護法戦記   作:ほすほす

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私は平安。璃月のしがない物書きだ。
激しい攻防が止み、最後に立っていたのは弥怒だった。
これで本当に……よかったのだろうか。

――これは層岩巨淵のイベントストーリーの裏側で巻き起こる、もう一つの護法夜叉の話。


護法戦記 19話 さざ波と法螺貝

 弥怒の人影が、微かに動く。

 

 その腕の中には、青と黒、まだら模様に染まった少女がひとり。

 

 

(弥怒っ! 何を……!)

 

 

 私は心の中で叫ぶ。

 

 その少女は危険だ、早く離れろと。

 

 

 しかし私は目を見張る。

 

 先ほどまでと、少女の様子が違うことに。

 

 

 弥怒の右手にあったはずの5つの結晶が、伐難の頭上でゆっくりと旋回していた。

 

 結晶は明滅を繰り返しながら、少しづつ黒く染まっていく。

 

 対照的に、伐難の触角は鮮やかな蒼を取り戻していった。

 

 

 私ははっと思い出す。

 

 弥怒が伐難と戦う前に宣言した、あの言葉を。

 

 

『己れが何とかこの手で、正気に戻してやる! だから少しの間だけでいい、耐えてくれ、伐難!』

 

 

 心猿大将の名のもと、弥怒は確かにそう言い切った。

 

 

(まさか、弥怒は……)

 

 

 私がふたりへと視線を戻すと、弥怒が閉じていた瞼をゆっくりと開けた。

 

 右手は伐難の頭に置かれ、優しく髪を撫で続ける。

 

 穏やかな、目だった。

 

 

 一時は狂気に身を任せたように見えた、大将の名を冠する大男。

 

 だが、それは私の誤りであった。

 

 弥怒は一貫して、伐難を救うための戦いを、ずっと続けていたのだ。

 

 彼にとっての戦いとはすなわち。

 

 

(伐難を、正気に、戻す……)

 

 

 私は弥怒の言葉を胸の奥で繰り返す。

 

 それは、伐難を倒すための戦いではなかった。

 

 

 弥怒の右腕は結晶と同じように、指先から順に闇色へと染まっていく。

 

 それでも、弥怒は手を離さなかった。

 

 やがて限界を迎えた石にひびが走り、音もなく砂へと変わる。

 

 同時に伐難の胸に揺れていた結晶も壊れ、あふれた黒いもやは行き場をなくし、弥怒の体へと吸い込まれていった。

 

 

 伐難が、ゆっくりと顔を上げる。

 

 瞳からは濁りが消え去っていて、透き通った眼には空の星々が輝いていた。

 

 

「これは……。吸瘴石? 弥怒殿の……?」

 

 

 まばたきを繰り返しながら、伐難がつぶやく。

 

 つぶらな瞳には、先ほどまでの激しい怒りや不安は、微塵も感じられない。

 

 

 私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 

 勝ったのだ。

 

 弥怒は、勝ったのだ!

 

 敵を倒すという戦いそのものや夜叉としての存在意義、伐難を傷つける自身の守りをかなぐり捨て、最後に弥怒は勝利を手にしたのだ。

 

 

「気が付いたか。よかった」

 

 

 弥怒が、優しく笑う。

 

 その頬は、右腕から侵食してきた漆黒の呪いで黒く染まり、飛び散った自分の血でぬらぬらと濡れていた。

 

 伐難がその姿を見て取り乱す。

 

 

「弥怒殿? 本物の、弥怒殿……? 嘘っ! それでは今まで戦っていたのは……‼ ば、伐難は、なんということをっ……!」

 

 

 うろたえる伐難を見て、弥怒は微笑んだ。

 

 

「弥怒と言うのか、私の名は」

 

 

 伐難は弾かれたように、弥怒の顔を見た。

 

 潤んだ瞳で、目元に涙を浮かべながら。

 

 少女は彼の広い胸へと縋りつく。

 

 

