棺桶の中は居心地がよく、いつの間にか私は眠ってしまっていた。
伐難のことを一生懸命話してくれた弥怒には悪いと思っている。
ん?
これは、夢、だろうか。
なんだか見覚えのある景色だ。
……雨が、降っている。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
薄暗がりの中、私は目を覚ます。
体が浮いているような、不思議な感覚。
この感覚を私は知っている。
また、夢を見ているのだろう。
ということは、私は弥怒との話の途中で寝てしまったのか。
あれから棺桶の中で、弥怒は伐難について語ってくれた。
伐難が巻貝の家に住んでいること。
多くの部下を従え遊撃を指揮することもあれば、少数精鋭で敵陣に乗り込み情報を入手する斥候としての一面もあること。
やや内気であったが、仲間思いな夜叉であったこと。
そのほとんどは夢で見た内容と一致していた。
しかし、すでに知っていることを話されることほど眠りを誘発するものはなく、私はついうとうとして眠ってしまったようだ。
(起きたら弥怒に怒られるかなぁ)
私がそんなことを考えながら、周囲へと意識を向ける。
雨が、激しく降っている。
分厚い雲は太陽を完全に隠し、今が朝なのか昼なのか、はたまた夕刻に近づいているのかさえ分からない。
雷鳴がとどろき、あたりはまばゆい閃光に包まれる。
続けて、空気を揺るがすほどの轟音が響き渡った。
ほどなくして、雨音が周囲に戻ってくる。
私はまるで幽霊のごとく浮遊しているというのに、生身の体の癖が抜けずに思わず縮こまる。
縮こまるとはいっても、身体はないので気持ちの上での話だが。
恐々と私が天気の様子を窺っていると、背後で盛大に雷が落ちる。
正確にはそれは雷霆ではなく、誰かが感情に任せて放った、怒号であった。
「なぜ、己れを謀った‼ 伐難は何を考えている‼ たとえ部下とて、返答次第では許さぬぞ、王深ッ‼」
声のする方へ意識を向けると、土砂降りの中、白むふたつの人影が見えてきた。
ひとりは長身の大男で、腕を組んで仁王立ちしている。
そしてもうひとりは、片方の腕を押さえ顔に苦悶の表情を浮かべながら膝をついていた。
再び雷が落ち、ふたりの姿が青白く鮮明に浮かび上がる。
そこにいたのは怒りに瞳を燃やす弥怒と、以前の夢の終り際にすれ違った、伐難の部下であった。
(この夢は、前回の夢の続きなのか⁉)
今までの夢は大きく場面が変わり、時間もかなり間隔があったように思える。
しかし、今回の夢は前回の夢からさほど時間が経っていないようだった。
異なるのは、伐難の部下、王深がぼろぼろになっているという点だけである。
(あの後、伐難の部隊に何かがあったのか……?)
