどい! まるで私がすごく重いみたいな言い方! 子供ひとり分くらい、大丈夫だって! 私とっても身軽なんだから。それにほら、これぐらいはあるからさ……」
ちらり、とモラ袋の中を見せると、男の目つきが商人のそれに変わった。
「ま、まあ、そうだな。スライム気球の調子が悪くなったら、降りてもらう。それでもいいなら、好きにするといい」
「やった! おじさん優しいね!」
「お、おじさんじゃねぇ!」
背後から不服そうな声が聞こえたが、私はそれを軽く受け流し、荷物と荷物の間に体を滑り込ませた。
「おうい、何ぐずぐずしてんだ。おいていくぞ!」
前方より、商隊の仲間が声を張り上げる。
「あ、ああ、今から行く! スライム気球の調整をしてたんだ!」
先ほどの男は気球の背後から顔を出しつつそう叫ぶと、勢いよく気球のレバーを下す。
ぽんぽんとリズムよい音を立てながら、気球が風元素を吐き出し始める。
やがて軽い浮遊感と共に気球は大地を離れ、前進を始めた。
「やっぱりちょっと重い気がするなぁ……」
小声でそんな泣き言が聞こえてくるが、乗ったもん勝ち後の祭り。
石門までの優雅な旅が始まった。
私は荷物に背を預け、帽子で顔を覆い隠す。
暗闇の中、胡じいのことを思い出す。
『なんじゃと? 幽霊が見えるじゃと?』
あまりおおっぴろけにしていない私の秘密を明かしたとき、胡じいの目は真ん丸になり声が盛大に裏返る。
何度か知り合いにこの秘密を打ち明けたことはあったが、誰ひとりまともに取り合いはしなかった。
胡じいはしばらく固まっていたが、すぐに優しい表情を浮かべる。
その時私は思った。
ああ、胡じいでさえも、本気で信じてはくれなかったな、って。
でも、胡じいは思いがけない言葉を私にかける。
『よい目を、持っているな、桃ちゃんは』
はっとした。
自分が変わっていて、人と違うことは知っていた。
それを幼いながらに理解していたし、受け入れてもいた。
だけど、そんな風に褒められたのは、初めてだった。
胡じいは笑いながら言う。
『そうじゃなぁ、わしが死んだあと、ボケて璃月港をさまよっていたら、活を入れてくれよ桃ちゃん。最近物忘れがひどくて、不安だったんじゃ。生きているうちは誰かが声をかけてくれるが、死んだあとは分からんからな。訳も分からずさまよい続けるのは嫌じゃ。これは桃ちゃんにしか、頼めん仕事じゃな』
言葉の一つ一つに、胡じいの優しさがあふれていた。
「胡じい……」
思い出すたび、胸元がじーんと熱くなる。
スライム気球の揺れはまるでゆりかごの様に穏やかだった。
ここ数日の疲れがどっと押し寄せたかと思うと、私はいつの間にか眠りについていた。
※
「ほ、本当にこんなところでいいのかい?」
再三にわたって商人の男が私に確認する。
「うん、大丈夫。昔一回来たことがあるから」
私はそう言うとモラの詰まった袋を男に押し付けた。
男は納得いかない表情を浮かべていたが、出発時と同じように商隊の仲間から呼ばれると、しぶしぶといった様子でモンドへと向かっていく。
気づくと一日と半分近く眠っていた。
出発したのが早朝で、無妄の丘の前に着いたのはほぼ夜ふけ。
こんな人気のない場所に子供を置き去りにするなど、たとえ本人たっての希望だとしても、正気の沙汰ではない。
おぼろ月の下、薄暗闇でカラスがぎゃあぎゃあと羽ばたく。
普通の子供であれば、あまりの恐怖に立ちすくんでしまったとしても責めることはできない。
私の目の前にある光景を絵で見ただけで、夜厠に行けなくなる子もいるだろう。
それほどおどろおどろしく、不気味な場所だった。
「おー、あははっ、集まってる集まってる!」
そんな場所で、私は喜びに胸を躍らせる。
他の人には見えなくとも、私にはよく見えた。
璃月港から押し寄せた、魂だけの、人の波。
それはまるで大勢の人でにぎわう、璃月港の商店街のようだった。
誰もがのっぺりとした表情を浮かべ、何も語らず歩いていく。
私は嬉しくなって駆けだすと、どんどん幽霊たちを追い越していった。
そしてくるりと振り返り、しばらく後ろ歩きで進んでいく。
こうすれば、歩いている幽霊たちの顔がよく見えるのだ。
残念ながら胡じいの顔はそこにはなかったが、問題ない。
彼らが向かう先、無妄の丘のさらに奥、往生堂が代々管理しているあの世とこの世の狭間には、もうしばらく距離があるのだから。
大丈夫、大丈夫。
そう言い聞かせ自分を奮い立たせる。
走っては振り返り、走っては振り返った。
でも何度振り返っても、胡じいの姿は見つからない。
大丈夫、大丈夫。
いつしか顔から笑みは消え、喜びに満ちていた胸はざわざわと嫌な感じに騒いでいた。
百を超えるほど同じ動作を繰り返し、私はとうとう立ち止まる。
もう振り返って後ろ歩きなんて、しない。