「はいっ、間違いありません……! あなたは弥怒殿、心猿大将の……弥怒殿です! 情に厚くて、義理堅くて、璃月を愛する仙衆夜叉。いつも仲間を心配し、小言ばっかりだと言われながらも、みんなに愛されている、弥怒殿です! 本当はとても優しくて、ずぼらな伐難を見捨てずに大事にしてくれた、伐難の敬愛する、夜叉の弥怒殿ですっ‼ たとえ弥怒殿がご自身のことを覚えていなくとも、伐難は、仙衆夜叉のみんなは、璃月の人々は……あなたのことを、覚えています……!」

 

 

 少女の瞳からは涙があふれ落ちる。

 

 同時に、弥怒の背中がじわりと朱色に染まりはじめた。

 

 

「そうかそうか。それだとまるで、己れは英雄ではないか。ゴホッゴホッ……しかしそうだとすると、己れはなぜ……」

 

 

 激しくせき込んだ弥怒は、口元をとっさに右手で押さえる。

 

 その手を開けば、黒く染まった掌に、紅色の花が咲いていた。

 

 一瞬目を見張った弥怒は、何かに気が付くと、安堵したように伐難へと微笑んだ。

 

 

「ああ、そうか……理解した。お主は、己れを止めてくれたのだな。魔に落ちた、醜い己れを」

 

 

 伐難は弥怒の言葉の意味を理解できなかったのか、わずかに固まった後、小さく、とても小さくふるふると首を横に振った。

 

 左手は軽く弥怒の右手に添えられ、何かを伝えようと瞳は訴える。

 

 しかし言葉を紡ぐはずの唇は小刻みに震え、大粒の涙だけが、何度も何度も頬を流れ落ちた。

 

 弥怒は伐難の左手を見て、悲し気に眉間へしわを寄せる。

 

 その爪の数本は途中で折れ、残った爪も傷だらけで、根元にはわずかに血が滲んでいた。

 

 

「すまない。己はお主を、こんなにも傷つけてしまったようだ」

 

 

 伐難が唇を強く噛み締めながら、今度は激しく首を横に振る。

 

 

 弥怒は左手で伐難の背をゆっくりとさすりながら、空を見上げた。

 

 

「お主の名は、伐難と、いうのか?」

 

 

 涙と泥と、血に汚れた顔を弥怒の胸にうずめ、伐難は声を振り絞る。

 

 

「はい……伐難……です! 螺巻大将っ、ぐすっ、仙衆、夜叉の伐難ですっ! 伐難……です……」

 

 

 その声は消え入るように小さく、頼りないものだったが、確かに弥怒の両耳へと届いた。

 

 

「そうか。辛い、役目を……押し付けたな。心より礼を言う、伐難よ。ありが……とう……」

 

 

 途切れかけた言葉を最後に、弥怒の体がぐらりと揺らいだ。

 

 まるで時の止まったような世界の中で、巨大な影がゆっくりと倒れていく。

 

 

 

 

「あっ……」

 

 

 

 

 伐難が弥怒を支えようと、弥怒の胸元に隠れていた右手を伸ばした。

 

 

 爪の先から肘のあたりまで、べっとりと血で赤く染まった、その右腕を。

 

 

 

 

 右腕はむなしく空を切り、弥怒は音を立てて大地に体を横たえる。

 

 砂浜と潮だまりが、鮮やかに色づいていく。

 

 

 

 

「ああ、ああっ!」

 

 

 

 

 がたがたと震えながら両手で顔を覆う伐難。

 

 カチカチとぶつかる度に鳴る蒼い刃が、たとえ絹のような肌を傷つけていたとしても、そんなことはもはや気にすら留めていなかった。

 

 伐難はひざから崩れ落ち、投げ出された両手を、目を見開いて見つめ続ける。

 

 

「伐難はなんてことを。伐難はなんてことを……っ!」

 

 

 おおよそ悲鳴と判別のつかぬ叫び声が、海岸に響き渡る。

 

 わなわなと震える口からは、言葉にならぬ嗚咽が、とめどなく流れる。

 

 傷ついた頬を伝った血交じりの涙は、白い砂浜に黒い斑点をいくつも形作る。 

 