私が少ない情報から分析をしていると、王深が顔を上げ、歯の間から絞り出すように進言した。
「恐れ多くも、弥怒殿。これは我らが大将たっての御命令。決して曲げるわけにはいきません。どうか、どうかお聞き入れください。この通りですっ‼」
体中から雨水を滴らせながら、王深はひれ伏す。
「断る! 断じて、断るッ‼ 貴様は、この心猿大将に戦場を前にして、尻尾を巻いて逃げろと申すのか!? そんなこと、受け入れられるはずもなかろうッ‼」
弥怒はその身を大きくかがめて腰を落とすと、うつむく王深のあごを力任せに持ち上げ、今にも食らいつきそうな勢いで無理やり目を合わせる。
王深は今にも、泣き出しそうであった。
「答えよ、王深。貴様らの部隊に何があった。なぜ伐難は嘘をついて己れを戦場から遠ざけた!? 己れがいくら潜伏し待ち続けても、敵の大将はおろか妖魔一匹たりともやってこないではないか! 伐難の索敵や情報は信頼を寄せるに値するものだ。彼女の働きがなければ、夜叉たちの被害はより多く、己れとてこの激しい戦乱を生き延びられたかどうかも危うい。だがな、王深。このような……このような屈辱を受けたのは初めてだ‼ 仙衆夜叉の名を持ちながら戦いからつまはじきにされた上、今度は逃げろだと? ……ならばこの怒り、どこにぶつけてくれようか‼」
弥怒の怒りに岩元素が共鳴し、大地が震える。
私はその姿に恐怖した。
こんなにも怒りをあらわにした弥怒を、私は知らない。
その剣幕はその場にいるすべてのものを、縮み上がらせるに十分な迫力を持っていた。
「……心中、お察し申し上げます……弥怒殿。ですが、ですが……どうか……」
「まだ言うか、貴様ッ‼」
王深の目からは涙が零れ落ち、声は聞き取れないほど震えている。
だというのに、決してその心は折れてはおらず、うわごとのように同じ言葉を繰り返す。
「……っ! 話にならん!」
弥怒は乱雑に王深のあごから手を離すと、鼻息荒く立ち上がった。
「どこへ行かれるというのですか!」
王深もあわてて立ち上がる。
「決まっておろう! 伐難と合流し、問いただす。もしも窮地に陥っているようであれば、救い出した後問いただす!」
ずんずんと歩き出した弥怒の前に、王深は回り込んで立ちふさがった。
「だめです、弥怒殿。ここを通すわけにはいきません。ここを通るのであれば、私を倒してからお通りください。ですが、私はたとえこの命尽きようとも、弥怒殿を通さぬと誓っておりますゆえ、どうぞ、お覚悟を」
王深の目は座っており、肩で息をする体からはわずかに湯気がのぼり立つ。
暗がりの中でもその瞳は爛々と輝いており、その横顔はまるで飢えた獣。
いつでも飛び掛かれるよう身を低くしたその立ち姿は、彼の言葉が決して嘘偽りでないことを物語っていた。
弥怒もその足を止め、両者はごうごうと音を立てる雨の中、言葉もなく睨みあう。
時間にして、おおよそ30秒ほど見つめ合った頃だろうか。
弥怒はふうっと漏らしたため息と共に、体から力を抜いた。
途端、両者の間にあった張り詰めた緊張の糸が、ふっと緩む。
「ぷはぁっ、はあっ、はあっ!」
脂汗を吹き出しながら、王深がまるで今まで息を止めていたかのように呼吸を荒げる。
弥怒は先ほどまでの怒りを潜め、柔らかく王深に語り掛けた。
「王深。お主の剣はどうした。ん? 先ほどから動かぬその右腕、健を痛めたのであろう? 少なくともお主に己れの足止めは不可能だ。たとえお主が全快であったとしても、己れはいともたやすくここを通り抜けることができる。お主の気概はよくわかった。だからもう休め、王深。あとは己れに任せろ。命を、粗末にするでない」
