激しい攻防が止み、最後に立っていたのは弥怒だった。
これで本当に……よかったのだろうか。
――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。
弥怒の人影が、微かに動く。
その腕の中には、青と黒、まだら模様に染まった少女がひとり。
(弥怒っ! 何を……!)
私は心の中で叫ぶ。
その少女は危険だ、早く離れろと。
しかし私は目を見張る。
先ほどまでと、少女の様子が違うことに。
弥怒の右手にあったはずの5つの結晶が、伐難の頭上でゆっくりと旋回していた。
結晶は明滅を繰り返しながら、少しづつ黒く染まっていく。
対照的に、伐難の触角は鮮やかな蒼を取り戻していった。
私ははっと思い出す。
弥怒が伐難と戦う前に宣言した、あの言葉を。
『己れが何とかこの手で、正気に戻してやる! だから少しの間だけでいい、耐えてくれ、伐難!』
心猿大将の名のもと、弥怒は確かにそう言い切った。
(まさか、弥怒は……)
私がふたりへと視線を戻すと、弥怒が閉じていた瞼をゆっくりと開けた。
右手は伐難の頭に置かれ、優しく髪を撫で続ける。
穏やかな、目だった。
一時は狂気に身を任せたように見えた、大将の名を冠する大男。
だが、それは私の誤りであった。
弥怒は一貫して、伐難を救うための戦いを、ずっと続けていたのだ。
彼にとっての戦いとはすなわち。
(伐難を、正気に、戻す……)
私は弥怒の言葉を胸の奥で繰り返す。
それは、伐難を倒すための戦いではなかった。
弥怒の右腕は結晶と同じように、指先から順に闇色へと染まっていく。
それでも、弥怒は手を離さなかった。
やがて限界を迎えた石にひびが走り、音もなく砂へと変わる。
同時に伐難の胸に揺れていた結晶も壊れ、あふれた黒いもやは行き場をなくし、弥怒の体へと吸い込まれていった。
伐難が、ゆっくりと顔を上げる。
瞳からは濁りが消え去っていて、透き通った眼には空の星々が輝いていた。
「これは……。吸瘴石? 弥怒殿の……?」
まばたきを繰り返しながら、伐難がつぶやく。
つぶらな瞳には、先ほどまでの激しい怒りや不安は、微塵も感じられない。
私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
勝ったのだ。
弥怒は、勝ったのだ!
敵を倒すという戦いそのものや夜叉としての存在意義、伐難を傷つける自身の守りをかなぐり捨て、最後に弥怒は勝利を手にしたのだ。
「気が付いたか。よかった」
弥怒が、優しく笑う。
その頬は、右腕から侵食してきた漆黒の呪いで黒く染まり、飛び散った自分の血でぬらぬらと濡れていた。
伐難がその姿を見て取り乱す。
「弥怒殿? 本物の、弥怒殿……? 嘘っ! それでは今まで戦っていたのは……‼ ば、伐難は、なんということをっ……!」
うろたえる伐難を見て、弥怒は微笑んだ。
「弥怒と言うのか、私の名は」
伐難は弾かれたように、弥怒の顔を見た。
潤んだ瞳で、目元に涙を浮かべながら。
少女は彼の広い胸へと縋りつく。
「はいっ、間違いありません……! あなたは弥怒殿、心猿大将の……弥怒殿です! 情に厚くて、義理堅くて、璃月を愛する仙衆夜叉。いつも仲間を心配し、小言ばっかりだと言われながらも、みんなに愛されている、弥怒殿です! 本当はとても優しくて、ずぼらな伐難を見捨てずに大事にしてくれた、伐難の敬愛する、夜叉の弥怒殿ですっ‼ たとえ弥怒殿がご自身のことを覚えていなくとも、伐難は、仙衆夜叉のみんなは、璃月の人々は……あなたのことを、覚えています……!」
少女の瞳からは涙があふれ落ちる。
同時に、弥怒の背中がじわりと朱色に染まりはじめた。
「そうかそうか。それだとまるで、己れは英雄ではないか。ゴホッゴホッ……しかしそうだとすると、己れはなぜ……」
激しくせき込んだ弥怒は、口元をとっさに右手で押さえる。
その手を開けば、黒く染まった掌に、紅色の花が咲いていた。
一瞬目を見張った弥怒は、何かに気が付くと、安堵したように伐難へと微笑んだ。