 時折せき込みながら荒い呼吸を続ける少女の姿を、私は直視することができなかった。

 

 月明かりに照らされた弥怒の横顔は、まるで微笑んでいるかのように穏やかだった。 

 

 

 

 伐難は泣きはらした面を上げ、周囲を見渡す。

 

 

「……」

 

 

 そこにいたのは弥怒だけではない。

 

 魔物の死骸に紛れ、伐難の部下たちの無残な姿が、月光の下、ありありと照らされていた。

 

 伐難の長いまつ毛についた涙の粒が、青白い光を浴びて冷たく輝いた。

 

 なんとか呼吸を整えた伐難は、わずかに赤くなった瞼をゆっくりと閉じる。

 

 

 そのまま青色と赤色の腕を強く胸に寄せ、夜空に向かって語り掛けた。

 

 

「……弥怒殿。聞こえて、おりますか……? 伐難はその昔、弥怒殿と約束をしました。弥怒殿はもう覚えていらっしゃらないでしょう。それに、思い出していただいたとしても、弥怒殿にとっては、ただの些細な口約束だったかもしれません。それでも……それでも伐難にとっては、とってもとっても嬉しくて、温かい約束……でした。……ですが、もうその約束を弥怒殿が守る必要はありません。伐難は、やってはいけないことをした、悪い夜叉です。たとえ業障にとらわれていたとはいえ、味方に、手をかけてしまいました。王深、李軒に、周林まで……! それだけに飽き足らず、伐難は、伐難はっ……‼ 伐難の心の中にある法螺貝の、一番奥に隠していた大事な大事な宝物でさえ、自らの爪で壊してしまったのです‼」

 

 

 こらえきれなかった感情が、少女の目から、口からとめどなくあふれ続けた。

 

 それに応えるものはひとりもなく、浜辺には波の音だけがむなしく響き渡る。

 

 

 天に浮かぶ満月を見つめながら、伐難はぎこちなく笑顔を作った。

 

 

「安心してください、弥怒殿。伐難は約束なんてなくても、大丈夫。整理するのは苦手でも、全部洗い流してしまうのは簡単です。伐難は、うれしかったことも、悲しかったことも、楽しかったことも、辛かったことも、良い思い出も、悪い思い出も、大事な約束も全部、全部、全部――ちゃんと、お片付けします」

 

 

 そう言い切ると、伐難は俯き、付け加えるように小さくこぼした。

 

 

「それが、伐難の、最後の戦い」

 

 

 ゆらりと立ち上がる伐難。

 

 ぶるりと一度大きく身を振るい、身体についた砂を落とす。

 

 そのまま爪と爪を交差させ、勢いよく振り払った。

 

 かけていた刃が研ぎ澄まされ、月光がキラリと反射する。

 

 口は一文字に結ばれ、目は水平線の先を見つめていた。

 

 その瞳にはもう、迷いも、悲しみも、怒りさえも浮かんでいない。

 

 ただそこにあったのは、覚悟を決めた強い意志のみ。

 

 

「今、伐難は魔物を見つけました。とても強くて、悪い魔物です。その魔物は、いるだけで璃月に大きな被害をもたらします。大丈夫です。伐難は、負けません。この爪は……魔物の心の臓を貫くまで、ずっと追いかけ続け……必ず魔物を倒します。弥怒殿のかたきは、螺巻大将の伐難が、必ず取ります。ですから、弥怒殿」

 

 

 伐難は、大きく息を吸い込み、ぴたりと動きを止める。

 

 そして、明るく、しかし短く言い放つ。

 

 まるでこれから楽しみにしていた魚釣りにでも行くように。

 

 星々の間に自分の星座を見つけた時のように。

 

 

「さようならっ」

 

 

 伐難はそのまま弥怒を振り返ることなく、ゆっくりと歩き始めた。

 

 その進む先は、誰もない波打ち際。

 

 魔物を見つけたと言ったにもかかわらず、伐難には急ぐ様子も、あわてる様子もない。

 