弥怒は腕を押さえ立ちふさがる王深の肩へ、ぽん、と手を置くと、そのままゆらりと通り過ぎる。
その軽い衝撃が傷に触ったのか、弥怒の言葉が王深の心に響いたのかはわからない。
だが、その一瞬、王深は何かをこらえるように目をぎゅっとつぶった。
そして彼がハッと我に返った時。
すでに弥怒ははるか後方で、その速度をぐんぐんと上げていた。
「お、お待ちくださいっ! あっ!」
追いかけようとした王深の足がもつれる。
王深はそのまま、水たまりの上で盛大に転んだ。
「ぐっ、み、弥怒殿、行っては、なりませぬ……!」
泥だらけになりながらも、王深は立ち上がろうと、まだ動く腕を大地に突き立てて身を起こす。
すると負傷したもう片方の腕が、だらりと宙に垂れ下がった。
傷口が開いたのか、じわりと袖に血がにじむ。
「くそっ!」
王深は袖を引き裂くと、肩口でまとめて腕を縛った。
応急処置を自ら施した王深は、再び弥怒を追いかけようと立ち上がる。
しかし血を失い過ぎたのか、疲労が限界を迎えたのか、その足取りはまるでおぼつかない。
ぶらぶらと垂れ下がった両手を揺らしながら、視点の定まらぬ目でふらりふらりと歩いていく。
やがて王深はせりあがった木の根につまずくと、ばったりと倒れ、そのまま気を失ってしまった。
彼が目を覚ます様子はなく、身体はピクリとも動かない。
(気の毒だが、私にはどうすることもできない……)
このまま、彼をおいていくほかはないだろう。
雨は血と泥で汚れた王深の腕の傷口を洗い流していく。
止血がうまくいっているからだろうか。
不幸中の幸いか、もう王深の腕の傷口からは、絶えず血が流れ続けるといったことはなかった。
多少安心した私は、後ろ髪を引かれる思いで、彼をおいたまま弥怒が走り去った方向へと向かい始める。
視界は最悪だったが、弥怒を追いかけるのは簡単だった。
ぬかるんだ大地には、しっかりと大きな足跡が等間隔で並んでいる。
私はひたすら、雨の中を進んだ。
弥怒の足取りは、迷うことなく、まっすぐと進んでいく。
右足、左足、右足、左足。
足跡は大地を激しく抉っており、弥怒の焦りが手に取るようにわかった。
私は無心に足跡を追いかける。
そうしている、つもりだった。
だが意に反するように、私の移動速度は遅くなっていき、やがて完全にその動きを止めてしまう。
(なぜ立ち止まるのだ、平安。前に進め。弥怒を追いかけろ、平安!)
そうやって自分を鼓舞しても、だめだった。
理由は嫌と言うほど、頭では理解している。
私は――。
私は心の底から、戸惑っていたのだ。
この夢の続きを見るのか、見ないのか。
今までは興味本位で追いかけていたこの夢。
だが今は、そんな興味が吹き飛ぶほど、大きなざわめきを胸に感じている。
それは雨で洗い流された、王深の傷跡を見た瞬間から始まっていた。
最初に王深を見た時、痛みに腕を押さえていると思っていた。
恐らく、弥怒も同じように考えたはずだ。
しかしよくよく考えてみると、不自然だった。
彼はどんな状況でも、腕から手を離さなかったのだ。
弥怒にこうべを垂れる時も、怒鳴りつけられている間も、自分よりはるかに強大な者に相対する状況でも。
しかし弥怒が立ち去った後、彼はあっけなくも傷口から手を放す。
まるで、痛みなど気にしてはいなかったといった様子で。
(そう、彼はまるで、弥怒に傷口を見せないように、隠していたのではないか?)