「ああ、そうか……理解した。お主は、己れを止めてくれたのだな。魔に落ちた、醜い己れを」
伐難は弥怒の言葉の意味を理解できなかったのか、わずかに固まった後、小さく、とても小さくふるふると首を横に振った。
左手は軽く弥怒の右手に添えられ、何かを伝えようと瞳は訴える。
しかし言葉を紡ぐはずの唇は小刻みに震え、大粒の涙だけが、何度も何度も頬を流れ落ちた。
弥怒は伐難の左手を見て、悲し気に眉間へしわを寄せる。
その爪の数本は途中で折れ、残った爪も傷だらけで、根元にはわずかに血が滲んでいた。
「すまない。己はお主を、こんなにも傷つけてしまったようだ」
伐難が唇を強く噛み締めながら、今度は激しく首を横に振る。
弥怒は左手で伐難の背をゆっくりとさすりながら、空を見上げた。
「お主の名は、伐難と、いうのか?」
涙と泥と、血に汚れた顔を弥怒の胸にうずめ、伐難は声を振り絞る。
「はい……伐難……です! 螺巻大将っ、ぐすっ、仙衆、夜叉の伐難ですっ! 伐難……です……」
その声は消え入るように小さく、頼りないものだったが、確かに弥怒の両耳へと届いた。
「そうか。辛い、役目を……押し付けたな。心より礼を言う、伐難よ。ありが……とう……」
途切れかけた言葉を最後に、弥怒の体がぐらりと揺らいだ。
まるで時の止まったような世界の中で、巨大な影がゆっくりと倒れていく。
「あっ……」
伐難が弥怒を支えようと、弥怒の胸元に隠れていた右手を伸ばした。
爪の先から肘のあたりまで、べっとりと血で赤く染まった、その右腕を。
右腕はむなしく空を切り、弥怒は音を立てて大地に体を横たえる。
砂浜と潮だまりが、鮮やかに色づいていく。
「ああ、ああっ!」
がたがたと震えながら両手で顔を覆う伐難。
カチカチとぶつかる度に鳴る蒼い刃が、たとえ絹のような肌を傷つけていたとしても、そんなことはもはや気にすら留めていなかった。
伐難はひざから崩れ落ち、投げ出された両手を、目を見開いて見つめ続ける。
「伐難はなんてことを。伐難はなんてことを……っ!」
おおよそ悲鳴と判別のつかぬ叫び声が、海岸に響き渡る。
わなわなと震える口からは、言葉にならぬ嗚咽が、とめどなく流れる。
傷ついた頬を伝った血交じりの涙は、白い砂浜に黒い斑点をいくつも形作る。
時折せき込みながら荒い呼吸を続ける少女の姿を、私は直視することができなかった。
月明かりに照らされた弥怒の横顔は、まるで微笑んでいるかのように穏やかだった。
伐難は泣きはらした面を上げ、周囲を見渡す。
「……」
そこにいたのは弥怒だけではない。
魔物の死骸に紛れ、伐難の部下たちの無残な姿が、月光の下、ありありと照らされていた。
伐難の長いまつ毛についた涙の粒が、青白い光を浴びて冷たく輝いた。
なんとか呼吸を整えた伐難は、わずかに赤くなった瞼をゆっくりと閉じる。
そのまま青色と赤色の腕を強く胸に寄せ、夜空に向かって語り掛けた。
「……弥怒殿。聞こえて、おりますか……? 伐難はその昔、弥怒殿と約束をしました。弥怒殿はもう覚えていらっしゃらないでしょう。それに、思い出していただいたとしても、弥怒殿にとっては、ただの些細な口約束だったかもしれません。それでも……それでも伐難にとっては、とってもとっても嬉しくて、温かい約束……でした。……ですが、もうその約束を弥怒殿が守る必要はありません。伐難は、やってはいけないことをした、悪い夜叉です。たとえ業障にとらわれていたとはいえ、味方に、手をかけてしまいました。王深、李軒に、周林まで……! それだけに飽き足らず、伐難は、伐難はっ……‼ 伐難の心の中にある法螺貝の、一番奥に隠していた大事な大事な宝物でさえ、自らの爪で壊してしまったのです‼」
こらえきれなかった感情が、少女の目から、口からとめどなくあふれ続けた。
それに応えるものはひとりもなく、浜辺には波の音だけがむなしく響き渡る。
天に浮かぶ満月を見つめながら、伐難はぎこちなく笑顔を作った。