 ただじっと、黒く深い海の向こうを見つめ続けている。

 

 その背中からは強い拒絶が感じられ、そばに誰一人寄せつけぬほどの何かを感じた。

 

 

 少女が立つ砂浜には、彼女を害するものはひとりとしておらず、波の音と風の音のほかには、何も聞こえない。

 

 私の目の前に広がるのは、月夜に佇む少女の影とどこまでも続く昏い海とが織りなす、幻想的な光景。

 

 まるで以前見た夢と同じように、静まり返った美しい浜辺。

 

 

 

 

 少女は横顔がちらりと肩口にのぞく程度に軽く首を動かすと、ぽつりとつぶやいた。

 

 

 

 

 

「伐難は、弥怒殿を。深く、深く……お慕い申しておりました」

 

 

 

 私は彼女の姿を、沈痛な思いでただ見守ることしか、できなかった。

 

 

 

 

 ※

 

 

 

 

 朝日が、昇る。

 

 夜にどのような惨劇が、悲劇が、届かぬ思いが波に流されていこうとも、無情にも太陽は世界を明るく照らし出す。

 

 心にぽっかりと穴が開いた私の前を、ひとりの男が息を切らして横切った。

 

 

「弥怒殿っ! 弥怒殿っ!」

 

 

 王深だった。

 

 膝をつき、まだ動く方の手で弥怒の体を揺さぶる。

 

 すると、血の気の引いた弥怒の瞼が微かに動いた。

 

 

「……己れは……ゲホッゲホッ! 気を失っていたのか……」

 

 

 開いた弥怒の虚ろな目に、生気はない。

 

 王深は弥怒が息を吹き返したことに一瞬喜びの表情を浮かべるも、弥怒の口からこぼれる血と胸に空いた穴を見て青くなる。

 

 

「ああ、弥怒殿……なんてことだ……」

 

 

 頭を抱える王深に、弥怒が息も絶え絶えに尋ねる。

 

 

「そこの人よ……すまぬが教えてくれ。ここに、少女がいたはずだ。夜叉の少女だ。名前は……よく、思い出せぬ。だが、己れにとって、とても大切な者だったと思う。己れの目はもうよく見えぬのだ。己れの代わりに、探してはくれぬか……?」

 

 

 王深はそれを聞くと、はじかれるように顔を上げ、あたりを見回す。

 

 開けた浜辺に、立っている者は見当たらない。

 

 目に入るのは、体を横たえた魔物たちの死骸ばかりであった。

 

 がしかし、不安げに周囲を窺っていた王深の目が波打ち際を見た瞬間、くぎ付けになる。

 

 瞼は大きく開かれ、喉の奥からは短くかすれた音だけがわずかに漏れた。

 

 

「どう……したのだ。少女は、いたのか……?」

 

 

 王深は、口角を上げる。

 

 

「ええ……ええ! 見つけました。我らが大将、伐難様のお姿を、この目で確かに」

 

 

「少女は、達者か……?」

 

 

 弥怒のかさつく唇から出た質問に、王深の目が泳ぐ。

 

 しかしすぐに笑顔を取り戻すと、口惜し気に語った。

 

 

「……残念ながら弥怒殿。大将は、大将は……。弥怒殿や我々、そして璃月を守るため、最後まで魔と戦ったようです。私が見る限り、その……相打ちとなったようです……」

 

 

「それは、まことか」

 

 

 弥怒の声に悲しみの色が混ざる。

 

 王深はあわてて付け加えた。

 

 

「はい、弥怒殿。ですが、彼女は戦いの中で死ぬことができました。それはまさに、夜叉の誉れ。そうですね、私が間違っていました。大将は……伐難様は、打ち勝ったのです。強大な敵に一歩も引かず、その強く優しいお心をもってして、魔の力に、打ち勝ったのですっ……!」

 

 

 その声は朝日で澄み渡る青空の様に晴れ晴れとしており、やけに明るい。

 

 流れる涙を決して弥怒に悟られぬよう、王深は口元の笑みを絶やさなかった。

 