ゴロゴロと雲の中で雷がうなり声をあげる。
雨あしは一向に弱まらず、むしろその激しさを増していた。
私は今一度、思い返す。
気絶し、伸びきった王深の、腕の傷口を。
それは鋭利な刃物のようなもので切り裂かれた傷跡だった。
特徴的だったのは、その数。
等間隔に並んだ4本の裂傷。
それはまるで――大きな爪で引き裂かれたような、傷であった。
(なんだか、とてつもなく嫌な予感がする)
見下ろせば、水たまりが雨で激しく波打っていた。
揺れる水面を見つめていると、波紋と波紋の合間に、一瞬弥怒の横顔が浮かぶ。
(……やはり、行かなければ)
空を覆うような漠然とした不安は、私の背中を強く押す。
恐怖と不安がせめぎ合い、わずかではあったが、不安が恐怖に打ち勝った。
なぜかは分からない。
だが、見届けなければならない気がした。
突如私の前に現れた、口うるさくも温かい、かつての英雄の行く末を。
私は再び前進する。
降りしきる横殴りの雨が、弥怒の足跡を消してしまうその前に。
※
思いが強くなればなるほど、私はぐんぐんと速度を上げていく。
到底生身の足では追いつけないほど早く、私は森を抜け崖を降り弥怒を追いかける。
やがてたどり着いたのは、いつか見た砂浜だった。
一目見ただけで壮絶な戦いがあったことがうかがえる。
油が撒かれているのか、雨の中だというのにところどころで炎がくすぶっていた。
その間を埋め尽くすように、魔物の死体が数え切れぬほど転がっている。
私はそれらを避けるようにして、慎重に進んでいく。
開けた視界は戦場を見渡すのに十分で、ここまで来れば、目と鼻の先に弥怒の背中が見えていた。
私はわずかな安堵を感じつつ、弥怒の隣へと一息に駆けつける。
先ほどから、弥怒は微動だにしていない。
私は不思議に思い、顔を覗き込んで、驚いた。
浅い呼吸を繰り返しながら、固まっている弥怒。
血の気が引いた弥怒の顔はわずかに青白く、目は驚愕に見開かれていた。
「何を……何をしているのだ、伐難……」
かすれるような声で、弥怒がつぶやく。
尋常ではないその様子からは、絶望の色が濃厚に感じられた。
私は恐る恐る、弥怒の目線の先へと意識を移す。
うずたかく積まれた魔物の死骸。
山の上には、見覚えのある背丈の、華奢な少女が立っていた。
青く美しい文様が描かれた仮面が、ゆっくりとこちらを振り向く。
そしてそのまま、その長い爪で貫いていた獲物を、まるで腕に着いた汚れを振り払うかのように、弥怒の前へと投げてよこした。
ばしゃり、とむなしく響く音。
動かぬ黒い塊が、目の前に転がっていた。
弥怒は信じがたいといった様子で、ふるふると首を横に振りながら、一歩後方へとあとずさる。
薄暗がりの中、動かぬその塊は、人の形をしていた。
雷が空を駆け、周囲を明るく照らし出す。
私は思わず息をのんだ。
弥怒の足元に転がっていたのは、同じく仮面をかぶった、夜叉のひとりであった。
身を横たえた夜叉はすでにこと切れており、開いたままの瞼が閉じられる様子はない。
ふたりの間で、雨音だけが激しく騒ぎ立てる。
先に口を開いたのは、蒼い爪を赤く濡らした少女の方だった。
「誰?」
短く放たれた言葉は、私の知っている少女のものとは思えぬほど、冷酷で、機械的で。
まるで別人のようだった。
いや、別人であってほしいと、私は願った。
「己れが、わからないのか? 伐難……?」
動揺を隠しきれないといった様子で、弥怒が少女へ問いかける。
すると、少女は軽く舌打ちで返す。
「……偽物っ!」
刹那、少女は跳躍し、弥怒めがけて一直線に襲い掛かった。
「馬鹿者っ!」
弥怒は両掌を突き合わせ、岩元素の障壁をとっさに張り巡らす。
まばたきする間もなく、少女は距離を詰め、その鋭い爪を振り上げた。
ギャリ、と耳障りな音が空気を揺らす。
一撃で仕留められなかったことを理解した少女は、素早く後退。
気が付けば、ふたりの距離は元通りになっていた。
まるで先ほどの攻防がなかったかのように。
しかし弥怒の障壁を見ると、それが幻ではなかったことが私にもわかる。
そこには4本の傷跡が、深く、鋭く残されていたからだ。
「己れだ! 心猿大将の弥怒だ。正気を取り戻せ、伐難ッ!」
弥怒が雨に負けじと、声を張り上げる。
だが、少女は答えない。
押し黙ったまま腕をゆらゆら揺らし、爪の先をカチカチと鳴らしている。
その姿からは、底のしれぬ狂気を感じさせた。
「おい、聞こえているのか、伐難! 己れたちが争う理由など、どこにもない! 目を覚ませ! もう妖魔はここにはいない!」