「安心してください、弥怒殿。伐難は約束なんてなくても、大丈夫。整理するのは苦手でも、全部洗い流してしまうのは簡単です。伐難は、うれしかったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、辛かったことも、良い思い出も、悪い思い出も、大事な約束も全部、全部、全部――ちゃんと、お片付けします」
そう言い切ると、伐難は俯き、付け加えるように小さくこぼした。
「それが、伐難の、最後の戦い」
ゆらりと立ち上がる伐難。
ぶるりと一度大きく身を振るい、身体についた砂を落とす。
そのまま爪と爪を交差させ、勢いよく振り払った。
かけていた刃が研ぎ澄まされ、月光がキラリと反射する。
口は一文字に結ばれ、目は水平線の先を見つめていた。
その瞳にはもう、迷いも、悲しみも、怒りさえも浮かんでいない。
ただそこにあったのは、覚悟を決めた強い意志のみ。
「今、伐難は魔物を見つけました。とても強くて、悪い魔物です。その魔物は、いるだけで璃月に大きな被害をもたらします。大丈夫です。伐難は、負けません。この爪は……魔物の心の臓を貫くまで、ずっと追いかけ続け……必ず魔物を倒します。弥怒殿のかたきは、螺巻大将の伐難が、必ず取ります。ですから、弥怒殿」
伐難は、大きく息を吸い込み、ぴたりと動きを止める。
そして、明るく、しかし短く言い放つ。
まるでこれから楽しみにしていた魚釣りにでも行くように。
星々の間に自分の星座を見つけた時のように。
「さようならっ」
伐難はそのまま弥怒を振り返ることなく、ゆっくりと歩き始めた。
その進む先は、誰もない波打ち際。
魔物を見つけたと言ったにもかかわらず、伐難には急ぐ様子も、あわてる様子もない。
ただじっと、黒く深い海の向こうを見つめ続けている。
その背中からは強い拒絶が感じられ、そばに誰一人寄せつけぬほどの何かを感じた。
少女が立つ砂浜には、彼女を害するものはひとりとしておらず、波の音と風の音のほかには、何も聞こえない。
私の目の前に広がるのは、月夜に佇む少女の影とどこまでも続く昏い海とが織りなす、幻想的な光景。
まるで以前見た夢と同じように、静まり返った美しい浜辺。
少女は横顔がちらりと肩口にのぞく程度に軽く首を動かすと、ぽつりとつぶやいた。
「伐難は、弥怒殿を。深く、深く……お慕い申しておりました」
私は彼女の姿を、沈痛な思いでただ見守ることしか、できなかった。
※
朝日が、昇る。
夜にどのような惨劇が、悲劇が、届かぬ思いが波に流されていこうとも、無情にも太陽は世界を明るく照らし出す。
心にぽっかりと穴が開いた私の前を、ひとりの男が息を切らして横切った。
「弥怒殿っ! 弥怒殿っ!」
王深だった。
膝をつき、まだ動く方の手で弥怒の体を揺さぶる。
すると、血の気の引いた弥怒の瞼が微かに動いた。
「……己れは……ゲホッゲホッ! 気を失っていたのか……」
開いた弥怒の虚ろな目に、生気はない。
王深は弥怒が息を吹き返したことに一瞬喜びの表情を浮かべるも、弥怒の口からこぼれる血と胸に空いた穴を見て青くなる。
「ああ、弥怒殿……なんてことだ……」
頭を抱える王深に、弥怒が息も絶え絶えに尋ねる。
「そこの人よ……すまぬが教えてくれ。ここに、少女がいたはずだ。夜叉の少女だ。名前は……よく、思い出せぬ。だが、己れにとって、とても大切な者だったと思う。己れの目はもうよく見えぬのだ。己れの代わりに、探してはくれぬか……?」
王深はそれを聞くと、はじかれるように顔を上げ、あたりを見回す。
開けた浜辺に、立っている者は見当たらない。
目に入るのは、体を横たえた魔物たちの死骸ばかりであった。
がしかし、不安げに周囲を窺っていた王深の目が波打ち際を見た瞬間、くぎ付けになる。
瞼は大きく開かれ、喉の奥からは短くかすれた音だけがわずかに漏れた。
「どう……したのだ。少女は、いたのか……?」
王深は、口角を上げる。
「ええ……ええ! 見つけました。我らが大将、伐難様のお姿を、この目で確かに」
「少女は、達者か……?」
弥怒のかさつく唇から出た質問に、王深の目が泳ぐ。