 私はただ茫然と、そんな王深の姿を見続ける。

 

 その時、潮風が滴る王深の涙をかすめ取り、弥怒の額へと運んだ。

 

 

「もしやお主、泣いているのか……?」

 

 

 ハッとした王深は、ごしごしと涙をぬぐう。

 

 

「ち、違います。これは安堵の涙です。魔は、滅されました。うれしいのです。とてもうれしいのです。心の底から、喜んでいるのです。決して、悲しくて泣いているのではありません」

 

 

 それを聞いた弥怒の表情が、ふっと緩んだ。

 

 

「そうか、よかった……」

 

 

「はい。ですから弥怒殿も、ご安心してお休みください」

 

 

 王深がそう伝えると、弥怒は軽くうなずく。

 

 

「ああ、そうだな……。だがまだ己れにはやることが残っている」

 

 

 そう言いながら、ゆっくりと腕を持ち上げた。

 

 岩元素が、急速に周囲から集められていく。

 

 途端、私の視界が揺らぎ始めた。

 

 

(な、何だ⁉)

 

 

 私の視点は急に定まらなくなり、制御を失う。

 

 体が、弥怒の手のひらへと吸い寄せられていく。

 

 

(うわぁぁああああ!?)

 

 

 身構え、目をつぶったつもりだったが、特に痛みなどを感じることもなく。

 

 気が付けば私は、弥怒の掌の上で、王深を見上げていた。

 

 

 王深の目は驚きに見開かれている。

 

 すぐ隣で、弥怒の低い声が響いた。

 

 

「お主、これを大事に保管してくれ。己れの魂の一部を汚れた肉体から分離し、ここら一帯の岩元素と共に封じ込めたものだ」

 

 

 王深が私の身体を軽々と持ち上げ、まじまじと見つめる。

 

 

「これは……札、ですか」

 

 

「そうだ。それは未完成の札だ。これから長い時を経て、札は大地より岩元素を吸収し続ける。そしていつか、この璃月に災いが降りかかるとき。この札は必ず夜叉たちの力となろう。よく覚えてはいないが、こうせねばならぬと己れの心が強く訴えておる。恐らく、じきに滅びるこの呪われた身体では、果たすことのできぬ大切な約束でもあったのであろう」

 

 

 王深は、何度も何度も、深くうなずいた。

 

 

「はい……はい! 必ずや! この札、決して妖魔の手に渡らぬよう、我が一族が責任をもって保管いたします!」

 

 

「頼んだ、ぞ……」

 

 

「はい。弥怒殿っ……」

 

 

 札となった私を先ほどまで支えていた弥怒の右腕が、ゆっくりと指先から砂となり、微笑みを浮かべたままの頬にはひびが走る。

 

 

「……っ!」

 

 

 王深は私を強く抱き、背を丸めて弥怒に覆いかぶさった。

 

 私は王深の腕の隙間より、ぽたりぽたりと落ちる水滴を見る。

 

 弥怒に落ちた小さな雫は、その頬を伝うことなく、黒い染みとなる。

 

 

 

 もうそこには弥怒と言う男はいなかった。

 

 

 

 あるのは、心猿大将の姿をした、ただの砂の彫像。

 

 王深は、涙声を奥歯の隙間から振り絞る。

 

 

「伐難様、弥怒殿。私は、決して忘れません。その身を顧みず、妖魔と、業障と最後まで戦い抜き、相打ちとなった勇敢な護法夜叉たちのことを。決して、決して……」

 

 

 私と王深を、さざ波の音が包み込む。

 

 

 彼と私しか知る者のいない、夜叉たちの壮絶な戦いは、朝日の中、静かに幕を閉じたのであった。

 

 

 

 

 意識が薄れていき、視界がぼやけていく。

 

 世界と私の境界があいまいになり、音も聞こえなくなる。

 

 それは、何度も経験したことがある感覚だった。

 

 こうして私は、夜叉たちの長く儚い夢に、別れを告げたのである。

 

 

 

 

 瞼を開ければもうそこは、暗く虫の音が響く、棺桶の中であった。

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