したくても、できなかったから。
とうとう、境界までたどり着いてしまっていた。
「あ、あははっ」
笑う。
無理やり口角を上げ、笑う。
「胡じい、きっとボケて道を間違えちゃったんだろうね! 私より先に出発して、私に追い越されちゃうなんて」
何人かの幽霊が、不思議な顔をして私を覗き込む。
でも彼らと私は赤の他人。
幽霊たちは怪訝な表情を浮かべるも、また無表情になったかと思うと再び歩き始め、境界の向こうへと消えていく。
「待っててあげるよ、胡じい。こんなこともあっろっうっかっとっ! じゃじゃーん! 非常食~!」
私は空元気を振り絞り、言葉通り場違いな明るさで、モラミートを掲げ、そのまま口にほおばった。
ぺろりと口の周りに着いたソースをなめながらも、目線は常に幽霊たちを見つめている。
その時にはもう、気づいていた。
なんだかんだ自分に言い訳をしながらも、私が願っていたことはただ一つ。
もう一度。
もう一度だけ。
胡じいに、ただ、会いたかったのだ。
だから、私は待つ。
どれだけの幽霊が目の前を通り過ぎても。
待つ。
たとえ夜が明け、太陽が昇ろうとも。
待つ。
また日がのぼり、持ってきた食料が少なくなってきても。
待つ。
目がしょぼくれて、気を抜けば舟をこいでしまいそうになったとしても。
眠気を振り払うように、私は時々大声で叫んだ。
「胡じい! 胡じーい!」
幽霊の人ごみからはくすくすと嘲笑の笑い声が聞こえてくる。
「バカな娘だな、胡じいがここにいるわけないだろ。こんな所まで探しに来るとは、さては正気を失ったか?」
どこかで見たことのある顔をした幽霊が、あきれ顔でそんな言葉を残していく。
もしかすると、彼とは生前、胡じいと一緒に会ったことがあるのかもしれない。
だが、他人に興味がなかった私は、その顔が誰なのかすら思い出せなかった。
向こうも私に大して情がなかったのか、そのまま振り返らずに境界の向こうへと消えていく。
「っ! ふんっ!」
私はどかっと地べたに胡坐をかき、再び幽霊の行列をにらみつける。
胡じいを見つけるまで、ここに居座ることを心に決めたのだから。
……。
…………。
………………。
「はうあっ!」
私は奇声と共に勢いよく飛び上がった。
「い、いけない! ね、寝ちゃってた! 胡じい! 胡じいっ! どうしよう、寝てる間に行っちゃったかな……⁉」
どれくらい気を失っていたのだろうか。
時間の感覚はとうにない。
寝入ったのが昼なのか、夜なのかさえわからくなっていた。
スカートや上着、頬までもを土で汚し泥だらけになった私を、幽霊たちがくすくすとあざ嗤う。
私はなんだか無性に悔しくなり、唇を強く噛み締める。
こうなったらやけ食いだ、と袋に手を突っ込み気が付いた。
空の袋に手を突っ込んだのは、今回が初めてではないことに。
私は途端に空腹を感じ、へなへなと力なく地べたへ座り込んだ。
「あ、あれ?」
手でいくらこすっても、視界がかすむ。
パチパチとまばたきをしていると、それを見ていた幽霊の老夫婦が私の目の前へとやってきた。
「お前さん、胡桃かい?」
私は頷く。
やはり、どこかで見たことのある顔だった。
だが、思い出すことはできない。
老夫婦からはあきれや意地悪な感じは全くせず、表情は穏やかな笑みをたたえていた。
この人たちは、悪い人ではない。
直感的に、そう感じた。
だが、それがどうしたというのさ。
私がすることは、先ほどまでと何も変わらない。
頬杖をつき、私は幽霊の列に視線を戻す。
「その頑固な性格は胡じいとそっくりじゃな。残念じゃが、歴代の往生堂堂主は決してこんな所で止まったりはせんよ。彼らは堂々と生き、堂々と悔いなく去るのじゃ。じゃから帰れ、お前がいるべき場所へ」
私は胡じいという言葉を聞くと、途端に元気が湧いてきて、力強く首を横に振る。
「嫌だ」
夫人は悲し気な、少し困った表情を浮かべた。
老いた主人は、やれやれと言った様子でため息をつくと、片膝をつき、私と目線を合わせてくる。
わたしはとっさに目線を逸らした。
「胡桃よ。なぜそうも強情を張る。お前さんもわかっているのじゃろう。何が気に食わんのだ」
私は拳を強く握りしめる。
「んん?」
老人が顔を無理やり覗き込んできたので、私はあごを引き、目が合わないように帽子を深くかぶる。
空腹と疲労でヘロヘロになりながらも、とっさにとった抵抗の姿勢のつもりだった。
帽子の中は、やっぱり、暗闇が広がっている。
その瞬間、私のとった行動が大きな間違いであったと後悔したが、もう、遅かった。
もうろうとする意識の中、夢か幻覚か、あの時の胡じいの声が蘇ってくる。
『この帽子は法力を持っていて、邪気を払い、平和を守護するものじゃ。葬儀を執り行えないわしが持っていても仕方ない。これは桃ちゃんに譲ろう』