それを聞いてか聞かずか、少女はゆらりと片腕を持ち上げ、弥怒を指さす。
そしてもう片方の手で、仮面をわずかにずらした。
その隙間からのぞく顔は間違いなく、この前の夢で見た仙衆夜叉、伐難の横顔。
しかしその瞳は、まるで嵐で泡立つ海のごとく、深く、昏く濁っている。
「お前が弥怒殿の偽物でないと、伐難にどうやって証明するつもりなの」
鈴の音のような澄んだ声が、明確な殺意を持って戦場に響き渡る。
「どうしたというのだ、伐難。業障の影響が、そこまで……? いやそんなはずは。そうだ、吸障石、吸障石はどうした、伐難!」
伐難ははっと何かを思い出したかのように、胸元から紐につながれた石を取り出す。
「なんと……」
弥怒が言葉を失う。
伐難の吸障石はかつての輝きを失い、禍々しさを感じるほど黒く、闇の色に染められていた。
弥怒ははっと何かに気付いた様子で、戦場を見渡す。
つられて私も周囲へと気を配ると、すぐにある事に気が付いた。
同じなのだ。
魚のような魔物も、骸骨のような犬の魔物も、すべて。
等しく、鋭利な何かで貫かれ絶命していた。
目線を戻すと、伐難は黒くなった石をそそくさと隠すように胸元に戻すと、こちらを仮面の隙間から威嚇する。
弥怒はわしゃわしゃと髪をかき上げ、やり場のない気持ちを吐き捨てるように大地へとぶつけた。
「伐難よ、まさか、ここにいるすべての魔物の業障を、その身一つに……! なぜそのようなことを! 馬鹿なッ!」
「うるさい、うるさい! さっきから弥怒殿の真似をして! 嫌な魔物! 伐難の知っている声で現れて、油断した隙をついてくる。あと少しで、さっき伐難もやられるところだった。だから、もう伐難は油断しない!」
伐難は苦悶の表情を浮かべつつ、頭を振り乱す。
(まさか、敵と味方が分からなくなっているのか!?)
信じがたい二人のやりとりを前にして、私は伐難の状態を理解する。
伐難は仮面をかぶりなおすと、その小さな身からあふれんばかりの殺気が膨れ上がる。
(このままではまずいぞ、弥怒! なんとか、なんとかならないのか!)
私の声掛けに答えるように、弥怒は伐難へ語り掛けた。
「待て伐難。話し合おう! 何とかして己れが本物であることを証明して見せる! だから、何でもいい! 己れと伐難しかわからない質問を投げてくれ!」
それを聞いた伐難の動きがわずかに止まった。
(弥怒の言葉を聞いて、ためらって、いるのか……?)
伐難はうめきながら、角の根元を両手で押さえる。
「うぅ、弥怒殿の声がする。でも、カタチがよくわからない……。大きいのか、小さいのか、伐難にはわからない……! 伐難の大事な角、壊れてしまった! もともと悪い伐難の目だけじゃ、もう何もわからない。弥怒殿の、弥怒殿の声が、いろんなところから聞こえる。怖い、怖い、怖い……。でも……」
伐難は迷いの末、何かを決心した様子で顔を上げる。
そして、はっきりと言い切った。
「この質問に答えられたら、伐難は、信じる。いえ、ちゃんと信じます。たとえ今目の前にいるのが、妖魔だとしても、愚かな伐難がその選択で殺されたとしても、後悔はしません」
それを聞いて、絶望を浮かべていた弥怒の顔が、ぱっと明るくなった。
「あぁ、ああっ! 安心してくれ、伐難! 己れは、本物だ! どんな質問にでも、答えてやるぞ!」
少女は小さく、コクリとうなずいた。
「わかりました。では……」
伐難は少し恥ずかしそうに、仮面を脱ぐ。
光のないその瞳は、正面をまっすぐに見据えた。
そこに、本物の弥怒がいることも知らずに。
雨音が、遠のいていく。
わずかに頬を染めた少女の小さな唇が、そっと、動いた。
「あの日、伐難が法螺貝に閉じ込められた日。伐難にしてくれた約束の言葉を、もう一度……もう一度、言ってください」
弥怒は笑った。
「なんだ、そんなことでよいのか。そんなもの、いともたやすい」
少女は頷くと、長い爪を胸元で組み、まるで祈るように返事を待つ。
よく見れば、その手はわずかに震えていた。
長い、長い静寂が訪れる。
まるで永遠ともとれるような、時間が続いていく。
もし生身の身体でその光景を見ていたら、息が詰まって気を失っていたことだろう。
それほど長い時間が、目の前で無情にも過ぎていく。
それはむしろ、あまりに長すぎた。
焦らされた私は、苛立ちを募らせる。
(何をしているんだ、弥怒! 伐難が待っているだろ! 恥ずかしがってないでさっさと言えばいいものを!)