しかしすぐに笑顔を取り戻すと、口惜し気に語った。
「……残念ながら弥怒殿。大将は、大将は……。弥怒殿や我々、そして璃月を守るため、最後まで魔と戦ったようです。私が見る限り、その……相打ちとなったようです……」
「それは、まことか」
弥怒の声に悲しみの色が混ざる。
王深はあわてて付け加えた。
「はい、弥怒殿。ですが、彼女は戦いの中で死ぬことができました。それはまさに、夜叉の誉れ。そうですね、私が間違っていました。大将は……伐難様は、打ち勝ったのです。強大な敵に一歩も引かず、その強く優しいお心をもってして、魔の力に、打ち勝ったのですっ……!」
その声は朝日で澄み渡る青空の様に晴れ晴れとしており、やけに明るい。
流れる涙を決して弥怒に悟られぬよう、王深は口元の笑みを絶やさなかった。
私はただ茫然と、そんな王深の姿を見続ける。
その時、潮風が滴る王深の涙をかすめ取り、弥怒の額へと運んだ。
「もしやお主、泣いているのか……?」
ハッとした王深は、ごしごしと涙をぬぐう。
「ち、違います。これは安堵の涙です。魔は、滅されました。うれしいのです。とてもうれしいのです。心の底から、喜んでいるのです。決して、悲しくて泣いているのではありません」
それを聞いた弥怒の表情が、ふっと緩んだ。
「そうか、よかった……」
「はい。ですから弥怒殿も、ご安心してお休みください」
王深がそう伝えると、弥怒は軽くうなずく。
「ああ、そうだな……。だがまだ己れにはやることが残っている」
そう言いながら、ゆっくりと腕を持ち上げた。
岩元素が、急速に周囲から集められていく。
途端、私の視界が揺らぎ始めた。
(な、何だ⁉)
私の視点は急に定まらなくなり、制御を失う。
体が、弥怒の手のひらへと吸い寄せられていく。
(うわぁぁああああ!?)
身構え、目をつぶったつもりだったが、特に痛みなどを感じることもなく。
気が付けば私は、弥怒の掌の上で、王深を見上げていた。
王深の目は驚きに見開かれている。
すぐ隣で、弥怒の低い声が響いた。
「お主、これを大事に保管してくれ。己れの魂の一部を汚れた肉体から分離し、ここら一帯の岩元素と共に封じ込めたものだ」
王深が私の身体を軽々と持ち上げ、まじまじと見つめる。
「これは……札、ですか」
「そうだ。それは未完成の札だ。これから長い時を経て、札は大地より岩元素を吸収し続ける。そしていつか、この璃月に災いが降りかかるとき。この札は必ず夜叉たちの力となろう。よく覚えてはいないが、こうせねばならぬと己れの心が強く訴えておる。恐らく、じきに滅びるこの呪われた身体では、果たすことのできぬ大切な約束でもあったのであろう」
王深は、何度も何度も、深くうなずいた。
「はい……はい! 必ずや! この札、決して妖魔の手に渡らぬよう、我が一族が責任をもって保管いたします!」
「頼んだ、ぞ……」
「はい。弥怒殿っ……」
札となった私を先ほどまで支えていた弥怒の右腕が、ゆっくりと指先から砂となり、微笑みを浮かべたままの頬にはひびが走る。
「……っ!」
王深は私を強く抱き、背を丸めて弥怒に覆いかぶさった。
私は王深の腕の隙間より、ぽたりぽたりと落ちる水滴を見る。
弥怒に落ちた小さな雫は、その頬を伝うことなく、黒い染みとなる。
もうそこには弥怒と言う男はいなかった。
あるのは、心猿大将の姿をした、ただの砂の彫像。
王深は、涙声を奥歯の隙間から振り絞る。
「伐難様、弥怒殿。私は、決して忘れません。その身を顧みず、妖魔と、業障と最後まで戦い抜き、相打ちとなった勇敢な護法夜叉たちのことを。決して、決して……」
私と王深を、さざ波の音が包み込む。
彼と私しか知る者のいない、夜叉たちの壮絶な戦いは、朝日の中、静かに幕を閉じたのであった。
意識が薄れていき、視界がぼやけていく。
世界と私の境界があいまいになり、音も聞こえなくなる。
それは、何度も経験したことがある感覚だった。
こうして私は、夜叉たちの長く儚い夢に、別れを告げたのである。
瞼を開ければもうそこは、暗く虫の音が響く、棺桶の中であった。