力任せに押さえつけられた帽子を上げると、胡じいの笑顔がそこにある。
それが、胡じいと最後に交わした言葉だった。
鼻の奥が、ツンと痛みを訴える。
「……かった」
私は老人に向かって口を動かすも、ぎゅっと縮こまった肺が言うことを聞かず、うまく声が出てこない。
「ふむ、よく聞こえんわい」
もう一度、私は震える胸を無理やり膨らませ、声を振り絞る。
「もっと、お喋りしたかった」
「……」
今度は老人が黙る番だった。
しかし一度決壊した口は私の言うことを聞かず、心の底に押し込んでいた思いをとめどなくあふれさせる。
「もっと、遊びたかった。もっといろいろ教えてほしかった。もっと……私を見ていてほしかった! あれが最後の言葉なんて、納得できない‼ でも胡じいの約束を守るためにはこうするしかなかった‼ 私は、私はっ‼ ちゃんとひとりで葬儀ができたことを、胡じいに、褒めてもらいたかった……」
そこまで言い切ると、私は奥歯を食いしばる。
もうそれだけで、精いっぱいだった。
老人はふっと笑う。
「そうやって泣き顔を隠すところも、胡じいとそっくりじゃとは。まったく、かなわんのう。……なあ、胡桃や。お前さんと胡じいがどんな言葉を最後に交わしたのかは、私たちにはわからん。だがな、胡桃。よくよく思い出してみなさい。それが本当に、胡じいと最後に交わした言葉なのか?」
私には老人が何を言っているのか、わからなかった。
胡じいと最後にしゃべったのは、帽子をもらった日で間違いはない。
あれから顔を合わせることもなく、葬儀の準備に追われていたのだから。
私は帽子が落ちそうなくらい、強くうなずく。
「そんなはずはない」
老人は穏やかな声で、私を否定する。
「だって、私、胡じいとは、それから会ってないもん……」
私も負けじと言い返す。
「ふふふっ」
「なんで笑うのっ!」
思わず両手で持ち上げた帽子を胸に抱き寄せ、私は老人に食ってかかる。
そうしてやっと、気が付いた。
老人が浮かべた口元の笑みとは対照的に、その瞳は澄み切っていて、真剣そのものだということに。
「っ!」
短く息をのむと、まるで心臓をわしづかみにされたような錯覚を覚える。
もう目を逸らすことは、できなかった。
老人の口が、ゆっくりと動く。
「もう一度問う。胡桃や。胡じいと会ったのは、それが最後なのか? それが胡じいと最後に交わした言葉なのか?」
その言葉には、魔力がこもっているようだった。
――私は、間違っていない。
頭はそう叫んでいるのに、心のどこかで激しくそれを否定している自分がいる。
まるで体の内側を見透かされているような気がして、私は目の前の老人に恐怖すら感じた。
「……本当に?」
ごくりと生唾を飲み込み、小さくうなずく。
「そんなはずはない。なぜなら、胡じいの葬儀を行ったのは、他の誰でもない、お前さんなのだろう?」
一瞬、心臓の鼓動が止まった。
無意識に鍵をかけいていた記憶の扉が、音もなく開かれる。
それはまるで一瞬で過ぎ去ったと思っていた、葬儀の最中の記憶だった。
『よく見ておるよ、桃ちゃん』
確かにあの時、聞こえていた。
狂おしいほど愛しい声。
陽だまりのようなあたたかい空気。
葬儀の最中、私はずっと、胡じいのあの優しいまなざしで見守られていた。
どうして、忘れてしまっていたのだろう。
どうして、なかったことにしてしまったのだろう。
なにかが胸の奥で、熱く、熱く、燃え盛る。
『桃ちゃん、……ありがとう』
確かに聞こえた胡じいの最後の言葉。
あの場にいた誰よりも、私はちゃんと胡じいとお別れができていたはずなのに。
どうして私はこんなにも、物分かりが悪いふりをしているのだろう。
とめどなく流れる涙は、熱を帯びたまま頬を伝い、胡じいのくれた帽子に幾度となく滴り落ちる。
「その帽子、大事にするんじゃぞ」
老人の言葉ではっと我に返ると、老夫婦の姿はもう、境界の向こうへと消えかけていた。
私はごしごしと目をこすり、あわてて立ち上がると深く礼をする。
彼らが胡じいとどんな関係だったかは、今もわからない。
でも、私にとても大切なことを思い出させてくれた。
顔を上げた時には、すでに彼らの背中はそこにはなく、境界だけがぼんやりとあやしく光をたたえている。
私は大きく伸びをして、胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
もう、大丈夫――。
足元にあった空っぽの袋を持ち上げ、私は笑顔で踵を返す。
極限までお腹がすいて、今にも倒れそうなくらい疲れ切っているのに、私はスキップで無妄の丘を降りていく。
来た時は月光に照らされていた薄暗い道も、気が付けば早朝の日差しに輝いていた。