私はもどかしさから、思わず弥怒を睨みつけた。
そして私は、自分の勘違いと、楽観視していた自分を激しく呪う。
弥怒は、言わなかったのではない。
言えなかったのだ。
額から玉のような汗を流し、口を開けたまま固まる弥怒。
その目は激しく左右に揺れながら、必死に記憶をたどっている。
(おいまさか……嘘だ……。嘘だと、言ってくれ……)
私の心が、まるで冷水を流し込まれたように冷たくなっていくのを感じた。
「弥怒……殿……?」
伐難が、不安げに首をかしげる。
「ま、まて、伐難。大丈夫だ、大丈夫。もう、そこまで出かかっている。あと少し、あと少しでいい! 己れに、時間をくれ、伐難! 覚えている、覚えているんだ。大事な約束をした。とても大事な約束をしたことは、覚えているんだ! わかってくれ、伐難っ‼」
「うぐっ!」
弥怒の荒げた声が、角を痛めた伐難に襲い掛かる。
伐難は頭を抱えて、背中を丸めた。
「ああ、すまない伐難。少し声が大きかったな。謝る……」
そう告げた弥怒の声は、わずかに上ずっていた。
伐難は、ゆっくりと顔を上げる。
その顔を見て、弥怒がはっと息をのむ。
それは、状況を好転させる最後の機会が、両手の隙間から零れ落ちたことを確定させた瞬間であった。
少女の昏い瞳から、一筋の涙が頬を伝う。
「よく……わかりました。伐難は、伐難は……もう、ひとりきり。きっと、弥怒殿の声も、伐難の迷いが生み出した幻聴です。弥怒殿は、いつも伐難の気持ちをわかってくれました。だから、王深に伝えた伐難の思いもわかってくれて、この場所からちゃんと離れてくださったはず。だから……お前は、弥怒殿の声を出す、偽物っ! 伐難を苦しめて、嗤う嫌な魔物! 伐難は、伐難は、お前を許さないっ!」
「まてっ、伐難!」
弥怒の声は、仮面で涙を覆う少女には、もう、届かなかった。
「なぜだ! なぜ己れは、思い出せない! くそっ! くそっ‼ 仲間と……伐難と、戦うしか、ないのかっ……!」
弥怒は眉間にしわを寄せ、苦し気に言葉を絞り出す。
対し伐難は身を低く構え、宣言する。
「伐難は、妖魔を絶対逃がさない。璃月の平和は仙衆夜叉の伐難が、この爪で必ず守り抜くのです!」
「ええい! 己れの名は弥怒! 仙衆夜叉が一人、心猿大将だ! 己れが何とかこの手で、正気に戻してやる! だから少しの間だけでいい、耐えてくれ、伐難!」
掛け声は、生気のない戦場に悲しく響き渡る。
浜辺で睨みあう、たったふたりの仙衆夜叉。
稲光が暗闇にほとばしる。
互いの足が、音もなく大地を蹴った。